枯れの庭 / 4 「失礼します」 ノックは三回。後、一応はそう言い置いて入室する。常時であれば警備を含む、VIPルームの住人以外の者が部屋に立ち入るには中に居る部屋の主の許可が必要となっているので、知らぬ者が無礼に立ち入るなどと言う事は有り得ないのだが。 入り口のロックはスリットに、個人個人発行されている宿泊者(ゲスト)パスの登録されたカードキーを通し認証する事で開錠する仕組みになっており──勿論有事の際はそれに限った事ではないが──上客へのセキュリティは実に行き届いたものであると言えた。 その癖室内に一歩でも立ち入れば、大きく取った間取りの拡がる部屋には、寝室と水回りの設備を覗いて壁や扉の類が一切設けられていないのだから、余程に扉とそこに至るまでの警備には自信があると言う事なのだろう。 腰を折って頭を下げる土方の視線の先では、部屋の中央に結構なスペースを取って置かれたソファに座し、例によってノートPCに向き合っている佐久間老人の姿があった。移動の際と同じ鶯色を基調とした羽織袴姿の侭で、執務らしき仕事に従事している様は、保養目的の施設の割に寛いでいるとは思えない。 (…とは言え。宿の価値相場には合ってるっちゃ合ってる高級品だがな) あの装束の一つだけで、江戸に住む一般家庭の一ヶ月分以上の金子にはなるだろう。遠目に見ても、高級そうな拵えと布と仕立てとは誰の目にも明かだ。 「もう少し待ってくれ給え」 「…はい」 カタカタとキーを打つ手元からは目を逸らす事もなく。また、労いの気配も無く言い放たれた控えの命に、土方は短く是を応えると姿勢だけを正した。 言う迄もなく、特別室と言うだけあってその面積は広く、調度も一級品のものばかりだ。和風でなく洋風に沿った拵えは、仕事以外では古風なものを好むこの老人の趣味では無い筈だが、それは当人にとっては別段気を損ねる類ではないらしい。 入り口正面の窓は嵌め殺しで開閉は不可能の防弾ガラス。今はカーテンが引かれて外の様子は伺えないが、二十階もの高さとなればそれは絶景が拝める事だろう。江戸と違って他に高層建築の類の無いこの地では、それこそ天上の支配者にでもなった様な気分になれるやも知れない。 中央には佐久間の座すソファとテーブル。右側の壁際には簡易的ながらバーカウンターまであり、そこにはサービスらしい酒と果物などが供されていた。 逆側へ向けば、寝室への仕切り。少し手前に視線を戻せば、洗面所や風呂、トイレへの扉がある。 先頃佐久間と共に初めて部屋に通された時に既に確認した間取りだ。それでも、意識が空けばこの場で戦いに及んだ時などの戦術を思考して仕舞うのは最早職業病の様なものだろうか。 そうして土方がぐるりと室内の様子を伺い終えたのをまるで待っていた様なタイミングで、ぱたん、と佐久間がノートPCを閉じる音が響いた。 警護対象へと番犬が剣呑な視線を戻せば、老人は何処かおかしそうに喉を鳴らして笑う。 「そんな所に控えておらず、こちらへ来なさい」 ペットや子供を招く様な仕草で手招く佐久間の姿をひととき土方は睨むが、やがて諦念強い息継ぎをひとつ残して、室内へと進み出る。 『狗』の未だ保つ反抗心や矜持の高さをこそ、老人は悪戯に、そして執拗に嬲る。なればそんな意地は棄てて仕舞えば楽になれるのだと思う。だが、それを出来ないのもまた──土方に在る確かな『侍』の──或いは狗の──誇りでもあった。 土方が完全に近付く前に、佐久間老人は先に立ち上がると、寝室へと歩き出す。 ついてこい、と言う事だ。言われずともそんな事は解っている。それは、飼い犬の鎖を引いて歩く飼い主の様な動きだ。どれだけ不満面でも散歩に連れ回される犬の様に、土方はそれに無言で続く。 間仕切りを除けて、高級な毛足の長い絨毯を踏みしだき、寝室へと入る土方の表情は唇を噛み締めて硬い。果たして何をどう弄ぶ心算なのか。想像するだけで嘔吐の出そうな思いを苦労しながら奥歯の間で擦り潰す。 だが、寝室に入った土方が目にしたのは、そんな想像とは異った光景だった。 佐久間は大きな寝台の横にある、景徳鎮と思しき立派な、一目でただの置物と知れる壺の前に居た。 壺は壁に窪みとして設えられた飾りスペースに鎮座しており、花瓶にしては些か大きいサイズのものだ。絵柄は梅らしき花。 佐久間は土方の入室を待ってから、壺の淵を掴んでぐるりと回した。何の摩擦も振動もなくあっさりと後ろを向いた事から、壺ではなく壺の乗った床が回転したのだろうと、土方が訝しげにそれを見ていると、突如壺が奥──壁の中へと引っ込んだ。 「機械(からくり)仕掛け、ですか」 思わず純粋な驚きが声になって出た。佐久間は土方のそんな様子に満足したのか、笑いを一層深めながら手を再び招く。今度は純粋にその機構と、それが起こした意味を知りたかった為に、自然と気持ちが急いて少し足早になった。 近付いてみれば、壺の引っ込んだ空間はその侭人が通れる程の通路となっているのが解る。 「芝居がかった古風な代物だが、私は結構にこう言ったものが好ましい口でねえ」 掛け軸を外せば隠し通路がある、だの。畳を持ち上げれば地下室への入り口がある、だの。そう言った一種の『お約束』の様な様式美が好きなのだと、老人は愉しげに言うと、土方の腰へと不意に手を回してきた。 「この先を、君に是非とも見せたいと思っていたのだよ」 「っ、」 本来ならば性的な意図を感じさせる様な手つきだと言うのに、土方には見えざる首輪の鎖を引かれる様な不快感の方が強い。 逃がさない、とでも言う様な仕草。 どうせ己には諾以外の選択肢は無いのだと。知っていながら嬲る様な仕草に吐き気を堪えつつも、促される侭土方は隠し通路──とでも呼べば良いのか、人二人が通るに程良い広さのトンネルへと踏み入った。 引っ込んだ壺は入って直ぐの所で横に収まっており、通る通路の妨げにはならない。時代モノかスパイ映画にでもありそうな、本当に芝居がかった仕掛けだと呆れ混じりに思う。貴族や金持ちになるとこう言った態とらしいもの──曰く『様式美』──を好むのだろうか。正しく道楽の粋としか言い様の無いものを。 と、数歩先に進んだ所で足下の感触が変わった。がくん、と少し沈み込む様な感覚と、幾分薄い床板の手応え。見下ろした爪先から顔を起こして行けば、通路はそこで行き止まりなのだと知れる。 「……エレベーターですか。非常用の」 贅のあるものの道楽。その果てに何が在ると言うのか。浮かんだ怖気を振り払う様にそんな事を嘯けば、職務に対する生真面目さの知れた真選組副長の口にする冗談にしては面白いと取ったのか。或いは虚勢と知れたのか。佐久間は喉を鳴らしながら、袂から取り出したカードキーを、傍らの壁の木目に隠す様に取り付けられたスリットへと通した。 すると、微かな機械の駆動音と共に、今まで歩いて来た数歩分の通路が左右から迫った壁に閉ざされた。同時に、昇降機独特の浮遊感が背骨を揺さぶるのを感じる。どうやら結構な速度で下に向けて降りているらしい。 「大阪城楼閣(ここ)のVIP用フロアの客室のほぼ全てにはこの…君に言わせれば『非常用』の昇降機が必ず備えられていてね。特に許可を持つ上客だけがその存在を知っており、これを利用出来る様になっているのだよ」 出来の宜しくない生徒に講釈を垂れる教師の様な調子で、説明らしきものを始める佐久間の声は些かに近い。老いているとは言え体格は良く、若い頃は侍として相当鍛えあげたのだろう肉体にも、最初に感じた時同様、それほど酷い衰えがあるとも思えない。 若者と異なり筋骨隆々とは流石に行かないが、骨張った腕に籠もる力は存外に強く、腰をしっかりと捉えているその腕は、まるで巻き付く枯れ枝の様な嫌悪感を齎す。 「秘め事は地下に、と。それもまた『様式美』と言うものですか」 老人の腕を振り解きたくなる衝動を堪えて土方がなんとかそう口にすれば、く、と佐久間の口が三日月の形に開かれた。乱杭歯の目立つ口元が『秘め事』を肯定するかの様に土方の耳へと寄せられ、生暖かい吐息が耳朶に触れた途端、背筋が粟立った。 「その通り。だからこそ君に見せてやりたいのだよ、可愛い『狗』」 かわいい、と言う言葉は、その本来の意味と裏腹に、憎さと嘲りとの響きに聞こえた。 不自然に強張った土方の様子から、その嫌悪感は明かだと言うのに──それだからこそ、だろうか。佐久間は殊更にねっとりと土方の内耳に吹き込む様に、言葉に乗せた毒を吐くのだ。 こうなる──或いはこれに似た可能性は土方とて予期していなかった訳ではない。だが、これで確信の駒はまた一升進められる。 即ち、佐久間の目的地は大阪城楼閣ではなく、その地下の──『ここ』だと言う事だ。 正しく化け物の腑の裡だ、と思うと同時に、がくん、と僅かな振動と共に昇降機が停止した。『ここ』で正解なのだと言う肯定の様に。 どの程度地下へと降りて来たかなど知れないが、これだけ周到に、芝居がかった仕掛けで隠された場所が、地上から目につく場所である筈はない。恐らくは大阪城楼閣の、地図にも建設用の設計図や青写真にも無い様な地下に当たる筈だ。 先程閉ざされた扉が左右に開くと、それほど明るくはない、まるで建設現場そのものの様な通路が拡がっているのが見えた。地上部分の絢爛さに比ぶるも無いその風景の違いは、この場所が地上とは別の理で動いているのだと恰も示しているかの様に思える。 「ようこそいらっしゃいました、佐久間様」 昇降機の直ぐ横で、膝を付き深々と頭を垂れて控えていた男が口を開いた。地味に風景に溶け込み目立たなかったので危うく見過ごす所だったが、その声に留められる様に、佐久間に伴われながら土方は足を止める。 頭には面相の伺えぬ頭巾。着物の裾は端折って帯に挟んでおり、下は股引と地下足袋。色は全て黒の一色。頭巾以外は一見して下男と言った風体のその男が、どうやらこの大阪城楼閣の──否、その地下の客の世話役の一人らしい。その格好も含めてこれもまた『様式美』と言う奴なのだろうか。 「うむ。直接来るのは久々だが、常に愉しませて貰っておった。相変わらず盛況な様で何よりだよ」 「それは重畳の極みでございます。して、本日は如何なさいますか?宴の準備とあらば直ぐに」 特徴の無い地味な声音は江戸の標準語を紡いではいるが、僅かに関西の訛りがある。必要以上に阿る風に頭を垂れている様子は余り気持ちの良いものではないが、上客を相手にするとなるとこんなものなのだろう。対する佐久間の方も慇懃な態度を隠しもしない。 常に愉しんでいた、と言う事は、日頃はネット経由で参加出来る様な娯楽、賭博か何かだろうかと土方が油断なく思考を巡らせる傍らで、佐久間は下男の問いに「ふむ」と考える様な素振りをしてみせる。 「肴は必要無い。酒のみ後で席に運ばせ給え。銘柄は任せよう。──して」 は、と諾を示した下男が腰を持ち上げた所で、佐久間はそれを止める様に続ける。 「これは初めての連れでねぇ。勝手が解らぬだろうから、案内をしてやりたいのだが」 護衛か何かと思ってさして意識もしていなかったのだろうか、下男の頭巾頭が佐久間の横を通って土方の姿をちらりと伺い、それから「は」と頷きを返す。 これ、と言う言葉に下男が何を感じたかなど知れない。だがそれでも土方は、ここに来て初めて佐久間自身から第三者へと漏らされた己の扱いを思い知り、舌打ちを留める代わりに頬の内側を強く噛んだ。 「こちらに」 そんな土方の前へと不意に下男が、傍らに置かれていた掃除用具入れの様な所から取り出した盆を差し出して来た。思わず訝しげな目を向ければ、補足する様に続きが紡がれる。 「所持品の一切をお預け下さい。私め以外の何者にも触れさせませぬし、お帰りの際には全て返却致します」 土方の腰を添える様に抱いている佐久間の方をちらと伺うが、薄らと解る笑みは『狗』に疑問も否をも許さないそれだ。 選択肢などないのだとは改めて思うまでもない。土方は露骨に渋々とした態度を隠しもせず、携帯電話、煙草、ライター、手拭いと言った所持品を上着のポケットから残さず出して盆へと並べていく。 ポケットの中身を出し終え、最後にベルトに取り付けているホルダーごとPDAを抜き取る。出入り口を通っていない以上、佐久間と土方を示す光点は未だ室内に在る筈だ。警護の任務だと思えばそれを誰も訝しむ者はいないだろうし、『呼び出し』の意味を言葉以上に察している風だった沖田ならば、幾ら時間が経過しようが何とも思いはしないだろう。下手をすれば朝まで出て来なくとも気にしないかも知れない。 (所在のアリバイがはっきりしてればこそ、逆に命まで獲られはしねぇだろう……ってのに、その方がより不快とは、な) 今は何も映してはいない液晶画面に、苦々しいとしか言い様のない己の顔が映っているのを振り切って土方は重たいそれをごとりと盆に乗せた。このPDAを預けると言う事は即ち、ここから先の自分は佐久間老人の警護役でも何でもなくなると言う意味でもある。 「…腰の物もお納め下さい」 これで全て、と思った所で、下男がそれを咎める様に言う。土方は一瞬瞠目し、己の腰の左側に佩いた愛刀を見下ろした。武器を手放す、と言う事そのものに危機感を憶えるのは本能の様なものだ。当然丸腰でもその辺りの暴漢やら攘夷浪士に後れを取る心算も無い、が。 在るのは、丸腰という状態に対する不安感だけではない。くそ、と胸中で毒づきながらも、土方の手は言われた通りに、隊服のベルトと下げ緒とを繋いでいる留め具のボタンを外している。 隊士の中には下げ緒自体をベルトに結ぶ者も居るが、手狭な室内や、都会に多い隘路での取り回しが困難になる為に、土方はベルトに下げ緒を取り付ける留め具を一つ噛ませることで長めの刀を佩いていた。ボタンを一つ外すだけで簡単に外せるものなので、鞘を飛ばすのも楽に出来ている。 留め具が外れた途端、腰からその重みが消える。まるで己の首を差し出す様な心地になりながら、土方は利き腕で鞘の中程を掴むと、両手を差し出し待っていた下男へと手渡した。 下男が軽く頭を下げ、先頃の物入れへと土方の所持品と刀とを仕舞って行く。その存外に丁寧な仕事ぶりを睨む様に見ていれば、とん、と佐久間に掴まれた侭でいた腰を軽く叩かれた。 露骨に促す仕草に押され、緩く弧を描く通路を歩き始めた所で、佐久間は不意に思い出した様に後に続いて来る下男に向けて言う。 「席に、頼んでおいたものは届いているかね」 「はい。最高級のものを用意させてございます」 世話役の下男と言うよりは商人の様な調子の応えに、佐久間は鷹揚に頷きを返す。 一度だけちらりと背後の物入れを振り返り、それから土方は唇を引き結んだ。 警護役でもなく、侍ですらないなら──最早これは老人にとっても、『ここ』にとっても『狗』でしかないのだろう。 ベルトに挟むのも下げ緒結ぶのも難しかったんで、カラビナ的なもので下げ緒を吊ってると勝手に。 /3← : → /5 |