霞む 
        雨落つるは

 幽か滲む庭


  霞雨 / 1


 
 離れも縮まりもしない距離。
 予め定められた場所へと配置される駒にも似た、それは感覚的で、だが絶対的な空隙だった様に思う。
 触れて通り過ぎない配置。届く必要などない空隙。求むるにも値しないその隔絶を、何故埋めて仕舞おうと思ったのだろうか。何故、飛び越えて来たのだろうか。
 もしも二人が、或いはそのどちらかがもう少し利口であったのならば、それだけは選ばなかったのかも知れない。どうやった所で、誤る前には気付いて踏みとどまれたのかも知れない。
 基本的に自分達はただの、護り護られる、などと言う関係には収まる事が出来ないものたちだ。だから互いの過ごす世界の深い部分については踏み込まないと言うのは暗黙の了解になっていた。
 春雨の件然り吉原の件然り。銀時は今までに何度も危険を潜り抜けてきたし、その魂が曲がって仕舞わない限り、これからもそれは変わらないだろう。その内江戸城に乗り込んで城取りでもする羽目になるかも知れない。
 その断片的な事実だけでも判ずる事は叶う。これは決定的に敵にも味方にもならないが、徹底的に相容れる筈などないものなのだ、と。少なくとも土方はそう理解していたし、その心算で居た。
 だからこそか。深入りしない距離の中で、果たして何を縮めようと思ったのか。何故、近付いて触れ合う事を愚かしくも選んで仕舞ったのか。
 対等でありたいと望んだのは心だった。だが、所詮それが叶わない事など、それこそ本能的に土方は疾うに知っていたと言うのに。
 土方は真剣の立ち会いに於いて、銀時の手で間違い無く殺された。
 きっと自分は元来からの剣士で、本能的な感覚を頼りに生きる獣だったのだと、強くそう思う。
 だってその時に、悔しさや無力感や屈辱感以上に、それに強く惹かれた。
 雄の本能を裏切って──或いはその通りにか、心の裡が屈服していたのだと。そう言えるのかも知れない。
 悔しさがそれ以上の、反発に似た憧れに変わり、近藤や沖田や山崎らとも違う位置にあの銀色の男を収めて分類している己には、もう狼狽はしなかった。
 そうして、気付けば土方の心の裡へとするりと入り込んで来た男へと正体の知れない感慨を抱く様になり、最後には紛れもない歓喜と共に、心を含めた自らの全てを明け渡していた。
 屈服と言う形を知らしめる様な、身体の機能に反した雌の扱いを受け入れていた。当然の様に。
 それで土方が折った矜持は紛れもなく在った筈だと言うのに、銀時は殊更にそれを知らしめたりはしなかった。土方の望んだ通りに、過ぎた情が屈辱と痛みを想起させるのだと恐らくは理解して、ただの快楽を共有するだけの行為なのだと、互いに暗黙の了解を寄越してくれた。
 同じ雄の、ただ勝者と敗者と言う暴力的な扱いではなく。戦利品の愉悦でもなく。土方がそれをそうと気付かず見過ごす程に、ごく自然に。
 ……だからこそ、これは。度し難いばかりの所行でしかなく。
 今更、屈辱も痛痒も。何も感じる必要などない。
 
 *

 「……ぅ、ッン、」
 幕臣らの視線を痛い程に感じながら、土方は梔色の軟膏を掬い取った人差し指を後孔に宛がった。羞恥よりも強い、意識ごと心を食い荒らされる様な感覚に堪えて力を込めて行けば、硬く窄まったそこを自らの指の腹が押し広げ、やがてぐぷんと呑み込んだ。
 「っく、ふ」
 土方は一瞬詰めた息を殊更にゆっくりと吐き出し、深呼吸を数度繰り返す。
 人差し指の第一関節辺りに強い圧迫を感じるのと同時に、ひりつく様な痛みが孔の縁に走る。括約筋は随意筋だと言っても、外部から異物を侵入させようと言う行為そのものがそもそも身体機能に反する事なのだ。以前までに比べれば随分慣れたとは言え、この瞬間をやり過ごす時には強い屈辱と惨めさを感じずにはいられない。
 何度か深く息を吐くと、己に絡みつく様な視線たちを振り切る様に硬く硬く目を瞑った侭、土方はゆっくりと指を奥へと進ませた。指にまとわりつかせた軟膏を内壁に塗りたくる様にぐるりと回し、力を入れない様注意しながら指を引き抜く。
 「は…ッ」
 ぬぐ、と、腹圧に押しだされる様な排泄感と共に抜いた指をもう一度軟膏の入った容器に伸ばし、震える指で再び、たっぷりと中身を掬い取る。
 指の上に盛られた梔色の軟膏が、果たしてどう言う効能を持つかは解らない。ただ滑りをよくする為だけのものなのか、筋を弛緩させるものなのか、強烈な性感を呼び起こすものなのか。
 だが、得体も効果も知れずとも、これを後孔に含ませておかなければ、貫かれた時に辛いのは誰あろう自分自身だと土方は悟っていた。
 「いつまで時間を掛ける心算だね。それとも、いつもの様に一人で愉しむ様を見て貰いたいのかね?」
 佐久間の揶揄に、かっと耳の後ろが熱くなる。追従する様に上がる好色な笑い声たちが口々に『狗』の痴態を嘲笑うのを奥歯の間で擦り潰し、土方は半ば自棄になって後ろへ指を回した。腹の側からではやり辛いから、今度は背中から手を伸ばして思い切り良く縁に指先を食ませていく。
 「っく、う、ぅ、」
 縁を割る鋭い痛みを堪え、奥まで潜り込ませた指を今度は内側を拡げる様にして回し、指の付け根まで乗せた軟膏を塗り込んでから引き抜く。その動作を何度か。
 繰り返す内、徐々に強張りが取れて行き、指がスムーズに出入りする様になって来る。だがまだ一本だ。指が一回りずつ太くなる訳ではないのだから、次は一気に倍の太さと質量になる、二本の指で慣らす必要がある。
 一応二本目を差し込もうとしてみたが、途端に後孔が激しい痛みを訴えて来たのに思わず怖じ気づいた土方は、恐る恐る指を引き抜いた。佐久間老人の命令で以前に何度かさせられた行為ではあるが、どうにもこの瞬間だけは慣れない。痛みを齎すのが己の指であると言うだけで、つい畏れて仕舞う。
 「未だかかりそうだな。全く、何度躾けても所詮は駄犬か」
 てらてらと光る指で猶も軟膏を掬い取る土方を見て、佐久間が溜息混じりに言い捨てた。
 躾と。狗と。いつもの様に、と。その目も言い種も、愛玩動物かそれ以下のものを指すものでしかない。
 今更何らかの痛痒を感じる事があるだろうかと、開き直りかけていた屈辱や恥辱が蘇って肌を焼く。余すこと無く曝された視界の暴力に堪え切れなくなりそうになり、土方は益々硬く目を瞑った。そうした所で、一度感じた嘲りの気配も舐める様な視線達が消えて仕舞う事などないと、解っていても。そうせずにはいられない。
 振り切れる筈もない。解っていながらも、目など到底開いてはいられまい。眼前の、忌まわしい光景を真っ向から見据えて強がるだけの胆力が失われた訳では無いのだが、これは抗い立つだけ無駄な類のものであると、何処かで諦めに似た理解もしていた。
 意味などないものなのだと言う、理解も。していた。
 何度目になるだろうか、自らの後孔へ突き入れた指で軟膏を塗りたくり、内壁の引きつれが無いのを確かめる様にゆっくりと抜き差しを繰り返す。ちゅぷちゅぷと熱で溶けた軟膏が立てる音が土方の神経を苛む中、ともすれば括約筋に入りかかる力を必死で抜きながら、いつ終わるとも知れない覚悟の時間を必死で堪える。
 入り口で止めた人差し指をぐっと上に持ち上げて少しでも孔の隙間を拡げると、土方は深呼吸を繰り返しながら中指を少しずつ押し込んでいった。ぐ、と押し戻す様な抵抗を拡げれば新鮮な痛みが生まれる。自らの肩口にかぶりを振った顔を押しつけ、床に頬が擦れる感触を噛み締めることで、感覚が馴染むのを待つ。
 と、そんな微細な努力を嘲笑うかの様に、不意に伸ばされた手がぐいと前髪を掴んで、土方の顔を無理矢理に仰向かせた。途端全体重がかかる事になる肩に鈍い痛みが走り、思わず抗議する様に上を見上げる。
 その横に屈み込み、その前髪を掴み上げて見下ろして来ていたのは、上げ床から降りて来た佐久間だった。目を薄く細めたその顔が、碌な事を考えているものではないと身に沁みて知っている土方は、思わず不安気に視線を彷徨わせる。するとそれが『良い』と思われたのか、好色さを増した声たちがくつくつと笑い声を口々に発してきた。
 「処女でもないのに破瓜の様に血など流されては興冷めだからねぇ。皆々様の為にじっくり愉しみながら準備をすると良い。では準備が出来るまで、これの口をお使いになると言うのは如何か?」
 「がッ、?!」
 碌でもない事と。そう感じた土方の予感は外れでは無かった。力を抜く為に大きく息をついていた口内へと老人の指が乱暴に押し込まれるのに、咄嗟に噛み合わせそうになる下顎を開いた。強張りかかった指が孔から抜けそうになるのを何とか留めながら、老人の顔を睨み上げる。
 甚振る意図しか孕んでいない眼差しを厭い睨んだ所で、『これ』から逃れる術もない。解ってはいる。解ってはいる、が──
 「ではお言葉に甘えて、まずは上で奉仕して貰うとしましょうか」
 両肩を突っ張らせて俯せ、膝をついて臀部を高く上げる事を強要されていた土方の眼前には『観戦席』の上げ床がある。そこから、まだ壮年と言った年頃の男が降りて来た。顔に憶えはある。幕府要職の何某。佐久間と共に煉獄関の上客として嘗て知られていた一人で、今はこの新たな、彼らの煉獄関(城)の主の一人。
 男は土方の正面に膝をつくと、自らの袴を下ろし既に硬度を持った一物を取り出した。強制的に口を開かせていた指を佐久間がずるりと抜き出せば、後は無言で促される。
 口淫を命ずるには少々遠い距離。だが。
 解るだろう、と。
 そう。悔しいがその程度の理解が叶う調教はされている。
 土方は周囲の嗤い顔たちから視線をふいと逸らすと、後穴に指を突き入れた侭、床に突っ張った肩で膝を引き摺った。芋虫よりも余程無様で惨めな姿勢で這い擦る距離は僅か数十糎。だが、その距離の何と遠い事か。その屈辱は何とも度し難い事か。
 それより何より、諾々とその仕打ちに堪えるほかの術を持たない己の身が厭わしい。
 どう遣り過ごすのかと言う『最善』を知る己こそが、最も。
 今は好機を待つ時間だ。なればこそ、『狗』の抵抗は押し隠すべきだ。ここで無様な抵抗をしたが故に、いざ刀も振るえない程に酷使されるのなど真っ平御免だ。
 屈辱感そのものに堪える事より、それに堪える理性を持った己を堪える方が余程難しい。
 軽い、左の人差し指を密かに見遣って、それから拳をぐっと着物の上で握り固めた。掌に食い込む爪の痛みに無言で目を伏せ、土方は差し出された男の一物へと舌を這わせていく。
 自分は女ではないのだから、こんなものは傷にはならない。
 女ではないからこそ、無意味な戯れに弄ばれる事が我慢ならない。
 そう、気付いてしまえば何の事はない。
 『狗』の身に貶められて猶、それを未だに嫌悪し拒絶し諦めきれずに足掻く理性や矜持があると言う事だ。
 未だ、無意味なものと、意味のあった筈のものに縋ろうとする。
 結局、どうあっても棄て切れなかった想いに気付いて仕舞えば、自ら振り解いた筈の手の温度が酷く恋しい。そんな数え飽いた『今更』は、手前勝手な言い分でしか無いものだが。
 それでも土方はそれに縋って理性を堪えた。何でもないことであると。ただの『狗』の遊戯には情などないのだと。繰り返す思考に意識を紛らわせる。
 『これ』は、あの銀髪の男のくれたものとは違う。
 …………違うのだから。
 

 *


 脚を拘束していた帯を鉄格子から解くが、結ばず足下に落として、取り敢えず袷を深く寄せた。ついぞ先程まで犯されかかっていた人間がいきなり真っ当に取り繕った姿で居るのは怪しい以外の何でもないからだ。
 そうして鉄格子から数歩、距離を置こうとする土方の腕を、ぐい、と牢の中から伸びて来た朝倉が掴んだ。佐久間が下男を伴い消えた鉄扉の先をちらりと伺いながらも訝しげな顔を隠さず振り返れば、軽く手招きをする様な仕草。
 「何だ」
 小声で応じると、朝倉は自らの白い着物の袂を探り取り出した小さな小箱を、長い単の袖から出ている土方の手にそっと握らせた。
 「激辛マヨネーズじゃなくて悪ィが、これは『お見舞い』だ」
 「……?」
 しっ、と人差し指を立てて言う鬼面の言葉の意味も意図も知れず、土方は思わずぱちくりと瞬きをした。手の中に落とし込まれた小箱は、見下ろす迄もない、触り慣れた煙草の箱だ。
 真選組の副長が、不本意にもニコチン中毒且つ偏食家であるとはその筋では知れた話である。故にマヨネーズと言う単語や煙草の箱は、土方に対する『何か』としてはまるきり的はずれとは言えないのだが、文脈を幾ら繰り返しても、状況を考えてもはっきりとした答えが出ない。
 「どう言う──」
 僅か過ぎった符号が明確な形を作るより前に、朝倉はとん、と土方の背を突き飛ばした。はっと意識を戻せば、鉄扉の向こうの暗がりから、佐久間と下男とが戻って来た所だった。
 丁度立ち止まり損ねた土方がたたらを踏んで鉄格子から距離を取った瞬間の姿が、老人の訝しむ様な眼差しに曝される。
 「余興は中止したのかね」
 す、と細まった目が油断なく牢の中の朝倉と、土方との間を行き来する。土方はまるで今逃れて来たと云う風情で、出来るだけ狼狽や憤慨を先頃の侭保って立ち、ぐ、と着物の袷を掴んで身構えた。
 首輪の鎖はまだ朝倉の手の内だ。彼はそれを弄ぶ様な素振りをしながら、鬼面の向こうで大きな溜息を吐き出してみせる。
 「それが。俺に手ェ出したら銀髪の鬼に殺されるぞと凄まれましてね。思わずナニも肝も竦んだ隙を衝かれて、この有り様で」
 戯けた風な口調で続けながら、鉄格子の前に歩み寄った佐久間へと直接鎖を返す。
 「凄まれた、と要約しましたがねぇ、それはもうエグい所行をつらつら語られたもんで」
 玉引っこ抜くとか潰すとか。感触や効果音まで。そう惚けた様子もなく惚けた内容の言を紡ぐ朝倉の鬼面を、土方は思わず苦々しく見遣った。拷問吏顔負けの曰く『エグい所行』をすらすらと口に出来る自信は確かにあるが、もう少し何とか言い種は無かったのだろうか。
 「ふん。興冷めか」
 つまらなそうに佐久間はそう口にするが、恐らく実際の所は結果などどちらでも構わなかったに違いない。土方にはそう確信がある。この老人にとってこれもまた、ここもまた、駒の遊戯に過ぎないのだろうから。
 朝倉が帯を拾い上げ、格子の外へと放り出す。ひらひらとした布が力無くぱさりと床に拡がるのに、膝をついた土方が指を引っかけたその時。
 「っ、ぐァ?!」
 ぐい、と思い切り鎖を引かれ、俯せに転がされた侭土方の身体は床を滑った。袷を寄せていなかったら相当の痛苦だった筈だと思い、ぞっとしながらも顎を引いて両手を突っ張ると、なんとかそれ以上の暴虐を堪える。
 そうして、乱暴な扱いで『狗』を連れ回すのに似た風情で、佐久間は殊更にどうでも良い様な調子で顎をしゃくってみせた。
 「おいで。面白いモノを見せてやろう。君には強ち、他人事とも言い難いやも知れぬしな」
 地に這って己を睨み据える狗の眼も。鉄格子の向こうで事の成り行きをじっと見る朝倉や神明党の浪士らも。全ては、天の下の盤を見下した心算で居る老人の傲慢さの前には平等に無意味に違いない。
 
 
 ガァン、と派手な音を立てて、土方の目の前の鉄格子がびりびりと音を立てて震えた。
 続けて、二度、三度、四度。
 咆哮。
 そうしてもう一度。二度。
 「……これは」
 ガンガンと、自らと外界とを隔てる檻の格子を殴りつけている、身の丈は土方の三倍以上あるだろうその天人は、正に『化け物』と呼ぶに相応しい姿と様子で居た。
 檻は──牢と言うより檻と言うべきだろう、外の牢よりは一本一本が太い格子に囲われており、とても頑丈な材質なのか、内の『化け物』が幾ら揺すぶっても拳を叩き付けても軋みひとつ上げない。
 緑の表皮は浮き出た血管が走り、本来は知性的なのだろう瞳はどろりと澱んだ色に見開かれている。大きな拳が格子を殴りつけるその度、自らの身体が傷ついて行くのも全く構う様子無く、『化け物』は頑丈な格子を──その向こうの佐久間を──打ち続けている。
 「荼吉尼のはぐれ者でね。どこぞの星で行き倒れていた所を買い付けられて来たらしい。宇宙最強の種族の一人が、管理維持費を食うばかりの厄介者扱いであると聞いたのでな、まあ余興程度にはなるだろうと買い上げたものだ。
 嘗ての煉獄関にも少数ながら参戦していた。まあ外交問題を気にしてか、例外なく始末された様だがな。最後の花形闘士も荼吉尼の者だった事を思えば、これも縁やも知れぬ」
 盤上に定められた駒を揃えられた、と。コレクションが揃った、と。そう言った意味でしか無い様に紡ぐ口調は、説明、或いは自慢のそのものだ。目を僅かに眇める事で生理的な嫌悪感を吐き捨てた土方は、無言の侭で『化け物』──もとい、犠牲者の姿を見上げた。
 実際、対天人の外交問題は度々幕府に頭を抱えさせる問題の一つとして知られている。地球の狭さと入り込む天人の数、宇宙の広大さとそれに釣り合いなどしない各星や同盟たちの管理体制。
 江戸幕府は基本的に天人を迎え入れる側である事もあって、その立場は列強の惑星から見れば未だ弱い。だからこそ極力問題を起こすまいと、入国管理局は天人に諂いながらなんとか体裁ばかりの管理を強化してはいる──のだが、それさえも正直な感想を言えば、形ばかりのザルでしかない。
 違法入国、違法滞在、違法行為。もっと言えば何でもあり。本来対テロに特化した武装警察である真選組が天人の起こす事件や天人絡みの犯罪に引っ張り出される事も最早そう珍しい事では無くなっている程だ。寧ろルーチンワークの一つであると認識されているに違いない。
 そして厄介なのは、それらの事件で検挙される天人らは、その大概が母星やその属する連盟によって保護され、治外法権として扱われる点だ。一応強制送還などの措置が取られる事もあるが、殆どが犯罪検挙の『結果』を伴わない。だからこそ天人の犯罪行為は後を絶たない訳なのだが──
 ごく稀にだが、目の前の『化け物』のケースの様に、人間が天人を利し害する事もある。その場合は当然、犠牲者或いは被害者として、幕府の預かりとなる。
 佐久間の口にした通り、嘗ての煉獄関の検挙もそのケースに当たる。望んで闘士として参加していた天人も多かれど、中には先頃見て来た牢の中の『闘士』らの様に、強制的に『労働』に従事されている者らも居た。
 あの時は、幕府預かりとなった天人らの多くは母星に強制送還されたと言う話だったが、『天』が絡んでいた以上それはないだろうと土方は践んでいた。深く関わり、汚れ仕事なども請け負っていた者らは恐らく恙なく『処分』された筈だろう、と。
 佐久間の言い種はその可能性の肯定だった。土方には特に天人に思い入れはない──況して犯罪行為に荷担する者なら余計にだ──が、全てが『そう』と判じられて良いものではないのだとは、一応司法を預かるものとして片隅には留めている。
 義侠心の様なものかも知れない。厄介事を背負い込む事が特技である銀髪の男とは恐らく違ったものの見方で、だが。
 無言の侭じっと見上げる土方の視線の先で、『化け物』は理性を完全に失った目を見開き暴れ続けている。己の身がその度傷つき血を流す事も厭わず──或いは気付かず──、ただひとつの強い感情を前に、吼えている。
 「荼吉尼は、その象徴とされる角から時に鬼とも称されるだけあり、正にこの国古来より謳われる伝承の『鬼』によく似た姿だ。ひょっとしたら遙か昔、荼吉尼族が何かの拍子にこの星に流れ着いたのをして、人は『鬼』を見たのやも知れんな。
 故に、羅刹と名を与えてやった。相応しくも、この煉獄関の番人の様なものよ」
 拳が振るわれる度に起こる風圧が佐久間の纏う羽織を僅かに揺らす。ほぼ目前と言う距離にあれど、老人の態度は小揺るぎもしない。
 それは、恐怖がない、と言う訳ではなく、絶対に安全だと言う確信故の事に違いない。煉獄関(ここ)の主の一人として。動かぬ王将の様に、悠然と。
 土方が荼吉尼を見るのは初めての事ではない。流石は雑多なかぶき町と言うべきか、万事屋の近所にも暮らしているらしく、町中でその姿を見かける事もあれば、一家揃って来たと言う銭湯で遭遇し散々な目に遭った憶えも、忌々しい話ながら、ある。
 剣を向ける様な事には幸い未だ至っては居ないが、その大柄な体躯に比例する様な腕力と体力、見かけにそぐわぬ器用さや素早さは見て知っている。全身が筋肉で出来ている様な身体構造に、それを効率良く動かせるだけの身体機能。戦いと言う一点に於いて見ればそれは恵まれた種と言わざるを得ない。
 同時に、彼らは決して野蛮な辺境の種族ではないと言う特徴がある。辰羅ほどではないが、戦いに於ける優れた知性をも有する彼らは決して生来の獣ではない。基本的に理性的な種族なのだ。
 それが。これは。どうした事だろうか。
 先頃佐久間が下男へと、投薬がどうのと言っていた事を思い起こして見れば、『化け物』などとされるのも頷ける仮説は組み上がる。即ち、理性を根こそぎ奪い取って、その優れた身体能力のみを必要とする、獣にまで貶められた、と言う可能性。
 (この様じゃ、闘士と言うよりは…、)
 化け物。そう脳内で反芻すれば、眼前で暴れ狂う荼吉尼の若者の、元はあったのだろう知性の上げる──魂の吼え声が聞こえて来る気がした。
 拳を振るい続ける衝動。たった一つの感情を、本能の侭にしたそれは、紛れもない。憎悪だ。
 目前で悠然とした風情で講釈を垂れる老人を、自らを『化け物』にまで貶めた者なのだと。理性の失われた脳に、それでも刻まれ剥がれはしない記憶として。
 (……こんな、化け物の身になってさえ、抗う事を忘れねェ…)
 それは、この『狗』とは違う。疾うに折れた抵抗の牙をそれでも必死で磨ぎながら、尾を伏せて嵐をやり過ごそうとする、怯懦な狗とは。違う。
 違う、が──
 ぐ、と胸の前で握っていた左拳を顔の方へ引き寄せ、土方は吐息の様な声で呟く。
 「……………こんな獣になってまで、テメェは、戦う事を未だ忘れちゃいねェって事か」
 上等だ。羨望さえ憶える程に。
 僅かに口の端を持ち上げた土方に何を思ったのか、佐久間はその注意を引く様に鎖をぐいと寄せた。革のベルトが食い込む喉の痛みに顔を顰めて返せば、何か意に沿わなかったのだろう、老人の顔が面白くなさそうな表情を作る。
 「これから上に戻り、君の──否、『狗』のお披露目を同志達に行う予定だが、さて、その後はどうしてくれようかねぇ?」
 先頃口にした通り、真っ当に地上に返す真似などするまい。それを解っているからこそ、土方は苦そうな色が僅かでも伺えぬ様、極力無表情を取り繕った。ここに来て無駄に抗う心算は元より無い。無駄ではない抗いは無論する心算だが。
 「君は侍を謳う狗だからね、闘士としてここで扱う事も吝かではないが」
 「ご冗談を。此処から帰す気も無い者を、同じ穴の狢共とは言え、衆目に曝す様な──そんな愚かな手を指す心算など無いでしょうに」
 嘲弄を隠しもしない老人の言い種を短く斬り捨て、土方は殊更に感情を排した笑みを浮かべる。
 佐久間の飼う闘士が違法性のある『者』と、万一にでもはっきりと知られれば、この煉獄関の客の口からいつどの様な形でそれが漏れるか解りはしない。そんな懸念があるからこそ、指名手配犯として知られている朝倉の顔をあの様な鬼面で覆っていたのだろう。
 況して土方は朝倉よりも当然知名度があり、顔も知られている。面を隠したとして、太刀筋や振る舞いは見る者が見れば簡単に知れる。そんな危険な駒を盤上に乗せる愚行は、この老人であれば間違い無く犯さない。
 こんな、嬲る意図にわざわざ踊らされてやる心算などない。仮令今に抵抗の手段が封じられていようとも、無様に膝をつかされるばかりで居ようとも思わない。
 『化け物』でさえ失わぬ牙が。『狗』に無い筈がない。
 「…ふん。そんなに『狗』で居たいならそれも良かろう。士道だの理性だのは脆く無意味なものなのだと、ゆるりと教え込んでやろう」
 そんな、土方の僅かの抵抗を老人は、狗にじゃれつかれた程度と捉える事にしたらしい。或いは、後々溜飲を下げる様な所行を行う心算なのやも知れないが。
 じゃら、と態と音を立てて鎖を掴み直すと、佐久間は振り返り、部屋の隅に控えていた下男に向かって声を上げる。
 「羅刹を暫く黙らせておけ。煩くて叶わん。夜の演目には引き出すからな、それ迄には動かせるようにしておれよ」
 は、と小さく是を応えた下男が檻へと近付いていく。逆に佐久間は土方の首に繋がる長い鎖を引いて踵を返した。下男の向かう方角には、他の牢にあったものと同じ操作盤の様なものが取り付けられているのが見える。また電流でも流す心算なのか。
 操作盤の横には、この『化け物』の牢へ続く鉄扉にあったものと同じ構造の鍵が見えた。この危険な『化け物』の檻の開閉が叶うのは、佐久間やその仲間の手が必要と言う事だろうか。当然と言えば当然だが。こんな『化け物』が解き放たれたら、辺りはたちまち大騒ぎになる。
 暫し立ち止まってそちらを見ていた土方は、不意に鎖が強く引かれる動きに思わず蹌踉めいた。
 「っ」
 裸足の足裏が滑りの悪いリノリウムの床に引っ掛かり、豪奢な単衣を引き連れる様にしてその場に手と膝とを付いて仕舞う。
 「大丈夫ですか」
 異様な扱いをされているとは言え、上客の連れだと言う事か。反射的に近寄って来た下男の貸そうとする手をぱしりと左の手で払い、土方は直ぐさま立ち上がって居住まいを正した。
 「その鬼の化け物がそんなに気に入ったのかね?鬼に抱かれる自らを思い出しでも?」
 起き上がった土方がじゃらじゃらと鎖を引き摺って歩いて来るのを見て、佐久間が下卑た揶揄を投げて来るのを、不快感も露わに「いえ」と短く払う。
 拒絶が少し早すぎただろうか、と寸時思うが、躊躇うのは余程怪しまれる畏れがあると思ってその侭続ける。
 「哀れなものだ、と」
 すると、佐久間は珍しくも少し驚いた様な表情をつくり、それから喉奥でくつくつと笑い声を上げた。土方は己の口にした事の一体何が可笑しいのか知れず、僅か眉を寄せる。
 数秒間笑い続けた佐久間だったが、その笑いを打ち消す様に最後にただ一言だけ告げる。
 「君もいずれは、ああなる」







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