霞雨 / 5



 足音荒く、半ば転がる様な走り方で、牢の全て開かれた廊下を駆け抜ける。実用性を重視したリノリウムの床は、草履履きの足には引っ掛かって走りづらいことこの上ない。
 無事に事が片付いたら大理石張りの床にでもしてやろうかと、苛立ち紛れにそんな事を考えながら、佐久間は昇降機に乗り込んだ。
 それから、無事に事は片付くのだろうか、と気付いて、憤怒に益々表情を歪める。
 牢を全て開いたのは佐久間ではない。朝倉達を救出に来た坂巻の手の者が侵入したのか、それとも小賢しいあの野良狗の手の内の事か。
 ともあれ、『控え室』から解放された連中はあっと言う間に逃げ出したらしく、佐久間が此処に着いた時には全ての牢はもぬけの殻となっていた。そこに来て更に、羅刹が先頃の投薬の影響かなかなか動かせる状態にならなかった事は、佐久間の苛立ちを増長させた。
 そしてその隙を衝くかの様に、黒い毛並みの野良狗の集団が土足でこの城を踏み荒らしに来た。
 忌々しい。
 奥歯に力を込めて呻きながら、佐久間はいつもの様に己の手番を脳裏に描く。
 『狗』の風貌を真似た鬼面の闘士──飛び入り参加の者だと言う──を目にした時、佐久間は確かに怒りを憶えた。直ぐ傍で人間との交尾に快楽を得てキャンキャン啼いている無様な狗が仕組み指したのだろう手にこれは相違ないと思った。
 あの黒い鬼は、恐らくは狗めの懸想する男──白夜叉とか言う浪人──に違いない。愛する『狗』を取り戻すべく乗り込んで来たのだろうと思えば、それは酷く滑稽で、狗の愚かな身には実に相応しい指し手だと思えた。
 それは同時に愉悦の予感も憶えさせる手だった。これがあの狗の賢しき手番であるのならば、それを完膚無きまでに封じ潰してやろうと言うその思いつきに従い、佐久間は黒鬼の始末に羅刹を出す事を口にしてみたのだ。
 すると狗はたちまち顔色を失い、怒りと、媚びとの狭間に感情を揺らして見せた。だから、これは最良手に違いないと判断し、狗の目の前で落ちぶれた白い夜叉が惨めに殺される姿を見せつけてやろうと、佐久間は羅刹を動かす命令を出そうとした。
 ところが、恰もそれを狙い澄ましたかの様なタイミングで、突如闘技場が謎の爆発に襲われた。侵入者であると聞いたのはその後の事で、この時点では狗の勝手な手番だとしか思えず、つい手が出て仕舞った。
 だが、狗は逆らいもせず諾々と八つ当たりに似た暴力を受け続けていた。実に癇に障る笑みを浮かべ、取り乱した佐久間を嘲笑うかの如く。
 怒り混じりに、羅刹を早く動かすべく、佐久間は自ら『控え室』へと降りた。すれば、羅刹の檻を除く全ての牢が開かれ、囚人らの姿は何一つ遺されていない様を目の当たりにする事となった。
 これも全てがあの狗の手番なのか。或いは何者かの謀なのか。だとしても、あの様な指し手は認められない。盤の外の第三者が無造作に手を振って盤面を乱すなどと。そんな道理が通る筈がない。
 何にせよ、この侭で居れば『同志』達の中から自分が主犯として斬り捨てられかねないと思い、佐久間は投薬で眠っていた羅刹を無理矢理に動かした。最早冗談事ではなく、全てを始末しなければならない。少なくとも、自分達の不利になるものは此処には多すぎる。簡単に始末出来る生物の命以上に、多すぎる。
 何故だ?決まっている。此処は我らの『城』で、本来何事も何者にも憚る必要などない筈のものだったのだ。
 (こんな、筈では…!)
 ぎりぎりと歯を軋らせ、佐久間は懐にあった扇子を取り出して二つに折った。竹の尖った断面が手に疵を幾つも作るが、頓着すら出来ずに苛々と、昇降機の中を歩き回る。
 どうすれば、この局面を脱せるだろうか。どうすれば、この盤面で勝利を導けるだろうか。どう指せば。どう、指せば。
 考えれば考えるだけ、限りなく全ての範囲を口封じで潰すしかないと言う解答しか返らない事に気付き、佐久間は袖で額の汗を拭った。当面、羅刹が闘技場を我が物顔で制圧している、野良犬の集団を殺してくれれば、と願う。
 当面、突入部隊が全滅したとなれば、次の突入は装備と状態を整えてからになる筈だ。それだけの間が取れれば、何とか逃げ延びる事ぐらいは叶うかも知れない。仮に逃げられなかったとしても、化け物が勝手に暴れたのだと言う事にすれば良い。
 同志らを含め、全ての口を封じて仕舞えば、明確な証拠など何一つ残りはしないのだ。奉行である自分を護る法など、幾らでも用意出来る。
 そこまで手番を描いてから、違和感に気付いた佐久間は顔を顰める。
 私はこの城の、この煉獄の『法(ルール)』にも等しかったのではなかったのか。
 どうしてこうなったのか。どこからこうなったのか。
 余生に遊戯を見出す事には罪科などある筈もない。人の命だの権利だのと謳う連中は、生物の中には駒に等しく愚鈍に生きる無意味な者も居ると言う事を知らないだけだ。なれば、その駒が遊戯盤に乗せられる事に、何の問題があると言う。
 佐久間のそんな言い分に対し、駒の遊戯と、戦場での歩兵の采配は異なる、と。言い切ったのはあの狗だった。狗は所詮『狗』。少しばかり立派な体を繕っただけの、駒の一つに過ぎない。故に理解など出来なかったに相違ない。
 あの狗はどうせ端から逃がす心算などない。本来であれば、坂巻が取引に訪れた時に、連中の仕業と言う事にして共に始末して仕舞う予定だったのだ。
 ついぞ、仲間達に披露と言う余興を行っている間に、その予定が全てひっくり返った。まるで足下を掬われたかの様に。飼い犬に手を引き千切られたかの様に。
 何れ披露すると言う約束をしたのが間違いだったのか。それともあの狗が余りにも己の思う通りの無様な姿を曝し屈服した事が悪かったのか。
 或いは──白い、野に堕ちた夜叉のものに手を出そうとした事こそが、愚かだったとでも言うのか。
 忌々しい。そして実に馬鹿馬鹿しい。
 もう一度そう、血走った目に怒りの感情を燃やしながら諳んじ、観戦席のある階層に到着した昇降機から佐久間は降りた。
 控えている筈の下男の姿は見当たらない。あれも一応案内や使用人以外の役割として護衛任も請け負って、大阪城楼閣から派遣されていた筈の者だが、臆病風にでも吹かれて逃げだしたのやも知れない。
 苛立ちの要素をまた一つ積み上げた佐久間の頭の中では、指す手指す手が良手とならずにいた。駒を指す手は幾つも浮かぶと言うのに、現状を打破出来る様な一手がどうしても出て来ない。棋譜が上手く繋がらない。未来が見えない。駒の動きが、知れない。
 こんな筈はないのだ、と何度も呟きを繰り返す。
 ここは煉獄関。自分達の築き上げた城なのだ。
 余生と余暇とを愉しむ為の、法となれる場所なのだ。
 指し手ですらない、盤面をただ見下ろすだけの、遊戯のルールと言う法。
 だから此処では、こんな事が起こる筈など、無い。
 佐久間は足早に廊下を歩き抜けると、観戦席の戸を開いた。
 
 
 奉行とは、法の裁きを取り沙汰するだけの存在だ。
 だから佐久間には、武芸の憶えは多少あれど実際に、裁くべき『事件』の現場へと出た経験は無かった。
 故にか、理解が遅れた。
 腥い臭いを血臭だと理解するのも。蹴飛ばした足下の物体が人間の亡骸である事にも。
 自身、人間を拷問したり痛めつける遊戯を行った事はある。だがそれは、じわじわと対象物を苦しめて壊して行くものであり、瞬時に人を肉塊に変える所行では無かった。
 硝子窓の前でこちらを向き、身を前傾に座している四人の姿を目にするなり、佐久間は上げ床へと慌てて上った。
 足ばかりは綺麗な姿勢で座す彼らは、一様に腹腔から血を流して死んでいた。
 まるで切腹の様だ。だが、介錯のあった様子はない。それでも、皆簡単に事切れており、苦しんだ様子は特に見受けられない。少なくとも、目で見た限りでは。だが。
 だからこそ現実感と理解との間に生じた齟齬に、佐久間は呻いた。
 だが、死因や状況、下手人はともかく、彼らと言う仲間が『腹を斬って』死んで仕舞った以上、残された自分が罪科の対象となるのは火を見るより明かだ。
 まさか、その為に彼らは潔く腹を斬ったとでも言う心算なのか。
 そんな馬鹿な。
 なまじ、法に携わる人間である為、自らの犯して来た罪状を連ねれば、どの様な刑罰が降るかは想像に易い。彼らは、今まで得てきた全てを失うだろう未来へ進むに相違ない刑罰を畏れて、それで腹を斬ったのか。
 そんな、馬鹿な。
 繰り返した佐久間はそこで初めて、此処に放してあった狗の姿が何処にも無い事に気付いた。
 首輪の鎖は観戦席の柱に括り付けられた侭だ。だが、首のベルトの方をどの様な手段でか外せば、逃れるは容易だろう。
 (まさか、あの狗めが──)
 己の逃げ道を完全に塞ぐ様な返し手に、狼狽した佐久間が頭を巡らせたその時。
 戸口に無言の侭で佇んでいた『狗』の姿が視界に飛び込んで来た。
 否。もうそれを狗と呼んで良いのか。佐久間には知れない。
 紅の着物に包まれた白い裸身に腥い血を滴らせ、だらりと手から下げるは銀色の刃が一本。
 首には未だ黒革のベルトと、そこから繋がる鎖をじゃらりと鳴らした侭。
 「鬼…め、が……!」
 ここに来て初めて、佐久間はそれを『狗』とは呼べなかった。
 
 
 これで終わりか。
 これが終わりか。
 そう思うと何だか急に可笑しくなり、土方はくつくつと肩を震わせて笑いながら、後ろ手に戸を閉ざした。がちり、と内鍵を回す音は、首切りの刃を落とすスイッチでも押したかの様に、酷く重たく、不吉に響き渡る。
 これでこの部屋からは到底逃げられはしない。その事に気付いたのか、思わず後ずさる佐久間の方へと土方はゆっくり近付いていく。
 あれだけ、飼い主面をし、棋士ぶった策を周到に巡らせていた、老獪な男の姿はもうそこにはない。
 土方が一歩、距離を詰めるその度、混乱に似た怯えも顕わに、佐久間は一歩、後ずさる。
 「っ、貴様がやったのか、これは!?」
 本当に疑問を感じたと言うより、何とか対話出来る要素に飛びつきたいと言うのがあからさまに過ぎて、土方は胡乱な仕草でかぶりを振った。
 「見ての通りですが?皆様方に於かれましては、士らしく潔く腹を斬る、と」
 さらりと口にする土方と、その手の刀とを見比べ、佐久間は狼狽も顕わに「嘘をつけ」と吐き捨てる。
 「何れにせよ、どちらでも変わりはしません。卿も、潔く同じ道を選ぶと仰るのであれば、介錯程度、手をお貸ししますが?」
 「こっ、この、気狂いめがァッ!!」
 血に濡れ、凄惨に過ぎる鬼の貌が刻む笑みに、佐久間は恐慌を来した様に叫び散らした。
 同時に、どん、とその背が硝子窓に到達し、もう後ろには一歩も逃げられはしない。
 これで漸く王手か、と疲労にも似た思考で、土方は佐久間の目前に立った。足を止め、怒りとも、惑乱ともつかない表情に引きつった佐久間の姿をじっと見据え、それからゆるりと刀を振りかぶる。
 「良いのか?!白夜叉がどうなっても!」
 漸く呼吸を思い出した様に、老人が喉の奥から振り絞る様にして上げた声に、土方は両手で持った刀を天へと振りかぶった姿勢でぴたりと動きを止めた。
 すればたちまち、逆王手を指したとばかりの愉悦を浮かべ、佐久間がにやりと笑みを刻んだ。
 「君は、アレを護る為に狗となる事を選んだ筈だろう?ならば、」
 「もう、必要無ぇよ」
 「……………………………………え?」
 酷く平坦な響きの声の紡いだ言葉に、佐久間はぽかんと口を開いた。
 殊更に冷めた表情を形作りながら、土方は嘲る様に言う。
 目の前の老人をではない。最初から、こうだったら良かったのかも知れない。そんな自らへの嘲りを込めながら。
 「あいつを枷にして、あいつの枷になる、そんなのはもうお互い真っ平御免だ。ならば、元通りにすりゃ良いだけの話だろうが」
 抱いた慕情など、もうここで棄てて仕舞えば良い。
 あの手の温度など、もうここで忘れて仕舞えば良い。
 下らない、こんな身と心ひとつを譲り渡して、それで明け渡した惨めな所行。
 「あいつはあいつの世界を護る。俺は俺の世界を護る。互いに関わらない。干渉もしない。今まで通り、それだけの話だってんだよ」
 だからこれでお仕舞いなのだと。
 思った瞬間に何処かが軋む様に痛んだ気がするけれど、きっとそれは疵が瑕である最後の証に過ぎないものだ。
 俺は間違えた。正しいけれど、間違えた。
 お前も間違えた。正しくないのだから、間違えて良かった。
 これが繰り返す過ちであってはいけない。だから、もう必要はない。
 これで、終わり。
 一度間違えた為に抱えた負債が、鬼の副長のこの為体だ。だからこそ、どんな目を見ようが、どれだけの時に疲れ果てようが、それを仕向けた佐久間を消さなければならない。
 そうして次からはもう、同じ事を問われたとして、同じ答えは繰り返さない。
 あの時『厭だ』などと叫んだ己の心をこそ、過ちであったと知れ。
 誰かひとりを、誰かひとりの為の世界を護りたいなどと、思い上がった事こそが誤りだった。
 「大体、今のテメェに何が出来るってんだ?テメェが犯罪者として裁かれた後なら、生前テメェの命令があった所で従う馬鹿は居ねぇ。
 ここで俺を恫喝した所で、今のテメェにゃ、白夜叉に害を為せる様な駒も無けりゃ、指す手番すら二度と回って来やしねぇんだよ」
 痛む心の何処かを振り捨てて、土方は振り上げた刀の切っ先に力を込めた。
 「ま、待てェェェッ!!」
 かすれた悲鳴を上げる佐久間目掛けて、違えず刃は突き下ろされる。
 血走った目を見開き硬直する老人の体にではなく、その背後の硝子窓へと。
 髷のすれすれを通って突き立てられた刃は、まるで落ち武者の様に佐久間の髪を二つに分かれさせて落とす。
 紙一重の位置で己が生き延びている事に気付き、佐久間は茫然とした侭、硝子にずるずると寄り掛かりながら膝をつく。程なくその袴に染みが出来て行くのを冷めた眼差しで見下ろすと、土方は硝子窓に突き立てられた刀に寄りかかる様にして体重をぐっと込めた。
 「テメェの、地獄の道連れだよ」
 く、と犬歯を覗かせて笑う。
 硝子窓の向こうには、未だ暴れ続ける羅刹の姿がある。
 次の瞬間、びしり、と音を立て、硝子窓に一斉に蜘蛛の巣状の細かな罅が走り、眼下の光景も瞬時に白く染まった。
 「な、!?」
 狼狽する老人の頭上の、刀を土方が引き抜いて一歩下がるのと同時に、硝子窓が甲高い悲鳴の様な音を立てて砕け散った。
 舞い散る硝子の破片と共に、当然の様に、窓に全身を預けていた佐久間の体も宙へと放り出される。
 浮遊感が全身を包むその刹那、見上げた先には血に塗れて佇む鬼の、歪められて今にも泣きそうな笑い顔が一つ。
 「うわあああああ!!!」
 鬼に追われ、落下して行く佐久間が空中で何とか逃れる様に身を捩れば。
 眼下には、憎き者を今正に食い殺せる、歓喜の表情を形作った『鬼』の顎が。
 
 
 硝子の破片がきらきらと、闘技場の照明を反射させながら舞い散るその中で、土方は茫然とそれを見た。
 落下して行く佐久間の体が羅刹の手に捉えられそうになったその寸前、下方から真っ直ぐ飛来した棒の様なものが、老人の纏う着物の襟を正面から貫き、壁に突き立ちその姿を留めていた。
 その棒が、木で出来た刀である事を土方は知っている。
 その柄に、『洞爺湖』と巫山戯た銘が刻まれている事を、土方は知っている。
 失禁した侭壁に縫い止められ、気絶したらしくぴくりとも動かない、老人の命を紙一重で留めた木刀。その下では羅刹が、届かない獲物を前に腕を振り回し藻掻いている。
 木刀の飛来した方角を、震える眼差しでゆっくりと探し見れば、観客席の中程に、鬼面を着けた白い着物の男が──朝倉が、立っていた。
 「…………、」
 うそだ、と土方の唇が震えて形を紡ぐ。言葉にはならない。
 徐々に歪む視線の先で、鬼面は手にしていた長い矛を壁に向かって突き立てると、そこを足場に器用に飛び上がり、土方の茫然と佇むVIP観戦席の下の張り出しへと取り付いた。
 「よっこいっしょ、っと…」
 気の抜けそうなかけ声と共に、鬼面の男はいとも容易く、誰も来やしないと安心しきってそこに居た土方へと距離を詰めて来る。先程の佐久間の様に後ずされば矢張りその分距離を縮める様に近付き、男はそこで、長い黒髪の鬘のついた鬼面を取り外した。
 「よ」
 重たげな瞼で向ける笑顔は変わらない。
 柔らかそうな耿りを受ける銀の髪も変わらない。
 突き放そうとした距離さえもその一瞬でいとも容易く詰めて。
 「………よろず、や……」
 茫然とした己の言葉が間抜けな響きで吐き出されるのを聞き取った瞬間、土方の視界は歪んで乱反射する銀色の光に包まれた。







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