雨を吸って
       雨に打たれて猶
  顔を上げ
  育つ花の


            美しき


  雨上がりの花 / 1


 
 硝子の砕ける音は、その時確かに、もっとほかの何かが砕け散る音に聞こえた。
 反射的に振り仰いだそこには、たくさんの硝子の破片と共に仰向けに落下して行く老人の姿と、その前に所在無く佇んでいる鬼の姿があった。
 ああ、落としたのだろう。と思った。
 ああ、この侭殺す気なのだろう。と理解していた。
 眼下で暴れていた『化け物』が、落下してくるそれを憎き者とどうやって理解したのか。闘技場の中央付近から一息に駈けて、『それ』を自らの手に抱こうと腕を伸ばして吼える。
 老人の身ひとつなど、この侭大地に落下するだけでも充分に砕けて死ねる。
 だと言うのに。『化け物』は自らを獣の有り様にした者を食らおうとばかりに手を伸ばす。その血と命でないと、自らの痛苦は到底購えないのだとでも言う様に。
 頭上の鬼と、真下の鬼。
 瞬時にして双方を見遣った銀時は、腰に佩いていた、闘技場に出る寸前に『下男』に渡されていた、闘士としての武器である刀の柄を素早く探った。些か乱暴な動作で鞘を飛ばせば、その中から現れるのは鋼を打った刃ではなく木を削った木刀。
 この、朝倉と言う男の得意とする武器は刀だった。だからカモフラージュは容易かったが、流石に抜けばバレて仕舞う為、戦いの最中では天人の闘士が途中で落とした矛を勝手に使わせて貰う事にしたのだ。
 一応木刀も偽装して用意しておきましたけど、真剣でなくて良いんですか?、と言う下男の──山崎の問いには、使い慣れた得物のが良いんだと適当に答えておいた。
 多分。真剣など不要だと、どこかで感じていたのかも知れない。
 これは自分の戦いではないのだからと、どこかで理解していたのかも知れない。
 そうして抜き放った扱い慣れた木刀を、思い切り振りかぶって投じる。
 それが狙い違えず、気絶した老人の体を壁に縫い留めた事に安堵すると同時に、ほんの僅か後悔もする。躊躇いが生じる。
 あれは、土方を散々に弄び、その矜持と魂を戯れの為だけに穢した男だ。
 よりによって、白夜叉の名前を枷に、真選組の副長を囲った、下劣極まりない所行をした者だ。
 だが──硝子の割れた時、銀時が寸時見上げた鬼の顔は。それこそ何かを砕いて壊れそうなところに必死に留まっている風に見えたのだ。
 何かが砕けて壊れ損ねたところに、懸命にしがみついている様に、見えたのだ。
 だから、銀時は己の怒りを呑み込んだ。
 これは、土方が感じている筈の怒りであり、痛みだ。
 諦めさせてはいけない。終わらせてはいけない。今度こそ、手を離してはいけない。
 あの表情が、老人の死を目の当たりにした時、どんな風に結末を見据えるのか。
 それはきっと、誰もが意に沿わない様なものになる。誰あろう、土方があんな表情で選んだ結果と言う事になる。
 まるで幽霊でも見た様な表情でこちらを見ている『鬼』へと。まだ伝えねばならない事はある。まだ離す気にはなれない手がある。
 
 人相を隠す為と、声を変える為との目的で着けていた鬼の面をそっと外せば、がくりと膝をついた土方の双眸から静かに泪がこぼれおちた。

 
 *

 
 「人にゃ適材適所ってもんがあるでしょ。つまりはこんなの端から勝負になんざなっちゃいねぇんでさァ」
 そう言って沖田が指さして見せたのは、彼の目の前の床上に置かれていた将棋盤だ。旅行などにも携帯で得きる折り畳み式のもので、見た目は酷く安っぽい。プラスチック製と思しきその盤上では適当に一人で指してでもいたのか、よく解らない駒の布陣が展開されている。
 銀時も遊び程度になら指せる知識はあるが、元よりあまりこう言った駒の遊戯は好きではない。屁理屈を並べた腹芸で駆け引きめいた遣り取りをするのは嫌いではないが、それ以前にルールを憶えるのが面倒臭いのだ。
 「……で?何なの藪から棒に」
 山崎に案内されて来た、真選組屯所の道場。日頃は多くの隊士らがここで汗水を流しながら剣術なり体術なりの特訓をしているのだろうそこは、深夜と言える今の時間帯では当然誰もおらず、静まり返っている。
 その壁際、観戦や監視に使うのだろう、一段高い板床の御座席で銀時と沖田は奇妙な対面をしていた。ちなみに、銀時をここまで案内した山崎は、その侭直ぐに踵を返して茶を取りに出ており、まだ戻って来ていない。
 円座にあぐらを掻いて座っている沖田は、だらりと後ろ体重にしていた上体を戻すと、玉将を摘み上げてくるりと指先で弄んだ。その態度からは銀時の疑問に答える気があるのかないのかすら伺えない。
 その侭少し考える様な風情でぱちりと玉将を指す。適当ではない様だが、それが良手かどうかは銀時には知れない。
 「俺も、近藤さんや土方さんが指してんのを見てるぐらいですんで、実の所あんま良く解っちゃいやせん。まあルール程度なら知らん事もねーし全く指せねー訳でもないんですが、ぶっちゃけこんな駒遊びに興味はありやせんし、どうでも良いです」
 言って、ひょいと肩を竦めてみせる。答えになっているともなっていないとも、微妙な所だ。
 だが、続けられた言葉はそれとは趣をまるで異にしていた。
 「指しやすかィ?ま、俺が勝ちますけど」
 「……ンだコラ。俺は駒遊びに来たんじゃねーっつーの。明日から大阪行きだとかなんとかで、お前らがわざわざこんな夜に呼びつけたんだろーが」
 む、と銀時は顔を露骨に顰める。さほど熟練でもない同士で、つまらない対局などをしにわざわざ深夜にこんな所まで来た訳ではないのだ。
 だ、と言うのに、挑戦的に言われれば、乗せられようとしているのが解っていても乗らずにいられないのが己の厄介な性分だ。
 「駒遊びにゃ興味無ェんじゃなかったのか?」
 中途の盤面と言うのは、ただでさえ解らない局面が更に良く解らない。取り敢えず適当に駒を動かしながら問えば、沖田の笑う気配。
 「ええ、ありやせん。ぶっちゃけどうでも良いとも言いやしたぜィ」
 ぱちり。進められる駒。
 「じゃ、なんで勝てるとか思う訳。ご近所のジジババの相手くらいにだけどよ、俺もまったく嗜みねェ訳じゃねぇんだけど?」
 ぱちり。
 「ええ、解ってます。それでも、俺が勝つってだけです」
 ぱちり。
 互いに素人にも近い動きだろう、恐らく。然し沖田の言い種の妙な確信の正体が知れず、銀時は少しつまらなくなった。殊更にどうでもよく駒を動かす。
 「すいません、遅くなりました」
 そこに山崎が戻って来た。大きめの土瓶と湯飲みを乗せた盆を一旦床に置き、道場の戸をきちんと閉ざして、内側にもある錠をきちんと下ろしてからこちらに歩いてくる。
 この場所を会談──と言うか作戦会議──に選んだ理由は、深夜には見廻り以外は誰も近付かないと言う点と、この上床部分は窓が一切無い為、戸締まりさえしっかりしておけば、ちょっと灯りがついているぐらいでは外から全く伺えないからだと言う。
 まるで時代劇の、必殺とか枕詞に付きそうな仕事人が、深夜の寺社などの中で蝋燭一つに照らされ話し合いをする──まるでそんな雰囲気だと思って銀時は苦笑いしたものだが、確かに実用性と言う意味では大いに頷けたのもあって、特に口出しはしなかった。
 「……何やってんですか、アンタら」
 盆を置きながら不審そうに対局を見る山崎に、銀時は「さあ?」と眉と顎とを上げる。
 別に王手と言う局面でもなんでもなかったが、ぱちん、と摘んだ駒を音を立てて叩きつけ、とっとと本題に入ろうと促す意を込めて銀時が沖田を見上げると、そこには不敵な笑みが一つ。
 「……………土方さんが勝負してるつもりでいるあのジジイはねぇ、旦那。棋士ぶって人を策謀で動かすのが趣味って言うご大層な輩なんでさァ」
 俺や旦那が多分最も嫌いな手合いです、と続けると、沖田はひょいと駒を動かし、銀時の先頃指した歩兵の駒を取って除けた。
 ジジイと言うのが『誰』を指すのかは銀時には知れないが、それが恐らくは『白夜叉』を盾に取る事で土方を囲った幕臣の何某に違いない。除けられた駒を目で追いながら、銀時は目の奥に寸時走った痛みに似たものを堪える。
 これが、瞋恚だとは知っている。──だからこそ。
 「だって言うのに、土方さんはそんな輩相手に真っ向勝負しようとしてんです。こうやって、将棋盤挟んだ対局みてーに。
 馬鹿でしょう?勝ち目の全くねーこた、解ってる筈だってのにねィ。手前ェの腹ン中で進まねぇ千日手繰り返して、ジジィの遊戯盤の上で必死に戦ってる心算なんでしょうが、俺に言わせりゃ馬鹿以外の何でもねーです」
 取り駒を横に置いて、侮蔑さえ込もった調子で言う沖田に流石にか山崎が憮然とした顔を向ける。今まで土方の、沖田曰くの『馬鹿』な戦いを見て来た身としてはそれは我慢ならない事だろう、とは思うが。
 取り敢えず銀時は山崎に助け船を何ら出す心算は無かった。嫉妬、と言う訳ではないが、今まで土方と二人揃って色々とひた隠しにして来た男だ。土方の事を支えていてくれたのは事実だろうが、こいつがもっと早くアクションを何ら起こしていれば、と思わずにいられない感情もある。無論、元凶である自分が口出しするのもお門違いの、八つ当たりに過ぎない事だとは解っているが。
 斯く言う山崎自身とて、当然後ろめたさはあるのだろう。沖田に「蝙蝠になれ」と言われて向こう、今までと何ら変わらぬ素振りで土方を補佐しつつ、その裏では土方の意志を裏切る様に等しい銀時や沖田の『作戦』の為にと文句一つ言わず動き続けているぐらいだ。文句を今更申し立てる権利など無いと理解する傍ら、それだけ事態が逼迫してきている、と言う事でもある。
 結局山崎は、お茶を煎れるのも忘れて沖田の横顔をじっと見ていたが、何も口には出さなかった。賢明な事だ。
 然し沖田がそれ以上話を続ける気配はない。山崎も、土方の戦い方を『馬鹿』と言われては、肯定も否定も出来ず押し黙るほかない。こうなれば仕方ない。やれやれと、次に動かそうとした駒を摘み上げながら銀時は口を開く。
 「……で、それが曰く『適材適所』と?」
 「そう言う事です。戦うんなら、手前ェの畑で戦うのが定石でしょ。だからあのジジイはここに来て盤面を大阪に移そうとしてんでさァ。手前ェの得意分野を、手前ェの城の中で指す。
 ホラ、土方さんの何処に勝ち目があるって言うんですかィ、コレで。詰み以外の何でもねーですよ、こんなん」
 無表情でつらつらと言って除けると、沖田は将棋盤を軽く持ち上げて自分の横へと置いた。銀時からは手が届かない距離だ。
 「詰んだ、っつーより、投了するほかねーんじゃねーの、ソレ」
 手の中に残った駒を見つめる。奇しくも銀将だ。成れば金になるが、不成で使えば小駒では唯一可能な斜め後ろへの動きを活かせる、局面と扱いの悩ましい駒であると聞いた事はある。
 「端からその認識が間違えてんでさァ。俺ならこうしやす」
 ふう、と溜息をつくなり、沖田は唐突に、自らの横に置いた将棋盤をもう一度持ち上げ、ぽいと中空に放り投げた。
 携帯用の代物だから、盤は軽く宙を舞い、今し方まで何かの意味ある局面を描いていた駒たちをばらばらと床の上へぶちまけて落下した。結構な音が道場中に響いたが、一瞬身を竦めたのは山崎だけだった。
 「……成程?」
 少年の笑いの意味を正しく悟った銀時は、手にしていた銀将をぴんと指先で弾き飛ばした。もう一度手に落ちて来たそれを、ぐ、と握りしめる。確かに『このやりかた』で良いのならば、どんな局面であれ沖田が勝つだろう。
 「アイツは馬鹿正直に、ジジイとやらの盤上で戦おうとしてるが、そんなのに従う方が馬鹿だと。総一郎君の意見はそう言う事だな?」
 「流石旦那。飲み込みが早ぇ事で助かりやす。でもって俺は総悟ですけどねィ」
 拳の中に仕舞った銀将をにやにや笑う沖田の顔面へと投げつければ、得ていた様にそれを軽く受け留める手。
 すると今まで沈黙を守っていた山崎が、茶を供す動きを再開させながら、おずおずと言う。
 「〜沖田隊長のその喩えに乗って言いますけど。今までも今もですが、副長、ああ見えて禁じ手も結構指してますよ?」
 「ンなの、こっそり駒すり替えるとかそんくれェだろーが。そんなんじゃ、野郎のルールの中で見つからない程度の反則行為をしてるだけに過ぎねーだろ」
 その手元から湯飲みを勝手に取り上げて、熱い茶を啜りながら、銀時。
 「……ええと、つまりそれって」
 山崎の表情が複雑そうに歪められる。厭だ、と言う意ではなく、参ったな、と言う意で。
 恐らく、彼もその上司も、そんな事は全く考えていなかったに違い無い。良くも悪くも、真面目と言うか、勤勉と言うか。
 土方が誰にも知られず、大事にはせず、法や己らの『正当な』手段の及ぶ範囲で物事を片付けようとしていたのは最早言うまでもない。無論、出来る範囲での『反則』はしたが、飽く迄対局者──ジジイとやらに気取られずに済むレベルでの悪足掻きに違い無い。
 『人質』がいると思えば、それも当然の配慮と言えるだろう。だからこそ慎重にならざるを得なかった土方を知る山崎も、『人質』当人である銀時にも、それは些か複雑な『手』となる。
 「あん人も、隠すだけ隠して大事になる前に、端から一言、ジジイの盤面蹴倒すのに協力しろ、って言や良かったんでさァ」
 言うだけならばそれは簡単だ。だからこそ沖田は酷く簡単にそう言って除ける。それを、土方が良しとしない事も、選択肢にすら数えていなかった事も、知った上で敢えて、そう言える。そう言う。
 沖田は、盤ごと引っ繰り返すぐらいの事をするべきだ、と言っているのだ。
 不正ではない。不正と言うルールを作っている、遊戯盤そのものを破壊するぐらいの事をして仕舞え、と。







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