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    雨を
  ただ待つ
    人の抱いた
 乾きの鉢


  雨待ち人の鉢 / 1



 何をしたい、と言う訳では無い心算だった。
 少なくとも最初はそう思っていた。

 「俺さぁ……お前に惚れちまってるみてェなんだけど」

 だから、己の酔った口がそう切り出した時は、自分自身を思いきり殴り飛ばしてやりたくなった。
 そうして口にして仕舞ってから、今まで己がどれほどの欲求を堪えていたのかと知れた事に、自分自身を思いきり蹴り飛ばしてやりたくなった。
 殴って、蹴って。タイムマシンを思わず探したくなった。
 「は?」の一音を音にせず口の形だけで作って凝固している土方の姿を見て仕舞えば、それこそ時間を遡って、今の発言を無かった事にしてやりたいと思うほかない。
 そうすれば昨日──否、数分前の、緊張感も無ければ衒いもない関係に戻れただろう。
 でもそれだと辛すぎる、またうっかりと本音を洩らして仕舞うやもしれない、と言うのであれば、更に遡って、こんな感情を抱く前の自分に戻りたかった。
 己の感情を、想いを後生大事に抱えているよりも、目の前の男に拒絶される方が余程に厭だったのだ。
 

 偶々に出会った飲み屋だった。
 かぶき町に限らず江戸のあちこちで飲み歩いている銀時は、野良猫が幾つかの『お得意様』を持って不定期に立ち回るのと同じ様に、気分や財布の都合で店をよく変える。
 その日は冬の寒い日だったから、隙間風がなく客の出入りも多くない、そして気を利かせた温かなお通しに、熱燗も直ぐに出るだろう店が良いと思った。
 そんな風に選んだ、縄暖簾を持ち上げて入った店内に黒い影を見つけて仕舞ったのは何の偶然だったろうか。
 その店にはそう足繁く通っていた訳ではなかったが、そこでその姿を見たのは初めてだった。
 (屯所(うち)から近い訳でもねーのに)
 そんな事を思って後頭部を軽く掻く。波立たない水面に一滴落とした様な黒い墨。それが自分のテリトリーを侵される様な不快感だとは思わなかったが、こんな所で遭遇して良いものでもないと、苦い思いで溜息をつく。
 だが、一人慣れない人間が居たと言うだけの理由で(しかもそれがよく張り合う相手なら猶更だ)再び寒空の下に出ていく気にはなれず。寧ろ、堅苦しい隊服を脱ぎ捨て、一人で杯を傾けている男に興味が湧いた。土方十四郎と言う男の日常など、嫌悪或いは好ましいと判断出来る程に知り得てすらいないのだから。
 店の主人に軽く挨拶を交わしながら、座敷の席に単独で居座る土方の方へ近付いて行く。
 暖簾を潜って来たばかりの、見覚えのある客の姿を油断なく伺う様な目は、「てめーの所為で酔いが冷めた」とでも難癖をつけて来そうな風情さえも漂っており、正直銀時でなくとも近付くのを躊躇う気配を醸し出していたのだが、構わず、許可も取らず、向かい側に腰を下ろした。
 余りに自然な銀時のそんな様子に、端から都合をつけていたのだろうと勘違いしたらしい主人に適当に注文を投げて、真向かいの仏頂面に「よ」と笑いかける。
 「何勝手に相席してんだ」
 と、想像通りに投げかけられた文句に、よくは憶えていないがお得意の口八丁で適当な事を投げ、酌と返杯とを何度か経る内、余り続かない世間話がぽつぽつと投げられる様になる。
 年代は合うとは言え、趣味も職も生活にも好みにも全く共通点のない両者だ。気性は似ていない癖に行動パターンが似ている、それだけを糸口に、何故かそう厭がる風でもない土方に、銀時は適当に会話を接ぎ穂していく。
 土方が何故かそれに付き合い、席を辞さなかったのは、単に銀時と同じで、わざわざ寒空の下に逃げる程でもないと思っていたからだったのか。
 会話が喧嘩腰になっても珍しく長続きはせず、埒も無い冗談を投げ合って笑いながらどちらともなく矛先を収める。
 アルコールの助けも多分にあったのだろう。実のある会話など殆どした事の無かった筈の両者の間にもごくごく自然と、意味のある言の葉が降り積んで行く。
 TVや食べ物や日常のどうでも良い拘りや天気の話。隠しているようだがB級の任侠物や子供向けの映画で泣ける程に涙脆い。仕事がほぼ趣味。普段几帳面に見えて実は結構大雑把な性格。飯は早食いだけどツマミは味わう方。嫌いだろう相手が相席でも無意識に気を遣って仕舞い、それに気付いて時々渋面になるとか。
 (……やっぱ面白れーわ、この子)
 空になっていた銀時の猪口に酌をして仕舞ってから、気付いた様にぶっきらぼうに手を引っ込め、てめーも返杯すんのが筋だろうとばかりに、誤魔化しながら自分の猪口をずいと差し出す。
 そんな土方の、酔いか熱かで少し紅い耳に気付いて仕舞えば銀時も厭な気はせず、気付かぬ素振りで徳利を傾けてやる。
 だが、新たな客が来る度に土方は、まるで夢を醒ます様な意識の切り替えで銀時から意識を逸らし、傍らの愛刀に気配を向けて入り口と店内とを油断なく伺いに行って仕舞う。
 壁を背にした奥詰まりの座敷だが、店内も入り口も見通せる位置。そんな席に落ち着いたのも当然偶然ではないだろう。余り客の出入りの激しくない、静かな店を選んだ理由もひょっとしたらそこにあるのかも知れない。
 それは職業柄なのだろうが。思って銀時は少しつまらなくなり、店の密かな名物でもある、いわゆる裏メニューの食事をオーダーし、それを土方に勧めてみた。
 するとそこで初めて、今までの淡々とした遣り取りは何だったのか、と思える程にあっさりと、土方の纏っていた殻の様なものが崩れた。銀時の事を「へぇ」と感心する様な、初めて認識した様な目で見てくる彼に、「美味ェだろ?」と問えば、正直な首肯と満足そうな表情が返ってくる。
 それを見てやっと普通の、呑み友達、の様なものと相対している様な気持ちになり、
 「お前、いつもそんなんなの?」
 珍しくマヨネーズもかけずに黙々と箸を動かす土方にそう、思わず銀時が問いてみれば、
 「ま、職業柄つい、な。一人の時はいつもこんなもんだ」
 と、これもまた予想通りの返事が返り。
 「……そう言や今日は、一人じゃねェのか」
 と──。初めて気付いた様にそう呟くと漸く、酔う事が出来た、と言う風情で、土方は力を抜いて笑ったのだった。
 知らぬ事と、知れた事との蓄積が、僅かな時間の間に増えていた。
 それは悪い気のするものでは決してない。他人に不用意に踏み込むのは面倒な上に厄介な事が多いものだが、これはほんの酒の席のこと。互いに玄関を開けた侭で会話をしている様なものだ。
 誰かと酒を酌み交わしてこんな気分になるのは酷く心地が良く、何年もとんと無い事だった。
 明日死に向かうかも知れない、戦場での意気昂揚に呑み交わした安酒の浸みる様な旨さ。明日は居ないかも知れない奴の肩を抱いて笑い合ったのにも似た、美味くて、惜しくて、手放し難い。そんな味のする酒。
 そんな酒の味をコイツが知る筈はないのに。何故だろう、同じ思いを感じているのではないか、と。そんな気がして、銀時は土方の事を必要以上に熱心に観察した。
 思い起こせばそれは不躾なほどのものだったに違いないのに、土方は銀時の視線やその意味については何ひとつ問わず、ただいつもより滑らかになった唇で、相変わらずの憎まれ口を叩いてくる。
 端正な顔の造作の割に、目つきは悪く、柄も悪く、性格も大人しいとか素直とかとは到底言えない。気は短く、肩の力も抜けず、面倒臭いくらいに真面目でお堅い。
 そんな印象しか並べられそうもない相手を、ついぞ『好ましい』などと認識して仕舞ったのは、果たしてそこからどれだけ遡った時の事だっただろうか。
 切っ掛けは些細な事だと思っているし、好ましいからどうと言う訳でもない程度のものだ。
 日頃反りが合わない奴でも、馬鹿みたいに不器用で、その癖そんな自覚は無しに生きている姿は好きだと思った。
 上手い転び方を知らず、泥だらけになっても立ち上がる姿は眩しかった。
 真選組(かれら)と言う、理想や信念が集まって咲いた花たちは、武骨で、野暮ったくて、泥臭くて、美しかった。
 一度だけ袖を通した堅苦しい洋装の隊服は、彼らにとっての心の置き所で、誇りを纏う決意の顕れであるのだと、万事屋三人で揃いになった姿を見て自然とそう知れて。
 その重さは手前の手にした刀より余程重たく。戦場に赴いた白い装束を何故か思い出させた。
 ……見つめてみよう、と思った。
 天人のもたらした富と、それに浸り腐った幕府を護る事こそが、然し多くの人々が享受して望む『平和な世界』を護る事なのだと理解して、泥の中で刀を振って足掻く様な彼らの戦いを。
 血と汚泥と絶望とに塗れた戦場ではなく、欲と権謀術数と失望とに塗れた戦場を生きる彼を。
 銀時が愛する事を選んだ世界の中を、刀一本と手前の身一つで護ろうとする彼を。
 (どう寄せ集めても、コレもう間違い様がねェだろーが)
 銀時のふと投げた冗談に、くつくつと喉で可笑しそうに笑う土方の姿を見つめながら、絶望的な程にゆっくりと銀時はそれを認めていた。
 「俺さぁ……お前に惚れちまってるみてェなんだけど」
 認めた時には、ほろ酔いの口はそう、勝手に言葉を発していた。





なれそめ。

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