雨待ち人の鉢 / 2



 「……な。マジで良いの?」
 銀さんこういう事は冗談にしてあげらんねーよ?
 そう、何度も問い掛けて来る男の方が、強張った侭の自分の掌より余程緊張している様に見えたから、殊更横柄な態度で、吐き捨てる様に投げてやった。
 「しつけぇよ。てめェのが据え膳前にして怖じ気付いたか?」
 多分、引き結んだ唇は震えていたが、笑い混じりに言った声は平時通りだった筈だ。
 「滅多に無ぇドSの気遣いをくれてやってんのに可愛くねーのなァ…」
 「は。可愛げなんざ余所で求めろよ。此処にゃ生憎品切れだ」
 銀時は土方の物言いを、虚勢であると見抜いてはいたのだろう、恐らく。そしていつも以上に尊大な態度や憎まれ口は、銀時の、或いは互いの決意を進み易くしようとする気遣いであるとも。
 「…………じゃあ、さ。もう確認はしねーけど。最後に一応一個だけ、な?」
 「無ェぞ」
 「……………………………先読みして答えないでくんねぇ?違ったらどうすんだよ質問」
 応えて布団の上にどっかりと座り込む土方を、銀時は苦笑混じりに見下ろしながら、寒いからかちゃんと両袖を通して着ている白い着流しを肩から抜いた。
 ぱさり、と畳の上に落ちる白い布の、袖と裾とを淡く染める流水にも雲にも似た模様が、薄ら暗い灯りの下で揺れる影を映していて、不思議に綺麗だと思った。
 そんな事に関心を向けて、衣擦れの音から目を咄嗟に逸らしていた事に気付き、土方はぶっきらぼうな口調で、銀時の質問への回答を補填する。出来るだけ澱みない物言いが、何でも無い様な素振りでいる虚勢と見抜かれていることは何処か承知の上で。
 「この流れで他に問いがあるたァ思えねーがな。無ェぞ。正真正銘。女は抱いても、野郎を抱いた事は無ェし、抱かれた事も無ェよ」
 さらりと言う口調は、怖じけていない風に見せようとする強がりだが、内容は嘘ではない。言って、挑む様に笑いながら、薄闇に浮かぶ銀髪を見上げる。
 生娘ではないどころか女ですらそもそもない土方には、経験などないと言い切る事に何らメリットがある訳でない。掘られた事など無いと言った所で処女性の様な価値がある訳でもなく、寧ろ逆に実用的な意味でのデメリットの方がありそうだ。だ、と言うのに何故こんなにも開き直って強がるのだと言われれば、それは間違いなく虚勢としか言い様のないものに違い無い。
 未体験の、無意味さと苦痛と、ひょっとしたらそれ以上のダメージを伴うだろう行為に、然し合意の意志があると言う事。そして、それすら虚勢と悟られつつも頑として是の意志を翻す事はない事。
 そしてそれよりも強かったのは、仮令銀時とどう言う関係になった所で、心は彼と対等で居たかったと言う事。
 女の役を担わされたとしても、気を遣われて優しくされて溺れさせられるなどと言うのは御免だった。負い目も、気遣いも、屈辱も、恥も、悦楽も、自分だけが与えられるのなど、恐らくは堪えられまい。
 無意味な行為に、過ぎた情は恐らく必要無いのだから。
 そんな土方の虚勢など、サディスティックな性癖を自称する男から見れば酷く幼稚で可愛らしいものだったのかも知れない、と、そう思い至って仕舞えば余計に、負けるものか、流されるものか、と、強気な笑みが浮かぶ。
 ……この時、シーツを掴んでいた手が強張って震えていたと、後から男に聞かされた時には恥ずかしさと居たたまれ無さで死にたくなった。
 なった、が、後悔はしていない己に、多少なりとも驚かされはした。
 一体、いつの間にあの銀色の男にここまで絆されていたのかと、思い起こせば出るのは悔しさの混じった溜息ばかりだと言うのに。
 

  *

 
 「対テロ、ってのはまァ……大雑把な分類だなァ。攘夷思想(テロリズム)の種になりそうなもんは、終戦後もまぁだあちこちで燻ってんだよ。
 ただな、そん中の全員、全部が攘夷の徒ってワケじゃあ無ぇ。単純な反社会思想だのや、ガキのお遊戯みてーなヤンチャな火遊びも、根っこを辿れば男の本能、『戦への憧れ』みてーなモンに繋がっちまうワケよ。連中にとっちゃあ、攘夷志士ってェのは『嘗て国を護ろうと戦った英雄のおサムライ様』ってこったァな」
 ぷはァ、と、舶来品の煙草から溜息混じりの煙がどっと吐き出される。気付けばすっかり慣れきったその臭いに不快感は無い。
 書類が乱雑に散る、自らのデスクの上に両足を無造作に投げ置いている中年男を一目で警察庁長官、などと言う大物と見抜ける者は恐らく居ないだろう。サングラスに隠れた眼差しは常に物騒な光を湛えているし、趣味の様にほいほい気軽に発砲もする。その癖妻子には頭が上がらないと自称しつつ、平然と夜遊びに耽る。敵どころか味方にまで、破壊神、などと称されるのも無理の無い男だ。
 『警察庁長官 松平片栗虎』──デスクの上、一応はちゃんと読める位置に置かれた黒いプレートに踊る名前を視線だけでなぞって、土方は溜息を肩で殺した。
 「……要するに、対テロ、の名目を一応は帯びちゃいるが、攘夷浪士だけじゃなく、江戸で犯罪を犯す者全員が真選組(俺ら)の敵であると。こう言う事だろ」
 潜伏して出て来るかも解らない攘夷浪士を追い掛ける為だけになぞ、新組織を結成する許可なぞ降りる筈もない。詰まる所、空いている手は無駄無く。結構な金を使ってまで一度飼い慣らした狗なのだから、死ぬまで酷使するのは当然と言う事だろう。
 「呑み込みが早ェ様で、オジさん助かるわ。てめーらはもう野良じゃねェんだ、好き勝手に餌食って暢気に寝てるワケにゃァ行かねーってワケだ。その『餌』ァ下さるお歴々は、ただでさえ野良犬がお嫌いと来てるんだからなァ」
 「その分、無ェ餌や寒い冬に餓える心配は無ェって事だろ。構わねーよ、俺達ゃどうせ幕閣のお歴々から見りゃァ、抱える気にもなれねェ雑種で野良の狗共だ。窃盗だろーが、交通法規違反だろーが、爆破テロだろーが、全力で追い立ててやらァ。そうして媚びろってんなら望む所だよ」
 「おーおー、迂闊に餌なんぞやったら、そんだけで噛み付かれかねねェなァ」
 戯けた調子で言う松平に、同じく軽い調子で、然し眼から力は抜かぬ侭に土方は言って笑う。
 江戸の治安維持の為の新設組織を、と言う、とある幕臣達の鶴の一声が切っ掛けで、警察組織、ひいては真選組は結成された。そして天人来訪後は形ばかりになりつつあった諸大名から、起源は徳川将軍家にまで至る松平氏の中から松平片栗虎がその頭として選ばれ、警察庁は組織され、機能し始めた。
 各地の町奉行や同心はほぼその侭に、組織的な構成と階級を定め、完全な縦割りの権能を警察組織として決定付けた。そしてそれらとは別に更に専門分野に特化し構成された一つが、対テロに特化し、武装面を強調した真選組だ。
 それらの組織分けや結成に際し、どれだけの幕臣達の黒い思惑や私欲が渦巻いていたかなどと言う事は土方にとっては興味の範疇外だったが、松平が、田舎出の芋侍達の中から近藤や彼の道場の人間達、それと同じ様な連中達を組織の構成員にと強く推し、組の結成にかなり尽力してくれた事はよく知り得ている。
 だから、と言う訳ではないが、土方は松平の事を仕えるべき『上司』の一人として認めている。土方にとって命を懸け全てに於いて遵守すべき『大将』は近藤一人だが、松平には恩がある以上に妙なカリスマ性や安心感が(本人の問題行動以上に)あるらしく、気付けば自然と「とっつぁん」などと親父呼ばわりをしていた。
 事実、上司と言うよりは親父の拳骨に感覚としては近かったかも知れない。
 ストレスの捌け口に、と言う目的では当初無かったが、土方にとってすっかり欠かせなくなった煙草の出所も実はこの松平だったりする。
 真選組の結成と維持には、警察庁長官である松平の助力は欠かせない。それもあって、多少の親父の無茶振り程度になら土方は目を瞑って来た。将軍の護衛と言う大役が(内容はキャバクラ遊びだのお世辞にも立派とは言えないものだが)幾度か回って来る事も、真選組の存在アピールとして大いに役立たせて貰っている。
 だが、成り上がりの『侍』達と。真選組が歴とした組織として結成され、成果を地道に上げている今でも、上の人間達の貶みの目や風聞は後を絶たない。僅かの失態でも足下を掬われかねない、足下が盤石でない『今』にこそ厳しく在るべきだと、局中法度と言う不文律を初めとし、土方は組の基礎工事に日々奔走していた。
 「ま、威勢が良いのは結構な事だけどな、餌貰ってる分は江戸の平和に是尽力しちゃってくんねーと、色々困るのよコッチも。
 報道の自由、とかでマスコミも最近油断出来ねェからなァ。お前らも、いつもの可愛らしい騒動ならまだしもだ、本領発揮すべき所でハズしちゃァ、情けなくってオジさんも庇いきれねェよ?」
 「…承知してる」
 溜息混じりに、先程提出したきり一瞥される事もなくデスクの肥やしになっている書類を、忌々しいものを見る様に土方は睨み据えた。
 『旅籠池田屋での爆発事件』──攘夷関係の犯罪であると言う、朱墨の印が付けられた書類束には過日の騒動が克明に記録してある。
 その概要は、過激派攘夷浪士として未だ活動を続けるお尋ね者、桂小太郎の率いる一派が旅籠池田屋にて起こしたとされる爆破事件だ。爆破自体は被害者ゼロと言う、ほぼ未遂に終わった形となったが、民間人を危険に晒した事、桂をまんまと取り逃がした事が声高に指摘され、真選組は風評面で大きな被害を出した。その後始末の為、土方は連日こうして関係各位を回る羽目になっていた。
 「対テロ組織を謳っておきながら、肝心の首謀者を取り逃がすとは」そう、知った様な口調で重ねられる叱責を甘んじて受ける。揶揄と共に傾けられる杯と、強いアルコールの匂いに、ともすれば溢れ出しかねない物騒な怒りを押し殺して、ただ頭を下げる。それさえも副長として自ら選んだ役割だ。
 単に、文句を垂れる連中に対し「こうなりましたが今後はこの様な事が無い様に尽力します」と、小学生の反省文の様な内容を携えて頭を下げて回るだけの話だ。簡単に過ぎる。
 どうせ『文句を垂れる連中』はそんな内容になど斟酌しない。『狗』が頭を垂れて尾を下げ、時に命じれば『お手』までをするのを嘲笑い愉しんでいるだけだ。
 流石にそれらの手合いとは異なる松平は、行脚の順序を最後にされた事にも特に物申す様な事は無いらしい。案の定と言った所か、書類にすら目を通さずに、怒るでもないがちゃんと忠告と釘は刺してくれる。
 「……に、しても、トシよぉ。二本刀のお前と総悟とがかかって、それでも桂の野郎に逃げられちまうたァ…、」
 「士気にゃ影響させて無ェから心配すんな。ま、池田屋のアレは色々とイレギュラーもあったもんでな」
 松平の、懸念を匂わせる言葉を遮り、土方は殊更にきっぱりと言い切った。思い起こして催しそうになる不快感を堪え、話はこれまでと判断すると、じゃあな、と松平の執務室を後にする。
 新設組織に必要な重みと役割の自負を示す様な、歴史の薄さと裏腹にぶ厚い扉に軽く背を預け、土方はゆっくりと深呼吸をした。
 松平に言った事は決して気休めではない。土方も沖田もその他の隊士らも桂と直接相対出来た者はおらず、そこに来て桂一派以外のよく解らない邪魔(沖田の所構わぬバズーカ発射を含む)まであった。爆発寸前の爆弾での敵味方交えた混乱に乗じて、棄て駒を置いて逃走したあちらの方が一枚ばかり上手だったのは間違い無い。山崎にもその後の足取りを追わせたが、霞の様に消え失せた桂の痕跡を突き止めるには残念ながら至らなかった。
 逃げ足だけは達者だと言う評判に違えの無いあの攘夷浪士にはかねてから手を焼かされていたのもあり、作戦を全面的に『失敗』と見なした者は隊内にはいない。大層不本意な認め方をするのであれば、『いつもの事』と言う事になる。
 真選組が桂相手にあそこまで大規模な攻め手に出たのが初めてだったのは確かだが、それ故になのか計算外の出来事が多く、一概に正否の成果無しと言い切る事も出来ない結果になったのも事実だ。寧ろ大規模な爆破テロを未然に阻止出来たと言う意味ではこちらの勝利と見ても問題無いぐらいだ。
 ただ大っぴらにそう言い切るには些か事態は複雑で、結局の所傍目に知れる最も大きな結果が『桂を取り逃がした』事に尽きるのは致し方無い。
 あの銀髪の、巫山戯た侍さえいなければ。
 (………いなけりゃ、どうなってたって……?)
 決まっている。幾人かの攘夷浪士諸共死んでいたか、謝罪行脚では足りない程の失態になっていたか。とっくに切腹をしていたか。何れにしても碌な未来ではあるまい。
 だが、犯罪者スレスレの様な扱いでも結局は放免されたらしい男の事を思い出せば、そんな得体の知れない奴の『お陰』で今の自分達が在るのだとは、余り思いたくはない。
 だと言うのに、逃した桂よりもあの闖入者(イレギュラー)達の方が何故かずっと気懸かりと言う部分に突き刺さった侭でいる。
 ──「よく面接通ったな。瞳孔開いてんぞ」
 …などと言う。銀だか白だか、巫山戯た髪の頭のそんな第一声が恐らくは原因に違いない。
 真剣を向けた相手の『目』を真っ先に見る、など。一般人にそうそうお目に掛かれる気概の持ち主でもない。
 竹刀や木刀での立ち会いならまだしも、実戦で、しかも危険な不意打ちを受けた後に直ぐ出来るものでは到底無い。殺す相手の、殺されるかも知れない相手の目を真っ向から見るなどと言う事は、そう生やさしいものではないのだ。
 白刃の前に命を何度も晒し、慣れた者──相手の目を見ながら平然と殺す事に慣れた者か、或いは、
 (……………手前ェの方が強ェと確信した、度胸のある奴)
 諳んじれば自然と眉間に山脈が出来る。初手で殺す気など端からなかったから、態と避けられる様に声をかけたのは確かだが、そんな奴の目を平然と見上げて軽口まで叩いたと言う事は、あの男はあそこで全く死ぬ気は疎か、危機感などなにひとつ感じていなかったと言う事だ。
 爆弾を上空に投げた白髪頭は、真選組の管轄下に入った池田屋ビルから出て仕舞った為に、周囲の騒ぎで駆けつけた大江戸警察に連行された。本来ならば真選組で捕らえて事情聴取と言う名の拷問にでも掛けたい所だったが、所轄にも面子と言うものがある。桂の関係者であると言う明確な証拠も結局挙がらなかった以上、こればかりは仕方がない。
 暫くは監察を付かせたり調査させたりしたが、その後何らの動きも見せなかった為に棄て置く事にした。まあ、また何かをやらかして出会う事があったなら、その時は容赦してやる心算などない。
 苛立ち紛れにそんな事を考えつつ、手続きに則って退室届けにサインをし、型通りに、この控え室に待機している長官秘書に預けた刀を元通り佩き直す。
 続けて出入り口の仕切りになっている透明な板の前に立つと、そこに薄く映った自身を見てその佇まいと隊服とにひとつの乱れもない事を軽く確認し背筋を凛と伸ばして歩き出す。
 このビルを出る迄は、まだ得体の知れない何かのハラワタの裡に居る様で落ち着かない。
 敵は何処にでも居る。
 何処にでも作られる。
 だから、屯所(うち)に戻るまでは、気など抜けそうもなかった。
 銀髪頭の侍の事を、考えている余裕など無かった。





適当設定がちょっと通りますよ。

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