猫と副長の七日間 / 1



 終わった、と思った瞬間、手にしていたペンが指からぱたりと倒れて机の上へと転がった。延々固いペン軸を持ち続けて少し凹んだ指の痕に心なし爽やかに感じられる空気が触れて気持ちが良い。
 ぐ、と凝り固まった肩を上へと持ち上げ両腕を伸ばす。机周りに山と積んであった書類たちは全て片付いて、もうこれで土方の手を煩わせるものは残っていない。……少なくとも今日のところは。
 仕事の片付いた爽快感や達成感と言うよりも、漸く終わった、と言う安堵や脱力感の方が強くて、土方はくわえていた煙草を指で抜き取ると大きく息をついた。
 片付けた仕事は一日分、と言うには少し多い程度のものだったが、土方には連日の疲労もあって残念ながら余りはかばかしいものではなく、いつもより大分時間を消費して仕舞った。
 少し厭そうに壁の時計を見遣る。約束の時間からは大分経過して仕舞っている事は既に解っていたので、その『大分』の度合いがどの程度のものかは余り見たくは無かったのだ。
 「……一時間」
 珍しくも電話口で指定された時刻からは、まあ可愛く見積もってそのぐらいは過ぎていた。もしも待ち合わせに十分は前に着く事を想定するのであれば、二時間にいっそ近い。
 前々から、忙しい時期だから時間通りと言う訳にはいかない、とは言ってあった。それでも、約束を半ば一方的に取り付けて寄越した男は、解ってるから構わないとは口にしていた。……が。
 苦々しい表情で煙草を灰皿に放り込むと、土方は長時間同じ姿勢で居た事で痛む身体を起こして、手早く着替え始めた。一時間も過ぎれば二時間でも三時間でもそう変わりはしないだろうとは思うのだが、その動作は無意識に速くなる。
 自らそう宣言した通り、既に二時間近くを回った今でも確実に待ち人が待っているだろう想像は容易い。然し土方の気分は、そんな大らかな恋人の存在に浮き足立つよりも、彼をそんなにも長い時間待たせた事になって仕舞った、と言う状況への気まずさの方が強い。
 (他の日にずらせないのかって言っても聞き入れやしねぇし、時間通りには多分ならねェって散々言っても、それでも待つから良いって言ったのはアイツの方なんだし、俺が気に病む謂われは無ェ筈なんだが、)
 そうは言ってみたところで、部下でも身内でもない他人の時間をそれだけ無駄にさせると言うのはどうしたって心が痛む。経緯は先の通りとは言え、土方は人を待たせて図々しく「当然だ」と言い切る気にはなれない。
 だから仕事も、どうせ約束の時刻きっかりには間に合いはしないだろうと思いながらも、ずっと集中して早く終わらせられる様に心掛けた。土方にしては頑張った方だと言えるが、結局大した成果が出ていない以上、何だか自分が至らない様でどうにも気にいらないのだ。
 (何で俺がここまで考えてやらねぇといけねぇんだよ…。勝手に日時指定して来たのはアイツの方だってのに)
 堂々巡りの愚痴を、脳裏に過ぎる銀髪頭に向けてこぼすと、薄手の羽織に袖を通して土方はもう一度時計をちらりとだけ見上げると副長室を出た。財布と携帯と刀と煙草。これだけあれば事足りるから、身支度にそう時間はかからなかった。
 本当ならば風呂に入って行きたかったが、これ以上無駄に時間は費やしたくない。現地で何とかしようと決めて、土方は息が切れない程度の、少しの早足で目的地へと急いだ。

 *

 思えば、銀時と示し合わせて会った事は一度も無かった。一応は恋人と呼べる関係にある相手なのだが、互いに余り、好んで浮ついた行動や言動を向ける様な性格では無かったので、そう言った約束事などわざわざしない事が殆どだったのだ。
 狙わなくても、飲み屋にでも顔を出せば大概は出会えたし、その流れでホテルまで行くか行かないかは帰り道次第。どちらかが乗り気じゃなければ、または都合が悪ければバラバラに帰ってお開き。…まあそれは滅多には無い事だったが。
 だから今日、銀時がわざわざ、しかもどうして夜の公園などで待ち合わせをと言い出したのかと言う意図が知れず、土方は首を傾げながらも、街灯のぽつぽつと点在する公園の遊歩道を早足で歩いていた。
 (旨い飯屋を見つけたから、とか言ってたか?それなら現地集合にでもしてりゃ良いものを)
 夜の公園は、当然だが静かで暗くて、すぐ近くの筈の繁華街の喧噪も木々に遮られて届き難いからか、どことなく淋しさや心細さを想起させる。同心のパトロールもあるし、治安もそう悪い地域では無いので、昼夜問わず人通りはそれなりにあるし荒れてもいないのだが。
 陽のすっかり沈んだ今、居るものと言えば、仕事帰りの近道なのか足早に過ぎる勤め人や、犬の散歩をしている人や、ベンチで憚りもなくいちゃいちゃしている男女ぐらいのものだ。
 ぼやりとした街灯の作り出す、輪郭のはっきりとしない影を踏んで歩きながら、土方は銀時に指定された広場に着くと、近くにあると言う藤棚を探した。
 その下のベンチで待ってるから、と言われた通りの姿は直ぐに見つかった。季節が季節だから、藤は大分葉っぱを落とし始めていて、花の気配は当然見当たらない。その真下から見える風景など特に面白くも無いだろうに、銀時は彼の宣言した通りに、身体を前に折り曲げて両腕で頬杖をついた姿勢でそこに居た。
 「……」
 待っていない、などと言う事は万に一つもないと思ってはいたものの、余りに予想通りで予想通りに過ぎたその様子に、土方は胸に満ちる罪悪感を持て余しながらも真っ直ぐに約束された場所へと向かった。藤の花は見当たらなかったが、何処か近くに金木犀が咲いているのか、鼻孔を強い香りが過ぎる。
 「………来たぞ」
 ベンチの前で足を止めれば、口からはそんな言葉が漏れた。可愛くない以前に人として礼儀がなっていないとは土方とて思うのだが、この時間的に無謀な約束を半ば一方的に取り付けたのは銀時の方だったし、自分も最大限出来る事は頑張ったのだと言う思いもあり、遅れた事を申し訳なく思う胸中を正直に表す類の言葉は上手く出て来てくれそうもなかった。
 それにどうせ口と悪知恵の回る男の事だ、土方が気にしていると言う事を悟られれば、そこから何か面倒な謝罪の代替行為を要求されかねない。
 「…そこはオメー普通は、遅くなったとかそう言う所から始めねェ?」
 案の定か、銀時は顔を上げると少し呆れた様に言って寄越して来た。それが責める調子の声では無かった事に安堵した心を隠して、土方は「だから時間通りには行かねェって言ったろうが」と返してやる。
 口の減らない男だ、どうせ「せめて走って来るとか出来ねぇのかよ」とか多少文句を続けるだろう。その程度は溜飲を下げてやる為にも聞いてやって、その侭少しの間軽くやり合って、「はいはい悪かった」と軽く謝ろう。そうすれば互いに変なしこりも残らない。
 そう決めた土方だったのだが、今度は予想に反して銀時からの攻撃は続かなかった。彼は頬杖をついた侭、はぁー、とあからさまに大きな溜息をついてみせたのみで、特に何も言い返しては来ない。
 性格上、銀時は何か裡の鬱屈を溜め込んで仕舞う手合いではない。寧ろ言いたい事は大体言うタイプだ。自分の考えや感情については言葉にせずとも、他人に対する事は憚りなく吐き出す。説教臭いと言える程に。
 だから土方は一瞬鼻白んだが、ここで申し訳無さを表して仕舞ったら負けも同然だと思い直す。
 「何だよ、言いてぇ事があんならはっきり言いやがれ」
 「何も無ェって」
 少し喧嘩腰になった土方を宥める様に、銀時は膝についていた両掌を降参の合図の様に開いてひらひらと振ってみせる。それは口喧嘩になるのは回避したいと言う現れの動作で、明かに肚の裡に何かを呑み込んだと知れる不自然に早い返しだった。
 すっきりしない空気に土方がむっと顔を顰めた時、足下に柔らかな何かが触れた。何かと思って見下ろすと、茶と白の斑模様の猫が一匹、土方の足に背中を擦り寄せているのが目に入る。
 「……」
 猫は頭や背中を、体重をかけて土方の足に擦り寄せて回ると、ころんと横に転がった。大きな、明かに野良が餌を貰おうと媚びているだけと知れる猫の行動だったが、土方は猫の、一見愛らしいその仕草を見る内、胸中に涌き掛かっていた不満の感情が熄んで行くのを感じて肩を軽く落とした。
 その場にしゃがみ込んで猫の背を撫でてやると、猫は益々甘える様にごろごろと腹まで見せて寝転んだ。野良とは言えここは公園だ、誰かこっそりと餌をやっている者でも居て、人間には慣れているのだろう。
 生憎今は餌になるものもマヨネーズも持っていないので、幾ら媚びられても何もしてやれないのだが。
 再び頬杖をついた銀時は、そんな土方と猫の様子を見て深々と嘆息した。
 「俺いっそ猫かなんかに生まれたかったわ。したらオメーの部屋でずっとダラダラ寝て過ごすのに」
 「鬱陶しいからやめろ馬鹿」
 銀時の声に穏やかな笑みの気配が乗ったのを受けて、土方も小さく笑うと立ち上がる。追い縋る様に見上げて来る猫には悪いが、空気が何となく穏やかに戻った今が期だった。
 「じゃ、時間もねーしとっとと行くか」
 よっ、と勢いを付けてベンチを立った銀時は、ぽんと土方の背を叩いて促すと歩き出す。
 「おう。……あぁそうだ、待たせた詫びに一杯ぐらい奢ってやる」
 「マジで?土方くん太っ腹ぁ」
 さらりと口にした土方の、一応は謝罪の意を持った提案に、銀時は態とらしくもそう笑って応じる。どうやらこれでチャラと言う事で良いのだろうと、土方は密かに胸を撫で下ろした。
 夜の町へと連れ立って歩いて行く二人のそんな後ろ姿を、猫がじっと見ていた。







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