猫と副長の七日間 / 2 見慣れた町を歩けば、見慣れた探し人の姿は直ぐに見つかる。 本来この国の人間の殆どの持つ、黒い頭髪と対称的な目映い銀髪。彼は、彼の家族らと今日も笑いながら歩いていた。 眼鏡の少年と天人の少女と規格外に巨大な一匹の犬と。賑やかで騒々しくて傍迷惑で頼もしい、そんな彼らの姿が健やかである事が嬉しいなどと思い違える様になって仕舞ったのは果たしていつの頃からだったか。 振り返るのも馬鹿馬鹿しいぐらいに積もった縁の──どうしようもない腐れ縁のいつしか繋いでくれたこの風景を、然し土方は愛していた。 下らない遣り取りをしながら通り過ぎる彼らの姿を、我知らず目を細めて見送っていた事に気付けば、少しばかり決まりの悪い苦笑が口元に浮かぶ。 誰が見ている訳でも無いのだが、誤魔化す様にくわえた煙草の隙間から息を吐いて、空を見上げる。 鱗模様の雲が広がる薄く蒼い空の色。行き交う人々の明るい顔。店先から漂う食べ物の匂い。雑多で逞しくて勁い、人々の営み。 そんなものが好きなのだと言う主旨の言葉をいつしか彼は口にした。多分その時の土方はそれをよく解ってはいなかったが、今では何となく解る気がする。 穏やかな得心の心地を抱いた土方は、振り返ると去りゆく彼らの背へと声を掛けた。 だが、彼らが足を止める事は無かった。無視をしたのではない、まるで聞こえてもいない様に通り過ぎて行って仕舞ったのだ。 土方は咄嗟に己の喉元を押さえた。声は確かに出ていただろうか。思って呟けば声帯が指の下で震え、音声が鼓膜を打つのを感じた。声は出ている。呼び止めようとした己の意志の通りに。 それだと言うのに彼らの──彼の姿は土方の姿を振り向く事無く歩いて行く。 急激に目の前の景色が遠ざかった様な気がした。それは誰かに無理矢理突き飛ばされでもした様な衝撃を以て土方の足下を揺らし、その場に躓かせた。 気が付けば、晴れていた空も、見知った江戸の街並みも失せている。モノクロームの覆いでも掛けられた様な単一色の世界の中で、ただ一つ、目で追った銀髪はまだそこに在った。在ったが、酷く遠くて、思わず伸ばした手は全く届きそうも無い侭に虚しく宙を掻いた。 「 、」 そう、いつも彼を呼ぶ響きを紡いだ土方の視界から、然し願いも空しく銀の色彩は遠ざかり、そして──、 * ばち、と音を立てそうな勢いで目蓋を持ち上げ目を見開いて、土方は目を醒ました。 障子の向こうの薄明かり。早朝から縄張り争いに勤しむ鳥たちの囀り。見慣れた天井。見慣れた室内。煙草の臭いの染み付いて仕舞った空気。 「………」 夢か、と唇の動きだけで呟いて、そこで土方は渋面を浮かべた。内容までははっきりとは憶えていないが、何だか酷く厭な夢を見て仕舞った気がする。布団から引っ張り出した手でぐしゃりと前髪を掻けば、厭な汗に湿った感触が返って来て、夢見の悪さが相当のものであったと土方に知らせていた。 だが次の瞬間には、馬鹿馬鹿しい、と土方はかぶりを振って上体を起こした。子供でもあるまいし、厭な夢や怖い夢を見たぐらいで何だと言うのだ。 こんな時はさっさと起きて、寝覚めの厭な気分などとっとと忘れて仕舞うに限る。夢見の悪さなどどうせ意識しない内に忙しさの中で容易く薄れて仕舞う様なものだ。そう持ち前の切り替えの早さでそう決め込むと、土方は組んだ両手指を前にぐぐ、と伸ばして、寝起きでしゃっきりとしない身体に発破を掛けた。 ──……と。 「……あ?」 思わず眉が寄った。何やら見慣れぬものが視界に入り込んだ気がして、組んだ掌を少し上へと持ち上げてみれば、掛け布団の上に白っぽい毛玉が鎮座しているのが厭でも目に飛び込んで来た。 すれば、土方の疑問符によもや反応したと言う訳ではあるまいのだろうが、見慣れた布団の上の見慣れぬ毛玉から小さな三角形のパーツが二つ飛び出した。同時に、柔らかそうな長い尻尾も。 「……………猫」 その毛玉としか言い様の無かった物体の、恐らくは正式名称をぽかんと呟けば、毛玉──もとい、猫は応える様に土方の顔を見て小さく鳴いた。にゃあ、とお愛想の様な一音は、お世辞にも可愛らしい小動物のそれでは無い。 取り敢えず土方は、この部屋の外に面した唯一の出入り口である所の障子を見遣った。だが想像に反して障子はぴたりと閉ざされ、室内の空気を寝起きの気怠さの侭に保ち続けていた。当然だが猫が入って来る様な隙間は開いていないし空いてもいない。 閉ざされた障子の外は濡れ縁の廊下で、その向こうには中庭があって、その更に先には屯所の敷地をぐるりと囲う頑丈な塀がある。 一応は警察の施設であるのだから、この真選組屯所にはそれなりの警備機構が備わっている。とは言え猫の子一匹通さぬ、とは流石に行かない事もあるだろう。塀を越えたか、どこかに隙間でもあったのか──後者だったら大問題だ。 「一体何処から入ったんだ……?」 そんな大問題になる隙間など無いと仮定して、門を開いた時にどさくさに紛れて猫一匹が入って来たのだとしても、庭のあちこちには区画を隔てている生垣がある。まあ、その生け垣は人の高さより若干低い様な丈なので、猫なら越えられないと言う事は無いかも知れないが…。 首を傾げながらも、土方は布団から這い出した。土方の身体が無くなった事で布団の形は少し変化したが、まるで気にしない様な素振りで猫は大胆にも二度寝を決め込む事にしたらしい。くぁ、と欠伸をすると再び体を丸めて毛玉の様な姿に戻って仕舞う。 土方は腕を組んで、まるで当たり前の事の様に布団の上で眠る猫を見下ろして呻いた。どう見ても不法侵入と言える状況だが、室内が密室である以上、経路の想像がつかない。猫がわざわざ障子を閉めるとも思えない。 「ひょっとしてアレか。総悟のいつものイヤガラセか何かか…」 「何でも人の所為にするたァけしからんですぜィ。切腹しろィ土方」 「うおっ」 呟きに返った応えに思わずびくりと背筋を伸ばして振り返れば、いつからそこに居たのか、障子を半分程開けて、眠そうな顔をした沖田の姿があった。栗色の頭には寝癖がついているし、寝間着の侭だ。朝起きて、顔を洗いに行く所だったのだろう。首から手拭いを下げている。 「おま、いつから、」 「たった今でさァ。通りすがったら何だか悪口言われてる気ィしたんで、聞き捨てならねェなと」 欠伸を噛み殺しながらあっさりとそう言うと、そこで沖田は眠りこける毛玉っぽい猫の存在に気付いて目を細めた。あからさまに妙なものを見て仕舞ったと言いたげな表情ではあるが、何か興味を示した様子は無い。その態度からは沖田と猫とが無関係であるとは直ぐに知れたのだが、ばりばりと寝癖のある後頭部を掻く彼に、土方は念の為に「これ、お前の仕業じゃねぇのか」と訊いてみる事にした。 「は?何で俺の仕業になんですかィ。こちとら昨晩夜勤で眠くて仕方ねェんでそれどころじゃねーですよ。隊長格はしっかりと朝の会議には出ろって何処かの誰かさんがうるせェから起きて来たってのに、随分な言い種で」 そう、眠い中起きて来た事に疑いなど抱きようもない、珍しい露骨な不機嫌顔で抗議された。じっとりと細められた温度の無い目に真っ向から射抜かれる形になり、土方は一瞬鼻白んだ。降参の意を一応は示して大人しく両手を軽く上げる。 「……悪かったよ。だがな、日頃手前ェのしてる事を胸に手ェ当てて考えてみりゃァ、無理の無ェ話だろうが」 「まァ別に気にしちゃいませんが。とにかく俺ァ、今起きて来たばっかなんで、猫なんざ持って来れる訳ねェでしょうが」 「寧ろ少しは気にしてくれ、頼むから。……そうか、じゃあ障子を閉め忘れて寝ちまったのかもな」 肩を竦める沖田に溜息混じりに呻くと、土方はそうぼやいて障子に近付いた。そこから猫が入ったとして、誰か、山崎辺りが深夜に通りかかって、隙間の空いていた障子を閉めて行くと言う事は別段おかしな話ではない。 然し、そう言ってみる程に可能性があったとは、土方はこれっぽっちも思っていなかった。昨晩の帰りは午前様にはなっていたが酒はそんなに深くは無かったし、そもそもホテルを出る頃にはアルコールなんてすっかり抜けて仕舞っていた。障子を閉め損ねて眠って仕舞うなどと言う小さなミスを己がやらかすとは到底思えなかったのだ。 猫の爪痕が残っていると思った訳では無いが、膝を付いて木枠に人差し指をなぞらせる。だが想像に違えず木の表面は滑らかに研磨されていて、指の腹には僅かのささくれも引っかかりそうもなかった。 疑問や不審が残れど、確信や証拠が何一つ無い以上、最もそれらしい可能性や考えに結論は至って落ち着く。未知の可能性や現象については考えるだけ無駄だ。 「アンタが酔っぱらって拾って来たのを忘れてるんじゃない限りは、そう言う事になんじゃねーですかィ」 「幾ら酔ってたとしても猫なんざ拾うか。ま、何にせよ野良猫だろ」 土方と同じ結論に行き着いたのか、或いは当初からどうでも良い事だったのか、尤もらしい可能性に同意の一票を投じて、もう一度欠伸を噛み殺す仕草をしてみせる沖田に、土方はそう頷いて立ち上がった。布団の上で丸まって眠っている猫の首の後ろをつまんで持ち上げると、中庭へとぽいと放り出す。 猫の癖に寝惚けてでもいたのか、草むらへと賑やかな音を立てて、間抜けな姿勢で落下した猫からさっさと目を背けると、土方は今度こそ障子をぴたりと僅かの隙間も出来ぬ様に閉じて廊下を歩き出した。猫の姿をちらりと一瞥しつつ沖田もその後に続く。 庭は塀の内側だから完全に追い出した事にはならないが、布団の上と言う寝る場所を失った上に食べるものも特には無い場所だ。腹でも減れば勝手に自分から出て行くだろう。 * 真選組では毎朝必ず定例会議が行われる。会議と言っても何か議案を出し合って採決を取る目的ではなく、一日の指示や特別な通達や注意事項を述べたり訓辞を唱えたりする事が主の、要するに朝礼の様なものだ。 早朝から任務に励む者らを除けば、実働隊の者には必ず参席が義務づけられている為に、それなりに広い筈の会議室は朝議のこの時間だけは酷く狭くなる。一応会議と言う体裁もあって戸を開け放っておく訳にはいかないから、夏は特にクーラーを稼働させていても実に暑苦しい様相になる。 そんな暑い季節も過ぎた頃である今は、朝のまだ冷たい風を入れまいとして、人の出入りの度に襖が忙しなく開け閉めされる。会議室の上座で胡座をかいて、伝達事項の書類の最終確認をしている土方の頬にも幾度となく冷えた空気が触れて来ていた。寒いと言う程では無いがそれなりにひやりとはする。もう秋も半ばを過ぎた頃だったな、などと思う内、近藤が入って来たのを契機に土方は時計を見上げ、会議の始まりを宣言すべく声を上げた。ざわついていた室内も静まり返る。 「じゃあまず先日の──」 そうして始まった朝の定例会議は澱みなく進行して行く。大概の者は姿勢を正して話に耳を傾けているが、最前列に座っている沖田だけは気の余り入っていない顔でいる。まあそれはいつもの事なのだが。 注意しても無駄な事は解っているし、ああ見えて全く聞いていないと言う訳でも無いので、土方は極力気にしない様に話を進める事にしている。 と、会議室の一番後方の襖を細く開いて隊士が一人入って来た。遅刻らしく、口を動かしながらも視線を向けた土方に向けて、すいません、と言いたげな仕草をしつつ部屋の隅にこそこそと座る。 朝議への参席は隊士の義務ではあるが、かと言って違反者に厳罰が与えられると言うものでも無い。要するに、参席していないと自分が困るだけだ、と言う類の扱いだ。土方は隊士らの結束固めの目的以外にも、規律を遵守する事の重要さや自主性と社会性を養わせる意も考えてこの定例会議を行っている。 その為、遅れて来た彼を頭ごなしに叱りつけたりする事はしない。怠慢だと言う事で給与査定には関わるかも知れないが、この場での罰は無い。当人も、他の隊士らもそれを知っているから、会議は言葉一つの滞りもなく進行していく。 ……筈だったのだが。 にゃあ。 そんな気の抜けた、余り可愛らしいとは言えない音質の、然し響きだけは可愛いものを連想させる声が、土方の声以外には静かだった会議室に響き渡った。 「、……」 口を開いた侭、その声が何処、そして何由来のものなのかを計りかねた土方は、思わず最前列の沖田の方を見遣った。今日も今日とて退屈そうに会議に参席している沖田は、そんな土方の誰何に近い視線を受けて露骨に眉を寄せて返す。 知らねェって言ってるでしょうが。沖田の眉の刻んだそんな返事を読み取るより先、居並ぶ隊士らの間に漣の様な小さなどよめきが拡がったかと思えば、最後尾から彼らの隙間を縫って悠然とそれは現れた。 白っぽい、猫。 「………」 先頃の遅刻して来た隊士の入室と同時に会議室の中へと入り込んで来たのだろう。だが、猫の様子は迷い込んだとかそう言う感じではない。明らかに目標を定めてここに入り込み、そして闊歩している。 一同の注視を背に受けながら、会議中の室内を平然と横切って来た猫は、その堂々たる足取りその侭に、書類を手に呆気に取られている土方の、胡座をかいたその膝上へとひょいと乗ったのだった。 「………………」 丸まって寝る姿勢を決め込む猫の姿に、土方の頬が引き攣った。同時に会議室内の温度もそこはかとなく冷える。皆、鬼の副長が次にどんな罵声を上げるのかを恐れ身構える中、遅刻した事で猫を自覚無くとも手引きした形になった隊士は真っ青に震え上がっていた。 猫は動物だ。動物に人間の道理で怒っても仕方がない。だからその猫を招き入れて仕舞った隊士と、その遅刻が悪いと責められるのは避け難い。恐らくはそんな想像で。 然し凍り付いた場を解凍したのは沖田の暢気な発言一つ。 「それァ、今朝の猫じゃねーですかィ」 淡々とした指摘と言うには明らかな悪意の籠もった響きに、土方は隠さず渋面を浮かべた。忌々しいと沖田を睨むが、これまたいつも通り彼が土方のそんな苛立ちに動じてみせる事は無かった。 ち、と舌打ちをする。沖田が土方に「今朝の猫」と同意を求めたと言う事は、この猫の存在を土方は認識していた事になる。それで居て会議室に入って来て仕舞える様な──屯所の敷地内から完全に放り出さなかったと言う事は土方のミスと言う事になる。そればかりか、土方が拾って来たか飼っているとも取られかねない。 横の近藤が何か口を開こうとするより早く、土方は軽く咳払いをした。この期に及んで近藤が何の邪気もなく「猫なんて拾って来たのか?トシ」なんて口にでもしようものなら、ますます己の旗色が悪くなるばかりである。 会議の不自然な中断が回り回って己の責任になるのは居た堪れない。土方は周囲を威嚇する様にぐるりと室内を見回すと、 「鉄」 隊士たちに混じって控えている自らの小姓に声を掛けた。 「はっ、はい!」 呼ばれて、氷柱でも呑み込んだ様な顔をしながらも毅然と立ち上がった鉄之助に向けて、土方は膝上で目を閉じ丸まっている猫の首根を、朝の時同様に掴んで放り投げる。想像以上に重たい猫を鉄之助は何とか受け止める事には成功するが、じたばたと不機嫌そうに暴れ出す猫(と言うより猛獣の様だった)を腕の中で持て余す。然しここで猫を逃がしたら自分が叱られると思ったのか、小動物の抵抗を必死の様相で抑え込んだ。 「…それ、棄てとけ」 「りょ、了解っす!」 暴れる猫を何とか抱えながら、鉄之助はばたばたと慌ただしく会議室を飛び出して行った。出入り口付近の隊士がその出入りに合わせて襖の開け閉めをしてやっているのを横目に見つつ、土方は足の上に残された猫の毛をさも鬱陶しそうな仕草ではたき落とすと、「続けるぞ」と一連の出来事など無かった様な素振りで会議を続ける事にした。異論はないな?と言外にはしない威嚇も忘れない。 土方の動揺も弱みも自在に出来る、沖田だけは多少含み笑いを口元に残してはいたが、取り敢えずはそれを攻撃に向ける事は無かった。 単に、夜番だった疲れや寝不足から、早く部屋に戻って眠りたいだけだったのかも知れない。 。 ← : → |