猫と副長の七日間 / 3 「……やっぱりな」 どうせんな事だろうと思ったわ、と妙な諦観の溜息混じりに土方は、座布団の上に我が物顔で丸まっている猫の姿を見下ろした。 朝会議の後はその侭外回りに出て、昼飯は外で済ませた。夕方に屯所に戻ってから夕飯と風呂とを済ませて、副長室に朝以来初めて戻ってみれば、嫌な予感と言うべきか大体の予想通りと言うべきか、その光景が待っていたと言う訳だ。 「一体何なんだこいつは…」 はあ、ともう一度溜息をついて、首に提げたタオルで髪の毛を拭いながら土方は、どうしたものか、と考える。何を、どうする、と言う具体的なプランや目的意識があると言う程では正直無いのだが、こうも堂々と居座られると逆に感心すら抱いて仕舞う。 無論その感心の向かう先は、座布団の上で寝息を立て続けている件の猫の存在にである。 朝起きたら、何処から入ったのか部屋で勝手に眠っていて、朝議の場に潜り込んで人の膝の上で勝手に居眠りを決め込もうとして、夕方になって漸く戻ればまたしても居座っては寝ている。その間実力行使で放り出された筈の回数二回。 猫とは巷間言う所、気紛れな生き物として知られている筈のものだ。それがどう言う訳か気紛れさの一つも発揮せずに、寧ろ確固たる意志を持って土方の部屋に陣取り続けているのだ。 どんな頑固な思い込みなのかは知らないが、この部屋を自分の寝床とでも勘違いしているのだろうか。そうなればもう、何度放り出した所でどうせまた戻って来るに違いないのだ。実際土方は「よもや戻って来てはいまいな?」と言う嫌な予感を抱きつつ部屋へと戻り、そしてそれを確信せざるを得ないと妙な実感を憶えていた。 放り出すのは前例二度と同じで恐らく容易だ。だが、どうせまた戻って来る様な気がしてならない。一体どう言った『気紛れ』でこの猫がこの部屋を寝床と定めたのかなど知らないが。 どうせ戻って来ている気がする、などと予想を巡らせた上、的中させて仕舞った己にも若干の不満があり、土方は小さな背を呼吸の度に膨らませては縮めて眠る猫へと忌々しさの籠もった視線を投げた。 ともあれ突っ立っていても仕方がない。風呂場で脱いだ隊服の上着一式を鴨居に掛けると、身につけていたシャツとズボンを脱いで着物に着替える。ついでに下着も替えて一式を洗濯に出す為の籐篭に入れた。さて、今日は残務処理の予定は無いから、後は布団を敷くだけで眠れる訳だが。 「……ち」 まだ座布団の上で眠る猫を見遣って肩を落とすと、土方は押し入れから予備の座布団を取り出した。それから机の前にある猫付きの座布団をずるずると引きずって机から離し、代わりに新しく出した座布団を投げてその上にわざと音を立てて座る。 強制的に移動させられても猶、猫は暢気な寝息を立てている。その様に、はあ、とどこか途方に暮れた様な溜息が思わず漏れた。 白っぽいが、どこか薄汚れた様な毛色で、そこいらでよく見る野良猫と違って少し毛が長い。ひょっとしたら飼い猫にされる様な、店で売っている品種なのかも知れないが、猫に詳しくはない土方には解る筈もない。 首輪や、身元の解るものの類は身につけていない様だ。毛並みもぼさぼさだし立派に大きな猫だし、ひょっとしたら野良になって長いのだろうか。 動物好き、と胸を張って言える程ではないが、標準的な人間の持ち合わせる感覚程度には、土方は動物が好きだ。敢えてそう吹聴した事は別段無いが、動物の和やかな姿を見ていて癒されると言うのにも理解を示せる。 故に、このしつこく戻って来る猫に対する処遇には少々悩ましいものがあった。本音では猫の一匹や二匹ぐらい放置しておいて構わないと思うのだが、沖田がイヤガラセの一環で猫を放り込んでいったと当初断じて、しかも本人にそれを聞かれている為に、その問題の猫を好きにさせておくのも気が引けるのだ。 まだ、そう肌寒い季節ではないが、これから夜が深まればやはり気温は下がる。そんな中に一見可愛らしい小動物に見えなくもない猫をまた放り出すと言うのも如何なものか。 とは言え、それがしつこい猫に対する一種の白旗めいた妥協と言う私情であるのも間違い無い。一度追い払うと決め込んだ以上はそれを通すのが筋と言うものだろう。 溜息はもう出ない。ちらと横目に見遣る障子。その外の、もう日のすっかりと落ちた夜の庭。朝に猫を放り投げた茂みも、その土の上も、いい加減冷えている筈だ。 そんな庭を隔てる紙と木で出来た戸一枚に、その内側で綿の詰まった座布団の上に座って風呂上がりの温かい体で居る己。 「……」 別段比べるものでも何でも無いその甘さだか未練だかを振り捨てると、土方は慎重な動作で目の前の猫へと手を近づけてみた。掴もうか、撫でてみようかは未だ決めかねた侭。 すると、土方の手指の接近を感知したのか、つい今までぐうたらと眠っていた筈の猫が背をぴくりと震わせた。猫に限らず動物は自らの身に迫る危機を察知する能力に長けている。故に近づく人間の手に何かを感じたのだろう、丸まっていた姿勢から上体だけをもたげると、反射的に静止した土方の、大分近い距離にある手を見上げる。 目線の合った、アーモンド型の、今は薄暗い室内だからか光彩をまるく開いた猫の目は、未だ眠さを保っているのか直ぐに閉じられた。然し二度寝を決め込む事も無く、猫は自ら首を伸ばして至近で止まった土方のてのひらへと頭を押しつけて来た。 「………」 てのひらに触れる猫の、柔らかな毛並みの感触に土方は口をへの字に歪めた。そうしなければ思わず頬が情けなくも弛んで仕舞う気がしたのだ。 猫はひとしきり土方のてのひらに頭をこすりつけると、にゃあ、と相変わらずの余り可愛げのしない音声で鳴いた。何だか促されている心地になり、土方はそっと自分から手を動かして猫の背を撫でてやろうとして──、 「副長、起きてますか?」 「!!!」 突如障子を開ける音と共に聞こえて来た聞き慣れた部下の声に、土方はびくりと背中を跳ねさせると、触れかけていた猫の背ではなく首根を掴むと、声のした方へと思い切りブン投げていた。 「へ?」 障子の隙間に膝をついて、きょとんと目を瞠る山崎の頭上を綺麗な放物線を描いて猫が舞った。ばきばきと茂みの小枝を折る音と、抗議する様な掠れた鳴き声が、寒いだろう夜空の下の庭に響く。 「…………副長、今のって、」 「朝の猫だ。また勝手に入りこんでやがった」 どこか呆気に取られた様に問おうとする山崎の言葉を制してそう口早にぴしゃりと言うと、土方は煙草をくわえて態とらしい溜息をついた。正直心臓はまだ激しく脈打っていたが、山崎の訪いに驚いたとも、猫を撫でて和もうとしていたとも知られたくないので、必死で平時の態度と表情とを取り繕う。勿論取り繕っているとも悟られぬ様に。 「はぁ…」 不機嫌そうに煙を吐き出す土方に、余計な事は言わない方が良いと長い経験から察したのか、山崎が今の土方の奇行についてを改めて混ぜっ返す様な事は無かった。別にいいんですけど、とわざわざ言い置いてから、土方の元を訪れた理由なのだろう、幾つかの仕事についての話を始める。 山崎の話に、和みかけて仕舞っていた感覚を吹き飛ばして仕事の思考に戻しながら土方は、またしても庭に、しかも今度は少々乱暴に放り投げて仕舞った猫が、もう戻る事は無いかも知れないと、そんな事を最後に考えた。 * 然し土方のそんな予想に反して──或いは当初の予想通りにと言うべきか、猫が姿を消すと言う事は無かった。 相変わらず土方の部屋に大体の居場所を定めている様だが、好き勝手に屯所の中を移動する猫の様子に、気付けば僅か数日で大体の者は慣れて仕舞ったらしい。と言うのも、肝心の猫が朝会議の時間を始めとして土方に隙あらば懐いていると言う光景が毎日の様に繰り返されたからだ。 土方はそれに苦い表情は浮かべるものの、追い払っても追い払っても戻って来る猫のしつこさにいい加減辟易として、当初は「棄てとけ」「追い払っとけ」だったのを「どうせ追い払っても無駄だ」へと変える事にした。 そして土方が積極的に猫を拾って来た訳でも無ければ、可愛がったり飼おうとしている訳でも無いのだと態度で示す事で、余計に隊士らは猫が容認されているものだと考えたらしい。勝手に餌を与えたりしている光景にもよく遭遇する事となった。 別に屯所で動物を飼う莫れと言う法度は無い。だが、皆に面倒を見られてすっかり屯所に──土方の傍に居着くのが当たり前の様になっている猫に、やはり未だ苦い顔は浮かぶ。見慣れたとは言え、副長などと言う立場にある者が率先して、小動物を可愛がって私情で飼っているなどと思われたくは無い。法度に無くとも、共同生活の中で一人勝手な行動を取ると言うのが道理には違える行為である事に変わりはない。 「……」 ペンの動きは止めぬ侭にちらりと視線を横へと向ければ、猫は今日も今日とてそこに居た。暇さえあれば──殆ど暇なのだろうが──土方の傍や部屋の中で丸まって眠っている。 今日の居所は机のすぐ横に敷いた座布団の上。毎回猫の毛だらけになった座布団をはたくのにも疲れたから、もうすっかり猫の定位置になって仕舞った座布団だ。 寝る子だから『ねこ』と言う名だと言う説もあるが、猫とはこんなに日がな一日ぐうたらと眠っているものだっただろうか。見慣れた光景になっているのだが、日中こうして机に向かい続けて仕事に励む己のすぐ横で、猫は今日もやはり眠っていた。 「……良い気なもんだ」 こぼれた言葉が思いの外に愚痴っぽく吐き出された事に気付いて、土方は喉奥で忍び笑うとペンを机に置いた。猫にまで羨みを憶えてどうするのだと呆れ混じりに、疲れた肉体と思考とを振り払う様に両腕を上へと伸ばして、凝り固まった筋肉を自らほぐしていく。 そうして煙草をくわえて幾度か息を吐いていると、まるでそんな土方の休憩と言う期を計った様に、山崎が茶を乗せた盆を持って来た。 「そろそろお疲れかと思ったんで」 「…毎度思うんだが、テメェ俺に監視装置とかでも付けてんのか?」 盆の上で湯気を立てている、少し濃いめに入れられた茶を見遣って土方がそう笑えば、「監視なんぞ逐一しとらんでも大体アンタの行動は把握出来ますから」と嘘と冗談ともつかぬ答えが返って来る。 笑うだけで大して応じず、土方は机の上に積まれたファイルやら書類やらを横に避けて、湯飲みを置ける場所を空ける。その侭、失礼します、と小さく言い置いた山崎の手が茶を置くのをぼんやりと見つめていた土方だったが、ふとその手が見慣れぬものを盆から取り上げるのを見て眉を寄せる。 それは醤油などを入れる浅い小皿だった。そこに茶菓子の一つでも乗っていれば、まあ風情は無いが頷ける光景なのだが、生憎と土方はこんな茶菓子を見た事が無い。食物に属する物なのは間違い無いが、間違えても茶と共に供される物では無いと断言出来る。 「……んだ、そりゃァ」 皿の上でひらひら風を受けて揺れるそれを、飛ばない様に気をつけながら卓の上に置いた山崎はあっけらかんと一言。 「鰹節ですよ」 「見りゃ解る」 「副長にじゃないですよ、猫にです」 どうせ今日も居るんでしょう?と続けられる言葉に、ぐ、と反論を言い淀んで口を苦々しく閉じた土方の視線は、促されでもした様に猫の眠る座布団を振り向いている。 そら見た事か。と言いたげにも見える山崎の顔面のど真ん中に拳をたたき込んでやりたい衝動を堪えながら、土方は癇性めいた仕草で項垂れて後頭部をがりがりと掻いた。 見慣れた光景は、然し居慣れない。今や隊士たちはこの猫を、『副長が拾って来た猫』と大っぴらには言わないものの認定しているも同然でいる。それにいちいち否定や反論をしようとも、猫の方はそんな土方に全く構わずに擦り寄って来るのだから説得力など欠片もない。 面倒だからと看過して来ているそれが、見慣れて居慣れた挙げ句に誰もがそうと知るものへと変わるのも時間の問題である気がする。 それがまずい、とまでは言わないが、土方の心情的には余り宜しく無いのは確かだ。主に、イメージとかそう言ったものの面で。 土方のそんな小さな葛藤など、これも矢張りお見通しなのだろう山崎は、小さく呻いたきり決まり悪そうに俯いた土方に向けて意識してか明るい調子で言う。 「まあ、そんな気にする様な事じゃないでしょう。別に良いじゃないですか、猫の一匹や二匹居たって」 「すっかり馴染んで鰹節まで運んで来た奴が簡単に言うんじゃねェよ」 「誓って、他意はありませんって。それに、動物って人間より鋭敏な器官を持ってるって言うし、置いておけば何か役に立つ事があるかも知れんじゃないですか」 喉を鳴らして唸る獣の様に低く呻いた土方に、山崎は上司の不機嫌に油を注がない様にしながらも、苦しい言い分を唱えた。ちなみに油となるのは、ペットとか飼うとかそう言う単語だ。 「犬ならまだ警察犬として使えたかも知れねェが、猫じゃなあ…」 山崎の言い分に反抗的なものは無かったので、土方も八つ当たりじみた事になる前に攻撃的になりかかる意識を切り替える事にした。茶を啜って穏やかな息を吐く。 猫を飼っているだの可愛がっているだの思われるのも癪なのだが、そんな些末事に煩わされて苛立っていると露骨に知れるのはもっと癪だった。事が山崎の胸の内に仕舞われるとしても、そんなものは醜態以外の何にもならない。 土方の態度から険が取れたのを確認してか、山崎は露骨に安堵した様な溜息をつくと、鰹節の匂いにも気付かずに眠り続ける猫の姿を覗き見た。 「そう言えば、名前とか無いんですよね。皆勝手にタマだのシロだの呼んでますけど」 怖い物知らずの──鈍いだけかも知れない──隊士に、「名前とかあるんですか?」と問われた時、「そんなんある訳ねェだろ、野良猫だぞ」と投げた記憶はまだまだ新しい。そんな話ですら既に周知なのか、とげんなりしつつ、土方は「あァ」と頷いた。 「好きに呼んどきゃ良いだろ。どうせ猫なんざ呼んだって来やしねェよ」 「白猫だからってシロとか安直だって思ってるのかも知れませんよ」 名前など仮にでも付けたら、いよいよ愛着が湧いていると証明している様なものだ。だから土方は名前云々の話題にはドライに振る舞うつもりでいた。シロねぇ、と思って、名にも時間にも関わりなく暢気そうに眠る猫の姿を横目に、湯飲みを置いて再びペンを手に取る。 「白っつうか、小汚い感じの灰色だろ」 土方の仕事再開の態勢を見て、山崎は邪魔はするまいと盆を抱えて立ち去る素振りを見せた。然しそこで何かを思いつきでもしたのか、明るい顔で邪気など欠片も無くへらりと笑って、言った。 「よく見れば銀色っぽいですよね。旦那の髪の色みたいな」 え、と問い返すより先に、山崎は常の動作通りにさっさと部屋から立ち去っている。他意は無い。本人の先程そう言った通りに、これは恐らく他意の無いただの世間話めいた言葉に相違ない。 「…………」 然し土方の背筋はその何でもない筈の言葉を受けて、厭に冷えていた。 ぐうぐうと日がな一日暢気に眠る猫の姿を恐る恐る見下ろす。毛玉じみたその見てくれと言い、確かに銀色に見えなくもない毛色と言い、確かにその猫は、万事屋の坂田銀時と言う男のイメージを想起させるには合致している様に思えたのだ。 今までは全くそんな事は思いもしなかった──その事実を当てはめて見ると、実に厭な画が出来上がる。 ──即ち、猫が情人にどこか似ていると無意識に思っていたからなのではないか、と。 だから、投げ出すのを早々に諦めて許容したのだろうか。そう思えば先程までの些末な悩みよりもより居た堪れの無さや恥ずかしさが沸き起こって、土方は机にがつんと額を打ち付けた。 鰹節の乗った皿がその衝撃で浮かび上がって、畳の上に転がって生臭い匂いを散らした。 。 ← : → |