破壊された人間のエピソード / 1 「やっぱさぁ、誠実さってのは大事だと思う訳よ」 安いコップ酒を手元で揺らしながら銀時がそんな事を言い出した時、これは面倒な事になりそうだと、土方は己の直感がそう囁くのを聞いた。 銀時の好む様な勘と運頼みのギャンブルや、女子供の好きそうな占いだの運命論だのには興味のまるで無い土方だが、己の感覚──嗅覚と言うべきかも知れない──には自信があった。それは偏に『勘』や『感』と言った所で、それが超常現象や託宣の類ではなく、己の経験則や場の気配や雰囲気から感じ得る、歴とした裏打ちのあるものだからである。 己の感覚が憶える事には自信がある。今まで決して直感だけで生きてきた訳ではないが、その感覚、予感、咄嗟に精査する対処法、それらに生かされて来た事は多かった。つまり土方にとっての直感とは、大概の場合信用に値するものであると言う事だ。 「……そうかもな」 さて、その直感からの経験に倣うのであれば、どう答えを返すのが正しいだろうか。束の間で幾つかの返し手を思い浮かべて、その中から土方は比較的に消極的な、曖昧に賛同する事を選んだ。 すれば銀時は、軽く唇を湿らせたコップ酒をカウンターに置くと、その淵を爪先でこつこつと叩いてみせる。細められた眼差しをじろりと向ける態度は、解り易い不満の表れでもあった。 まずった、とは未だ思わないが、どうやら銀時的には余り宜しい返答では無かったらしい。土方はこちらに向けられた銀時の視線には気付かぬ素振りで、目の前に置かれている小鉢を見つめ続けた。次はどうしたものかと思索を始める。 常ならば、飲み屋での戯言だ、「ああそう」とお座なりな相槌を返した所で互いに何がどうと言う事も無かっただろう。状況次第では、何だその態度、と言い合いぐらい始まったかも知れないが、それも些事だ。 少なくとも今の状況から見れば、些事以下のものにしかならないだろう。言い合いも喧嘩も概ねいつもの二人だと、他者からはそう言われるだろうし自分達にとってもそれで済んでいた。 ……『筈』だった。 そして、筈、になって仕舞ったのは。今宵ならざるを得ない現状を招いた事に関しては、己の過失に当たるのかも知れないと言う判断が土方にはある。認め難いとは思うが。だが、もしも客観的に評して貰えれば、瞬間的には八割が、土方に非があると言った事だろう。その程度の認識が一応叶うぐらいには、土方は常識的な価値判断力と思考を持った人間であった。 それに何より、自らが折れなければならぬ判断を頑固な態度一つで逃して、それが原因で銀時との関係が終わるやも知れない、と思えばそれを怖れる程には。土方は銀時に惚れていた──と言うよりは、侵食されて仕舞っていた。 厳密に、好きだ嫌いだ惚れた腫れたと言うより先に、身体の方から繋がれたと言う実に爛れた関係ではあったが。歳月を重ねればなんとやら、なのか。はたまた己の思う印象の通りに『侵食』されていたのか。 慥かなのは、土方がそれに気付いた時にはもう手遅れなぐらいに、銀時との関係を終わらせる事も、嫌いだと避けられる事も、想像ですらしたくない程に怖れるものになっていた、と言う事だ。 ……ともあれ。銀時が唐突に「誠実」の話などを振って来たのは、土方に対する当て擦りだった。 先週、久々の翌日休みの予定だからと、万事屋でゆっくり過ごしたいと願い出て、銀時も快くそれを了承してくれた。どうせ暇だし飯作って待っててやると電話の向こうでぶっきらぼうに言って寄越したその調子に、上機嫌さを隠せていないだろう銀時の表情は想像に易く。照れ隠しに口早に時間だけを告げて。 然し、その後続け様に起きた事件に因って土方はまるで身動きが取れず、思い出して万事屋に電話を掛ける事が出来たのは約束の時間を大幅に過ぎた真夜中だった。 ワンコールで電話を取った銀時は、ひょっとしたら土方に何かがあったのかも知れないと心配してくれていたのかも知れない。否、きっとそうだったのだと思う。 結局、約束を反故にした事を謝って、今日は矢張り行けそうもない事と、明日の休みまで潰れた事を告げて。何か言いたげに言葉を澱ませた銀時を遮る様に、土方は乱暴に電話を切った。 来週になれば、いつも落ち合う飲み屋で会えるだろうから、その時にちゃんと謝ればいいだろうと思いながら。その前に日中の見廻りでも会えるかも知れないし、と楽観的に考えながら。 然し結局見廻りでは銀時にも万事屋の誰にも遭遇する事もなく、ほんの少しの緊張感を抱えた侭、今宵慣れた飲み屋の暖簾を潜って、先に来ていた男の横に慣れた態度で座ってから数分足らず。 「おう」「よお」などと言う色気の欠片もない挨拶の後は、乾杯もなく無言で自分の酒に向かっていた銀時が開口一番言って寄越したのが件の、誠実さが大事だとかなんとか言う台詞だった訳である。 これだけの材料が並んでいて、それが全く己と無関係と思える程に土方は図々しくいられる質ではない。だが、今回の件に限って言えば、客観視八割己が悪いとしても、警察の職務は土方自身の過失に因って生じたものでは無いのだから、情状酌量の余地が欲しい所だ。銀時とて土方の多忙さは良く知っているのだし、余りに余りな話ではあるが、こんな事も別に初めてと言う訳でもない。 当て擦りなのは解ったが、いきなり謝罪したらそれこそその先延々と苦情がねちねち続きそうな様子だったので、ひとまずそれは回避する事を選んだ。 それこそ今までの経験則で土方が思い知っている事柄で。銀時は態と拗ねた態度や怒った態度を見せて、土方が申し訳なくなって下手に出た所で一気にそれを翻して我侭を通すと言う横暴に出る事が非常に多かった。迂闊に付け込まれる様な真似を赦して仕舞ったら最後、その状況に甘んじて、土方が泣いて謝るまで止めない様な虐めスレスレの暴挙を行う、そんなドSなのである。 だから土方は今、大いに警戒していた。銀時に謝らねばならないと思うのは事実だが、上手い事状況と言葉とを選ぶ必要がある。申し訳なかろうが何だろうが、己に全ての過失がある訳でもない限りは迂闊な行動や言動に出る訳にはいかない。こう言う遣り取りでは詐欺師並の手腕を無駄に発揮する男相手には、斬り合いの時以上の駆け引きと緊張感が必要だと、土方は大真面目にそう思っている。 「素直じゃねぇってだけなら、まあ状況次第じゃ可愛くも憎らしくも感じるかも知んねェけど。誠実かどうかってのはやっぱデケェと思うね。どんな可愛い従順な子でも、その可愛い面や態度で嘘平然と吐いてたらもう憎さしか湧かねーもん普通」 「……」 一瞬、俺は別に嘘なんざついてねェだろう、と出掛かった反論を土方は無理矢理呑み込んだ。茄子の漬け物を喉に押し込んで誤魔化す。味なんてしない。 ここでそう返したら、「あれ、お前自分が誠実じゃねェって俺に思われてる自覚あるんだ?」とでも言われかねない。かと言って、同意を示したとしても、「お前の事を言っているんだけど」と攻撃されかねない。 だから、ここは飽く迄銀時の言う「誠実」の議題と己とは無関係と言う体で行くべきだ。 「誠実ってのは、手前ェの都合の良い態度に限った事じゃねェだろ。嘘つくったって、何か事情があるかも知れねェんだ、頭ごなしに全否定するもんじゃ無ェたァ思うがな。寧ろ逆に、手前ェが誠実かどうかを試される状況って言えるんじゃねェの」 俺は嘘なんてついてないから知らねぇけど。胸中でだけそう続けて、余り質のよくない酒で軽く喉を湿らせる。反抗的なのは不味かっただろうか。いや、考えさせる余地のある正論は決して悪手とは言えないだろう。 「…………成程、ねェ。相手を信じる手前ェ自身の誠実さのが寧ろ問われる、と」 「……じゃねェとフェアじゃねェだろうが」 ふ、と銀時の表情から険の様なものが消えて、こちらをじとりと見ていた目が笑みに細められる。これは、何とか回避出来たか、と思いながら、土方はまた酒をちびりと舐めた。先週の事を謝るなら、銀時が穏やかな心地になっている今しかないと思って、「あー、」と呻く様な小声で切り出してみた。 「……フェアじゃないって言や、その、先週は、悪かった、な」 銀時に予定を押しつけた挙げ句反故にする羽目になったのは、土方の過失ではないとは言え、矢張り申し訳ない事であるのに変わりはない。目を伏せた土方が神妙にそう切り出すのに、銀時は「ああ、」と軽く応じて笑い声を上げてくる。 「しゃーねぇ事だろ?今に始まった事でも無ェし、おめーが忙しいってのもちゃんと汲める男だからね銀さんは」 言って、気にするなとでも言う様にコップ酒の残りを煽って追加を注文する銀時を、土方は矢張り付きまとう申し訳無さを込めて暫し見つめるが、これ以上下手に出るのは逆に良くないとも解っていたから、「今日は奢る」と、せめてもの誠意で申し出た。 すると銀時は顔を輝かせて「よっしゃ」と笑って、追加した酒の銘柄を少し良いものに変更した。 その銀時の解り易い態度から、これでもうチャラだ、と言う意味だろうと取って、土方も倣って酒とつまみとを追加した。 明日は休みではないからそうゆっくりは出来ないから、飲み屋から『次』に移るには時間が惜しいとは思ったが、今日ばかりは銀時の好きな様にさせようと思う事にした。呑みたいならゆっくり呑むだけでも構うまい。と。 * 「……うー」 それから何杯か杯を重ねた頃。銀時はすっかりと酔い潰れてカウンターに突っ伏していた。 土方が来る前から一人で飲んでいた様子だったのに加えて、日頃飲み慣れない銘柄を重ねたのが悪かったのかも知れない。 繁華街にある飲み屋なので、広い店内は未だ賑わっている。一見さんお断りと言ったタイプの店ではないそこは、銀時や土方の好む手合いでは無いのだが、人目を忍んで落ち合うならば人の出入りが激しく賑やかな店の方が良いと、互いにそう一致した事で選んだ店だった。 忙しく料理人の動き回るカウンター席も広く、その隅で突っ伏している酔客になぞ店主も店員もわざわざ声を掛けたりはしない。店の客は多い。あちこちのテーブルもまだ宴も酣と言った様子だ。警察である土方には余り関係無い事だが、週末の休みを控えた者らは皆上機嫌に心おきなく酔っているらしい。 銀時は潰れていたが、土方は酒量をちゃんとセーブしていたので、ほろ酔いに差し掛かった所だ。アルコールの与えてくれる気分は旨いが、荒れ気味の胃は大事にしたい。 「万事屋、大丈夫か?」 「ん、うぅーん…、」 とんとん、と背中を軽く叩いてみれば、突っ伏した両腕の下で銀時が呻き声を上げた。項が少し汗ばんでいて、これはいよいよ本格的に具合が悪そうだと思った土方は、溜息混じりに銀色の頭髪をくしゃりと撫でた。 「店出るか?それともその前に厠行った方が良さそうか?」 「……両方」 額に脂汗を滲ませた顔を起こし、上目遣いに見上げてくる銀時の姿に土方は、仕方ない、と等価の頷きを返してから、卓の上に置かれていた伝票を持ってレジに向かった。支払いを済ませると席に取って返して、銀時に「立てるか?」と声を掛けながら、肩を貸して起き上がらせる。 のそのそと土方の誘導に従って立つ、銀時の腕に肩を貸して支えてやりながら、土方は店の奥にある厠に向かった。両方と言って来た以上、もう店は出たいが、吐きそうな気配があると言う事だろう。肩を貸して歩いている所でリバースされるのは流石に困る。 店の最奥の隅っこにある厠の戸は重たい横スライドの扉だ。建て付けが悪くなったので付け替えたらしいその扉同様に厠内部も新調したのだろう、綺麗と言う程ではないが清潔感がある。 飲み屋と言う店柄、訪れるのは殆どが男性客ばかりだが、昨今では女性も混じって酒宴の席に着く事も多い。とは言え女子トイレを作る余裕はないから、女性が入っても良い様にか、男性用の小便器の方と、二つ並んだ個室の側との間には壁が設えてあった。余程覗き込もうとしない限り、小用を足す姿がうっかり見える、と言う事も無さそうである。 吐きそうなら個室だな、と思った土方は、小便器の方角は一瞥したのみで、迷わず奥の個室へと足を向けた。足取りの憶束ない銀時の背中を押して、二つ並んだ個室の片方へと入れた後に自分は離れようとすれば、 「背中さすってくんねェ…?」 そう少し申し訳なさそうな表情と共に言われて仕舞い、溜息はついたもののその侭個室に入り込む事にした。 中には洋式の便器と水のタンク。矢張り女性が入る事を考慮しているのか、戸の裏側には荷物や上着を引っかけられるフックがついていて、その癖に戸から便器までの距離に余裕もあって手狭では決して無い。 まあそれも、大の大人、しかも野郎二人が入って仕舞えば然程に広いとも思えない。寧ろ狭いが、そこいらの公衆便所よりはまだマシと言った程度か。 「水貰って来てやろうか?」 洋式便器の前に前屈みに立った銀時の具合は、悪そうには見えたが未だ吐き戻す程には行けないと言った様子に見えた。土方がそう問えば、いや、と首を振られ、唐突に背中に当てていた手を掴まれた。 と。銀時がこちらを振り返ったかと思えば、突然腕が後ろ手に捻り上げられる。え、と声を上げる間も無く、掴まれた腕を支点にぐるりと視界が回転したかと思えば、横頬が個室の内扉に出会っていて、土方は目を白黒させた。 「な、」 振り解こうと腕に力を込めるものの、両方の手首はまとめて背中から銀時の腕に押しつけられていて全く動かない。そして振り返ろうとするも、頭を扉に押しつけられていてこれも動かせない。 「よろず、や…!?」 一旦離れた後頭部の圧迫感から逃れ、肩越しに振り返ってみれば、がちゃん、と音がした。施錠の音。トイレの個室を内側から閉じる施錠だ。小さなハンドル状の金具を壁側の金具に引っかける、閂状の、鍵。 「て、めぇ…ッ!」 個室に仲良く閉じ籠もり、片方は押さえつけられている。どう考えた所でそれはまともな状況でもなければ、悪酔いして気分の悪い人間のする行動でもない。 騙された、と判じた土方が銀時を睨もうと更に頭を巡らせようとすれば、施錠をした片手が再び戻って来て、土方の後頭部と後ろ手にした腕とを自らの体重も掛けて押さえつけて来る。 扉と銀時の身体とに挟まれ強く押しつけられて仕舞えば、土方が唯一自由になる足を藻掻かせた所で何にもならない。 「仮病、かよ…」 銀時が今土方を押さえつけている意図はともかく、こうなっている以上、酔い潰れていたのも吐きそうにしていたのも演技と言う事になる。土方が侮蔑も顕わにそう呻けば、心外だとでも言う調子の銀時の声が返る。 「手前ェが誠実かどうかを試されてんじゃねェの、って。さっきそう抜かしたのはお前じゃん? それとも何、相手を信じる誠実さとやらはお前には無ェ訳?」 「……っ、しゃあしゃあと抜かす…!」 「俺は今悪酔いしてて具合悪いんだって。お前は信じてくんねェの?俺が嘘ついてるって言うつもりかよ?」 「……………」 ぎり、と歯を軋らせ罵声と反論とを呑み込んで、土方はにやにやと今にも喉を鳴らして笑い出しそうな風情でいる銀時への精一杯の反抗心を示して、全身に力を込めた。隙あらば振り解いてやろうと言う態度の表れではあったが、実際に行動に起こせないと言う事は、揚げ足を取る言動を寄越した銀時には解っているのだ。 その肯定の様に、銀時は土方の身を戒めていた手を解いて仕舞う。 「ほら。俺ァ具合が悪いんだって。だから、介抱してくんねェ?」 耳元でそうじとりと囁きながら、銀時の手が着流しの裾をいっそ優しげな手つきで割った。土方は騙し討ちの形になる現状に対する憤慨と、厠と言う場所に対する羞恥とで顔に血を昇らせる。 これがせめて、同じ騙されたにしても、茶屋かどこかなら何でも無い事だったのに。土方を『誠実さ』とやらの議題で責める事に決めた上で銀時が選んだのが、厠の中などと言うシチュエーションなのだろうから。暴れるのも懇願するのも銀時を愉しませるだけ愉しませて、結局叶いはしないものなのだと、土方は悟って仕舞っていた。 土方自身に過失があると言う理由がそこにある以上。抵抗する権利が与えられど、抵抗の赦される道理は無いのだ。得てして、下手に逃れようとする獲物ほどに滑稽で容易く捕らえ易いものだったのだろうと土方は知る。 畜生。最低だ。 己の責と言われども、我慢のならない事はある。だが、堪えられぬ程のものではない。 繰り返し罵倒しながら、目を固く瞑る。これが銀時からの『お仕置き』の心算ならば、大人しくして早く終わらせる事が、この場では最も賢い選択なのだと思って。 下衆銀と利口になれない土方と言う絶望的な組み合わせがなんでかんで好きなんですすいません。 → |