リナリア / 1



 いつも何気なく目にするものが、ある時不意に見えなくなったら、どんな気分になるのだろうか。
 違和感。不快感。調子が狂う。指折り浮かべたそれらの症状を数えて銀時は小振りなグラスを満たす安酒をぐいと煽った。酒を愉しむと言うより、肚に抱えたものごと喉奥に流しやる様な勿体ない飲み方だとは思うが、手は止まらない。
 カウンターと口との間を往復する度嵩を減らす、お湯割りの焼酎。飲みたくもない不味い茶を供され、片付けなければ話が始まらないとでも言う様な作業感でグラスを干して行く内、酒の量は減るのとは逆に手の動きはどんどん重くなって行く。
 時間を──無駄と解っている時間を、然しこの侭浪費し終わらせて仕舞うのを惜しいと思う気持ちは確かにある。だがそれは、諦めの悪い未練の様な湿っぽい感情であって、酒の肴には実に向かない。元より銀時はしみったれた酒は好まない。どうせ同じ飲むのであれば、良い気分で高揚するまで飲みたい。結果、翌朝酷い二日酔いに苛まれたとしても。
 だが、そんな楽しい気分は今のこの酒の席には、何処を探しても見当たりそうもない。
 カウンターの上の、もう七回を過ぎた野球中継を観る素振りでそっと伺う、居酒屋の戸は全く開く気配が無い。今日も今日とて。待ち人の姿を暖簾の向こうに透かし見る事は叶わなさそうだった。
 大衆酒場と小料理屋の丁度中間の様な店だ。カウンターの向こうで黙々と料理の仕込みを行っている大将は無口だが、接客を務める女将は口数は多く気が利く。
 余り広くはない店内のカウンター席はほぼ埋まり、テーブル席も疎らに、一人から複数人の酔客たちで埋められている。客層は、近所から来ていると思しき馴染みの親父に始まり、仕事帰りの中年男たち、偶々入ったらしい若い男までと様々に渡る。
 返事の少ない大将に話しかけては女将と笑い合う常連の親父の声に混じって、野球中継の音が遠慮がちに流れる中、酔客はスマートフォンをいじったり談笑したりTVを見つめたりと、めいめい酒を飲むこの時間を愉しんで過ごしていた。
 冴えない表情を眠たげな眼で拵えて、つまらなさそうに酒をただ機械的に干して行く、銀時ひとりを除いて。
 「………」
 つまらなさそう、と己の今の様を客観的に判じた所で、銀時は先の疑問に対して浮かんだ新たな答えをそこに付け足した。
 いつも何気なく目にするものが、ある時不意に見えなくなったら、どんな気分になるのだろうか。
 退屈で、つまらない。
 (…まあ確かに、面白くは無ェわな)
 口中に浮かんだ答えを事務的なグラスの往復で飲み干し、銀時は思い出した様に焼き鳥の皿へと手を伸ばした。酒を飲む前はちまちまと勿体なげに囓っていたのだが、酒を消化する作業に移ってからはすっかりと忘れていたのだ。
 ぬるく少し固くなった鶏肉を串から食い千切り、茶色のタレがたっぷりと残る皿を見遣れば、タレの表面は凝って膜を張り、脂をその上に浮かせていた。いつもならばここに、更に脂っぽくどころか酸っぱくなる様な薄黄色の山が出来ていたなと、無意識に手繰りそうになった記憶を、ぐにゃりとした葱ごと咀嚼する。歯の間を滑って層をばらばらにする葱は、銀時の口の中を不快に漂って飲み込まれていった。
 思い起こしてみれば果たして何日前の事だったのか。はっきりとは解らないが、兎に角銀時には最近よく、カウンターに隣り合わせて酒を飲む相手が居た。
 ……のだが、最近とんとその相手に出会う事が無くなった。それこそ何日前だったかすら思い出せないのだが、この店で最後に隣り合って飲んで以来だ。…と思う。
 記憶が曖昧なのは、その相手とは常日頃から何気なく、風景の一つや日常の一つとして出会う機会が多く、それこそ『いつも何気なく目にするもの』の一種だったからだ。
 何日前だったか思い出せない、共に飲んだその後にもひょっとしたら街で目撃やニアミスの一つや二つぐらいしているのかも知れないが、そんな事をいちいち記憶になど留めない程に、その遭遇は銀時にとってはごく当たり前の出来事の一つだったのだ。
 ただはっきりとしているのは、『いつも何気なく目にする』筈の遭遇は最後の、何日前だったか思い出せない日から全く無いと言う事だけだ。
 黒に銀縁の洋装と腰に佩いた刀。揃いの装束に身を包んだ彼ら、真選組の姿はこの江戸では、半ば日常茶飯事の様に目にする機会が多い。それは彼らが、この江戸を護る警察としての任務に就いているからだ。見廻りに、警備に、事後処理に、日々忙しく立ち働くその姿は最早江戸の風景の一つと言っても良い。
 そして、銀時と共に飲む相手であった男は、その中でも特に目立つ人間のひとりだ。数少ない幹部服を纏った一人の癖に、地道な日々の見廻りを日課としている、現場主義なのか変わり者なのか暇なのか良く解らない男だ。
 その男、真選組副長の土方十四郎と万事屋の坂田銀時とは何かと折り合いが悪い事で有名だ。ついでに、万事屋の居候娘とその男の部下である沖田とが何かと怪獣大決戦の様な破壊を引き起こす事も有名だ。
 そんな、顔を突き合わせる度喧嘩と言い合いとを挨拶の様に行っていた男と銀時との間に、プライベートで妙な関係性が出来たのは──果たして、そう、何日前の事だったのか。
 魔が差した、とか、気の迷いだ、とか。一度はそう思ったそれがその後幾度か続いた事で、銀時はその事について深く考えるのを止めた。少なくともそれを狙って、偶然を装っては土方によく遭遇するこの居酒屋へと足を運ぶ様になって仕舞った事は確かだが。
 ──が。
 幾ら街を歩けど、こうして馴染みの居酒屋で一人酒を愉しんでいても、ここ最近銀時は土方の姿を全く見かけられていないのだ。『いつも何気なく目にする』ものが視界から消えて、面白くない、と感じる程に、それは奇妙な、偶然では決して無い事の様に感じられていた。
 と言うのも、新八や神楽の口からは、銀時の憶えている限りの土方との最後の遭遇以降の、土方の目撃証言が出ていると言うはっきりとした理由があったからだ。
 恒道館にストーカーに勤しんでいた近藤を迎えに来たとか、神楽との喧嘩の最中だった沖田を止めようとして巻き添えに遭っていたとか、ごくごく当たり前の、今までであれば正しく『いつも何気なく目にする』程度の目撃証言。
 それだと言うのに、銀時ただ一人だけが土方の姿を全く目撃していない。見つけられていない。
 こうなって来ると、単なる偶然と言うよりは作為的なものを感じずにいられない。つまりは、土方が意図的に銀時と遭遇しない様に心掛けているのではないか、と言う想像だ。
 (面白く、はねェけど、そりゃ)
 焼き鳥の串を最後まで平らげ、指についたタレを舐めながら銀時は頬杖をついた。伸ばした手の先にはもう殆ど残り少なくなった酒のグラス。店内が温かいとは言え、お温割りの焼酎はもうすっかりと冷え切って仕舞っている。
 こうして未練がましく、僅かの酒とつまみとを消化しながら、今まで通りの『偶然』の遭遇がまた起きやしないかと──土方が己を避けて回っているなど気の所為だったのだと、待ち呆けを食らう人の様に無為に時を、調子が狂うとか面白くないとか、そんな事ばかりを考えながらただ待っているだけの日々は、そんな面白くない想像を不快や不満へと凝らせながら過ぎていくばかりだ。
 (後悔するんだったら、最初の一回目でとっくにしてるだろ。なんで、今更なんだよ)
 不快な想像の味わいを、惜しんで最後まで躊躇っていた最後の酒の一口と共に干して、銀時は出ない溜息を飲み込んで席を立った。
 「ごっそさん、勘定ここ置いとくわ」
 「あら珍しい。銀さんがツケにしてかないなんて」
 小銭をカウンターの上に置いて言えば、態とらしく目を丸くしてみせながら女将が笑い、馴染みの親父も一緒になって笑い声を上げる。
 「明日からまたツケにさして貰うから安心しなよ、おばちゃん」
 皮肉気に片頬を吊り上げて笑うと、銀時はひらりと手を振って、結局待ち人が開く事の無かった扉を開き暖簾をくぐった。
 明日もまた、今日と同じ様に、己を避けているのかも知れない待ち人の姿を、時と酒とを徒に費やしながらここで待つのだろうと、己の残した言葉と違えぬ予感に半ば呆れながら、店を離れて歩き出す。
 春はもう近いと言うのに、厭に冷えた夜だ。寒の戻りとか天気予報では言っていたか。見上げた夜空には綺麗な弧を描く月がぽかりと浮かび、冷えるが晴れていて気持ちの良い夜だった。
 あの日。思い出せない幾日も前の、あの日。あの時もこんな、寒いがよく晴れた夜空の下だった。日数は憶えていない癖に、冷えた空気に晒されても猶冷えない手の触れた体温ばかりはどうしてかはっきりと思い出せる。
 どうしてか、と言う疑問を問う事も最早止めた、土方とのあの関係性の始まりは、多分そんな些細な気紛れめいた事だったのだろうとぼんやりと思う。あの場でもし理性が、感情がはっきりとしていたらあんな不用意に手など伸ばさなかった筈だ。あんな、酔った悪ふざけの延長線の様に、唇など寄せなかった筈だ。
 暖簾の影で交わしたたった一度の口接けが、多分だが、互いに何かの引き金になって仕舞ったのだろう。
 と言ってみた所で、酔っていたからなどと言う言い訳で片付けられる気がしないと言うのも事実だ。銀時は土方の手を引いて歩き出し、土方はその手を振り解きもせずに後を大人しくついて来た。連れ込み宿の中まで、引かれる侭に引く侭に共に入って、──そして。
 (どう言う訳か知らねェけど、たった一度の事で終わらなかった。逃げるも振り解くもいつだって幾らだって出来た筈だってのに、それをしなかった癖、今更)
 特に約束するでもなく同じ居酒屋に居合わせては示し合わせた様に共に出て、千鳥足の時もあればはっきりとした足取りの時もあったが、常にその後の行き先は同じだったし、する事も同じだった。
 有り体に言えばそれはセックスフレンドとでも言う関係だったのだと思う。或いは、何かの気の迷い以上の何でも無い関係。
 そしてそれは、ある日突然に土方が銀時の前からだけ姿を消した、その時からぱたりと途絶えたのだった。





3/5(これのUP日)の誕生花。

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