密花に宿れば / 15



 ぐ、と畳の軋む様な、音とは言えない微細な感覚を聞き分けた土方の意識は、然しそう鍛えられた通りに静かに覚醒する。
 だがそれでも瞼は閉じた侭、耳と鼻にだけ明瞭な感覚を研ぎ澄ませてじっと違和感の様子を窺う。目覚めてはいない。警戒心の様なものが体の目覚めよりも先に動き出しているだけだ。
 それが勘違いや心配の必要の無いものであればまた速やかに眠りへと戻りたい。少なくとも横たわった侭で辺りを窺う土方の警戒心は、今はその程度のものでしかなかった。
 安普請な家ならばともかく、高級な宿の所有する建築物だ。床板の上に敷かれた畳は、離れの拵えがしっかりしているだけあってか軋みも歪みもしない。逗留中に散々立ったり座ったり寝たりと様々な事をして来たが、床や畳が厭な音を立てた事など一度も無かった。
 つまり今し方感じた微細な音の様なものの正体は、恐らくは足音によるものだろうと、土方の眠気に半分揺れ始めた意識はそう判断する事にした。恐らくは歩いて来た何者かが、土方の眠る枕元に腰でも下ろしたのだ。
 日頃ならば、枕元に人の気配なぞ感じた日には、土方は布団に隠した脇差しを抜いて即座に身を起こして気配の主と対峙していた事だろう。
 だが生憎と、今の土方の体はまだ抜け切れていない神経毒の所為で怠いし重たい。咄嗟に動きたくとも動けないと言うのが実の所の本音である。
 然し命の危機を憶えていたならば、体が重かろうが怠かろうが手足が碌に動かなかろうが、必死になって臨戦態勢を取っていたに違いない。それをしないのはひとえに、怠いのは勿論だが、枕元に座ったらしい気配に殺気の類を感じなかったのと、もうこの宿に『敵』はいないと下した部下の判断を信じていたからである。
 この平和のご時世に、対テロ要員として鍛えられた真選組の『鬼』の下した判断にしては些か平和ボケし過ぎている感はしたが、そもそもにして土方が命を狙われる謂われは当面の所は無い筈である。少なくとも今回の件に関しては完全に囮任務だった。
 あの偽女将も、不意打ちの初撃がもしも外れて、目当ての標的ではなく囮だと看破していたら退いていた可能性が高い。幾ら動きにくい格好に土砂降りの下とは言え、神経毒と言うアドバンテージを抜きにして真っ向から土方の様な剣士と切り結ぶのは無謀だろう。
 (つまり…、どう言い訳をつけた所で、俺が今目を醒まさなきゃならねェ理由は無い訳なんだが…、)
 考えながらも、徐々に思考が意識として明瞭な覚醒をもたらしていくのが解って、眠気との狭間で土方はどうしたものかと考えた。
 何しろ枕元すぐ傍に座したらしい気配から感じるのだ。視線とか、注視とか、観察眼とか、そう言った、気のせいと言う言葉でしか説明がつかない筈のものを。
 閉ざした瞼の向こうなど見えない筈だと言うのに、何故か居心地の悪さを憶える程の熱視線を、じっと息を潜めたそれから向けられていると。恐らくは本能的で原始的な感覚で受け取っている。
 そこに、ひた、と唐突に頸に指先の触れる感触を感じて、土方は反射的に目を見開いていた。
 びくりと竦んだ様に跳ねる体は実に、本能的な感覚には正直だったらしい。大袈裟な程に跳ねた背に自分の方が驚く。
 「──」
 頸に触れられると言うのは生物的な本能の忌避する事の一つだ。背を向ける事、腹を出す事に並ぶ、或いはそれ以上に全身が警戒をする。何しろそこはどんな生物にとっても致命を避けられぬ箇所だからだ。
 脳と言う司令部から胴体と言う駆動部を繋ぐ唯一且つ重要な箇所が、どうしてこんなに細く頼りなく在るのだろうかと常々そう思う。肉や脂肪や筋肉すらも容易に盾にはなってくれない場所である癖に、頸動脈やら脊椎やら、損傷したら易々致命になる部位が通っていると言うのは釈然としない。
 そんな致命部位に無遠慮に触れた感触に、土方は目を見開きはしたものの、咄嗟に起き上がる事が出来ず、またそうするより前に悪戯な感触の正体が見えたのもあって、背を硬直させた侭で凝固していた。
 「あ。起こしたか?悪ィ」
 言った男は、然し土方が何となく目を醒ましている事には気付いていたのか、余り驚いた様子も無く、喉元へ置いた指先を退けてくれる事も無かった。
 銀時の指の腹の乗っているのは、皮膚の上ではなくそこを覆う様に巻かれた包帯であった。土方としては放っておいても問題の無い程度の創傷と言う認識だったのだが、どうやら意識を失っている間に山崎に手当をされていたらしい。
 大袈裟な、と思える、首元の包帯に感じる慣れぬ圧迫感。それを指の腹で撫でる、更なる圧迫感。
 「……」
 何をしているのだ、と声を発しかけて、然し土方は寸での所でそれを呑み込んだ。明らかに驚いたと知れる派手な寝起きで、この上更にびくびくしているとは思われたくない。
 「…そう言や、一体どうして駆けつけて来、たんだ?」
 来てくれたのだ、と言いかけて慌てて軌道修正する。正直、あの命を獲られる寸での所で、狙った様なタイミングで飛び込んで来た横槍に安堵したのは間違い無い事なのだが、矢張りこれも余り悟られたくはない。単なる意地でしかないが。
 ともあれ偽女将を殴り倒した時点で状況が理解出来ていなかった銀時が、どうして一度庭を離れたと言うのに再び戻って来たのか。そちらの方が土方には疑問だった。
 「あー…それな。何つーか、ちょいちょいあの代理女将が怪しいなって思える所はあったんだよ。例えば、職業柄無意識なんだろうが足音や気配を最小限にしてたり。あとは神楽の勘だな。理屈じゃねーけどどうにも好きになれねぇみてーだったし」
 土方が視線だけを何とか動かして見遣った枕元で、バイトの制服からすっかりいつもの格好に戻った銀時はどこかばつの悪そうな様子で、そう言って後頭部を掻いた。溜息。
 「…でも、ババアの知り合いの宿って話だったからな。代理女将だろうが何だろうが、神楽が何て言っても、違和感を憶えても、積極的に疑う気が俺に無かったのは確かだ。駆けつけられたのだって、確信があった訳じゃなくて単なる偶然みてーなもんだ。そう言う意味じゃ、宿の様子を探って欲しいっつぅてめぇの依頼はこなせちゃいねェ」
 「………」
 ふらりと游いだ視線を何となく追ってから、土方は成程なと胸中で頷いた。要するに、この図々しく図太い筈の万事屋稼業の男は、今回の事件の収束までの顛末に、己の不手際が多少なりともあったと言う事を、大層珍しい事にも責任として一応は受け止めているらしい。
 依頼をしたのも、過分に関わられたがそれで事態が進行した事を思えば、土方としては寧ろ結果が良ければ良しと言った所なのだが。
 山崎はああ言ったが、礼の言葉も依頼料を渡す時にそれとなく「ご苦労だったな」と言ってやる程度しか出来そうもない。
 気を遣ったり遣われたり、どうにも日頃の自分たちらしくなさ過ぎる。なさ過ぎて、違和感と居心地の悪さが拭えない。
 「まぁ、普通は女将として来た奴が暗殺者だったとか思わねェだろ」
 「……そりゃそうだが」
 それでも意図せず慰める様な、気休めと知れる言葉が紡ぎ出されて、土方は動揺した。それを聞いた銀時の方も、まさかそう言われるとは思わなかったのか、口をへの字に曲げて両肩をそっと落とす。
 まずくないか、と土方はそんな銀時の様子を横目で窺う。気休めや社交辞令の慰めすら響く程に、本当に銀時はそこまで気に病んでいるのかも知れない。囮とその護衛とが油断し過ぎただけで、彼に何ら過失は無いとは思うし、寧ろ寸での所で土方の命は彼の手に因って拾われている。
 不意に気付いてみれば、土方の喉元、傷を覆う包帯の上にはまだ銀時の指先が静かに乗せられている。急所である頸に触れられている事は間違い無く不快でしか無いと言うのに、然しそれを払う気にはなれていない。
 (それは、単なる俺の意地か…?)
 或いは、その指の意図を、示す感情を、憶え知らぬ様な彼の消沈ぶりから感じ取って仕舞ったからなのか。
 「それでまんまとただ働きさせられたんだ、災難と思うほかねェな」
 結局土方は、寸時涌いた惑いを振り切る様にして小さく笑う事にした。いつもの様に。
 「まぁ依頼料はちゃんと出すから心配すんな。てめぇの想像以上の変装術に関しては、多少色も付けてやるさ」
 「………そりゃ有り難ぇこって」
 再び銀時の目がふらりと游いだ。やはりばつが悪そうにそう投げて寄越すと、そこで漸く首元に触れていた指がするりと離れて行く。
 「……」
 責任など感じる必要は無いのに、と、思うがこれも口にはしない。どうすれば言ってやれるのだろうかと思うが、気の遣い合いも同情も矢張り余り自分たちらしく無い。
 「ま、バイト代は出なかったが、本物の女将から迷惑かけた詫びにって、本格的な捜査が入る前なら温泉でも浸かってて構わねェって言われたし──」
 惑う土方を余所に、銀時はそう言って己の傍らに置いてあったらしいものをひょいと持ち上げてみせた。それは結構に良い銘柄の日本酒の瓶と、酒杯がふたつ。
 「まぁその、何だ。おめーもお疲れさんって事だよ。こんなゴージャスな部屋で過ごせるのなんざ滅多にねェんだし、堪能しちまえ」
 「……」
 またしても、気を遣われている、とは感じた。それがひょっとしたら銀時なりの謝罪かそれ未満の申し訳の無さを示した故のものなのだとも。それだからこそ土方の世話を山崎に頼まれ、請け負ったのだろうとも。
 まだ重みの残る体を何とか起こした土方は、無言で受け取った酒杯を見下ろす。上客用のものなのか、憶えの無い様な漆塗りの品だ。底に金粉を塗布したそれは、透明な日本酒を飾り立てて味と気分とを引き立てる用を為している。
 それならばいっそ一升瓶ではなく揃いの器に移してくれば良いのに、とどうでも良い事を考えながら、土方は酒の注がれる盃を見下ろした。手指にはまだ痺れた様な感覚は残っているが、盃を取り落とす程では無い。
 銀時の寄越す乾杯の仕草に応えてから、く、と喉を反らして一息に飲み干せば、少し辛口の酒が空の胃に染みた。
 ふと見遣れば、外はもう既に日がとっぷりと沈んでいて、室内は酷く薄暗い。電気の行燈と、装飾めいた間接照明とが、淡い橙色の光を手の中の盃へと落としている。
 あれだけ土砂降りだった雨も既に上がって、きっと外は真夏の夜らしい蒸し暑さだ。よく耳を澄ませれば中庭の滝の音が聞こえて来る程度の、閑かで穏やかな、高級宿の贅沢な夜更け。
 その怠惰な空気が、きっと土方に寸時の油断をさせた。
 「……らしくねぇぞ」
 そうして、油断の紡いで仕舞った言葉に、土方は後悔はしなかったが、失敗したかも知れないとは思った。ただでさえフォロー癖のある己の性質は解りきっている。一度始めてしまった以上、銀時の仕事ぶりに感謝している事やら、助けに安堵した事まで結局は言う羽目になって仕舞う気がする。そんな気がする。避けられない、そんな気がしてならない。
 丁度盃に唇をつけた所だった銀時は、一旦盃から顔を上げると、「いやその、」と歯切れ悪く呻いて、それから盃を再び傾けて中身を一気に干した。畳の上へと半ば落とす様に空になった盃を置きながらなおも不明瞭な発音で呻いて、それから。
 「いやね、なんつうかその、侮辱するとかそう言う意図は断じてねぇんだけど…、」
 そう言い置いてから、銀時はあぐらの姿勢の侭で背筋を心なし正してから、態とらしい咳払いを一つした。
 「おめーに、その、女装させたじゃん?」
 「………」
 何だか碌な事を掘り返されかねない悪寒と予感とに、土方はかっと顔まで血が昇って来るのを感じて、視線を何となく壁際へと投げた。そこには件の、女装に使った着物の掛けられていた衣桁だけが残されている。着物そのものは派手に汚れたのもあってほぼ処分確定だそうだが、松平への体裁の為に一応は洗濯と返却を試みると山崎が言って、持って帰ったのだ。
 どの途もう用は済んだのだから必要はない荷物だ。それと同じ様な理由で化粧道具も一式持ち帰られている。
 故にこの、離れの寝室には土方のあの女装姿を思い出させる様なものは何も無い筈なのだが、何となく気恥ずかしい。否、施された扮装の記憶そのものがそもそも恥ずかしい。
 出来ればとっとと忘れたい記憶の一つだ、と胸中で呻いた土方は、恥を思い出す記憶であるそれらを脳から必死で押しのけようとした。
 そんな内心穏やかではない心地に至ったからか、次に続けられた銀時の言葉は、するりと自然に土方の耳朶を打って鼓膜を震わせ、脳に飛び込んで来た。
 「そんで、それがちょっと銀さんの予想以上に良い出来でさ?なんつーの…、庇護欲って言うかそー言うのがね…、や、解ってんだよ?気の迷いっつーか性の迷いっつーか……、その、」
 「………………は?」
 腕を組んだ銀時が、まるで誰かに──己にかもしれない──言い聞かせるかの様にぶつぶつと紡ぐのに、土方の口はぽかりと丸く開いていた。脳にダイレクトに言葉だけが入って来て、意味を探るのに酷く時間がかかる。と言うかよく意味の解らない言葉が聞こえて来た様な気がする。
 「…女装っつーか、残念な変装だろ…」
 恥ずかしさも相俟って思わずそう呻く。だが、土方は銀時の作った『お姫様』のあの出来が非常に良かったと言う事は既に理解していた。少なくとも、どうせ出来るのは下手物だのチンピラのオカマだのと言ったものになるだろうと思っていた己の想像を違える程には。
 そもそもそうでなければ、あの行き当たりばったりのオッさんの発案であるこの囮作戦を大真面目に達成しようと言う気にはなれなかった。上手く行きそうだなどと思いもしなかった。
 「いやアレ会心の作品だったからね?…ってそうじゃなくてだよ、」
 いつの間にか手の中から空っぽの盃は転がり落ちていた。痺れの残る指先で、こんな話を聞かされて平静を保てる程に土方は落ち着けてはいなかった。
 「だからね、その、女のおめーって訳じゃなくて、おめー自身の造作とかが銀さん的にギンギンさんだったって言うか、そう気付いちまったって言うか、〜なんかもう気付いちまったらチンピラ侍でも不器用馬鹿でも大真面目馬鹿でも全肯定出来ちゃったって言うか!」
 勢いよくまくし立てる様にそう一気に言ってのけると、呆気に取られて仕舞っている土方の両手を、まるでハイタッチでもする様に掴み、銀時は一度天井を仰いで深呼吸を一つした。
 「ドン引きだろ?俺が一番ドン引きだわ。ねーわ。ねーよ、顔見知りの野郎を女装させたらその良さに気付かされるとかほんとねーわ…」
 その侭の姿勢でかぶりを振った銀時は、そう最後は呻く様な声音でぼやいて、それから頭をゆっくりと元に戻した。
 そこに居たのは、化粧を施して貰う時に見た、至近の真剣な表情。
 「だから、って訳じゃねぇけど、言い出しっぺだったのもあるし、おめーに何の危害も無く済んで欲しかったんだよ」
 ぐ、と指先に籠もる力と共に、消え入りそうな声で小さく「悪かった」と言われて、土方は恐らく血が昇った侭真っ赤になっているだろう頭を小さく横に振った。
 ともあれこれで、期せずして保留した侭であった疑問の一つは解決して仕舞った訳なのだが、その理解を深めかけた所で、何やらおかしな事を言われている気がして、長い硬直から漸く脱した土方は思わず苦笑した。
 「……酔ってんのか」
 「いいや。生憎と素面だよバカヤロー」
 近づけられた、少し眉を寄せた真顔から返った言葉に、土方は薄く笑って瞼を下ろした。了承を見てか、繋がれていた手が解けて顔の横に添えられる。
 この男を、信じるに値すると思っていた己の評価は矢張り違えていなかった。──そう、心当たりはあったし、思い当たりもあった。だから。
 (礼は、呉れてやるさ。言葉って訳には行かねェが、それより多分解り易い)
 そうして土方は、紅でも差す時の様な慎重さで、然し化粧を施す時よりも少しぎこちない口唇が落とされるのを待つ事にした。





…アレ、何ですかねこのヘタレどもは。
こんなオッさんたちの牛歩恋愛にお付き合い下さりありがとうございました。

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蛇足的な何かでも…。
どうでも良い方は黙って回れ右推奨。

お忍び温泉旅館と女装ネタとを混ぜてふっくら焼き上げました。着物と鬘だけの女装プレイが当初の予定ではあったんですが、好みが割れそうだし自分の中でも割れちゃったのでカットしました。
えーと…、無意識レベルで両思いだったのが、違う一面を見た(作った)のと、信頼出来ると自覚したのとで開花しちゃったとかそんなおはなしでした。まわりくどい。

タイトルに困りすぎてた記憶の方が長い。