与え能うる愛しき日々の / 1 「温泉、旅行……だァ?」 万事屋の居間のローテーブルの上。対面のソファに座して煙草を噴かしている土方の差し出して来た白い封筒を前に、銀時は思いきり渋面を浮かべていた。 封筒自体は何の変哲もない、白いだけの物である。郵便番号を書き込む欄はないから、郵便用ではなく贈答用なのかも知れない。但し書きは何も書かれていなかったが。 噛み付きも睨み返しもしないそれを摘み上げて裏、表と返してみる。矢張り何も書かれてはいない。中身を伺わせる様な言葉ぐらい書かれていても良さそうなものを。 思いながら窓から漏れる光に中身を透かして見れば、封筒の中にはそれよりも一回りばかり小さな影が見えた。サイズからしてチケットや金券の類の様な『それ』が、土方がこの封筒を差し出すのと共に添えて寄越した物そのものなのだろうが。 それは、「温泉旅行に行く気は無ェか」──そんな一言であった。 巡回の途中だと言い置いて、万事屋の電話に土方からの連絡が入ったのが今から十分ばかり前の話。ちょっと用があるから訪ねる、それだけの言葉の裏に、恋人同士的な甘い展開や想像を銀時が僅かなりとも巡らせなかった筈もない。同時に、本当にただ通りすがりの用があるだけなんだろうなあと言う諦めにも似た達観も湧いてはいたのだが。 果たして、それから数分もせぬ内に予告通り万事屋の玄関戸を叩いた、土方の告げて来た『用』と言うのが、件の一言だった訳である。 はてさて──内容が読めない。と言うか展開が読めない。銀時の知る限り、土方と言う男は重度の仕事中毒である。中毒になりたくてなったと言うより、成らざるを得なかったと言うのが正しい所だろうが。生来の、几帳面で義理堅い本人の性質もあって、気付けば多忙な時間こそが習い性になっている様な節もある。 そんな土方が、何をどう思えば、どんな化学変化を起こせば、温泉旅行、などと言う単語を引っ張り出すに至ったのだろうか。 「ひょっとしてアレか、将軍の温泉旅行の護衛とかそー言うアレで」 いやまさか。でもそんな。いやいや期待するな、と己に言い聞かせて、適当に浮かべた、比較的にダメージの少なそうな思いつきを取り敢えず口にしてみれば、間髪入れず、 「あ?だ、としたら何でテメェにその温泉旅行の宿泊券なんぞを渡す流れになんだよ」 凶悪に眇められた目付きと共にざっくりと斬り捨てられた。 (まあ解ってたけどね?護衛ついでに温泉に行くから、お前もこっそり来て現地で落ち合おうなんて不倫中の上司と部下でも今時やらねェよな、ウン) 土方の、全く理解し難いと言った表情からして、そう言った線は限りなく薄そうである。解ってはいたが軽く落ち込みつつ、銀時は白い封筒をテーブルの上にひらりと戻した。 「んじゃ、なんでいきなり温泉旅行?」 ソファの背にどっかりと身を沈めて、想像や推察だけでは埒が開かないと諦めた銀時が投げ遣りな調子でそう問えば、土方は溜息に乗せる様にして紫煙をゆっくりと吐き出した。携帯灰皿にその煙草から灰を落として、難しげな視線を封筒の表面へと走らせる。 元々、この男がきっちりと核心まで説明しないのが悪い。思った銀時は、土方が己のそんな必要最低限の言葉だけで物事を説明しようとする──或いは相手の理解を求める──癖を些少なり気にしている事を知っている。ので。煙草をもう一度口にくわえる、その『間』が決して、銀時の問いに答え辛いと思っていたから、と言う理由に由来するものではないとも気付いていた。 銀時の問いが尤もなものである事、自分の説明が足りていなかった事。それを咀嚼した上での『仕切り直し』をしたい『間』である。 「近藤さんがな、」 そうしてほんの僅かの間を挟んで、土方脳内の検閲を経て出て来た切り出しに、今度は銀時の方が仕切り直しの間を取りたくなった。コレで来る事は大概碌なものではないのだと、土方と付き合い出してからの経験則が全力で訴えて来ている。 近藤さんが。その言葉に今まで何度邪魔をされ、今まで何度期待を裏切られて来た事か。まあ当の近藤にはまるで罪も無いのだから、恨んだ所で仕方がない。 単純に、土方がそう言い置く『言い訳』は、彼にとって何よりも最優先であり遵守すべき事柄に繋がると言うだけの話。土方にとって、近藤>仕事>その他>銀時、と言う序列は変え難く動かし難い優先順位だ。間に挟まれる『その他』が些か悲しくならないでもない。 故に。土方のいつもの切り出しから、銀時は既に最良の想像を棄てた。のだが、温泉旅行、と先に出された言葉とは今ひとつ結び付き難い。 なお、最良の想像と言うのは、一緒に温泉旅行に行かないか、と言う誘いである。そこまでは良い。それが、近藤に休みを取れと言われたから、などと続けば流石に銀時のお花畑な想像も萎れる。 望んでもないのに、ケツを押されて出掛ける羽目になった、などと言う展開では、仮令ハネムーンだって幸福なものではないだろう。 悶々とした想像に顔を顰める銀時を余所に、土方は続ける。 「以前、テロ荷担疑惑に巻き込まれてたある商家を助けた事があったんだが、その礼だとあちらさんがこんな」 言いながら、ちら、と視線を再び白い封筒の上に遣る。その表面にその時の事を思いだしてでもいるのか。相当に面倒だったのか。顔は余り冴えてはいない。 「もんを寄越してな。だが、生憎俺らは警察であって公務員だ。礼だろうが何だろうが、基本賄賂と取れるもんは一切受領出来ねェ。相手はまるきりの好意だからと近藤さんも断り辛そうにしちゃァいたが、何とか説得してお引き取り願った──は良いが、」 そこで溜息。冴えのない表情同様の、冴えのない息継ぎ。 「相手も商売人だ。一度出したもんは軽々しく引っ込められねェプライドでもあったのかも知れねぇが……、諦めもせず、今度は近藤さんが懸賞で当てたんだと言って『礼』を寄越して来た。これも断りゃ今度は匿名で寄付として来るか、街頭のティッシュ配りに混ぜて来るか……兎に角そうもしかねねェ意地だか執念でな。懸賞なら良いだろうって事で受け取ったは良いが」 良い、だが然し。繰り返された語尾は、盥回しの響きにも似ている。気がして。銀時は耳に小指を突っ込みながら取り敢えず続きを無言で促した。が、土方はそこで肩を竦めて封筒を示してみせる。どうやらここで終了らしい。 「開けてみりゃ温泉地の、結構な等級の旅館の宿泊券。秋の連休中の三泊四日一家族四名様までお食事付き。忙しい警察にそんな降って湧いた有給が易々取れる訳も無ェだろうが。 で、近藤さんは隊士の誰かに贈ろうとしたが、物は酒の奢り程度の価値じゃねェんだ。隊士の中に優劣やらの差異が付くのは望ましくねェだろ。くじ引きにした所でな。どうしたって角が立つ」 「…………そんで、ウチ?……あーいや違うな。お妙に直接渡しても受け取らねェだろうから、万事屋(うち)の新八にお妙が付いて行く、って形になるのがゴリラ的には望ましい、と」 漸く結論が見えた気がして、銀時が得心を示して頷けば、土方も「ああ」と短く肯定を寄越した。煙草を携帯灰皿の中に潰して、ソファの上で軽く居住まいを正す。 「話が早くて助かる。まあそんな訳だ、万事屋(テメーら)なら暇ぐらい幾らでも作れんだろ。貰いモンで悪いたァ思うが、偶にはガキ共連れて旅行ってのも悪かねェんじゃないのか」 結論をさらっと告げると、ソファの背に掛けてあった上着を掴んで、土方は立ち上がった。……これで終わり、と言う事だ。銀時が──厳密には万事屋が、だが──白い封筒を受け取るものだと端から確信している。 まあそうだ。ほぼ無料で旅行を楽しめる、なんて機会そうあるもんじゃない。前提が無ければ、ラッキーだと降って湧いた幸運に飛びついていただろう、が。 その前提こそが問題であった。銀時にとっては、それを『土方が持ってきた』と言う前提。 「お前は?」 立ち上がった土方の腕を、卓に身を乗り出して掴めば、「あ?」と不思議そうな表情を引き連れた疑問符が降ってくる。 「お前は、どうすんだよ?」 唇を尖らせてそう問うのに、土方は捕まれた己の腕と、銀時の顔とを見比べる様にして、それからやんわりと腕を振り解いた。予防接種に怯えて親に縋る子供を払う様な仕草だと、何となく銀時は思う。 「どうするも何も。俺ァいつも通り仕事に決まってんだろ」 「一緒じゃねェの」 「〜…あのな。四日も休暇が取れる職業じゃ無ェし、第一四人定員は埋まってんだろうが」 お妙(あの女)と、眼鏡と、チャイナと、お前。そう指折り示しながら言って、土方は銀時の額を人差し指でびしりと弾いた。 「てめーは年中休んでる様なもんだろうが、ま、偶にはゆっくり温泉でも浸かって、ガキ共に従業員サービスでも家族サービスでも良いからして来い」 不満を表情筋で描いている銀時に、半ば想像通りの事を押しつけ言うと、土方は携帯電話を取り出してそのディスプレイに表示された時刻を確認する。時計ならそこの壁にも掛かっているのだから、わざわざ手元で確認する迄もない筈だ。つまり、それは土方がもう巡回に戻らねばならないと言う合図である。 銀時は、お前が居ないのが嫌だ、と言う言葉を直接口にはしなかったが、土方は聡くそれを読んで、追い縋る理由を封じた。言うな、と言う優しさだ。どの道我侭であると断じるほか、土方に選択肢はないのだろうから。 つまらないから御免だ、と旅行券を受け取らないと言う選択も浮かんではいたのだが、子供らを労ってやれと言われて仕舞えば、銀時には反論の余地はない。 「精々ゆっくり楽しんで来りゃ良い。土産にマヨ漬け、忘れんなよ」 飼い犬に『待て』をする様な調子でそんな事を念押しして、土方は不満顔の銀時を宥める様に少しだけ笑みを混ぜてそう言うと、来た時と同じ様にさっさと万事屋を後にして行った。 ほぼ無言で居間から、ぱたりと閉まった玄関戸と、磨りガラス越しに遠ざかる黒い影とをを見送ってから、銀時はどかりとソファに腰を下ろした。テーブルの上の白い封筒の存在感と、三泊四日の温泉旅行──※但し土方は居ない──を苦々しく見つめて、「くそう」と子供の様に呻いた。 このたったの四日間の温泉旅行とやらに土方が纏わる要素は一切存在しない。 それを持って来たのが土方当人ではなく、近藤辺りであれば、まだ何ら夢の様なものを抱かずに済んだのかも知れない。三泊四日、ゆっくり羽を伸ばして怠惰に過ごそうと浮かれられたかも知れない。 (……まあ、アイツと旅行とか?天地がひっくり返ったって無理なんだろうけどよ。つーか仮に叶ったとして、絶対緊急の仕事とか入ったりすんだろ。解ってらそんな事) ひねた思考を苛々と流して、愛想の無い白い封筒を見つめる。この侭屑籠に放り投げて仕舞おうかと一瞬考え、然し新八や神楽が温泉旅行と言う言葉に目を輝かせる事を想像して仕舞えばそれも出来なくなる。 お妙だけに渡して、スナックすまいるの従業員だけで行く様に仕向けるとか。いや、それはそれであっちも色々と大変だろう。それ以前に、旅行券の出自があのゴリラと知れただけで笑顔で突き返されるのは間違い無い。土方の言う通り、万事屋に贈られ、お妙がそれに同道すると言う形が一番円満なのだろう、が。 (四日とか三日とか、期間の問題じゃあ無くて…、) ごちて銀時は封筒を指で摘み上げた。こんな一枚の紙切れに72時間少々の贅沢と安息が約束されている。万事屋的には僥倖も僥倖だ。が。 それと同じだけの時間、土方に会えない事なぞザラにある。だから別段そこに不満を差し挟む必要なぞ無いと言うのに。お、サンキュー、と笑って受け取って、贅沢三昧を堪能してやれば良いだけの話だったと言うのに。 「あーあ……」 自分の事ながら情けないと思える様な声を上げて、銀時はソファの上にごろりと寝そべった。 願わくば土方と一緒に行きたかった、などと青臭い考えは兎も角。今更そんな事で楽しみを満喫できない性分でもない筈なのだが。 居た、ら。どうだっただろうか──などと。ほんの少しでも考えて仕舞ったのが不味かったか。恐らくは数時間後に子供らに仔細を話す頃にはどうでも良くなっている様な事なのだろうが、どうにも後味が悪くすっきりしない感覚を持て余す。 (いつも通り仕事、だとか言ってたよな……) 旅の日取りは連休だと言っていた。と、なると今週末の金曜から月曜だろう。その間土方の非番が無い訳ではない。銀時の密かなチェックでは──副長室のカレンダーを以前盗み見たのだが──、土曜は空いていた筈だ。 万事屋ご一行が旅行の間、土方は暇を持て余して仕事をするのか。はたまた何処かへ出掛けるのか。それは旅の空の下に居るだろう銀時には知れない話だ。銀時に出来るのは、精々土産を見繕うくらいだが──と言うかそもそもリクエストされたマヨ漬けとやらは何なのだろう。何をマヨに漬けているのだろう。 「…………」 下らない疑問より何より、つまらない、と正直にそう思ってから、どんだけガキなんだよと自嘲して。銀時は狭いソファの上で寝返りを打った。思考を整理するには僅かでも眠って仕舞うのが一番である。不貞寝と言う莫れ。 と、室内の空気が動くのを感じて閉じかけた目蓋を持ち上げてみれば、白い毛玉がずんずんと近付いて来て、銀時が手で掴んだ侭で居た封筒の匂いをくんくんと嗅いでいた。 「コラ定春。食いモンじゃねーから」 まんまるの目が、するりと鼻先から逃げて行く封筒を追い掛ける。嗅ぎ慣れない煙草の臭いでもするのかも知れない。 わう、と首を傾げる様な仕草をする巨大犬の毛並みを、伸ばした手先だけでお座なりに撫でてやる。ふさふさの尻尾がぱたんと床を叩く音。 「そう言や。旅行ならまた定春(コイツ)はババアにでも預けねぇとなあ…。家賃添えて行かねーと門前払い食らいそうだけどな。全く、人間一人分以上の食い扶持だもんなあお前──、」 そこまで言って、家賃の捻出を考え始めた銀時ははたと脳裏に閃くものを感じて、がばりと身を起こした。飼い主の急な動きに「わう?」と首を傾げる巨大な、人間以上の大きさの犬をまじまじと見つめる。 「……四人一家族様……」 呟くが早いか、銀時は封筒をびりりと破いて、中の宿泊券を検分する。細かな字で書かれた注意書きを隅から隅まで舐める様に読んでから、よし、と頷くと黒電話の受話器を取り上げた。 只のいきぬき。です。 → |