与え能うる愛しき日々の / 2



 金曜の夜は忙しい。世の務め人に限らず警察とてそれは同じ事である。
 務め人が浮かれて夜の繁華街に繰り出すのはまあ平日の常とは言え、最近では土曜日曜と休みの者も多く、況して今週は月曜に振り替え休日を持つ三連休である。中年から若者まで、街は夜遅くまで休日に浮かれ切った者たちで溢れかえる。
 休みを恙なく過ごす為に普段より多めに仕事をこなして、それから飲みに出るのだ。箍の一つや二つ軽く外れる事も珍しくはない。
 真選組は主に対テロリストを想定した警察組織ではあるが、世が平和な時には普通の警察業務を行っている。と言うより、巡察と言う任に就いていれば自然と、風俗系の商売の違法取締りだの酔っ払いの介抱だの酔客同士の喧嘩の仲裁だのをする羽目になっていると言うだけの話であるが。
 「じゃあ、後は任せる」
 言って、土方はふうと溜息をついた。つい今し方も、飲食店からの通報を受けて、店の前で泥酔していた迷惑な客を同心に引き渡した所だ。
 「ご苦労様です」
 同心達からの同情とも嫌味とも取れない台詞に見送られながら、重たい隊服の下でそっと肩を竦めて携帯電話を取り出して見る。時刻はそろそろ21時を回る頃。屯所に戻る予定時刻は既に大幅に過ぎている。
 歩を進める繁華街の賑わいは、週末だからと言う訳でも無いだろう、相変わらずの煩雑さに満たされて耳障りな程だ。
 黒い隊服姿の人間を見て、そそくさと路地裏に身を潜める者、ポン引きを止めて通行人の素振りをする者、酔いながらも道を空ける者。それらの中を土方は無言で歩を進める。
 攘夷浪士絡みや、薬物絡み、それらの匂いを勘が嗅ぎ付ければ容赦はしないが、余程目に余るものではない限りは威嚇だけで通り過ぎる。彼らを取り締まるのは土方の直接の業務ではない。真選組の副長職の人間がそんな捕り物に出るのは、組の威厳や沽券に関わる話だからである。
 視線だけでそれとなく辺りを窺いながら、この辺りの見廻りと取締りをもう少し強化すべきだろうかと言う案と、その為の人員や予算の捻出に迄思考を巡らせながら、これだから連休前の夜は、と誰にともなく悪態をつく。休みに浮かれるのは構わないが、こうして気苦労が無駄に嵩むのは願い下げだと毎度の様に思う。
 (連休って言や……、万事屋は今頃温泉か…)
 橋に差し掛かった所で思わず足を止めた土方は、黒々と流れる河川を見つめてそんな事をふと思い出していた。
 今週の頭に手ずから持ち込んだ温泉旅行の宿泊券。近藤が無理矢理に押しつけられたそれを持て余しつつも、出来ればお妙さんに行って貰いたい、などと言って来たので、じゃあ万事屋に渡せば良いだろうと提案したら、何故か自分がそれを贈る役を負う羽目になっていた。
 まあ巡回中には時間もあったし、話も早いから良いかと、軽い気持ちで万事屋を訪れたのだが、てっきり手放しで喜ぶと思った銀時は、不満そうに口を尖らせた。
 まあ、銀時の考えていた事は何となく解らないでも無いのだが、旅行の為に休暇を取るなぞ土方にとっては言語道断の話だから致し方無い。銀時とてそれを理解していたからこそ、無駄に追い縋る様な真似はしなかったのだろう。
 (野郎と旅行、ね)
 小さく呟けば直ぐさまに苦笑いが浮かんだ。想像もつかないし余りしたくもない。そもそも土方は温泉などで怠惰にのんびりと過ごす事自体が苦手なのである。温泉など、幕臣の何某の警護任などで出向いて、風呂の代わりに浸かる程度で充分だ。
 温泉地は山の中にあるから、大概は川辺に沿って拡がっている。宿泊すると川の音が一日中轟々と流れているから最初は耳障りに思うのだが、不思議と暫く経つと慣れて、逆に心穏やかに感じたりするものである。銀時らも今頃そうしているのかも知れない。生憎、この江戸市中を流れる河川の周囲は雑踏と喧噪とに賑わっているから、そんな情緒溢れる川のせせらぎなぞ聞こえもしなかったが。
 我知らず浮かんだ笑みを再びの苦笑で埋めて、土方は軽くかぶりを振った。銀時が、土方が共に旅行に同道出来ぬ事に落胆を憶えていたのは確かだが、それに対する感傷や申し訳の無さが湧かない辺りが、真選組の副長らしい所だろうかと思う。
 (………戻らねぇと)
 こんな事をしている場合ではなかった。漸く我に返った土方は、橋の向こうにある屯所に向かって頭を巡らせた。残務は無かった筈だからそう急ぐ必要は無いのだが、屯所の夕食時はもう疾うに過ぎて仕舞っている。途中で何処かに食事に立ち寄るか、コンビニで買うなりしなければならない。そしてその何れも、夜遅くになると難しくなる。
 どうしたものか、と、この先にあるファミレスやコンビニを思い浮かべ掛けた土方は、然しそこで目を見開いた。橋の向こうから、何処かで憶えのある銀髪頭が歩いて来るのに「な」と思わず声がこぼれる。
 「よ」
 ぷら、と手を振って寄越すのは、見間違えでも聞き間違いでもない、先頃まで脳内に描いていた、今頃温泉地に居る筈の銀時であった。
 「……………は?」
 思考の停止した土方は、思わず取り出した携帯電話で今日の日付を確認していた。と言うか先頃同心に泥酔男を引き渡すついでに書類に署名しているのだから間違い様もない。
 だ、としたら宿泊券の日取りが今日からではなかったとか。或いは想像を巡らせ過ぎて幻でも見て仕舞っているのか。
 「万事屋、か?」
 「何その反応。正真正銘の銀サンですよ?」
 呻く様に問えばあっさりと頷かれて、土方は暫し混乱した。天を仰いで黒い夜空に脳内の疑問をつらつらと浮かべて、それから視線を顔ごと下に戻せば、銀髪頭の男は目前でへらりとしたいつもの面を晒していた。
 「……温泉はどうした」
 不満そうにしていたから、まさか処分して仕舞ったのだろうか、と疑いが鎌首を擡げた侭、詰問の様な調子でそんな声が出た。すれば銀時はあっさりと。
 「ちゃんと行ったぜ?四人一家族様で。お妙に新八、神楽、定春。四人だろ?」
 「………いやそれ四人じゃなくて三人と一匹だろ」
 余りにもあっさりとそんな答えが返って来たので、土方はぽかんとした侭、然し一応突っ込みは入れて。
 時間を掛けてぐるぐると脳内を回り始めた疑問や怒声(らしきもの)をこねくり回して──結局何れも口には出さず、ただがくりと両肩を落とした。その間に銀時が補足説明を入れて来る。
 「旅館に問い合わせたらよ、普通のペットなら問題無ェけど、軽く人間一人分は食う犬は一人扱いになるって言われた訳。訊けばペットと一緒に入れる温泉もあるとか言うし、定春をババアの所に預けるには家賃でも払わねーと流石に気まずいしで、でも家賃払うだけの金も無ェし」
 要約すれば、定春が行く代わりに銀時が残った、と言う事である。
 ババアに預けるには家賃がどうのとか、温泉がどうのとか言ってはいるが、銀時とのそれなりの付き合いを経て来た土方には、それらが言い訳にしか過ぎない事ぐらいは流石に解っている。
 散々不満そうな顔をしていたかと思えば、自分が行かないなどと言う手段に出るとまでは、流石に考えもしなかったが。
 「………馬鹿かテメェは」
 勿体ない、と心底呆れて土方がそう言ってやれば、銀時は白い歯を見せてにかりと笑って見せた。
 「馬鹿でも良いだろ、別に」
 そうして告げる先は、上機嫌そうに笑ってみせる意味は、訊かずとも何となく解っている。それがどうにも癪で、土方は態とらしい仏頂面を作って、もう一度「馬鹿が」と口の中でだけ小さく呟いた。
 「で、だ。今、万事屋(うち)誰も居ないんだけど」
 お泊まり会、する?
 通り過ぎ様の自然な調子で、銀時は土方の耳にだけ聞こえる様に、そう囁いて寄越す。
 土方は頷きも肯定もしなかった。ただ、
 「……………着替えて来ねぇと」
 独り言の様にそうとだけこぼすと、にやにやと笑みをはいている銀時の横をするりと通り過ぎた。
 待ってる。背中に届くそんな声に、「くそ」と胸中でだけ呟いて、足早に屯所へと向かう。
 足が早くなる理由なぞ、考えたくもなかった。
 
 
 どうせ誰も居ないのだ。憚る事もあるまいと、呼び鈴も押さずに玄関戸を開けば、味噌汁の匂いが鼻孔を擽った。
 草履を脱いで、廊下を歩きながら水場を覗いてみれば、
 「お帰り。どうせお前夕飯まだだろ?直ぐ飯出来っから」
 味噌を溶かす手は止めぬ侭に銀時がそう言って寄越してくる。土方のやって来た気配や物音はしっかりと聞きつけていたらしい。「ああ」と流すにも似た頷きを置いて、土方は勝手知ったる我が家と言った動きで居間に入った所で、食事の温かな気配に迎えられた。テーブルの上に並ぶそれらを横目に、まず寝室の鴨居に下がっていた衣紋掛けに羽織りを掛けておく。まだそこまで寒いと言う程ではないが、秋口は日中との寒暖の差が激しい事も珍しくない。
 戻って、居間のソファに腰を下ろせば、テーブルの上には今し方見た通り立派な食事が鎮座していた。鰤の照り焼きに小鉢に入った漬け物。マヨネーズの容器が一つ。生卵が一つずつ。まだ伏せられた二つの茶碗。電気釜は既に白米が炊けているのか、保温状態になっている。
 温かな食事の気配に、そう言えば昼食の後から何も口にしていなかったと思い出した土方の腹が小さな音を立てた。
 銀時はよく自炊をする方だと言う。遣り繰りの都合もあるからと本人は言うが──人数が居る場合はインスタント食品や弁当などの方が手間がかからぬ分値が張るからだそうだ──、同じ年頃の男としては中々にマメな性分と言えるだろう。居間の壁に掛けられたカレンダーにはじゃんけんで決めたと思しき食事当番の名前が書かれている。運が良いのかイカサマでもしているのか、銀時の名前はそう多くは見受けられなかったが。
 何にせよ、屯所の食堂に頼りっぱなしの土方にしてみれば立派なものである。基本ものぐさな男ではあるが、金回り以外の生活力はきちんとあるのだ。
 飯の味は、何度か相伴に預かった事はあるが、可もなく不可もなくと言った所だ。気が向けば結構に面倒な料理でも作ってくれる。それが、土方に良い所を見せようなどと言う見栄ではないのは純粋に好ましく思える点だった。
 何れにせよ土方にとっては、温かで美味しい食事を摂れるだけで充分に有り難い話だ。賄いの女性達が作ってくれる屯所の食堂も栄養のバランスをきちんと考えられているメニューなのだが、朝晩は忙しない事もあって余り悠長に味わって食べる余裕など殆ど無いので、余計にそんな事を感じる。
 照りの美味しそうな鰤をぼんやりと観察していると、やがて銀時が味噌汁を持ってやって来た。さっさと並べると、電気釜から白米を茶碗に盛りつけて、それから土方の対面に腰を下ろす。
 「さ。冷めちまう前に食おうぜ」
 「……いただきます」
 得意げになるでもなく促す銀時に頷きを返して、土方は出来立ての味噌汁を手に取り啜った。豆腐と葱のシンプルさが味噌汁自体の味を引き立てて、美味い。
 「…………そう言や、俺は夕飯まだだったが、お前もだったのか?」
 出汁の素ではなさそうだ、と味わいを憶えながら、ふと思った土方は時計を見上げる。時刻はもう22時に近い。夕飯と言うより夜食の時間だ。
 すると銀時は鰤の身をほぐしながら、「昼飯食った後気付いたら寝ちまってて。起きたらもう夜だよ、19時のニュース見て、7時だと思ってたからたまげたね」と嘘とも本当ともつかぬ事を言って笑ってみせる。
 「温泉行ってりゃ、今頃は広い風呂を堪能出来たのにな。勿体ねぇ奴」
 今銀時がここに、土方の目の前に居るのは、銀時なりの理由あっての事だ。嘘でも本当でも良いか、と思いながら、土方は態と自嘲する様にそう言って、醤油と味醂の利いた鰤の身を咀嚼した。
 銀時も、「余計なお世話だよ」と拗ねた様な調子で小さく笑うだけで別に何も反論はして来なかった。
 そうして夕食が終わってから、土方が皿の片付けを手伝おうとすれば、先に風呂に入ったらどうだと勧められたので、それに甘える事にした。正直週末の忙しさで、秋口とは言えそれなりに汗はかいていたので、早くさっぱりしたい所だった。
 「な、今日外泊届けは?」
 「解ってる癖に訊くんじゃねェよ」
 脱衣所に向かった所で銀時にそう問われるのに、土方は、ふ、と笑う吐息で返してやった。この分だとどうせ明日が非番だと言う所まで承知の上だろう。
 「ホラな?温泉なんぞ行かなくても、充分バカンス気分堪能出来そうじゃん」
 応える様に笑う銀時の表情は廊下からは見えなかったが、雄らしい欲がその内に熱の様に凝っているのを聡く聞き分けて仕舞い、土方は赤面しかかった顔をふいと背けた。別に浮かれる心算はないが、こうして二人きりで長時間をただのんびりと過ごすと言うのも、実に久し振りの話だと思えば自然と頬も熱くなろうものだ。
 全く。これでは銀時と二人きりになる為に、自分が温泉旅行の宿泊券を持ち込んだみたいではないか。
 「馬ぁ鹿」
 辛うじて、せせら笑う様にそう言い残して、土方は風呂場へと向かった。





餌付けされてる。

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