五棺桶島 / 1



 五度目の呼び鈴にも応える者はいなかった。
 六度目を押すべきか、土方は彼にしては珍しい時間の逡巡の末、結局立てていた人差し指を引っ込めた。煙草をくわえた侭口端を少し下げて息は吐かずに嘆息する。
 呼び鈴が壊れている、或いは聞こえていない、と言う疑いもあったが、そもそも家の中が静かすぎる事に気付けば、ひょっとしたら留守なのではないか、と言う尤もな可能性に行き当たる。無人の家を前に呼び鈴を鳴らし続けた所で誰が返事をする筈も無い。
 携帯電話を取り出し時刻を確認する。ディスプレイに表示されている数字は17時を回っている事を正しく知らせて来ていた。出発は今日の18時だ。出直している時間の余裕は無い。
 諦めるしかないか、と判断すると土方は携帯電話を閉じた。手元の器物を見て一瞬、電話をすると言う考えも頭に過ぎったのだが、生憎とこの家の電話は土方が記憶している限り通話しか出来ない旧い黒電話だ。留守電の類など残す事も出来やしない。
 とは言え、仮に電話に留守電機能が付いていたとしてもどうせ己の性格上、此処に今立っている理由のメッセージをわざわざ残すなどと言う真似はしないのだろうが。
 言いたいとは思うのだが何かを形にして残す気は無い。矛盾したそんな思考に潜んでいたのは、一抹の惜しさ──或いは寂しさだっただろうか。徒労に対していつまでも未練がましい、とそれを自嘲で一蹴すると、土方は返事の無い万事屋の玄関に背を向けた。
 出発まで一時間を切っているのだからこれから急いで支度をしなければならない。そう現実的な思考を働かせる事で、未練に似た感情を振り切って階段を下りると丁度階下のスナックの戸がからりと開いた。思わず足を止めると、丁度向こうも階段を下りきった所に立ち止まった土方の存在に気付き、僅かに目を瞠ってみせる。
 「おや。珍しいねェ。なんだい、また上の連中が何か厄介事でもやらかしたのかい?」
 指に煙草を挟んで肩を竦める女は、階下のスナックの女将だ。名前は寺田綾乃。尤もこのかぶき町では源氏名であるお登勢の方が通りが良いが。
 「いや、」
 別段気まずく感じる後ろ暗い事や悪い事をしている訳でもないのに──寧ろ自分の方がそれを取り締まる警察と言う立場だと言うのに──、土方は一瞬返事を言い淀んだ。日頃から銀時がババアババアと遠慮なく口にする印象もあるのかも知れないが、どうにもこのぐらいの年齢の女性は土方の余り得意とする所には無いのだ。
 尤もお登勢の側にしてみれば、土方が気後れする様な理由なぞ想像もつかない事だろう。これはただ、偶々家の前で隊服姿の役人と遭遇したと言うだけの些事でしか無いのだから。
 「違うのかィ。なら良いけどね。どの道アイツらなら暫く留守にするって出て行ったよ。悪いね、なんか用事があったんだろ?」
 言いながらお登勢は入り口の内側から取り出した暖簾を上げる。土方は眉を寄せたくなるのを堪えて、五歩そちらに近付いた。声が届くのに申し分の無い距離まで進むと、出来るだけ何でも無い様な調子で訊く。
 「用事って程の事じゃねェんだが…、ああ、勿論警察沙汰でも無ェから心配は要らねェ。その、万事屋…の連中はいつ頃出て行ったか、いつ頃戻るかは解るか?」
 「わざわざアイツらの心配なんてするもんかい。出て行ったのは一昨日朝早くだよ。犬だけウチに預けて出掛けてっちまったのさ。旅行って言ってたから、そうさね、三日四日は戻らないんじゃないかねェ」
 「旅行?」
 思わず素っ頓狂になりそうな声が出たが、首を傾げて考えながら答えるお登勢は、土方のそんな異変には幸いにも気付かなかった様だ。気付いていても気付かなかったフリをしてくれた可能性もあるが。
 「……そんな経済的な余裕がアイツらにあるとは思えねェんだが」
 可能性は余り考えない事にして、土方が失敗を隠す様にこっそり咳払いをし動揺しかかる心を抑えて言えば、お登勢も同意を示す様子で笑った。店内に仕舞ってある電灯入りの看板を引っ張り出して来ると、しゃがんでそこに巻いてある電源ケーブルを解いて行く。
 「確かにね。借金取りに追われて夜逃げしたって方が有り得そうだ。けどね、残念だけど本当に旅行だよ。何でも仕事の依頼主から報酬代わりにって、海の幸食べ放題付きだか何だかの宿泊券を貰ったんだって自慢してたからね。今頃腹壊すくらい食べてんじゃないかィ?」
 解いた電源ケーブルを壁にあるコンセントに差し込むと、お登勢はぱんぱんと手を叩きながら立ち上がった。少し呆れた様に笑って続ける。
 「旅費までは負担されない券だからって、ここ暫く電車や船の時刻表と料金表を必死で調べてたみたいだよ。まァ交通費ちょっと取られた所で後はタダ飯タダ寝ってんなら悪い話じゃないさね」
 「そう、か」
 万事屋の連中のそんな『必死な』様子を思い出したのか、肩を竦めて言うお登勢に、土方は辛うじてそう相槌らしきものを返す。想像以上に感情の伴わない響きだと己で思ってから、そんな心の矮小さに嫌悪せずにいられない。
 お登勢は僅か目を伏せた土方の方をそれとなく見ながら煙草の煙を燻らせている。話しながらも始終作業は止めなかったのだから、ひょっとしたら忙しかったのかも知れない。そう思って土方は軽く頭を傾けた。どの道もう徒労の理由ははっきりとしたのだ。ここにいつまでも呆っと立っている暇は無い。
 「忙しい所にすまねェな。教えてくれて助かった」
 「大したことじゃないよ」
 礼は思いの外固い響きだったが、お登勢は軽い調子でそう応えると軽く手を振る仕草を残して店の中へと戻って行った。程なくして中から何か賑やかな声たちが聞こえて来るのを、今度ははっきりとした溜息で遮断して、土方は屯所に向けての帰路を急ぎ始めた。
 全く、我が事ながら厄介な感情だと思う。それとも単に性格か。
 それは嫉妬や対抗心に似たものと、或いは子供じみた癇性の様なものとで出来ていた。面白くない、と率直な言葉になりそうだったものは頭の中で明瞭な形になる前に握って潰す。
 自分が暫く江戸を留守にしなければならないから、その事を銀時に伝えようと思ったからと言って、銀時にもそれと同じ行動をしなければならない義務など無い。
 たとえ出発前の余り無い時間を何とか捻出してここまで急ぎ足で土方がやって来たとして、徒労に終わったそれに対して憤慨を憶えるのは間違っている。これは飽く迄土方の事情であり感情なのだ。
 依頼主から貰ったものだと言うのなら、その食べ放題付き宿泊券とやらも万事屋の人数分しか無かったのだろうし、普段旅行だの休暇だのと言う言葉とは全く無縁の土方にわざわざそれを告げて行くのは嫌味なだけだろうと、銀時が勝手に判断でもしたのだろう。
 実際のところ、己の気性を思えば、仕事で忙しい最中にそんな事を報告されたりしたら苛立って喧嘩混じりに送り出す想像は易かった。それでも報告に来いとは言えやしないし、かと言って逆に、自分が忙しいんだから行くな、などと言えた筋合いでは当然無い。連れて行けなどと言う話は論外だ。
 (…………埒もねェ事を)
 どうにも面白く無いと思えた事実に気付いて仕舞い、土方はくわえ煙草に歯を立てた。
 付き合う、と言うには余りに密やかで易くはない、銀髪の男とのそんな関係性をこれまでに無い程の自己嫌悪と共に自覚しながら。







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