五棺桶島 / 2 真選組屯所の自室に戻った土方を迎えたのは、地味な造作の形作った困り顔の抗議だった。 「副長、一体どこ行ってたんですか!出発までもう時間無いんですよ?!」 妙に甲高く響く喚き声に背を向けて、渋面を隠した土方は隊服を脱いで行く。戻る時間は予定より確かにオーバーしているとは言え果たしてそんな大声で文句を言われる程の事だろうかとは思うが、その原因が私事に割かれてのものだと言う自覚は生憎とあるので、頭ごなしには言い返し辛い。 折角だから留守にする間にクリーニングを頼んでおけば良かったかと思いながら、皺にならない様に気を付けてハンガーに隊服一揃えを掛ける。予定では精々長くて五日もかからないだろうと言う話だが、実際行ってみなければどうなるかは知れない。…まあ何ヶ月と言う長丁場にはならない事は確かだろうが。 「準備する程の荷物なんざ無ェよ。物見遊山じゃあるまいし。それにどうせてめぇで準備とやら、してんだろうが」 「そりゃ、してますけど…」 任せて問題無いと判断しているのだ、と、労いも含めて、信頼らしき意味を乗せた口端を軽く吊り上げてみせれば、山崎はもごもごと反論しかかった言葉を呑み込んで、それからこっそりと横を向いた。溜息をひとつ。絆されたと言うよりも、時間についての抗議をこれ以上を土方に言い募っても無駄だと解ったのだろう。 隊服を掛けたハンガーを長押に引っかけると、次いで土方は同じく長押に掛けてある、普段着にしている黒い着流しを手に取った。さっさと袖を通し貝の口にした帯を後ろに回す。 これで土方の『準備』は終わりだ。姿見などこの部屋には無いが、身だしなみなど特に今更確認せずとも問題無いだろう。振り返れば、山崎も支度の完了を了解したのか、軽く頷いて寄越した。 「こちらが副長の分の身の回りの物になります。鞄やトランクの類だと目立つと思ったので風呂敷にしておきました。装備品に関してはひとまず俺が持ち歩きます」 「ああ」 押し入れの前に置いてあった、ほぼ四角に纏められた鶯色の風呂敷を示され土方はただ頷いた。先程自ら口にした通り、準備や中身についての心配は端からしてはいない。 一見すると到底昨今言う旅の荷物とは思えないそれを、土方は小脇に抱えた。布の感触と軽さからして、中身は下着類や、他にあったとして精々携帯食料程度だろう。煙草に関しては現地への持ち入りは危険だから止めろとは既に松平から言われているので、入っている期待は初めからしていない。所持している分を道中で吸い溜め──など出来やしないが──しておくほかあるまい。確か箱の中の残数は五本。到着前に軽く消える本数だ。 後は刀を帯に差せばこれでもう出発だ。山崎も自らの刀の位置を確認しながら鞄を手にする。それはほぼ布だけで出来た頑丈な背負い鞄だ。中身は土方の荷物とは異なり、重そうな質感である。曰くの『装備品』が入っているからなのだろう。恐らくは二人の命綱にもなる荷物だからか、その扱いは幾分慎重に見えた。 「じゃあ行くか」 「はいよ。急ぎましょう。道が混んでたりしててもいけませんし」 さりげない棘とも取れる山崎の言葉には軽く肩を竦めて返すと、土方は部屋を出て、裏口にある駐車場へ向かった。長距離電車の出る最寄りの駅までは覆面車輌に乗って出る予定になっているので、既にその用意が出来ている筈だ。 果たして車はエンジンを掛けた侭、土方と山崎の訪れを待っていた。運転手を任された隊士は、二人がなかなか現れない事に気を揉んでいたのか、車の外で落ち着かなさげに佇んでいたが、その姿を認めると背筋を正し敬礼の姿勢を取って見せる。それに、良い、と仕草で示しながら土方は草履を履いて車へと向かった。 「じゃあ、頼むぞ」 「はい。…あの、道が混んでいるかも知れませんし、少し急いだ方が良いかと」 後部ドアを開きながら、先頃の山崎と全く同じ忠告を寄越して来る隊士に、思わず苦々しい顔を向ければ素早く顔を逸らされた。そら見たことか、とばかりに山崎が溜息をつくのが聞こえたので、代わりにそちらを睨んでおく。 遅れたと言っても、かぶき町で数分を──玄関チャイム五回分の時間を──潰した程度の事だ。それ程大きな遅れでは無い、と土方基準では思うのだが、どうやら他の人間にとってはそうでも無いらしい。 改めて、時間を潰される羽目になった経緯を思い起こして仕舞い、土方は進行方向である前方では無く閉められたドアを向いた。頬杖をついて不機嫌に顰めかかる表情を何とか隠す。 「トシ、山崎!」 と、そこで聞き覚えのある声を拾った耳が意識をそちらへと向けた。パワーウィンドウのボタンを押すと、小走りの近藤が屯所から出て来る姿に出会う。 「出掛けるなら声ぐらい掛けて行ってくれ。見送りぐらいするから」 「見送りなんざ必要無ェって」 大柄な身の丈を少し屈めて窓を覗き込んで来る近藤に土方が笑ってそう返せば、近藤はいやいやとかぶりを振ってみせた。 「知らん土地での長丁場になるかも知れん視察だろう?頼む、と言う意味でもちゃんと見送りぐらいさせてくれんと困る。何せ、暫く会えない訳だからな」 「それ、アンタが寂しいだけだろうが」 「がっはっは。そりゃ、トシが何日も留守にするなんて事は今までに無かった事だからなあ。寂しいってのには違いねェ」 近藤の大らかな笑顔に、ちく、と痛むものを感じて、土方は表情を無理矢理に真顔に変えた。 「俺が留守だからって、女にうつつ抜かして余り仕事サボんなよ。あと総悟に余り好き勝手させとくなよ?戻ったら真選組がお取り潰しだった、なんてのは御免だからな」 「解ってる解ってる」 目をやや游がせる近藤に釘を刺すと、助手席の山崎がちらりと腕時計を見る仕草をした。それが時間が無いと言うアピールなのは言うまでも無く、近藤もその意味に直ぐに気付いて名残惜しそうに車から数歩離れる。 「じゃあな。遠い土地で勝手も違うかも知れんが…、どうか頼んだぞ、トシ」 「……ああ」 任せておけ、と言いかけた言葉は、またしても痛んだものを呑み込んだ事で出ては行かなかった。土方は近藤の、『副長の遠方への視察』を全く疑いもしない姿から目を背ける事も出来ず、ただ窓を閉じる事で無理矢理それを遮断した。 「少し、急ぎますね」 宣言した部下がアクセルを踏み、覆面車輌は真選組屯所を滑る様に出発する。ぶんぶんと子供の様に手を振ってみせる近藤の姿を遠ざかる屯所毎バックミラー越しに捉えて仕舞い、土方は三度目の痛みを堪えざるを得なくなった。 再び頬杖をついて口元を隠せば、自然と目が夕暮れの街並みを追った。通り過ぎて行く街灯とヘッドライトの光の帯を見るともなく見つめている、窓に映った己の顔を斜に睨みつけてから土方は目蓋を下ろした。 どうしたって、近藤と言う男に嘘をつくと言う事は、土方の胸に酷い罪悪感をもたらす。 それは最早慣れた感覚であるにも拘わらず、決まって毎回指先を針で突く様な不意な痛みとなって土方にその意味を自覚させて来るのだ。 大将を裏切る、と言う事。親友を欺く、と言う事。他者を騙す、と言う事。 どんな大義名分や理由があろうが、土方にとって毎回それが痛みを伴うのは、それに慣れてはいけないと言う事なのだろう。 (そもそもにして、近藤さんが容易く人を信じちまうのが、) 悪い、と思いかけて、違うか、と直ぐ様に否定する。そんな風に信頼を寄越すひとを──ひとたちを、平然と笑顔で、真顔で欺く輩である所の己の方が度し難い。 副長のスケジュールとして既に、今日の夕方から最大一週間の予定で地方視察に出向く事になっている事が通達されているし、それを知る者らにもそう信じられている。それは近藤ばかりではない、沖田もだ。そして今運転手を務める隊士もだし、同道する山崎以外の部下全てにも、だ。 それは嘘と言えば余りに小さな嘘だった。それでもそれは紛れも無い偽りだ。 (……俺は、万事屋に会って、何て言うつもりだったんだろうな) 不意に気付いたそんな事に、土方は手で隠した下でシニカルな笑みを浮かべる。 決まっている。同じ嘘を吐いたのだ。 ただ、出掛ける、と言う為に。そう言い残す為に、わざわざ本来つく必要の無かった嘘を置いて行こうとしたのだ。 真選組副長の地方視察、と言う『嘘』を。 それでも言って行きたかった理由は──、きっと下らないものに違いない。心配しないで欲しいとか、少しは惜しんでみせて欲しいとか、帰ったら迎えて欲しいとか、そんな他愛無く下らない感情。 (俺は、その為に嘘なんぞ残して行こうとしたってのに、てめぇは、) そこで車が停車する気配を感じて、土方は思考を中断して目を開く。車は駅前のロータリーに到着していた。助手席から出た山崎が戸を開けに来るより先に、自分で後部席を開いて土方は車を降りた。風呂敷を再び小脇に抱える。 「それでは、視察、お気を付けて行って来て下さい」 「ああ。近藤さんに宜しくな」 混雑する駅前だから、ロータリーに停車した車は長時間停まっていると他の車の邪魔になる。挨拶もそこそこに去って行く覆面車輌を、こちらも見送りもそこそこにして駅へと向かった。乗る予定なのは、普段ではそうそう利用しない様な長距離移動用の高速列車だ。指定席なので切符は予め松平の手配で取ってある。 時間に正確な列車は果たしてホームで出発の時を待ち侘びていた。時間は此処に至るまでのあれこれでギリギリだったのか、土方と山崎とが乗り込んで席を探し始めるなり高らかに発車ベルが鳴り響いた。流石にしつこいと思ったのか山崎は口に出しては何も言わなかったが、「間に合って良かったですね」と言いたげな様子ではあった。口にした所で黙殺されるだけと解っていたのかも知れない。 「移動中に車内販売で食事は済ませておきましょう。移動時間は大体二時間少々程度ですから、今の内に休んでおいた方が良いかも知れませんね」 「そうだな」 余り気のない相槌を打ちながら、漸く見つけた席に座る。平日の夕刻だからか客は多くない。その点は気兼ねなさそうだと、土方は荷物を隣席に置くなり懐から煙草を取り出しくわえた。 「副長、電車内は禁煙です」 「知ってる」 くわえているだけだ、と早口で続けながら、土方は唇の狭間で火を点けない煙草を揺らした。ヤニの匂いはするが、到底満足出来るものではない。とは言え吸わずに堪えられないと言う程でもない。今はまだ。 山崎はそんな土方の様子に、何を言っても無駄と矢張り判じたのか、露骨に溜息を吐きながら向かいの席に腰掛けた。土方と同じ様に得物と荷物とを隣席にそっと置く。 そんな山崎の形はと言えば、見慣れぬ、彼の好みでは無さそうな地味な着物と袴とを纏い、襟足の少し長い髪は項の辺りで一本に結んでいると言った姿だ。無造作な着流し姿の土方と並べば、その手にした風呂敷などの荷物と言い、少し時代錯誤な二人組に見えるかも知れない。 寧ろそう見えていなければ困る、と言うのが正直な所だったが、そんな二人組が最新の高速列車に乗っていると言うのはなかなかにシュールな画かも知れない。そんな事を下らなく思って土方は煙草をくわえた侭息を吐いた。勿論火の点かぬ煙草は煙を吐き出す事は無く、ただの溜息として紙の筒を素通しした。 「……あの、副長」 やがて、おずおずとした声を山崎が上げるのに、土方は意識と視線とをそちらに傾けた。 「何だ」 「今日…と言うか先程からですけど、ひょっとしなくても何かありました?気分を害する様な何か」 「……………」 地味な風貌の癖に鋭い指摘に、土方は肯定も否定もせずただ片方の目を眇めてみせた。暗に、正解だ、と言っているも同然だとは気付いたが、どうせ指摘されている以上、下手に言い繕うのなど山崎相手には大して意味など無い。 案の定か山崎はこの件についてそれ以上を深く掘り下げようとする事はしなかった。土方の機嫌が余り宜しく無い、とだけ知れればそれで良いと言う事なのだろう。それとも単に、訊き出す迄も無いとでも思ったのか。それから続けて口を開く事はなく、一旦座り直すと遠くに視線を逃がして仕舞う。 或いは、問いた所で誤魔化されるか嘘をつかれるか気休めを投げられるかの何れかだと解っているからなのかも知れない。嘘をつかれるぐらいなら、何も言われない方が余程マシだと思える事は多い。 (……多分、) 銀時も嘘はつかなかっただろう。どうせたかだか数日の事だ。今生の別れと言う訳では無い。 それでも自分はきっと嘘をついて行きたかったのだろう。それを理由にしたかったのだろう。そうして安心したかったのだろう。 アンタが寂しいだけだろう、と近藤に向けて口にした言葉を思い出して土方は苦笑した。それは寧ろ苦笑と言うより苦味そのものでしか無かったが。 図星だ。 江戸と言う、真選組の、己の常識の及ぶ土地を離れ、危険しかない任務につく事は思いの外に土方に不安感を憶えさせる事だったらしい。 何しろ、警察と言う身分も幕府の威光も通じない土地へと赴くのだ。裸に刀だけ持たされ放り出されるのに感覚としては近い。 ここ数年、真選組と言う名に、立場に、平和な社会に慣れ過ぎていたからか、たったそれだけの事でさえも、果たして大丈夫なのだろうかと懸念が翳りを差す。 ふと高速で景色の遠ざかる窓の外へと視線を投げれば、ターミナルの威容を抱えた江戸の街並みが瞬く間に遠ざかって行くのが見えた。名残惜しげに首を巡らせる土方に、向かいの山崎は特に軽口を叩くでもない。だが恐らくは同じ様な懸念を抱えているのだろうとは落ち着かなさげな座り方からも知れる。 その事を口にしかけて、然し直ぐに喉奥に忘れる。自らの不安をわざわざ他者に、意地の悪い指摘を通して伝播してどうすると言うのだ。 この国は近年の江戸の目覚ましい発展と裏腹に、地方との文明格差が未だ大きい。その手の及ばぬ土地は、決して未知では無いが絶対の安全保障がある訳では無い。殆ど揺れの無い高速列車は、そうやって忽ちに安全圏の外へと土方達を連れ出して行って仕舞った。容易いものだと思う。 (願わくば、嘘がその侭真実として残る事、だな) 全く関係の無い事の様に思える、そんな結論は土方の憂いた心を少しは持ち上げる役には立った。『地方視察と言う嘘』は、『地方視察と言う嘘』のスケジュール通りに事さえ運べればその侭罷り通り続ける『事実』になる。故に、嘘に無理が生じる前に全てが片付けばそれで良い。不安の材料も懸念の事柄も無く、ただ言われた通りの任務をすんなりと終わらせる事が出来れば、それで。 (……気休めだろうが、出来れば易々と行きてェもんだ) 携帯電話も通じない、遠方への真選組副長の視察。その通りにする為には、これから待ち受けている限りなく未知に近い任務をつつがなく終わらせると言うかなりの希望的観測と楽観的な思考とが必要だった。 地方視察。食べ放題の旅行。そんなものだったらどんなに良かったか。 バカンスだ、などと抜かして寄越した上司のサングラスを叩き割ると言う想像も余り心の慰めにはなりそうもなく、土方はここに来て直視する羽目になった自らの畏れに向けて自嘲した。 「『家』を出るってのは、想像よりも易くは無ェもんだな」 それは殆ど独り言でしかない呟きだったが、上目でちらりと土方の表情を見てから、山崎はわざわざ明るいトーンの声を作って応える。 「まあ、何しろ行き先が『江戸』じゃないですしね。印籠翳して何とかなっちゃうご老公って訳にも行きませんから」 「印籠を出すにも至らねェのが理想だがな」 返る、ささくれた自覚のある土方の素っ気ない言い種に、山崎はほんの僅か苦笑した様だった。然し矢張り無駄口は挟まずに小さく一言だけ、 「そうですね」 そう同意だけは示して、背もたれに身を預けると決して軽くは無い吐息を落とす。 不安か心細さか寂しさか──何でも良いが、江戸をどんどん離れ往く現状、それが何をした所で晴れる事は無いのだろうと自覚して、休むと言うには程遠い強張りを背負った侭に腕を組んで目を閉じる。 二人の向かう目的地は、公式記録では無人島とされている孤島だ。 江戸幕府の威光も、警察と言う役割も、侍と言う言葉さえも通じないと予め知らされてた、そんな想像のつかぬ地を思うと言う不毛極まりない作業に土方は時間を割く事にした。 どうしたって慣れた地へと帰ろうとする意識を巡らせ続けるよりは、その方が余程建設的に思えたのだ。 。 ← : → |