五棺桶島 / 5



 遙か宇宙から見下ろせば大体瓠形に見えると言う、その島に正式な名称は存在していない。一番近くの有人離島に棲む人々は、島を囲う海流が複雑で人を寄せ付けぬその性質を以て鬼ヶ島などと呼んでいたそうだが、その名付けも時代の変遷や人に因ってまちまちに変容する、所謂通称でしか無い。
 記憶に記す程度であればそんなあやふやなものでも別段構わなかった。元より人の易々渡り棲める島では無かったのだ。名が有れど無かれど、どんなものであれど別段困る者は居なかった。
 攘夷戦争の頃に、その無人離島を要塞代わりに引き籠もろうと言い出したのは、元々この辺りの離島出身の攘夷浪士であったと言う。彼らは仲間や故郷の人間たちを誘って島へと渡り、その侭完全に孤立した閉鎖社会を築き上げた。
 攻めるも容易では無い要塞に引き籠もると言う事は、籠城戦と同じだ。籠城は籠もる場所が戦略的な拠点や周囲の戦局の苛烈な状況では最も厄介な戦い方の一つだが、幕府はこの小さな叛乱を田舎の僻地の事と軽視した。故に取った手段は──放置。
 ところが直ぐに片付くと思ったその小さな叛乱は、本土にて攘夷戦争の終結を見た後も猶密かに続けられて仕舞い現在に至る。
 戦の終結を見た後に再び火種をばら撒く愚行を犯したくなかった幕府は、問題の島を完全に隠匿する事でそれを隠そうとした。つまりその時選ばれた手段もまた──放置。
 元々が海底火山に因って形成された離島であった故に、火山性ガスが出ていて人の住める環境ではなくなったと公式に記録を残しながら、民衆に向けた地図の類には一切その存在の記されていない島。
 江戸幕府がその島について行った放置以外の手段は、外部との完全な遮断の継続と、島に呼称を与える事だった。
 "い號離島特区"。それが極秘資料などに記される、問題の島に幕府が与えた正式名称である。
 (鬼ヶ島の方がなんぼもマシだな)
 号数で呼ばれる様な味気ない島名なら、少々聞こえは悪くとも地元でのみ知られる通称の方が余程良かったと、そんな事を思いながら土方の足は件の島の土を踏んだ。い號離島特区上陸、よりも、鬼ヶ島上陸、の方がこれから就く任務には多分に相応しい。
 生憎と己は桃太郎では無いが、と何処か投げ遣りな気持ちで考えながら、小型艇に積み込んで来た荷物を手に取る。
 「ヒトハチマルゴ、目標に到着。『積荷』を下ろし次第帰投します」
 小型船舶に搭乗している土方と山崎以外の人員二名の内、操船を行っていた片方が手にしたレコーダーに作戦開始の時刻を吹き込むと、もう片方は狭い上に揺れる船上だと言うのに器用に立ち、島に下ろされた『積荷』こと、本土から遠路遙々やって来た真選組の人間二人に向けて軽く頭を下げた。
 「日没は二時間程後になります。それではご武運を」
 「…ああ」
 「どうもお世話になりました。迎えが必要な時にはGPS発信しますんで帰りも宜しくお願いしますね」
 適当に頷く土方の後を継ぐ様に山崎が愛想よく笑えば、相手も釣られてほんの少しだけ表情を緩めた。
 彼らは幕府直属の、江戸以外の地方でのこう言った部外秘の厄介事担当の人員たちである。常時のい號離島特区の観測と記録とを行っているのも彼らだと言う。離島と言う環境故に、何度も短期間に住民が入れ替わるのは不自然だと言う事で、人員交代は数年に一度になるそうだ。
 作戦行動についての事以外にもそんな雑多な話をしつつ、一次離島での合流から件のい號離島特区までの半日程度を彼らと行動を共にした訳だが、彼らも江戸から来た武装警察二人組のうち一人は矢鱈と地味だが愛想が良く、もう一人は勤勉で無愛想な人間だとはとっくに理解している様だった。因って山崎がフォローめいた事を口にせずとも、土方の簡素な返答にも特に気にした様子無く彼らは任務に従って船を手漕ぎで操船し島から少しづつ遠ざかって行く。
 エンジンを搭載した小型艇だが、島の近くでは幾ら人の住みそうもない山側の地形からの接近とは言えど島民に気取られる可能性もある為、エンジンを切って手漕ぎで接近しなければならないのだ。幸いにと言うか、島を天然の要塞たらしめている海流は島に一定距離近付けば穏やかになっている為、手漕ぎのボートの類でも近付くのはそれ程難しくないらしい。とは言った所で素人には簡単にはいかない事なのだろうが。
 島にも小さな船着き場がある事を考えると、島周辺で島民が多少程度に漁を行っている可能性は十分にある。万一でも人目につかぬ様にと、船を見送った土方と山崎は早速行動を開始した。波の打ち付ける岩場を少し進むと、崖下に大きな窪みがある。足下が水に浸ったその窪みの先には小さな洞穴がぽかりと口を開いていた。
 若干斜め上へと伸びた横穴に入ると程なくして水の気配は遠ざかる。同時に洞の入り口から光も殆ど差さなくなるので洞の中はほぼ真っ暗になるが、山崎が持参して来た小型のアウトドア用の洋燈を灯すと視界確保には申し分の無い程度の明かりが洞の中を照らし出す。癖でライターを探して懐をまさぐっていた土方は、揺れる火種に照らし出された洞穴の中でこっそりと寄せた片眉を持ち上げた。
 「古風だな」
 「LEDの洋燈を持ち込むのは駄目だって言われましたからね。仕方ないですよ。でも携帯フラッシュライトは良いって言うんだからよく基準が解らないんですけど」
 鞄を下ろして早速荷を開けた山崎はその、小型の懐中電灯サイズのフラッシュライトをひらひらと振ってみせながら肩を竦める。ごつごつとした岩壁に照らし出された影が思いの外に大きな動きでそれに追従するのを横目に見つつ、土方は取り敢えず手近な所に腰を下ろして刀を置いた。
 足下は少し湿っぽい気がするが濡れていると言う程では無い。潮の匂いが近い所為か空気が生臭く感じられるのはいまいちな点だが、当面何時間かそれとも数日か、身を潜める場所としては悪くなさそうだ。
 島民もこの洞穴の事を知っている可能性はあるが、ここは瓠型をした島の片端に当たる、便宜上西山と呼ぶ山の崖下に位置している。島の内陸側からでは登山し切り立った崖を下るか、海沿いの岩場を越えて来ないと辿り着けない位置にある上、島の密かな調査を行い始めた頃から人の出入りの気配は無かったと言う。
 島民に侵入者の存在が発覚すれば、その時は隠れ場所を探し出す候補としてこの洞穴が上げられるかも知れないが、人間の足で訪れるにはそう易くは無い為、普段から誰かが好んで近付くと言う事は無さそうだ。
 潜入プランでは、当面この洞穴をキャンプ地として荷物を隠し、調査時以外は身を潜めると言う手筈になっている。島で別行動を取った時もここに戻ってくれば合流出来るのは確実だろう。
 なかなか良物件だな、と皮肉めいた思考で考えながら、土方は広さ三畳未満の小さな洞穴をぐるりと見回した。陽が差し込まず、水が近いのもあって少し肌寒いが、持って来た荷物には耐寒耐熱対応のシュラフにもなる毛布が入っているので大丈夫だろう。逆にそう言ったものが無ければ日没後の冷え込みで身体を壊して仕舞うかも知れない。
 袂の中に引っ込めた手で二の腕を軽く擦れば、土方のその動作を寒さに因るものと正しく解した山崎は掌大の固形携帯燃料と琺瑯のポットを荷物から取り出した。洋燈の火種を携帯燃料に落として火を点けるとその上に五徳を置き、飲料水を移し入れたポットを設置する。携帯燃料は殆ど匂いや煙の出ないものだ。
 そうして湯が沸くまでの間に粉末の茶をカップに入れて、山崎が手際よく茶の準備を整えて行くのを手持ち無沙汰に土方は見ていた。ここに至る迄に幾度となく捲って読み込んだ『旅のしおり』を読み返したい心地になるが、流石にダイレクトに指示や計画の書かれたものを島に持ち込む訳には行かないので、上陸前に処分して仕舞っている。気を紛らわす煙草でさえ一本も所持していない。見事なぐらいの無い無い尽くしに、暇を持て余す以外の時間の潰し方が出来そうもない。
 「それにしても、とんだバカンスになりそうですね」
 「…全くだ」
 そっと溜息を吐き出せば追従する様な山崎の軽口が寄越されて、土方は苦味しかない笑みを作ってかぶりを振った。出張手当も有給も無い旅はどう転んだ所で損をした心地以上のものを押しつけて来る。これならば本当にどこか遠方へ視察に赴き仕事に立ち働いている方がマシだ。
 勿論の事最良の話は、江戸でいつも通りの、慌ただしく忙しく寝る暇も碌にない様な生活にこそあるのだが。
 「ま、する事も特に無いですけど、日没まで休憩がてら大人しくしてましょう」
 すればまるで土方の心でも読んだ様に山崎がそう言って、湯を注いだカップを手渡して来た。本来乗り気では無かったのだと遠回しに看破されるのは今更の事でしか無かったので、土方は肯定も否定もせずに無言でそれを受け取った。掌の中で温かいその温度を、飲まずに暫く持って暖を取る。
 まるでキャンプか何かの様だと思えば苦笑すら浮かばない。バカンスと言う巫山戯た命令と視察と言うお題目の向こうでは、嗜好品すら碌に楽しむ事を許されない厄介で不向きな任務が、キャンプやサバイバルと言った性質を供えて待っていたと言う訳だ。
 と、幾ら愚痴めいた事を思った所で、任務は任務だし時間も過ぎて行くばかりだ。なればこそ、出来るだけ早く事を済ませて帰りたい。
 (標的が島の何処に居るかさえ定かじゃねェ状況だが、この狭い島の中でカミサマぶってるってんなら、大体調べる対象は限られる)
 そう、事務的な思考で思い浮かべる、脳内にすっかりと暗記した地図の上では、瓠型をした島の西の山──この洞穴の遙か頭上に当たる──の山頂にあると言う人口の建造物(恐らくは社か何かだろうと推測されている)をまず調べるべきだと言う考えでまとまっているし、それを提案した時に山崎も同意している。
 (あと、二時間程度、か)
 先頃分かれた連中に言われた事を思い出しながら洞の入り口の方を見遣るが、角度が悪く外の様子はここからでは伺えそうもなく、仕方なく土方は想像だけで傾いた陽を水平線に背負った海を視線の向こうに描いた。
 日暮れの海など観光として見るなら最高の光景だろうとは思ったが、今の状態ではどんなに美しい風景を見た所で己の心が安まる筈は無いだろうなと皮肉の味わいを楽しみながら、土方は両手指を温めているカップにそっと口をつけた。大分冷めた薄い茶の味は想像以上に良いものではなく、その事に土方はまた、浮かびそうになる渋面を堪えなければならなかった。
 
*
 
 言われた通り二時間程度の後には、陽は水平線にとっぷりとその姿を沈めていた。月と星との僅かな灯りの下に横たわる真っ暗な世界には、耳にいっそ静かな程の波音しか聞こえて来ない。船の中で憶えたそれよりも遙かに不気味な感覚に土方は密かに背を震わせた。文明の気配と音との遠い世界と言うのはこんなにも得体の知れないものと感じられるのだろうか。
 「足下には気を付けて下さい、滑りますんで」
 「ああ」
 先を行く山崎が光量を絞ったフラッシュライトで照らす足下を見つめながら、土方は慎重に波打ち際に近い岩場を進んだ。特別困難な道程と言う訳では無いが、道無き道である事に変わりはない。
 二人が取り敢えず目的地に選んだのは西山の山頂であり、今の所そのプランに変更は無い。因って、一旦西山の麓に位置するキャンプ地(の洞穴)を波打ち際の岩場に沿って回り込み、適当な所から登山すると言う予定だ。島民の睡眠時間などと言うものは不明だが、調査の限りでは西山の社には余り人が立ち入っている痕跡は見受けられないと言う。
 標的、もといカミサマを標榜していると言う天人の潜む場所としては、在り来たりだが有り得ないとは言い切れない。山は森が深く、どんな動物が棲んでいるとも知れない。夜目の利かない時間帯に探索すると言うのは無謀極まりない話だが、極力隠密で行動しろと言うお達しなのだから致し方あるまい。
 どの道勝負は短期決戦を求められている。予め調査をして慎重に事を運ぶなどと言う手順を求められていないからこその、荒事に向いた人間の選出なのだ。
 いっそ特殊部隊でも送り込んでくれ、とは思わないでも無いが、生憎と現在の幕府にはそう言った用途で結成された組織には、公のものは存在していない。明らかに不向きであろうが、松平が持ってきた時点で最早諦める以外の選択肢は無い。最悪、おおごとにしようと言う意図の人選である可能性も否定出来ないのが悲しい所だ。
 静かな夜の囁き声は波音よりも響く。故に愚痴ひとつこぼせず胸中に抱えながら、土方と山崎とが道無き道を行く事暫し。二人はかねてからの計画通りに西山の麓から拡がる森の中へと入り込む事に成功していた。
 視界ほぼゼロの中で下手な灯りは目立つ。殆ど光量を絞ったフラッシュライトの示す足下に申し訳程度の山道を発見した所で、これもまた手筈通りに二手に分かれる事にする。山崎は予備の、指程度の大きさの電灯を取り出すと、今まで足下を照らして来たフラッシュライトを土方へと手渡しながらも心配そうに口を尖らせて言う。
 「じゃあ俺は集落の様子を探って来ますんで、副長は山頂の社とやらの方をお願いします。とは言っても未だ遠目に伺う程度で構いませんから。本ッ当、余計な事はせんで良いですからね」
 「煩せェな、ちゃんと弁えてるよ」
 子供に向けた釘の様に力を込めて言われ、思わず口端を下げた土方は面倒臭さを隠さず返して舌を打つ。正直ヤニ不足でストレスも溜まっているので、いざ標的に繋がる何かを目の当たりにしたら弁えなど出来る自信は余り無い。
 「ただでさえ標的に関する情報も、島に関する情報も少ないんですから、迂闊な事をすると面倒事を被るのは結局自分らって事になりかねませんからね」
 二本目の釘に肩を竦めて頷きを一応返せば、山崎はここで押し問答をしていても仕方がないと思ったのかそれとも単に諦めたのか、「くれぐれもお気を付けて」そう、最後には少し神妙な声音で言って木々の狭間へと姿を消した。
 監察とは言えど山崎は隠密の本職に就いている訳では無い。故に勝手が違う場所での任務と言う意味では己とそこまで差は無いだろうと土方は思っていたのだが、夜の森の中に然程の足音も立てず潜って行くのを見れば存外にそうでも無かったらしい。
 (まあ俺も、ガキの頃は立派に田舎育ちだしな。こう言った場所の散策に不慣れって訳じゃねェが)
 負け惜しみの様に声には出さずにそう呟くと、土方は刀の位置を少し直してから山道の直ぐ横の木立の中を歩き始めた。辿るのは山崎の向かったのとは反対方向、山頂に続くと思しき道だ。
 曲がりなりにも人が通れる『道』の体裁を持った場所だ。道があれば人が歩く可能性はゼロには出来ない。万一にでも鉢合わせをする訳にはいかない。
 道を行くよりは音は立って仕舞うが、元より夜の森の中は何処からでも音がする。鳥の、虫の、小動物の、風の、あらゆる音たちの中では、己の足音も、道の向こうからやって来るかも知れない何者かの足音も大差なかった。
 (とっとと片付く様なら、それこそ『弁え』てなんざいられねェが…)
 出来るだけ、叶うならばとっとと、この意に沿わない任務を片付けて戻りたい。江戸の、己の最も落ち着く場所での忙しい日常に戻りたい。その本音は矢張りどうしたって変わり様が無い。
 とは言えあれだけ釘を刺されておいて、短慮を冒したと咎められるのは御免だ。そうなると慎重に、警戒は怠らずに徐々に進んで行く他無いと言う、余りに他愛の無い現実を思い知らされる。
 それ自体がそも不満の一つだ。向きか、不向きか、と言う適正の面で、主に。どこぞの監察でもあるまいし、闇に潜んで行動したり探りを入れたりするのは土方の領分では明かに無いのだから。
 来るなら来やがれば良い。結局はそう好戦的な思考に着地する事にした。




某島が存在イメージ的にちょっとモデル。

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