五棺桶島 / 4 列車に揺られること二時間少々。到着した、江戸を離れた港町から定期便の大型フェリーに乗って離島へ向かう。旅行とでも思えば、酷い揺れに慣れない船旅もいっそ楽しもうと思えるのかも知れないが、生憎と旅程の間中は土方の頭から任務(しごと)と言う手順以上の気鬱さがついて離れる事は無かった。 件の島へは今フェリーの向かっている離島から、更に松平の手配した小型艇を使って近付く必要がある。合計すれば船旅だけでも正味丸一日近くかかると言う話だ。しかも、海の天候次第ではもっとかかるかも知れないと言う。 航空機でも使えればその半分以下の旅程で済むのだが、文明を拒絶した島に飛行場などと言うものがある訳も無い。船着き場らしきものはある様だが、それも小さな手漕ぎの漁船を係留しておく程度のものでしか無いらしい。らしい、と重ねて言うのは、手元でここ数時間延々と睨めっこしている『旅のしおり』もとい、任務の詳細の記された資料にそう書かれているからである。 本土から離島へと渡る大型のフェリーは荷物や観光客を運搬する定期便で、土方と山崎の他にも何人かの客が居た。通勤などの事情で本土との往復をライフサイクルにしている島民も居れば、それこそ観光目当ての者らも居り、皆一様に数時間に及ぶ夜行の質素な船旅を楽しんでいる様だった。 フェリーには広々とした共通の休憩スペースがあったが、人の集まる場所である為に長時間そこに滞在するとそれなりの世間話の必要が生じる。何分密閉空間の中の多くは無い人数だ。それに加え航行時間の長さ故に些細な事でも娯楽にしたいと思う者は少なくない。山崎は上手い事適当な嘘混じりの会話をするが、基本が無愛想な土方ではそれも難しい。況して任務の最中で気が立っているのだ、必要以上の気苦労は出来れば負いたくは無かった。 その為土方は狭い個室に篭もりきりで時を、松平から受け取った旅のしおりこと任務詳細の資料をひたすら読む事に費やした。何度も読み直した文面には今更新たな発見がある訳でもなく、況してや実際の島での行動には綿密な計画書など無いのだ。未知の土地では現場の判断で動くしかないのだから、資料を幾度読んで何を予め想像して計画を練った所で意味など殆ど無い。 自分が船に酔う体質では無くて良かったと、余り意味の無い安堵を新発見として得た所で、土方は資料をもう一度表紙へと戻した。船酔いする人間は活字を読む事で余計症状が酷くなると以前何処かで聞いた様な気がする。何となくそんな話を思い出したのだ。 その事で己の集中力が途切れかけているのを自覚しながら、土方は既に何度と無く捲った資料の頁を繰る。活字を幾ら追った所で船酔いする体質では無いのだから、読むのを止める選択肢を特に選ぶ必要も無い。 既知の通り件の島には文明の一切の流入が無く、人間の行き交いも無い。島民の生活水準は天人来航前の離島の寒村と言った程度。何十年も外部との交流を一切断ち、時間の停止した世界ならばそうなるだろう。 島の付近の海流は余り穏やかでは無く、漁業での生活は難しかったと言う。それもあってか、はたまた島を出れぬと言う掟や恐怖でもあるのか、現在の島民たちは畑作などの一次産業で糊口を凌ぐと言う、原始的な生活を送っている様だ。現代風に言えば自給自足の田舎暮らしと言った所か。 当然だが島には天人来航以降の文明物の一切は存在していないので、単独任務で最も頼れるべき道具である所の携帯電話は物理的に使えない。万一を考え、緊急用のGPS信号発信装置は荷物に潜ませて来ているが、それは連絡手段と言うよりは緊急時の救難信号──脱出用のものと言った役割が強い。つまり島での行動には一切外部からの手助けの類の期待は出来ないと言う事だ。 文明の無い島では音や信号を発するものは目立つだろうからと、山崎の用意した物品にあからさまに文明を逸脱した様な利器は多く無い。小型の充電可能なフラッシュライト、双眼鏡、水で戻せる固形の携帯食料や保存食や燃料、水のペットボトルなど。それらを詰めた鞄も布だけで出来た物にしてある。万一荷物を島で紛失しても、それ程大きな問題は起こらない様に考慮はされている。 それに加えて鞄を背負う山崎も、土方も隊服ではなく私服の着物姿だ。刀だけは二人とも所持しているとは言えサバイバルにも隠密にも到底向いた恰好とは言えない姿だが、これならば万一島民に見咎められる様な事があっても、近海で船が難破し流れ着いたとでも誤魔化せるだろう。無論、発見されない事が第一だが。 実際、島の近海での難破事故などで行方不明になった人間の幾人かは恐らくこの島に漂流しているだろうとされている。島の存在が表沙汰にされていない為にそれは推定事実としても公表される事は決して無い。その漂流者である所の彼らがどうなったのかは不明だが…、島の新たな血として迎え入れられたか、天人の仲間と見なされ処刑されたか。何れにしても哀れな漂流者達には碌でもない未来しか用意されていなさそうだ。 そんな哀れな漂流者の仲間入りはしたくないなと思いながら、土方は幾度と無く集中力の途切れる意識を船の小窓の外へと向けた。ぶ厚い硝子越しの不明瞭な視界の中はその果てに至るまで、吸い込まれそうな程に真っ暗な海が続いている。先には島影は疎か何も見えない。波音とフェリーのエンジン音しか聞こえない中では、何だか気がふれて仕舞いそうな不安感がある。 煙草が無いからだ、と投げ遣りな結論に答えを持っていったのは、それが今の己に最もしっくりと来そうな気がしたからだ。土方は自らの唇を指の腹で幾度かなぞると頬に自嘲を形作った。苛立ったり不安がったりしては常識的に足下を見つめて少しでも縋る術を探す。全く、江戸と言う慣れた地を少し離れただけでこんなにも頼り無く感じられるものなのかと思えば抱えた気鬱さも嵩を増す。 (まあ、不安にぐらいはなるか) 闇しか視界に映し出さない窓から視線を手元の紙面へと戻し、土方は指先でとんとんとその表面を叩いた。そこには今回の任務の為、先遣として島に上陸し帰還した斥候の持ち帰って来た島の簡単な情報──必要最低限の、知れた限りの情報の書かれた手書きの地図のコピーが綴じてある。 計画の手順としてはこうだ。朝早くに離島に到着した後、現地で待機している幕府の調査班の人間と合流。昼過ぎには小型艇で出発し、島の山側から接近。最終的にはエンジンを切って手動で漕ぎ着ける。土方と山崎の現地行動要員を下ろした後、船は帰還。二人は陽が沈むまで海沿いの岩壁にあると言う洞穴で待機し、夜になったら本格的に行動開始。 簡単に言う、と。書かれた計画書に幾度と無くついた悪態は至極尤もな土方の本音ではあったが、現状それ以上に有効そうな作戦が立てられる訳も無い。 地図自体は数日前の調査で得た情報だと言うから信頼度はそれなりにありそうだが、調査目的の隠密行動を目当てにしていた為にか、地形以上の情報がそこに無いのは惜しまれる点だった。せめて標的の神様──もとい、天人が何処に居るかだけでも解れば楽なのだが。 「戻りました。あれ、副長また資料読み返してたんですか?何度目です?」 これもまた幾度思ったか知れない愚痴をこぼして土方が際限のない溜息をついた丁度その時、扉を開けて山崎が戻って来た。それを期に土方が時計を見遣れば、時刻は既に20時を回った所だった。食事を終えた土方が部屋へ戻ったのは19時前だったので、山崎は一時間は外で潰していたらしい。 「何度読んだ所で落ち着くもんでもねェんだ。なら気が済むまで読むしかねェだろうが。…で、お前は何だ、観光客と世間話か?」 不安をらしくもなく口にし苛立ちに転化している事に途中で気付いて、土方は会話の矛先を山崎への棘へとすり替えた。それには気付いただろうに、山崎は無用に突く様な真似はせずに頭の後ろを掻いてへらりとした笑みを浮かべる。 「いやー、話好きのおばちゃんで困りましたよ。延々喋りっぱなしなんですもん。まぁ現地の情報は残念ながら全く得られなかったんですけどね」 困り顔を正直に作って空笑いでそう言うと、山崎は二段になった寝台の上へと登った。程なくしてがさごそと音がし始める。荷物の点検でもしているのだろうと思い、土方は幾度となく読み返し、今やすっかり内容を暗記しつつあった資料と計画書のファイルを閉じた。固い枕の下に突っ込むとその上に後頭部を乗せて息をつく。 脳が忙しなく動き続けているからか、何もしなくなったと言っても眠れる気はして来ない。手探りで刀を掴むと胸の前に抱え直して、壁の方へ寝返りをうつ。 上の山崎の立てていた音は僅か数分足らずで静かになった。それはそうだろう、中身の既に知れている荷など幾ら確認した所で何かが起こる訳では無い。増えるとか減るとか。突然壊れるとか無くなるとか。何れが起きても大問題だが、そもそも何れもが起こらない事が前提だ。起こった時点で計画は色々な意味で破綻する。下手をすれば出直しも考慮すべき事態になるのだから、荷の中身の管理は準備段階から徹底していた。 故に、今更の荷の確認など暇潰し程度の作業でしかない。思って土方は不器用に口端を歪ませて苦笑した。その暇潰しとほぼ等価の作業を延々と繰り返していたのは自分の方ではないか。 再び寝返りを打てば抱えた刀がかちゃりと音を立てた。騒々しい波音とエンジン音との間でいやに響いた気のするその警戒音を誤魔化したくて、土方は手を伸ばして低い寝台のカーテンを少しだけ引いて視界を暗くする。そうして無理矢理に目蓋を閉じれば、巨大な怪物の鼾の様なうねる波音が視覚情報を遮断した脳の中で重たく反響した。江戸の中心地は比較的に沿岸に位置しているが、海になど昔からとんと縁がない。況してこんな遠洋に出る事なんて今までの土方の人生では無い経験だ。 本当に、いっそ旅行だと思えれば新しい発見を楽しむ事が出来たのかも知れない。静かで周囲に何も無い海の直中は、まるで怪物の腹の中の様だとか。そんな下らない感想を、帰ってから語れれば。 ……否。楽しむ気分など全く無い旅路の思い出話など口にしてどうすると言うのか。 「眠れませんか?」 思考でさえも土方の脳を離れ勝手に夜の暗い海を一人で適当に歩き出す。その事に土方が気付いて寝返りを打った時、タイミング良くも上からそう声が降って来た。 「煩かったか。すまねェな」 落ち着き無い、不安な小動物の様にしていた事を看破された気がして、土方は唇を尖らせて言うが、返る山崎の声は落ち着いて穏やかであった。 「いや、そう言う訳じゃないですよ。俺もそうそう眠れそうもないですし」 「てめぇでも、海の音を煩く感じるのか」 「俺でも、ってどう言う意味ですか。そりゃこんな音や揺れは慣れないですしね、それも一つですけど…」 「じゃあ何だ、寝辛いとか?時間が早いとか?」 言いながらもそれは無いと答えは既に知れている。軽く片眉を持ち上げて、土方は自分には天井に当たる山崎の寝台を見上げた。この狭い個室の寝台も固くて寝心地悪いことこの上無いのだが、監察として潜入や不自由な場所での滞在や、生活リズムが真っ当ではない生活に慣れている山崎がそんな事を今更苦にするとは思えない。 問いを重ねる事で、問われるのを避けようとしているのだと己で気付いた土方は眉間に皺を寄せる事で自身への嫌悪を示したが、上で横になっている山崎がそんな事に気付く由も無く。 「それも少し違います。副長もそうでしょ。先の見えない様な潜入任務が怖くない訳無いじゃないですか」 「……」 土方は山崎を監察に適した鋭い洞察や地味な部分で特に評価しているが、それ以外の部分、無用な聡さや感情の機微を読めると言う所も買っていた。そしてそれなりの経験上、山崎がこの任務に対して土方の感じている不安や畏れと言った類のものに気付いていない筈は無いと断言出来た。それだと言うのに憚りも遠慮も無く指摘され、思わず露骨に舌を打つ。 「アンタがこの任務に向いてない事も、難色を示してる事も解ってますよ。でも、ここはアンタよりこう言った事に幾分長けた俺が居るんです。出来る限りは俺が動きますんで、アンタはいつもみたいに副長面しててくれればそれで良いんですよ」 その方が俺も安心出来ますし、と冗談めかした笑い声と共に付け足されて、土方は益々渋面になった。 「んな訳行くか。潜入だの隠密だのが向いてねェのは百も承知だが、だからってやる気が無ェってのとは違う」 「まあ何て言うかな、そんな不機嫌になる程に気負わないで下さいと言いたいだけです」 もう閉じて仕舞おうと思っていた目を思わず見開いて、土方はまた舌打ちする。無駄に聡い男だとは思っていたが、臆していた事を読まれていたばかりか釘まで刺された。上段の寝台で今地味な顔がどんな表情を浮かべているのやらと思えば、何だか無性に腹が立って来た。 「………山崎の癖に」 ぼそりと呪詛の様に紡げば、はは、と小さく笑う声が返った。舌打ちだけでは到底この苛立ちと気まずさは解消出来まいと思い、土方は刀の鞘を掴むと柄頭で寝台の天井をがつんと叩いてやったが、上段の山崎の笑いの気配は去らない。手が届けば直接殴ってやりたい所だ。全く忌々しい。 「やる気なのは解ってますんで、無茶だけはせんで下さいよ。江戸とは勝手が違うんですから」 「…極力な」 元より善処だけはする心算であった、とは口にせず、土方は渋々と言った声音で言って細いが長い溜息を吐き出した。空気の入れ換えで憤慨に至りそうだった体内の熱を下げて思考を切り替える。 「テメェのがこう言った任務に長けてるとは言ったが、どの道未踏の孤島なんて舞台は互いに初めての話だ。テメェこそ過信し過ぎんじゃねェぞ」 「勿論です」 返ったのは逡巡の間さえ挟まぬ即答だった。頼もしいのか図々しいのか時々解らなくなる、そんな部下の態度に向けて鼻息だけで笑うと、土方は今度こそ目を閉じた。 「お休みなさい」 「ああ」 まるで覗き見ていたかの様にタイミング良く降って来る声に、咄嗟に感じそうになる忌々しさを呑み込んで土方は目を閉じた侭頷いた。 それきり静寂の訪れる室内に、重たく響く海の音と船舶のエンジンの低い音とが響き続ける。煩い事この上無いがちゃんと眠れるだろうか、と考える間も無く、土方の意識は水底に吸い込まれる様にして眠りに落ちていた。 のびた君…ではなく無意識疲れてただけ。 ← : → |