頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 11 スマートフォンがいつも通りの朝の訪れを告げるより先、銀時は目を開いて天井をぼんやりと見つめていた。眠れていなかった訳ではない。何時間か何分かは知れないが、恐らくきちんと眠っていた筈だ。飛び飛びの記憶はぼんやりと曖昧だが、眠気や気怠さは残っていない。 そっと起き上がり、温い布団から這い出す。テーブルの上を見遣れば、鉢植えの中の白い花はカーテンの隙間から差し込む朝日を受けて、今にも萎れそうに力無く項垂れている。 そのテーブルの横、床の上で土方は目を瞑って静かに横たわっていた。 「……土方、」 そう呼んで良いのかは解らなかったが、声を掛けても彼が身じろぐ事は無かった。昨日の様に、細い寝息だけを立てて静かに睡っている。 病院で今も睡り続けているのだろう土方もこんな感じなのだろうかと思えば、何だかその姿を直視していられなくなって銀時は目を逸らした。 今日、病院へ行ってみると決めた。三年の間、ずっと目を逸らし続け知らぬふりをし続けた現実を直視する事を決めた。選んだ。一度決めたその事に対する怖れは無論全く消えていないが、それでも怖じ気付いて立ち止まっている訳にも行かないのだと、己の中の罪悪感の生んだのだろう願望に思い知らされている。 銀時はそっと鉢植えを手に取ると、直射日光の当たらない床上へと移動させた。そうする間にも草臥れた花弁が今にも落ちそうにゆらゆらと揺れて、あるいきものの寿命を知らしめている。 植物かも知れないが。ただの花かも知れないが。それでも生きて、ここに居る。花の精だか自分の幻だか何だか──その正体は銀時にとって最早どうでも良い事だ。 手早く身支度を整え、出発の準備をする。近藤に訊いた話では土方の入院している病院があるのは、銀時には縁の無い町だがここからそう遠い駅でも無い。面会時間は朝の九時から夕方の六時まで。今から出ると少し待つ事になるが、構うまい。 そうやって銀時が部屋の中を準備に食事にと行ったり来たりする間も、睡っている様に見える土方が目を醒ます事は無かった。 鞄を肩に引っかけた所で、起こして礼でも言うべきかと寸時考えるが、もう臨終に近い人間──ではないのだろうが──を無理に起こすのも何だと思い、置いた侭何も残さずに銀時は家を出た。 帰る頃まで保ってくれれば、礼を言おう。多分あいつは、それはお前が決めてした事だから自分は何もしていないと、それこそ土方の様な調子でそう言うのだろうけれど。 * 町の高台の方にある病院は、地域の総合病院らしく朝だと言うのに多くの人が訪れていた。 時刻は九時少し前。総合受付の奥では事務服姿の職員たちが忙しく立ち働き、向かいのロビーの椅子は半分以上が既に埋まっている。各科のそれぞれの診療室の前にも多くの患者らしき人々が座り、各々診療の開始を待ちわびている様だ。 受付前の椅子に腰を下ろした銀時は、落ち着きなく辺りを見回したりスマートフォンで時間を見たりしていた。怖れに乾いた口中を湿らせようと何度も喉を鳴らす。ずっと心臓が厭な鼓動を立てているのが解る。正直、見舞客と言うより病人そのものの様な有り様であった。 今更怖じ気つく訳にもいかない。理性はそう言うし、自分自身でもそう思う。だがそれでも実際に現実を直面すると言う事は想像する程に簡単にいかないものだ。 睡る土方に──自らの手で、落とした人に、会う。それは自らのした過ちと誤りとを直視しなければならない事だ。何が起こるも、何も起こらぬも、ただ恐ろしい。 己のした事を知らしめられる事こそが、恐ろしいのだ。 今更己の罪咎に向き合って罪悪感を直視する事に何の意味があるのか。真っ向から問えば、無い、だろう。それでも、向き合う事を銀時自身がどこかで望んでいたと気付かされたからこそ、此処に来たのだ。この侭ではいけないと思ったから、こそ。自分自身でそれを選んだから。こそ。 どんなに高潔な精神を示せど、或いは卑怯者であろうとも、どちらにも現実は優しくも易くもない。それを思えばこその怖れだ。此処に来る事を選んだ、その決断にではない。その先、未だ見えぬ結果を怖れる。明日の見えない日々と同じ様に。 だが、怖れようが不可避の明日は来る。怖れを隠して過ごしていようが、怖れそのものは消えはしないのだ。 苦しさも、泣いて逃げだしたくなる様な感情も、土方がもう得る事の出来なくなったものだ。銀時がただ一人、罪に思っても受け入れ感じなければいけないものだ。 九時になり受付が営業終了の札を取り払うのと同時に、銀時は勢いよく立ち上がった。立ち入り禁止の柵を取り払われたばかりの、入院病棟へと続く廊下を進み、エレベーターに乗り込む。506。近藤から聞いた病室の番号を頭の中でゆっくりと諳んじて、五階のボタンを押す。 押さえつけられる様な浮遊感の中で、目を閉じて覚悟の時を待つ様な猶予は無かった。途中階に止まる事もなく、エレベーターは事務的に中に乗った人間を目的の階層へと運ぶ。 十三階段を昇る人間の様だと思いながら、銀時は五階の廊下を進んだ。そうかからず目に留まる、506の数字。土方十四郎の名の書かれた紙の入ったネームプレート。 酷く現実感の無いものの様に、銀時はその名を読む。あれからずっと見ない様にしていた文字列。個人を、自分にとって特別な個人の名と認識しない様にしてきた名前だ。 横開きの戸に手の甲を押し当て、祈る様な心地でノックをする。 「………」 返事はない。何かが動く様な音も聞こえない。今の時間、近藤は学校(しごと)だ。よく顔を見せるらしい沖田も、流石に朝一番で、しかも銀時に気付かれずに追い抜かして来ているなんて事は無いだろう。看護婦も回診の時間にしか姿を見せない筈だ。 「……………」 もう少しだけ待って、それから銀時は意を決して扉を開いた。薬品臭い室内に踏み入れば、思いの他に軽い戸が背中で閉まって、辺りが鎮と静まり返る。 元より静かだっただろうか。そうだったかも知れない。だが、戸が閉ざされて、まるで逃げ道の無いふたりだけの空間に閉じ込められたかの様な不安感が沸き起こる。来てはいけなかった様な、拒絶の空気はしない。ただ、居た堪れない。 「……………………土方」 乾いた声音が静かな空気を無粋に震わせる。その漣が睡る人の目を無遠慮にも醒まして仕舞うのではないかと寸時怖れて、それからかぶりを振る。 「土方」 看護婦が開けてくれたのだろうか、柔く隙間を拡げたカーテンから差し込む緩い朝の日差しを受けて、白一色の室内が無機質に染め上げられている。 そんな色彩の無い色彩の中で、部屋に一つだけぽつりと存在している寝台の上に一人睡る青年の姿は、それこそ今にも萎れそうな花か何かの様であった。 布団の上に投げ出された腕に下がった点滴が、か細い呼吸音に合わせる様に滴っている。水やりさえ欠かさなければ育つ花であるかの様に。 『花』のイメージとの合致は、今現実で、目の前に睡る土方の有り様が、今朝方部屋で眠っていた花の姿と余りに似通っていたからだろうか。 誘われる様に、銀時はふらふらと寝台へと近付いた。戦慄きながら伸びかかる手を堪えて、力なく、然し視線を逸らす事も出来ず立ち尽くす。そんな凝視の視線に晒されても、目をぴたりと閉じて睡る人は、近付く無粋な下手人に構う事も無くただただ、静かに睡り続けていた。 * 怠い。子供の頃に熱を出した時に似た、酷い倦怠感と浮遊感とが全身を重たく取り巻いている。でもそれが何由来の怠さなのか子供心によく解らず、無理をして動き回っていたのを何となく思い出す。 確かあの時は沖田が「いつも以上に張り合いが無いと思ったら」とか何とか言って気付いたのだったか。彼の姉であり近所の子供の間で憧れでもあったミツバ姉さんに介抱されて、何だか気恥ずかしさを憶えるのと同時に、優しくされる事を純粋に嬉しいと感じたものだった。 だがそれは幼い頃の記憶であって、今目前に横たわる現実ではない。土方は重たい身体を起こす事も出来ずに、気怠い倦怠感に包まれた腕をのろのろと持ち上げてみた。なかなか焦点の合わない視界にぼんやりとした己のてのひらが見える。 (……いや、) ぼんやりとして見えたのはどうやら気の所為では無かったらしい。眼前に翳した掌を透かして、カーテン越しの薄暗い陽光に照らされている天井が見えた。 いよいよ本当に幽霊らしくなって来たかと嘯いて笑い、土方は天井に投げていた視線を直ぐ傍らに向けてみた。目で見ずとも解る。これは自分の肉体に宿っている花と同じ、自分の本体の様だと感じられている。銀時に説明した『花が本体』と言うのも強ち間違った説明では無いのだ。 そうして見た白い花は、もう殆どの花弁を床に無惨に散らしていた。茎はくたりと萎れ、葉も力なく枯れている。花に詳しくない人間が目にした所で解る。もうこの花の命はお仕舞いだ、と。 今更終わりを怖れる程に覚悟の時間が足らなかった訳ではない。だが、実際目の前に『終わり』が提示されると言うのは、言葉にならない程恐ろしくて──否、恐ろしい以上の感情があって、それは生きている人間の感性では到底説明も出来ず計りも知れないものだと思った。 終わりそのものを今更怯えた所で、何もならない。だから土方は込み上げかけた涙を堪えて、最期の時には何を想って死のうかと、そんな暢気にも思える事を考えることにした。 最期の時。銀時が此処に居ない事が少し淋しいと、悲しいと思った。 彼は恐らく、自分の──土方の見舞いに行っている筈だ。だから、そう言う意味では傍に居ないと言う訳でも無い筈なのに。 * 固まった様に動きを停めた時を割いて、銀時は震える手を、何度も躊躇いながら伸ばした。痩せた腕に刺さる点滴の痕を恐る恐る撫でて、それから掌を握りしめる。 酷く痩せた掌に思わず息を呑む。このてのひらが昔は竹刀を握っていた事など、胸倉をつかみ合って喧嘩をしていた事など、何だか信じられそうもない。 顔色は悪くはないが、頬のラインを見れば大分顔も窶れている。健常な成人男子の身体と比べれば、いっそ憐れな程にか細く痩せた肉体。 それが、ただただ目を閉ざし世界を拒絶する様に睡り続けている。 「土方」 掌を強く、強く握りしめた。途端、銀時の両目から涙がこぼれ落ちた。憐れみと罪悪感と途方もない恋しさとどうしようもない遣る瀬無さに力なく膝をついて、両手で握りしめた土方の手を額に押し当てて、嗚咽を漏らす。 今度は応えない花にではなく、土方自身に。伝えたい事が形になるより先に溢れ出して行く。 ごめん、とか。そんなつもりじゃなかったんだ、とか。好きだ、とか。好きだ、とか。好きだ、とか。無意味でしかない言葉が涙になって散って溜まって行く。それでも、それでもこの胸の罪悪感もその他の非道い感情たちの何一つとして、銀時の裡から出て行って消えたりはしない。そんな事をして一人だけ楽になれるとも思えないし、そんなのは御免だった。 この非道い感情も、消えない恋情も、押し潰されて仕舞いそうな罪悪感も、全部土方を想う自分のものだ。自分だけのものだ。あれからずっと、ずっと抱え込んで腐爛するまで呑み込み続けた、たった一つの想いなのだから。 * ぼんのりと、掌が温かい。カーテン越しの優しい日差しが草臥れた葉っぱを照らして包んでいる。そんな優しさが嬉しい。淋しさに泣き出しそうな心を暖めてくれている気がした。 床に仰向けに横たわった侭動く事のもう出来ない土方は、頭を巡らせてベランダの方を見遣った。カーテンの隙間の向こうにはいつもの朝の風景が拡がっているのだろう。 そこに、鴉の姿は無い。高杉は再三、魂を連れて行くだの何だのと言っていた癖に、ひょっとしたら最期の時だからと土方に気でも遣って姿を見せないのだろうか。そう思うと少し可笑しくて、少し悲しくて。 温かな掌を大事に包み込む様に指をそっと折り畳んで、土方は微睡みに落ちる時の様に目を閉じた。 世界も、感覚も、全てが遠くなる。 小さな部屋の、薄暗い一室から、青年の姿が音も立てずにふわりと掻き消えた。 それとほぼ同時に、萎れた花は最後の花弁をはらりと落とした。 花を、咲かせてくれてありがとう。 誰にも届かぬ声も、何処かへ熔けて消えた。 * 「何が、未練は無い、だ。未練たらたらじゃねェか」 ふと、そんな声が耳──と言うよりは聴覚か──に届く。 高杉? 呼ぶ心算で声を上げた土方の前に、いつもの黒スーツの男が立っている。彼はそれには答えず、溜息混じりに続ける。 「言ったろ。未練のある魂って奴ァ世界を穢す。そうして俺らの仕事が増えんのは迷惑なんだよ」 ぶっきらぼうな低音でそう言うなり、高杉は土方の眼前──と認識する位置──に指をひたりと突きつけた。 「未練は生きて晴らすもんだ。それが人間の正しい姿だと俺ァ思ってる」 そう言って肩を竦めると、くわえた煙草を少し気障ったらしい仕草で摘み、高杉は口の端を吊り上げて笑ってみせた。 「……つー訳だからな、俺のお迎えはもうちょい先になりそうだ。今度は解らねェなんて言わず、未練をキッチリ晴らして綺麗な魂で居ろや。手間が省ける」 後半をまるで、犬猫でも追い払う様な仕草を添えて言われ、土方はぽかんと目を見開いた。自分ではそうする心算で、茫然と目の前の、自称死神だか天使だかを見返す。 ふわ、と手が何かに包まれる温もりを感じる。手を握られているのだ。そこが酷く優しくて温かい気がした。 土方。 何度も、何度も、嗚咽に紛れながら呼ぶ声が聞こえて来る。鼻と喉を鳴らした情けない声。苦しくて、悲しくて、辛くて、申し訳なくて、愛しくて、そんな感情たちを溢れそうに詰め込んだ声だ。 そんなに呼ばずとも聞こえてる。馬鹿。 温もりに包まれている掌をそっと握りしめて、土方はこの声と一緒になって泣きそうになりながら、無理をして笑った。 ありがとう。 そう、言う心算で口を開いて、言葉を紡いだ。今自分がどんな姿をしているのか、どんな形なのかは良く解らなかったけれど、必死でそう伝えた。 目の前の男が、ふ、と小さく笑い、背を向けてひらりと手を振る。その背に向けて、土方は言う。 未練、晴らすよ。 もう逃げないで。あの馬鹿も、逃がさないで。 言いたいことは山程あったんだと思い出したから。未練になり得るものが沢山あるのだと、知ったから。 『生き返』った俺がこの不思議で奇妙な体験を憶えていられるかは解らないけれど。 ありがとう。花を生かせてくれて、ありがとう。 花を咲かせる機会をくれて、ありがとう。 * 何年もの間静まり返っていた病室がひととき賑わいに包まれる。 見舞い客はひたすらに愕いた様子で、謝ったり好きだと言ってはぐずぐずと泣いて、目覚めたばかりの病人に僅かの笑みを浮かばせた。 やって来た看護婦が医師を呼び、慌ただしい電話は保護者や親友の元へと直ぐ飛ぶ事だろう。 握った侭の手が、握り返す指が、膨らむ蕾の様だ。きっと遠からず咲くに違いない。 病院前の樹木に止まった鴉が、まるで欠伸でもする様な仕草で首を傾げてそんな様子を見上げていた。 『またお前は、お節介を焼いた様だな』 その隣に降り立ったもう一羽の鴉が言うのに、 「仕事を楽にしただけだ」 鴉は──そう、高杉と名乗った男は答えるが、煙草を食むその口元は僅かに微笑みを浮かべている。その様は遠い世界から我が子を見守る親か神かの様にも見えた。 「未練て奴ァ、自棄っぱちな憎悪にも、生きる活力にもなっちまうんだから、全く人間てのは厄介で不思議なもんだよ」 その慈愛さえ滲む視線の先、窓の中では慌てて駆けつけた養い親と見舞客とが互いに噎び泣く姿を指摘しては笑い合っている。寝台に横たわっている病人は柔く笑んで目を細めてはそんな姿たちを見つめていた。 『その、お前曰くの厄介さこそが、生きると言う事なのだろうな』 笑み混じりにそう言った鴉が、一声鳴いて空へと羽ばたいて行く。 枝の上に止まった高杉は最後にもう一度病室を振り返り、それから先に行った鴉を追う様にして空へと消えた。 日差しの柔らかく差し込む部屋の中には、枯れた花が消えて、種を一粒落とした鉢植えがあった。 現パロって言うかただの酷い話ファンタジーでしたすいません。毎回酷いけどうちの銀さん。 胸に手を当てて考えてみろ、ぐらいのニュアンスのタイトル。 ← : ↑ * * * ……蛇足と言うかなんと言うか。 一応言い訳とか泣き言ぽい事はちょこっと言うのでスルー推奨。 単なる親切兄ちゃんになりましたが、自分の中の「イイヒト」になった高杉のイメージってこう言う人格だったんです…。あと足が悪いのは鴉(鳥)だから人間に擬態しても上手く歩けないとかそんな感じ。 あ、生き返らせた訳じゃなくて、元から目を醒ませる可能性があったのでそれをつついただけです。起きる決意をしたのは土方自身。解り辛くてすいません。ただこの後ぎんひじがどうなるかは彼ら次第。 現パロ?を書いたのは初めてだったのでもう何がなんだか…。キャラのディティールから原作成分と言うか原作にある彼らの設定や半生を取り除くと「どうなるのか」の想像がほんと出来ないし、そう言う性格になった説得力とかを持たせられそうもないので、原作設定の方がやっぱり楽だし好きだなと再認識。二次創作の更に二次創作の更にオリジナルをやっている気分と言うか。 もう当分やりたくないです…。 ※ミスで書いたヅラらしき人の部分は、朧さんらしき人に交代して貰う感じで無理矢理誤魔化す事にしました。 ▲ |