頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 10



 なんだか酷い夢を見ていた気がする。
 内容自体は何て事もない、ただの思い出だ。高校三年の春の。輝かしいぐらいに愚かしかった頃の。
 息苦しさを感じたのは、それが過ぎた時の事だからだ。心だけを散々掻き毟って停まった時の様に、もう決して届かぬ出来事だから、だ。
 銀時は膝に押しつけていた額を剥がしてのろのろと頭を持ち上げた。酷い自己嫌悪に苛まれて凹んでいた筈だと言うのに、それにも疲れて膝を抱えた侭転た寝をして仕舞っていたらしい。子供でもあるまいに。
 こんな体を折り曲げた姿勢で眠っていれば、そりゃ悪夢も見るかな、と余所事の様に思いながら、銀時は相変わらず重たい挙動で背筋を伸ばした。座っていた尻や丸まっていた背中、節々が少し痛む。
 ふとテーブルの上に目をやれば、少し萎れて来た様にも見える花の姿がある。
 咄嗟に頭を巡らせ、そこに居た筈の『人物』を探してみれば、彼はベランダに出て佇んでいた。その白い背中が目の前の花の、弱りかけた姿に重なる。
 つい先頃に見た、死人の様な彼の姿と、夜の中に今にも霞んで消えそうなその背中が。
 「──」
 衝動に駆られた様に銀時はふらりと起き上がった。その衝動は先程の様な汚い欺瞞と欲とに満ち溢れたものでは無く、ただもっと純粋なものだ。圧される侭に銀時はベランダの窓を開く。
 と、土方がこちらを振り返るのとほぼ同時に、ベランダの柵に止まっていた鴉が羽音を立てて飛び立って行く。吃驚して思わず立ち竦むと、銀時は未だ恐れを孕んだ瞳をゆっくりと持ち上げた。
 いきなり押し倒して口接けをして来た男を、普通だと思う者などいないだろう。花の性別がどうかなど知らないが、外見上は紛れもなく銀時と同じ『男』であり、しかもその容姿は紛れもなく銀時の知る土方十四郎と寸分違わず同じなのだ。その顔に眉を顰められたり、軽蔑の態度を向けられたりしたら、それこそどうして仕舞うか解らない。
 だが、銀時の恐れに反して、土方は柵に凭れかかり、ほんの僅か微笑みに似た表情を形作ってこちらを見ているばかりだった。
 
 あのときと、同じ様に。
 
 背筋を粟立てるにも似た感覚は、銀時の裡で燻りそうな黒い衝動だ。疑心とか欲とか恐怖とか、そう言ったものたちで構成された、あの時と全く同じ、酷い利己的な感情たち。
 ひょっとしたらこれは何かの意趣返しなのでは無いか。
 土方が死んでも死にきれず、俺を恨んで呪いに来たのでは無いだろうか。
 だが、現実の土方は未だ病院で睡っている。近藤は嘘を吐ける様な人間ではないから、それが事実ではない筈は無い。そんなのは余りに身勝手で酷すぎる妄想だ。土方は睡っている。睡り続けている。銀時のした事に因って。たったひとりで全てに置き去りにされて。
 呪われても仕方がないとは思う。でも実際に睡るだけの人間には、他者を呪う力も恨む自由でさえも与えられないのだ。
 その全てを、あらゆる選択肢でさえも、奪い去ったのは──誰あろう銀時自身である。それがその口で今更何を言うのか。言えると言うのか。土方ではない、土方の様な『何か』に。消える幻想に。潰える偽に。
 銀時は冷えた拳を握り締めた。開いて震えて掴み掛かる事の無い様に。強く。
 
 あのときと、同じ様に。
 もう一度、落とすのか。
 失いたくない時間をあやふやなものにする為に、また。
 
 ……そんな筈は無い。
 した事実は変わらない。起きた現実は変わりようがない。これが夢であろうが幻想であろうが、都合の良い現実など生じる筈がない。謎の花は咲いたが、土方は睡り続けている。あれからずっと変わらずに。
 「………んな所に居て、落ちても知らねーぞ」
 高まる動悸と眩暈とから目を逸らして、銀時はぶっきらぼうにそう呟いた。足はベランダに一歩も踏み出せはしていない。そこから動けない、侭。
 土方は銀時に背を向けた侭。顔をするりと町並みへと戻して仕舞うが、その姿を見れば小さく忍び笑った様な気配だけは解る。
 その背に伸ばしかかる手を、銀時は必死で堪えた。何の為に手を伸ばしたいのかも解らない。……だからだ。
 「俺が落ちても何にもならないが、鉢植えは落とさないでくれよ」
 それが本体なんだから、と言われるのに銀時は思わずテーブルの上の鉢を振り返っていた。そこには精彩を失いかけた花の姿。これが本体。……つまり、これが、枯れたら。
 「あ…、水、やらねぇと……悪ィ」
 萎れかけた花が無言で抗議をしている様に思えて、逃げる様に咄嗟に水を取って来ようとした銀時の背に、土方の声が届く。
 「いや。もう意味なんざ殆ど無ェよ。花が枯れるまでだからな」
 足を止めて振り返る銀時の目に、こちらをしっかりと振り向いて、ベランダに佇む土方の姿が映る。その目は間違いなく、紛れもなく、銀時の事を見ていた。水をやり花を丹精する人間と言う意味ではなく、ひとりの人間を見るのと同じ様にして。
 「俺はその花だって言っただろう」
 萎れかけた花を見れば良いのか、目の前に佇みこちらを向いている土方──によく似た姿──を見れば良いのか銀時は寸時躊躇いを憶えた。
 死人の様に精彩の無い顔色。死んだ様に眠っていた姿。萎れかけの花。花が。散るまで。枯れるまで。
 つまりそれは。──枯らすなら。殺めるなら。放っておくだけなら。好きにしろと言う、宣告も同然だ。
 「……枯れたら、どうなるんだ?」
 「枯れたら俺は死ぬ。…と言うか、消えるだけだ」
 そう淡々と答える土方の表情には、悲壮なものも不快なものも何も無い。
 何でもない。あの関係の様に、なんでもない、ただの無情のひとりとひとりの様に。ただ、それだけのものの様に。
 まるであの瞬間の繰り返しの様だと銀時は思う。この瞬間を永続させる為に、彼の時間を停めて仕舞った己の卑劣で怯懦な衝動。結局叶わぬ恋情を抱えて生きる事には永遠なぞ存在せず、こうなって仕舞っていると言うのに。
 感情は迂遠。届く事の無くなった恋情は腐爛。停まった時の中で、銀時も土方も、あれからなにひとつ動かせてはいない。それこそ呪いか報いの様に。
 ただ、停まった彼の存在に一瞬涌いた歓喜に対する罪悪感だけをいつまでも留まらせ続けている。生きるも死ぬも出来ずに。
 「土方」
 苦しさに押し出される様にして、気付けば口から自然とそうこぼれ落ちていた。情けない程に震えて、掠れて、戦慄いた声だった。
 銀時のその呼び声に、彼はそっとかぶりを振る。
 「違う。俺は花であって、お前の言う人間じゃない」
 苦しそうに、辛そうに目を細める花が──土方の姿が、その優しさが。卑怯だとは解っていても、銀時はそこに縋り付いて自らを正当化させたくて、必死で吼えた。それこそが必要なものだったのだと確信さえ抱いて。
 「土方、好きなんだ、好きなんだよ、お前の事が。どうしようもなくて、あの時、そんな心算じゃなくて、ただ俺は、ただ、」
 押し出される様に吐き出されていく、ずっと胸の裡に仕舞い続けていた酷い感情たちが恋の姿にもならずに辺りに撒き散らされる。その無様の泥の中に膝を付いて、銀時は神の不在でも嘆く信者の様にただ哭いた。
 目の前の、焦がれた花の姿に懺悔する様に。それが単なる罪悪感から出た身勝手な告解と解っていても。否、解っていたからこそ。
 ごめん、土方。ごめん、ごめん。好きなんだ。好きなんだ。
 この言葉が土方には届かぬものなのだとは解っている。だから銀時は謝り続けた。訴え続けた。
 赦しでもなく答えでもなく。況して断罪でもなく。ただ、この伝えられず腐爛した感情たちを、恋にも満たず散りそうなものたちを、伝えたくて。決して届く事の無くなった者へと、伝えたくて。
 「……なら、最初からそう言ってやれば良かったじゃないか」
 見上げた花の──土方の、見た事もない優しく苦しそうな微笑に、銀時は漸く穏やかに壊れた己を自覚した。どうしようもならなくなったこの酷い想いを、抱えるのも辛く棄てる事も出来ずに、今までずっと苦しくて堪らなかった事を思い出した。
 ……弱かったのだ。怖れを抱える余りに、臆病で居ただけの事だ。口にする事も諦め、土方が自分を見ていない事だけを勝手に確信して、諦めていながら諦めきれずに、抱え続けていた。
 たった一言。口に出来ていれば、何かが変わったのだろうか。
 だが、それは空論。最早出ぬ答え。得られぬ解答。起きた現実は変わらない。起こした罪咎は消えない。それでも許された願いひとつが、この形を目の前に創りだしたと言うのであれば、それは──
 願いは。花を咲かせた願いは、叶った様で叶ってはいなかった。
 土方の姿形が欲しかった訳ではない。土方からの赦しが欲しかった訳ではない。
 そう。ただ、
 「…………伝える事、が、俺の本当の、願いって奴だったんだな……」
 涙のこぼれた床を見つめながら、銀時は弱々しく握りしめていた拳を開いた。
 そして、伝えるべき相手は目の前の花ではない。病院で今も睡る、たった一人の、己の恋した人間だ。
 伝えて何になる訳ではない。謝って、伝えて、それで何が今更変わる訳でもない。己を目前に突如土方の目が醒める、そして受け入れてくれる、赦してくれる、そんなに都合良くこの世界は出来ていない。
 それでも。……それでも。
 伝え損ねた感情がこの酷い恋情の、醜い正体でしかないのだから。その弱さが、あんな事をして仕舞ったのならば。
 銀時は、伝えなければならない。どうなると言う訳ではなくとも。この恋情を、抱えた侭で生きていくには辛すぎる、そんな、己の為でしかない願いだとしても。目の前にその具現が何よりも雄弁に突きつけられて仕舞ったのだから、もう目を逸らしてはいられないのだ。
 「……明日、土方の病院に行ってみる」
 俯いた、涙で滲む視界に、目の前の花がふわりと綻ぶ気配がした。
 「ああ。そうしてやれ」
 
 *
 
 土方はそっと天を仰いだ。静かな夜空を、風が雲を引いて流れていく。
 いつもの夜空。睡っていた時間も変わらず流れていただろう、いつもの世界。
 その下で。
 
 ああ。これが未練になったらどうしてくれるんだ。
 
 取り残された花は、静かに有情の涙をこぼした。







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