頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 9 土方十四郎は己の人生を不幸だと思った事は無い。 確かに少々他人より変わった境遇の元に生まれて仕舞ったのかも知れぬとは思うが、それも飽く迄客観的で普遍的な価値観でものを見た場合の話だ。 全く家に寄りつかぬ両親を恨んだ事も無ければ恋しいと思った事も無い。近藤と言う養い親が居てくれたから、と言う要素も大きかったのかも知れないが、土方はそれについては余り深く考えてみる気にはなれなかったし、未だになれていない。 とどのつまり、過ぎた放任を平然と続けた両親が彼を何とも思っていなかったのと同じ様に、土方自身も両親と言うのがどんな存在なのか解らず、理解を得る事も知りたいと思う好奇心も、求めたいと思う大凡人らしい情の様なものを疾うに失って仕舞っていたのだ。家庭に無関心な親から生まれた子であるだけに、無関心である事が彼にとっては至極普通で当たり前の世界。他者の家と比べてどうだこうだ、と言う疑問を感じる事をも忘れる程に、土方の心は閉塞された家庭環境に慣れきって麻痺していた。 普通だから。だから、それを不幸と感じた事はないし思えもしない。ただ、近藤に養って貰う様になった事は純粋に僥倖であると思っている。 だから、と言う訳ではないが。坂田銀時と言う級友に対して土方が密かに抱いたのは親近感の様なものだった。だが、それを口にするも確認するも出来ないなと感じる程には、その感情が失礼なものである事は理解していた心算である。 生まれついて両親のいない、苦労して来た銀時と。両親はちゃんと存命で、金だけは入れてくれるから生活に困る事の無かった土方とは、『肉親への情が無い、或いは知らない』その一つの共通点だけで決して同列に扱って良いものでは無いだろう。 銀時は土方と異なり社交的な人間だ。少なくとも『付き合い』と言うものを心得ている。無関心と言う感情が先にあって、人付き合いの余り得意ではない土方とは違う。だから、銀時に何かしらの『情(人間らしさ)』が欠けていると言う訳ではない。 それでも彼に親近感の様なものを憶えたのは、果たして何が理由だったのだろうか。互いに口喧嘩も殴り合いに近い喧嘩も起こすに躊躇いなどいちいち生じないぐらいに、気や趣味は決定的に合わない。だからその親近感の様な情は、所謂普遍的な『仲の良さ』から生じたものでは無いのだろう。 人間性も異なる。生き方も。性格も。趣味も。嗜好も。学力も。大凡に仲良しと言える仲に発展出来る様な手合いではない。 ……それなのに。 土方は銀時と居る時間や空気が好きだった。無関心で互いに寄り添う事に、ひとりとひとりで在る事に安堵出来たのは、後にも先にも彼のほかに居ないだろう。そう確信するぐらいには。この『親近感』は普通のものではないのだと自覚出来るぐらいには。 気遣い無く心を傷む事も無い無情で良い人。好意や敵意を疑う事も無く、交わらぬ水の様にただそこに居るもの。そんな、土方の得た心地良さを『好意』或いはそれに類するものへと昇華したのは、銀時と剣道の授業で相対した時だった。 強かった。悔しかった。……そして、それだけではない。土方の裡に宿り続けていた無関心の親近感が、好奇心の好意へと変容した瞬間だった。 無情で良かったものに、世界に、ひとつ綺麗な銀色が混じり込んだ。乾ききった土に清涼な水が流れ込んだ様に、土中の微生物たちが騒ぎ出す。埋まった侭睡っていた種が芽吹き出す。 『何か』が生まれたのだろう。だが、それが何であるのかを知る前に、土方十四郎の人生は終わりを迎える事になるのだと。 今はそれだけが知れる答えの、手がかりへの、全て。 * 不幸な人生では無かったと思っているが、不可思議な人生ではあったと思う。 ……と言うより、最後の最期で不可思議過ぎる世界に脚を踏み入れて仕舞ったと言うべきだろうか。少なくとも土方はこんな前例は知らない。ぼんやりと目を醒ますなり、煙草を噴かした黒スーツの男に「俺は、まあ手前ェらの定義で言えば死神みてェなもんだ」などといきなり名乗られると言う頓狂な人生の出来事は。 しかもとっておきが、高校三年の春と言う記憶の最後から三年も月日が流れているなどと言う現実と、自分がもうじき死を迎えるらしいと言う事実だ。 勿論厳密に、土方は目を醒ました訳ではない。高杉曰く、未練を晴らさせる為に魂だけを取り敢えず起こしたとの事だそうだ。 魂が目覚めていても肉体は目覚めないのかと言う点を問いた事はあったが、脳に宿る精神性の構築された『本体』と魂とはまた別であり、魂とは飽く迄肉体が車ならガソリンの様なものでしかないのだ、とか何とかに始まりとんでもなくややこしく説明され、理解を拒否したくなったので未だに結局良く解っていない。 死に往く者の未練を解消する。それが高杉の負った役割だか任務だか、そんなものだ。何でも、中には死神(便宜上こう呼ぶ)と話をするだけで未練が解消されて仕舞う者も居るらしいとかで、ここ一年ぐらいの間高杉は土方の複雑に絡んで仕舞った感情や記憶を辛抱強く聞いて、付き合ってくれた。 そんな高杉から、近藤や沖田の様子を伝え聞き、彼らが幸せに暮らしているのならそれで良い、もう未練などないと当初土方はそう思っていたのだが──、 『大概の野郎は、手前ェの死の原因となった人間がはっきりしてたら、まずは復讐を目論む』 高杉がそう口にした様に、土方は銀時が何故あの時『ああした』のか。それを知りたいと望んでみる事にしたのだ。 とは言え、銀時は見舞いになぞ訪れないし、土方は見た侭の寝たきりだ。魂が起きていても漫画の様にそこら中を好きに歩き回ると言う訳には行かない。そして高杉はそんな土方に憑いている様な状態であり、人間に混じって自由行動がそうそう出来る訳でも無い。安易に卒業後の住所を調べて訊ねに行く、などと言う事は、常世に属する存在である死神に容易に出来るものでは無いのだ。 結局、「自分で確かめに行け」と言われ、高杉は一つの花の種を土方に示してみせた。 それは人の未練を解消する手段の一つ。常世にしか存在しない花の種だと言う。余りに現実離れした話と説明とを、土方は上手く頭の中で処理出来てはいないので、そういうもの、なのだと言う理解に矢張り留めている。 それは魂を花に変え、その花を現実世界に置いた場所へと連れ出す為のものだそうだ。昔住んでいた土地に戻りたいと願う者や行きたかった場所へ行く事を望む者に対して使うと言う。 但し、これを使うと魂の寿命は花の咲いて枯れるまでの時間になって仕舞う。また、花が咲かなければそれでお仕舞い。 土方の知る銀時は花の世話なぞしている姿の想像のつかぬ男だったから、この賭けは些かに分が悪すぎる気はした。だが、どうせこの侭睡っていても遠からず死ぬだけならばと、短くない時間悩んだ挙げ句に土方は少ない勝算に乗る事にしたのだった。 果たしてどの様な手段を使ったのやら、土方の肉体に種を植えた高杉は、それと連動した現実世界の種を植えた鉢植えを銀時へと押しつける事に成功し、そして。 目覚めの時の様な感覚で、重たい目蓋をゆるりと持ち上げた土方が目にしたのは、咲いた白い花と、その前でテーブルに突っ伏して眠っている銀時の姿だった。 朧気だが憶えている。雨風に晒される事がない様にと、部屋に入れてくれた事を。 そして、そんな銀時の姿を見ても、土方には問いも憎悪も何も浮かんでは来なかった。だが、ずっと停滞して抱えていた無関心の無情とは違う。死を前に枯れた好意でもなく、もっと別の種の何かが。羨望、否、憧憬の様な何かが胸の裡に確かに宿っている事に土方は気付いていた。 「……俺もきっと、あの瞬間の侭で居たいと思っていたんだろうな」 思い出すのは、晴れた日の屋上での他愛も無い話。銀時の、面映ゆい何かでも探す様な眼差し。 土方の両肩を掴んだ彼の裡にあったのが、殺意や憎悪であったのだとは最早思っていない。だが、それでも解らないものがある。それでも気付く事を躊躇う何かがある。 何も無い様にそっと目を逸らす銀時の、抱え込んだ感情を引き裂いて今にも叫びだしそうな表情を思い出しはするが、それが『何』であるのかを知る者は、坂田銀時本人しか居ない。 そして、それを聞き出す事こそが土方の探していた答えなのだろうとは思う。思う、が。 見知らぬ町の見知らぬ地平を見つめて、土方はそっと目を細めた。己の穿った三年の空白を満たすものはこの知らぬ世界の中では何一つ見つけ出す事が叶わなかったが、銀時はこの町で、この世界で何かを見つけたのだろうか。それならばいい。そうであればいい。 「お前の生だしな。俺はとやかく言う心算は無ェよ。ま、その面見る限りじゃ未練なんざ残っても無ェみてェだしな?」 苦笑めいて笑った高杉の指先が、土方の頭からゆるりと離れて行く。 「だから。最初から未練なんて無ぇって言っただろうが」 花は散る。結実も残さず。死は目前。未練も遺さず。それでも、土方は、死を前にした人間は、そっと笑った。 恰も、花の如くに。無情に。 。 ← : → |