頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 8



 孤児院からバイトの傍ら高校に通う苦学生だった頃。個人経営の、子沢山の家みたいになっていたその小さな施設で、大きくなるまで過ごして仕舞った彼は、最年長の子供としての働き手でもあって、一番の負担の主でもあった。
 自分をここまで育ててくれた先生──孤児院の主だ──には感謝が尽きないが、銀時は院の負担を減らす為にも早い内の自立を望んでいた。だから毎日、他の同年代の子らと異なり、学校帰りに遊びもせず、部活にも入らず、足早に新聞配達のバイトに向かう。それが終われば次は馴染みのスーパーでのバイトが入っている。いつも忙しかったし、いつも疲労もしていた。
 だが、そんな銀時にしつこく、お前も剣道部に入れば良いのに、と言い続ける級友が居た。
 それが土方十四郎だった。高校一年生だった時、やる事の無い人間として銀時に半ば無理矢理押しつけられた体育祭実行委員。その放課後の会合で出会った、同じ学年で違うクラスの男。
 剣道部代表として席に着いていた、そいつの生真面目さは銀時の不真面目さと瞬く間に化学反応を起こし爆発した。
 以来、校内や学食で出会う度になんやかんやとぶつかって、解り合って、またぶつかって。の繰り返し。周囲の人間に「またやってる」と呆れ半分面白半分で見られていたのは、基本的に目立たない様に行動していた銀時とは異なり、土方が同学年の中でそれなりに目立つ人間であったからだ。
 顔良し頭良しで、剣道の全国大会での入賞経験もあり。人気者の教師であった近藤の養い子であった事もあり。土方自身に余り社交性が無くとっつきにくかった分、そんな優等生の変わった一面と言うのは面白がられ受け入れられ易かったのだろうと思う。
 二年生の時には同じクラスになり、その傾向は益々に強くなった。何しろその高校は二年三年とクラスの変更が無かったのだ。必然的に卒業まで同じ面子と顔を突き合わせ続ける羽目になる。
 その頃には銀時もまた、余り目立たないが社交的で面白い人間であると言う認識がされる様になり、土方とセットで扱われる事も増えた。そんな扱いが鬱陶しければ「またやってる」事さえ変えれば、止めれば良いだけなのに、銀時も土方も互いに頑固で負けず嫌いだった事もあり、どちらが先に退く事をも良しとはしなかったのだ。逆に言えば、周囲の面白がる声は両者にとって別段邪魔なものでは無かったと言える。
 良く連む親友になると同時に、日々諍いの絶えない、然し軽度ならその癖三分後には何事も無かった様に会話を始めると言う様な、距離の程良い関係。
 それが、親友以上である事を望む心に変わって行ったのは、或いは必然であったのかも知れない。
 切っ掛けは二年生の頃にあった、体育の授業の剣道の日。育て親の孤児院経営の傍らの趣味であった剣道に銀時は幼少の頃から馴染んでいたのもあって、全国大会に出場出来るだけの実力者でもある土方と互角にやり合う事が出来た。
 その日以来、土方は銀時に盛んに、剣道部への入部を誘いかけて来た。剣道についてを話す土方の目はいつでも熱心に輝いていて、その都度に銀時は『剣道をやる自分』への嫉妬を憶えずにいられなかった。
 土方が『剣道に』銀時を誘う事からは『剣道をやる』銀時に抱く純粋な思慕や羨望が見えていて、それまで常に向けられていた『親友』としての銀時へと向けられるものと余りに違っていた事に正直驚きと動揺とを隠せなかったのだ。
 そして恐らくは、それが切っ掛けで銀時の裡の『親友』に対する感情は変化した。明確な、何かの結実を望む『情』がそこに生じた。
 よくクラスの女子たちが話題にする様な、ときめきを感じる様な恋愛感情では無かったと、銀時は思っている。どちらかと言えば執着や独占欲に近く、ただ毎日の様に焦がれて嫉妬して満足して、充足出来ずに抱え込む。そんな恋情であった。
 己の感情がマイノリティなものである事に銀時は気付いていた。だが、ただ淡々と、これが恋情ならばそれが通じるのか通じないのか決着がつく迄はこの酷い感情は消える事は無いのだろうとだけは理解して。それでも表に出す事は出来ずに黙り込む。そんな恋心であった。
 剣道をする自分ではなく、今のこの自分を見て貰いたい。今の坂田銀時に向けて、あの熱狂を孕んだ眼差しを向けて欲しい。
 その感情から、銀時は益々頑なに剣道と言う言葉から己を遠ざけた。多忙で部活に励む暇などないと言うのも事実だったが、それ以上の感情で強く突っぱね続けた。
 「お前も剣道をやればいいのに」
 それは土方の口癖になった。
 「面倒なのは嫌いなんだって」
 それが銀時の返す答えになった。
 
 そして、あの日も二人は共に屋上に居た。
 
 *
 
 三月。梅の花がそろそろ枯れて、木蓮の花が咲き始めた頃は三年生の銀時にとって高校時代最後の春だった。
 級友たちの進路も概ね定まり、学校行事も殆どが終わった。三年生たちの在学する時間は残り余りにも少ない。特別目立った特色のある学校ではないこの高校は、今まで通り例外なく卒業生たちを送り出して行く。
 卒業したら会えなくなる。そんな響きが本当の様に感じられたのは昔の話で、今は携帯電話やらネットやらで皆簡単にコミュニケーションを取れると言う安心感もあってか、誰もが気楽に、高校時代最後の時を謳歌している様に見えた。
 別れ、よりも、旅立ち、への不安や展望が、同級生たちの心を不思議と浮つかせ、だからこそ自然に彼らを『いつも通り』に過ごさせていたのかも知れない。
 今日もそんな例外に漏れぬ、いつも通りの日だった。
 昼は学食じゃなくてパン食で。そう言った銀時が屋上で一人味気のない昼食を食べ終え、その侭転た寝したくなる心地を堪えてぼんやりと座っていると、不意にその眼前に立ちはだかる影が現れた。億劫に目蓋を持ち上げてみれば、そこにはよく見慣れた土方の姿がある。
 「……お前なぁ。寝覚めにそーやって立ってて許されるのは隣に住んでる幼馴染み括弧女の子括弧閉じぐらいのもんだろ。何で起きた早々にお前の面なんか見ねェとなんねーんだよ」
 「そんなのギャルゲーの中だけの話だろ。つーか寝てなかった癖によく言うわ」
 「バレたか」
 ふんと鼻を鳴らす土方に笑い返して、銀時は座った侭で寄り掛かった柵から背を起こした。その横に土方は自然と並んで立つと、胸の辺りにある柵の上に組んだ腕を乗せて、屋上から遠くを睥睨する。
 斜め上に盗み見た土方の横顔が何故か酷く遠く見えて、銀時は我知らず目を細めた。面映ゆい何かでも見つめる様な眼差しであったが、遠くを見続けている土方がそれに気付く事は無い。
 「もうじき卒業だな」
 不意に、小さな声で土方が呟くのが聞こえた。問いかけなのか独り言なのかは知れなかったが、銀時は態とらしく肩を竦めてそれに反応した。遠くを見る顔と細い声音とに、何故だか酷い焦燥感を憶えたのだ。
 「何。お前そんな乙女みてェな感傷するタイプだっけ?」
 つい絡む調子になる声に、土方はいつもの様に同じ調子で返しては来なかった。いつもならば互いにちくちくと『口』撃をし合う所だと言うのに。土方はただ銀時の問いに、軽く口元を緩めてみせたのみ。
 「こうしていられるのももう終わりだしな。少しぐらい名残惜しくもなるだろ」
 「……まぁそうだけど。何、銀さんとお別れになるのが淋しい?」
 「言ってろ、馬鹿」
 喉を鳴らす笑い声。銀時は土方の横顔からそっと目を逸らして俯いた。つい先程までは他の生徒の姿もあった屋上には、今は銀時と土方の二人しか居ない。まだ寒さを感じる季節だからだろう、好んで長居をしたいと思う者も少ないのだ。
 土方の言う『名残惜しい』と言うのが、恐らくは己の感じているそれとは異なると言う事を、銀時は幾度と無く感じて来た。そしてその度に心が得体の知れない感情に掻き毟られるのだ。
 「お前も剣道やってればよかったのに」
 笑って投げられるのはいつもの言葉。だが、銀時は笑う事が出来ない。ぐしゃぐしゃに崩れそうな表情筋に精一杯の力を込めれば皮肉気な顔になった。
 「そしたらお前と大学まで一緒じゃん。え、それとも俺と一緒の大学に行きたかった?離れたくなかった?」
 作った表情の侭に巫山戯て吐き出す。本当は、それが自分自身の感情で願望であると認識しながら。
 「気色悪ィ事言ってんじゃねぇよ」
 返るのは軽く笑い飛ばす声。銀時はもう一度土方の方を見上げかけて然し止める。
 酷く苦しい。この感情の齟齬が苦しい。解って貰えないのが悲しい。
 この侭高校時代が終わって、別れ分かれになる事はもう変え難い途だ。違う大学で、違う生活で、接点が残されたとして、それは携帯電話やスマートフォンの小さな画面に無機質なテキストを通しただけの、繋がっているとは言えない付き合い。
 遠ざかって仕舞えば、もう終わる。土方は土方の人生に進んで、銀時の事など高校時代の思い出の一つとして忘れて行く。置いて行く。
 (俺、だけが)
 この感情を未だ棄てる事の出来ない──棄て方の解らない──銀時を置いて。
 高校の同級生と言う接点を無くして仕舞えば、もう繋がるものは何も無いのだ。同じ剣道部の沖田や、養い親である近藤とは違って、銀時には何も無い。土方に繋がるものは、己の裡で爛れ続けるこの感情一つだけしか無い。
 土方と居る理由も、居る場所も、あと少しで無くなる。
 「……………、」
 底の無い暗闇に突き落とされた様な闇が、銀時の目の前を覆った。眩暈にも似たふらつきが脳の中の己を揺する。
 これで、土方とはお別れなのだと、その現実感を認識した瞬間に目の前が真っ暗になった様な気がした。そんな表現は漫画やドラマの中だけの事だと思っていたのに。
 どうすれば繋げるだろうかと、真っ暗な中で必死で考える。思いつかない。焦るばかりで。痛いばかりで。苦しいばかりで。
 いっそやけっぱちで告白でもして仕舞おうかと考える。だがもしも、男同士だとか気持ちが悪いとか、そう完璧に拒絶されて仕舞ったら…?
 拒絶されるぐらいならば言わない方が良い。決定的に分かたれて仕舞うなら、この侭の方が未だマシだ。
 そしてまた堂々巡り。いつも、いつもこう思ってそこから言葉が出ない。
 (でも、これで終わりかも知れないのに)
 握った拳の内が熱い。それでも、心の奥底でマグマの様に燃えて溜まり続けているこの感情の方が──叶わない恋の方が余程に熱くて、そして痛い。
 (どうしたら、)
 どうしたらこの侭居られるのだろうか。
 剣道をやっていれば良かったのだろうか。でも、土方との接点を求めるだけで剣を握ると言うのはきっと何かが違うし、いつかは気付かれ結局は軽蔑される。
 何れにせよ、今からでは何もかも遅すぎる繰り言に過ぎない。
 「土方、」
 呼びかけて、銀時はふらりと立ち上がった。もうじき予鈴の鳴る時間だ。この酷い頭の中も痛い胸の奥も、また仕舞い込むしかないのだ、どうせ。そんな事を思いながら。
 数歩進んで振り返れば──土方の背が見えた。
 土方はこちらを振り返りもしていなかった。未だ変わらず、遠くの風景を見ていた。
 ──ああ。こうして、俺の事など振り向かないのが、きっと解りきった答え。
 
 (こんな風に、目の前の俺なんて見ないで、別の途を歩いて、何れは、誰か、他の、)
 
 思った瞬間。
 衝動的であった。断じて何かの意図があった訳ではない。況して、死んで仕舞えば良いなどと思う筈も無かった。
 ただ、銀時は土方へと手を伸ばしていた。暴力的な感情を抱えた拳で。
 肩を掴んでこちらを向かせて、目を白黒させている土方の背を柵に全体重をかける勢いで強く押しつけて──
 運命かそれとも偶然か。必然か。
 その時、二人の体重の衝撃を受け止めた事で老朽化していた柵のボルトの一つを、そんな『何か』が壊した。
 土方の身体が軋んだ柵と共に仰向いて倒れ、強く掴んでいた筈の銀時の手指は土方の肩からするりと外れて行く。
 愕いているのか、いつもの悪巫山戯の一環と思ったのか、土方の表情はどこか笑んですらいる様に見えて。
 きっと、この瞬間の土方は己の身に起きた事をなにひとつ理解していなかったに違いない。だが、過ぎる時も現実も、無情に降りかかる。理解どころか何もかもに未だ気付く事の出来ていない土方にも。勿論。
 茫然とその場に佇む銀時の耳に、どすん、と重たい落下音が届いて来たのは、秒にも満たない様な──或いは迂遠の様な時間の後の事。
 屋上の下には体育館の屋根がある。そこに落下した物音を耳にした、階下の教室から悲鳴や喧噪が流れて耳朶を打つ。銀時は柵の壊れた縁にも近付かず、下方を覗く事もせず、下がった血と壊れそうなぐらい早い鼓動を抱えて数歩、後ずさった。その侭、勢いよく背を向け走って逃げる。
 階段を転げる様に下った銀時は、予鈴前で賑わう生徒も疎らな廊下を駆けて目に付いた一番近くのトイレへと駆け込んだ。個室に飛び込んで施錠するなり、昼食とどろどろした感情の混合物を全部胃から吐き出す。
 がんがんと頭の奥で音が鳴っている。何かと思えば爆発しそうに跳ねる心臓の音だ。背筋を冽たい汗が伝って全身が痙攣する様に震えていた。
 土方は、
 「──っ」
 突き落とした、のだろうか。落として仕舞った、のだろうか。掌に残っているのは、掴んだ肩の温度だけ。いつもの悪巫山戯。そう言いたげな土方の表情。
 階下で響いた悲鳴。窓から覗いて、体育館の屋根上に転落した土方の姿を目撃したのだろう。
 落ちたのだから。どんな姿でか、落ちて行って仕舞ったのだから。
 また闇に包まれた様な暗闇が目の前を暗くする。涙は出ない。ただ激しい呼吸だけが喘鳴の様に響いて、促す。罪の自覚を、促す。
 「土方…」
 ぐらぐらと眩暈に揺らされる頭を何とか持ち上げれば、丁度予鈴が鳴り響いた。
 戻らなければ。
 そんな常識的に冷えた思考を嘲笑い遮る様に、救急車の音が遠くで鳴っている様な気がした。

 これで、土方は、   ──

 そんな後ろ暗い意識が、罪悪感と恐怖と後悔とに揺れる頭の裏側で囁き嗤うのが聞こえた。
 それが、ずっと抱え続けたこの酷い恋情の解決方法だったと言うのならば。それは何と非道い話なのか。
 ……そう。断じて何かの意図があった訳ではない。況して、死んで仕舞えば良いなどと思う筈も無かった。
 それでも、結果はこうなった。偶然か必然か知れぬが、こうなった。こうなって仕舞った。
 
 それから教室にどうにか戻った後、近藤の代理で来た教師から、土方が事故に遭って救急車で運ばれたとだけ告げられた。
 生徒も、沖田も、皆動揺を隠せずに居た。学校中がこの不幸な『事故』にひとときざわめいた。
 卒業間近にして、転落事故で昏睡状態に陥った生徒。それは不幸な、不幸な事故。
 銀時は口を噤んだ侭、何も言わなかった。
 見舞いに行かないのか。お前たち仲が良かっただろう。
 かけられるそんな声たちには、「会うとショックを受けそうだし、アイツもそんな俺を見るのはきっと厭だろう」そんな言い訳を続けて、銀時は土方の入院する病院を訪れた事は今に至るまで一度も無い。あれだけ苦しかった筈の恋心でさえ封じて忘れて、日々を漫然と生きていた。それが己の罪科から逃げたい一心での事であったのは間違い無いが、もうひとつ。
 土方の『時』が停まった事に安堵した、そんな酷い恋情が、それを悪いと思えない、歓喜すらした一瞬の本心が、怖かったのだ。







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