頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 7 その病院は丘の上にある。……と言えば響きは良いが、実際の所住宅地の少し高台に位置する地区に建てられていると言うだけの話で、病室の窓や屋上から、療養生活にさぞ良さそうな風光明媚な風景や環境が堪能出来ると言ったものでは無い。 それでも歴史は古く建物は新しい、地域に根ざした総合病院である。ロビーは日を問わず地元住民たちで溢れかえり、医者もスタッフも常に忙しげに立ち働いている。病院が盛況と言うのは余り誉められた状況とは言えないのかも知れないが、重病人以外の者まで厚い医療を受けられると言うのは社会が豊かである事の証でもある。 老人たちが自分の診療の順番を待ってテレビに釘付けになり、若者たちがスマートフォンや携帯電話に向かい合う、そんないつも通りに客の多いロビーを抜けて病棟に向かい歩いて行く男が居た。 男は慣れた様子で病棟にあるエレベーターに乗って、五階のボタンを押すと、ふう、と息を吐いてネクタイを少しだけ緩めた。別段気温が暑い日では無かったが、急ぎ足で病院までの坂道を歩いて来た為に少しばかり熱量が余った様だ。いっそワイシャツの袖を捲りたいと思い、然し彼はそれを堪える。流石にそれはみっともない。 いつもならば駅からバスで病院に向かうのだが、今日は偶々バスに乗り遅れて仕舞った。次のバスは十五分後。待っていればその後の予定まで遅れる一方だと判断し、彼は歩く英断を下したのだ。 病院までの道程はバスで二十分。歩けば三十分以上はかかる上、高台と言う立地もあって坂道がその殆どを占めている。歩くのは失敗だったかな、と気付いた時には既に道程を引き返すも、徒歩での最短距離を外れてバスの通る道へ向かうも既に手遅れと言った感であった。 ふう、ともう一度彼は大きく息を吐いて、ボタンを一つ外した。襟を摘んでぱたぱたと空気を送り込む様な真似をしていると、程なくしてエレベーターが目的地に到着する。ネクタイはきっちりとは直さないがボタンだけは直して、男は開く扉を前に居住まいを正した。別に緊張する様な事がある訳では無いのだが、教職と言う身もあって何となく世間体を気にして仕舞う。 未熟でも構わない。学べば良い。だが、信頼されない人間であってはいけない。生徒にとって規範となれる教師である様に。それが近藤勲と言う男の性分であった。 エレベーターを下りると、ナースステーションで立ち働いている、馴染みの看護婦が近藤の存在に気付いて小さく会釈を寄越した。自らもぺこりと頭を下げてそれに応え、近藤は幾度となく通い慣れた道を進むのを再開させる。個室だけが並ぶ五階の、一番端に位置する病室。入り口のネームプレートには『土方十四郎』と患者名の印刷された紙が入っている。 養い子の名を、いつも訪れる度確認する様に読んで仕舞う。近藤は眉間に寄せかけた皺を何とか消すと、きちんとノックをしてから戸を開けた。 カーテンの開け放たれた窓から差し込む、夕刻の残照が柔らかく室内を彩っている。清潔な白一色の室内が仄明るい紅色に染められている様は、とても人間味があって温かく見える。 室内の空気が薬品の匂いと共に凝った停滞感をうんざりと突きつけて来る中で、優しい陽の色はまるで『優しい』絵を染め上げる塗り絵か何かの様だった。 部屋にひとつきりの寝台の上には、一人の青年が横たわっている。それがこの病室の主である土方十四郎だ。細い寝息とシーツの上に投げ出されている腕の点滴。その二つだけがこの空間で音を発し動くものの全てだ。 「トシ、今日はどうだ。元気にしていたか?」 近藤はそんな養い子の姿を目の当たりにする度、胸を掻き毟られる様な焦燥感と嘆きとを憶えずにはいられなかった。己が後悔した所で何も変わる事など無いのだと、解ってはいても。 土方の症状は安定状態にある為、医者や看護婦が付きっきりで監視する必要はない。一日に何度か看護婦が点滴や下の始末をしに訪れ、床ずれが起きぬ様に身体を動かして行く。医者の診断は数日に一度程度。計測機器から得た結果を確認し、様子を見て、治療の指示を出す。 土方は高校三年生だった春から今まで、三年の間ずっと昏睡状態でいる。事故直後の一時の、生命の危機を脱してからはほぼずっと安定した状態で、眠り続けていた。 脳死ではない。深昏睡と呼ばれるらしいその症状の原因は、事故の際に頭部を強打した事に因る。 点滴で栄養状態を保たれ、肉体の力だけで生き続けているその状態は、何かの植物の様だと、決して口には出さないが近藤はそう思っていた。思って、変わらず嘆いていた。 近藤と養い子との関係は少々複雑だ。名字も違うし籍も異なるが、大概の世間一般的な目では『親子』と認識されていたし、近藤もその心算で土方に接していた。土方も近藤に父親と言う存在を当て嵌めてくれていただろう自覚もある。 その関係性は、土方が睡りに落ちた今も変わっていない。近藤は毎日仕事を終えると養い子の元を訪い続けている。土方の本当の両親は依然としてほぼ音信不通だったが、未だ連絡のついた事故の当時、帰国すらしなかったが医療費と称した大金を振り込んで寄越した。その金で今も土方はこうして厚い治療環境を得られているので、人として、親としての情は疑うがまるきり恩が無い訳でも無い。正直な所近藤の安月給だけでは土方を病院にいつまでも入れておく事など到底叶わなかっただろう。 本当の親子である事だとか、そんな事は問題にはならない。土方にとって近藤は大事な養い子であり、それはこうしてこの子が眠り続けるだけの植物か何かの様に成り果てた今も変わる事はないのだ。 毎日の様に見舞いをした所で、声を掛け続けた所で、土方の様子には変化は見られなかった。それでも、そうだとしても、近藤はこの養い子を放り捨てる気になぞなれない。いつかきっと元通りに戻って来る。そう信じて日々、睡り衰えて行く土方を見舞い続けている。 近藤の他には、土方の幼馴染みである沖田もよく足を運んでくれている。高校の頃の同級生や友達も時折姿を見せる事があると言う。高校と言う接点が断たれて猶、土方の事を気に懸けてくれる同級生が居ると言う事実は、近藤にとって救いだった。 良い子だった。養い親を困らせる様な事はせず、学校ではちゃんと教師として向かい合う分別を見せ、進学についても暮らしについても我侭一つ言わず、境遇の割には曲がる事も無く育ってくれた。 それでも、良い子だろうが悪い子だろうが、そんな事には関わらず不遇と言うものは訪れる。 事故だった。生徒の出入りが自由になっていた高校の屋上、その柵が老朽化で傷んでいた。恐らくそこに気付かず寄り掛かった土方は真下にあった体育館の屋上へと転落したのだ。 屋上はその後柵が整備され取り替えられた上で、生徒の立ち入りが全面禁止となった。柵の点検が出来ていなかった事、屋上に生徒を自由に出入りさせていた事など、学校側の問題は多岐に渡って議論され改善されたが、それで土方の事故が無くなった事になる訳では無論無い。 改善されればそれは過ぎた事になる。繰り返す心配は消えたのだから只の過ちになる。そうやって事故の犠牲者が風化して行くのは近藤にとっては何よりも辛い事であった。土方がこの侭、時間にも人にも置き忘れられて一人取り残されるのは不憫でならなかった。 「銀時も電話でお前の事を気にしていたしな。いつか来てくれるかも知れんなぁ」 土方と仲の良い友達だった坂田銀時とてその例外に漏れない一人であった為、近藤は先日の銀時からの電話を酷く喜んでいた。しょっちゅう喧嘩したり言い合ったりしつつも理解し合えていた、親友とも呼べる人間が来た途端に土方が目を醒ます、などと言うドラマの様な都合の良い期待をしている訳ではないけれど。 銀時が、あの頃の様な絡む調子で声を掛けて、それでも変わらず睡り続けるのだろう土方の姿を恐れて近付かないのだろうと言う見解は沖田の想像と解釈だ。そしてそれは強ち間違いでも無かったのだろうと、先日の銀時との電話で近藤はそんな確信を朧気に抱いていた。 土方の事を忘れて忌避して生きていくと言う銀時の思いには理解もある。だが、それでは余りに悲しいと近藤は思うのだ。 出来る事ならば呼んでやって欲しい。届かないとしても。それでも。 泣き笑いになった表情で、睡る土方の頭を撫でて、近藤は力なく項垂れた。『父』としての懊悩の色濃く出たその姿を、沈み始めた陽の翳りが無情に撫でて行く。 そんな近藤の目前。 睡り続ける土方の胸からは、常人には見る事の叶わぬ、黒い花が咲いていた。 それは銀時の元にある白い花と全く同じ姿形をした、花だった。 近藤さんの説明ターン、短っ! ← : → |