頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 6 電車の規則正しい揺れは揺りかごの様に肉体と意識とを揺さぶる。 終電に近い時間の車内は、疎らに抱えた客をその内に呑み込んで夜の中を走り抜けて行く。空いた席の真ん中に座した銀時は、ぼんやりとした心地で揺れる吊革の群れを見つめていた。 左右に、一糸乱れぬ統制の取れた兵たちの様に揺れる吊革は、日中ならば多くの人間に必要とされていたのだろうが、空席の方が圧倒的に多い車内でわざわざ好きこのんで立つ者もいない。揺れる吊革は一日の役割を終えて、ただ草臥れて揺すられるばかりだ。 傍から見れば、車内の振動にただ揺すられて脱力しきっている銀時の姿とて、そんな吊革たちと大差無いものであっただろうが。 今晩は、バイト先の居酒屋が改装工事で、夕方には閉店となった為に、銀時が帰路についた時間はいつもより大分早かった。それが、終電に近い時間まで電車に乗る事が無かったのは、ちょっとした寄り道をしたからだ。寄り道、と言うか──時間潰し、と言うのが本当の所だったが。 何にせよ──夕食ついでに入れた少量のアルコールが、疲労の濃い身体に程良い眠気を誘って来ていた。それに加えてこの電車の振動だ。とは言え万一にでも最寄り駅を乗り過ごす様な事になれば面倒臭い事になる。次に目を醒ますのは終電も無くなった時刻の遠く離れた終着駅だろう想像は易い。 ゆらりゆらりと揺れる吊革を数え、目で追って、訪れる眠気に何とか目を開き反抗を続ける。 疲れて、酒も入れて、眠い。だから早く家に戻ってベッドの中へと逃げ込みたい。そうすれば何に憚る事もなく眠れる筈なのに。休める筈なのに。 だが、家では花が咲いている。だから。──……だから。 銀時は溜息を吐いて、背後の窓を振り返ってみた。すれば切り取った夜景を見せる窓硝子に、草臥れ精彩を失った若い男の顔が映る。 (…………辛気臭ェ面しやがって) 悪態をつけば、窓に映る顔もまた、不快そうに顰められた。 帰るのが憂鬱で堪らないなどと、どこの思春期の小娘だと思う。況してやその理由が、花の一輪にあるだなんて、みっともない以前に訳が解らなすぎて誰にも相談すら出来やしない。尤も誰かに相談しようと思った事さえ無かったしこれからも無いが。 「………」 願った通りに花が咲いたのであれば、未だ消えぬ恋心を腐爛させ続けている銀時にとっては、酷く単純な話である筈なのだ。恋は今度こそ、今になってこそ、成就する為に蘇ったのかも知れないと、ご都合で身勝手な解釈をした所で、相手は花だ。誰にも咎められやしない。 だが、自覚する恋心がそんなに単純な『欲』や願望ひとつで片付くものではないのだとも、銀時は理解している。理解しているからこそ、こうして臆病に忌避を続けているのだから。 (辛気臭ェ面にもなんだろ…、こんなん、) 眉間に寄った皺が、苦悩よりも自嘲を刻む。 いっそ忘れて仕舞えばと、あれからずっと悔い続けた恋心。罪悪感。そして怖れ。それが今更。今になって、手掛けた人間に復讐しに来た様だと思う。そんな想像さえも酷く馬鹿馬鹿しいものでしかなかったのだが。 電車を降りて、原付に乗って戻ったアパートの一室。 いつも通り、慎重に音を立てない様に鍵を開ければ、戸は今日も一日固く閉ざされた侭で居た手応えを確かに手へと伝えてくれて、銀時は我知らず安堵の息を吐く。まるで秘密にしている筺を開く時の様な後ろ暗い恐怖と喜悦。 そっと開いた戸の中に滑り込めば、電気は点いておらず、細く隙間を開けたカーテンだけが暗い室内の僅かな光源になっていた。 部屋の中央辺りにあるテーブルの上では、その僅か差し込む夜空の色に染まった白い花が在る。花が開いてからもう一週間は経っているが、未だ枯れるでもなく変わらず在る。とは言え、やはり生きた植物だ、花もそれを囲う葉も日々少しづつ精彩を失って来ている様にも見える。毎日見比べている訳ではないが、よくよく見てみれば少し花弁が変色し垂れて来ているかも知れない。 花の姿から頭を巡らせてみれば、テーブルに向かう位置に仰向けに横になっている人間の姿が居るのが直ぐ目に入る。寧ろ花より先にこちらの方に本来目が行くべきなのだろうが。 彼は──土方と同じ姿をしたそれは、青白い顔を薄闇の中で更に際立たせて、静かな寝息を立てていた。清潔そうな白いシャツとズボンの上下も相俟って、何だか不健康な病人の様にも見える。 そんな彼の様は、銀時の知る土方とは大きく異なる。……今の土方と比べてどうなのかは解らないが。 銀時は足音を忍ばせて、眠る土方の横に膝をついた。ぴたりと閉じた目蓋は、長めの睫毛で封蝋でもした様に隙間なくその眼差しを鎖している。薄く開かれた唇の隙間からは真珠粒の様な歯が僅かに覗き、そこから漏れる静か過ぎる呼吸音が無ければ、まるで良く出来た人形か死体の様だった。 (……そう言や、俺は見なかったんだった……) ぐらりと眩暈に似た感覚が視界と意識とを不安定に揺する。記憶が思い出す事を、考える事を放棄しろと囁くのに任せて、銀時は殊更にゆっくりと瞬きをした。 (コイツは、寿命とかあるのか…?) 世間一般の花の寿命なぞ知らないが、大体どのくらい咲いているのだろうとふとそんな事を考えてから気付く。見遣った花の花弁は少々草臥れては見えるが、まだ軽く数日は咲き続けているだろう。 だがもしも、花が枯れたとして──その後、この花の精(の様なもの)を名乗る青年はどうなるのだろうか。 花とは無関係に生き続けるのか。そう思ってからすぐにかぶりを振る。鉢植え本体がどうにかならない限りは無事で居ると、『本人』が自らそう口にしたのだ。この花と、花の精──土方との命は連動していると考えるべきだろう。 「……」 震える臆病な指先が、躊躇う様にフローリングの床を引っ掻いた。冽たい手触りは、眠る彼の頬とて同じなのだろうか。無機質で、応えの何も無い物体と。 それこそまるで、見た通りの死体の様に。 断じて酔っていた訳では無かったと、銀時はこの時の己をそう評せる。 覗き込んでいた白い顔の中。小さく痙攣した薄い目蓋が、不意に何かの弾みで開かれた。 ただ近くに座って、眠る顔を見つめていただけだ。言い訳も理由も何とでも説明が出来る筈だった。だが、まるで熱湯にでも触れた様に銀時は身を竦ませた。 半覚醒の眼が、ぼやりとした様子で銀時の姿を視界に捉えようと動く。言い訳も、或いは何か別の言葉も、生み出すには易かった筈だと言うのに──、 「………ぁ、」 喉が鳴ったのが先か、手が動いたのが先か。言葉よりも、銀時が選んだのは衝動的な感覚に身を任せる事だった。 薄ら開いた唇が何か言葉を紡ぐ前に、押さえ込む様にして自らの唇を重ねる。土方に対して、夢想した事はあれど一度だってした事の無い行為に、然し怯えも迷いも何も生じなかったのは──どこかで『彼』が土方では無いのだと、都合の良い偶像(かたち)でしか無いものなのだと、そんな事を考えていたからなのか。 摺り合わせるどころか、歯がぶつかる勢いで押しつけられた口唇に、然し土方は然程に騒いだり暴れたりはしなかった。眠りの狭間に揺れていた眼が開かれ、愕いた様にびくりと背が跳ねる。たったそれだけの、抵抗ですらない動作。 獣が、仕留め掛けた獲物を食らう時の感覚とはこんな感じなのだろうか。銀時は硬直した土方の背を咄嗟に抱え込んで、彼のそれ以上の動きを封じた。 何をやっているのだろうと囁く本能と。この為の願望であり存在であったのだから良いじゃないかと嘯く理性と。その狭間では常識的に思える思考も、躊躇うだけの理由も建前も、最早役立たずに成り果てる。 「っは、」 唇を引き剥がして、眼下の獲物を見下ろす。土方が、こんな事を銀時にされて、一体どんな表情をしているのだろうか見たくなったのだ。それが拒絶の類であれば覆い隠し、真っ赤になって愕いている様であればからかってやる心算で。 「──」 ひじかた、と呼びかけた言葉が然し寸での所で止まった。欲情とか衝動とか、そう言う瞬間的に上がった熱たちが冷水を浴びせられた様に熄む。眼下の、眼前の、余りに静かな土方の──彼の感情の形作った表情に因って。 彼は酷く穏やかな表情を浮かべていた。期待していた肯定でも、恐れていた否定でもない、静かで無機質な、あの時の何も知らない微笑みに似て──、 「…………土方、」 瞬時に乾いて貼り付いた喉から何とか絞り出した言葉は、彼を呼んだものではなかった。それをまるで解っているかの様に、土方の姿をした『彼』は、己を示す筈のその名前に返事を寄越さないで居る。 冷えた背筋を伝う汗に、銀時は弾かれた様に上体を起こし手を離した。そんな姿を眼の動きだけで追って来る土方から眼を背けて、その場からずり下がって逃げる。 違うんだ、とか、ごめん、とか、幾つか言い訳や謝罪の言葉は浮かんだが、結局どれを選ぶ事も無く、銀時は土方から目を逸らした侭その場で膝を抱えて蹲った。 花に対して──或いは幻想に対してか──欲情しかかった挙げ句に謝るなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。否、それ以上に何だか酷く居た堪れなくて、言葉を紡ぐ事さえ申し訳無い様な心地になっていたのだ。 膝を抱えて動かない銀時を、彼はどう思っていたのか。怖くて振り向きも問い質しも出来ぬ侭、銀時はこの現実を──『やって仕舞った』現実を拒絶したくて、目を瞑り続けた。 * 泣くのを堪えている子供の様な姿だと、思う。 そうやってじっと、視覚も聴覚も拒絶して蹲っていた銀時の姿から、やがて細い寝息が聞こえ始める。苦しそうな息遣いなのは、身体を折り曲げている所為だろう。そんな姿勢でも眠れる程に心身共に疲労しているのは明かだと言うのに、ゆっくりと手足を伸ばして眠れないと言う状況は何だか気の毒にもなる。 土方はそんな銀時の姿を横目に見ながら、音を立てずにそっと身を起こした。窓を静かに開いてベランダへと出る。 裸足の足に触れる外気は僅かに湿っていたが、不快感を感じる程ではない。穏やかな気候を掻き混ぜる微風に我知らず目を細めながら、土方はベランダの柵に肘をついた。ここ最近すっかり見慣れて仕舞った風景を、然し何か目新しいものを探す幼子の様な表情で見回す。 そんな土方の横に、不意に大きな鳥の羽音と共に黒い影が差し込んだ。影を作った張本人は、何処から現れたのやら、黒いスーツを纏った若い男の姿となって、重さをまるで感じさせぬ動きでベランダの柵へと座る。 見慣れた動きと形とに、土方が今更注意を惹かれる理由は無い。そんな事よりも、目の前の風景を見つめ続ける事の方が大事である様に思えて、土方は己の真横に、然し見つめる方向とは真逆を向いて『降り立った』男に視線さえ向けずにいた。 「……で、望みは叶ったのか」 向けられた問いに、土方はかぶりを振った。わからない、と短く答えて、柵に置いた腕の中に顎先を埋める。 「知りてェんじゃなかったのか」 食い下がる様に重ねられる問いに、土方は意識せず困り顔を作ってみせた。深夜の遠い町並みへと投げた視線を面映ゆそうに細めて、力なく笑う。 「どうだろう。本当はどうでも良かったのかも知れない」 いつになく消極的な土方の物言いに、黒ずくめのスーツの男が呆れた様な溜息を吐くのが聞こえた。 「テメェを『殺した』男だろう。理由ぐらいは知らねェと死んでも死にきれねェんじゃないのか」 それは彼の抜ける伝家の宝刀だったのだろう。誘われる意図には逆らわずに、土方はゆるゆると顎を擡げて男の姿を見上げてみた。もしも銀時が起きていたならば、この男こそあの妙な鉢植えを押しつけた張本人だと、そう憤慨と驚きとを混ぜて叫び散らすぐらいはしていたに違いない。 だが生憎と、視線を戻してみた部屋の中では、銀時は依然変わらず体を小さく丸めた侭、世界を拒絶する様に眠りに落ちている。 高杉と、土方にそう名乗った男は、当然だが銀時の思う様な花屋などではない。実のところ、かれこれ一年以上は共に居た仲ではあるが、その正体について土方は未だに良く理解を出来ていない。何度も説明はされたし、そう言うものなのかと納得も得たのだが、それは超常的な事を恐れ否定したいと言う人間の本能的な部分できっと、本質的な意味での理解や知恵を深めたいとは思っていないからなのだろう。 結局土方は、高杉への理解としては漫画や映画によくある様な、死神だとか天使だとか、そう言った単語と役割とを当て嵌めるに留めている。高杉も別にそれを否定はしなかったので、強ち間違ってはいないと言う事なのかも知れないが。 何にせよ土方は彼について、自分にしては十二分に柔軟な納得を得たものだとは思っている。そもそも、死神が枕元で煙草なぞをふかして、未練を晴らす気は無ぇかだのと語りかけて来た事自体が、土方にとっては大凡何かの冗談か夢かとしか思えなかったのだから仕方あるまい。 曰く。明確な未練を残した侭で人が死ぬと、その魂が淀んで世界や人心に悪影響を及ぼすのだそうだ。故に高杉の様な存在が、それを出来得る限り解消して回る。それが彼の──彼らの『役割』。 そう言われた所で、土方には到底真っ当な理解は出来ない。理屈と人間の理解とを超えた現象を数々目の当たりにして猶、これは己が死の寸前に至った狭間で見ている夢か何かなのではないかと時折思う事さえある。 尤も今の土方の有り様とて、大凡普通の理屈では説明のつかない状態に在るのだ。高杉の事について今更首を捻った所でどうしようもない。土方の『今』の姿、その正体は銀時に説明した通りの『花の精』などでは無論無い。純粋に、坂田銀時の良く知る、土方十四郎と言う人間そのものである。より正確に言えば──その魂だけ、の様なものだそうだが。 ともあれ。高杉は、土方に己の存在を理解させる事自体が無駄だと端から解っていたのか、非現実的な現実をひたすらに並べ立てる事で土方の精神を苛む様な真似はしなかった。ただひとつ、彼の言う『役割』を全うするだけだと言い置いて、後はただ土方の決断や記憶の修復を黙って待ってくれていた。そう言った意味──決断をこちらの手に委ねてくれると言う、曰く『役割』に反した事になりかねない行動をも取って、土方の意志を尊重してくれた点に於いては、高杉に感謝をしている。 だからまだ、これもその延長線の上の事。 「……最初はその心算だった、のかも知れねェけど」 言って、土方は躊躇う様な表情を乗せた視線で、高杉のどこか呆れた様な顔を仰ぎ見た。 「花が、咲いた。その時点で答えはもう出ていたのかも知れない」 続けて見遣るのは、窓の向こう、外気に触れぬ室内で大事に丹精された白い花。 咲くかどうかは、賭けであった。少なくとも土方の知る、高校三年生だった頃の坂田銀時は、花の世話など出来ないし好んでするものでもない、そんな男だった。 だからもう、違うのかも知れない。時間は残酷にも土方を置き去りにして進んだのだと、銀時の今の生活や、暮らす町並みを見つめてそう思った。土方には元より恨みも無ければ惜しむものも無く、思い起こせば恐怖の中には、単純な疑問が残されていただけで。 なるようにしかならない。そんな気持ちも半々に、高杉の申し出に乗った事は、まるきり無駄だった訳でも無い。未練とやらに合致するのかは知れないが、今の銀時の様子を見て、世界の移り変わりを見て、逆に何だか諦念にも似た安堵を土方は得ていたのだ。 「…変わってんな。大概の野郎は、手前ェの死の原因となった人間がはっきりしてたら、まずは復讐を目論むもんだが」 それが多くの人にとっての『未練』になるのだと、いつかそう言った時と同じ様な調子でそう言って、高杉は理解し難いとでも言いたげに肩を竦めてみせた。 「何せ、死んで仕舞え、と、アイツがそう思っていたのかさえ解らねぇんじゃ、復讐も何も無いだろ?」 殺意の有無を理由とするなら、そう言う事になる。一時の衝動であったとしても、彼が何を思ってそうしたのか、それを土方はただ知りたかった。恨みより悲しみより、理解出来なかった何かが惜しい。あんなに仲が良かった──と言えば語弊がある。良い方面も悪い方面でも非常に近しかった、そんな人間が、どうして。と。 『死』の理由を未練と言うならば、高杉に言わせれば、それを土方が知る事こそがその成就であり、銀時へと復讐を図る事である必要はない筈だ。 「………」 町並みを見つめていた眼差しと同じ表情で花を見つめる土方に何を思ったのか。高杉は暫くの間土方の事を見下ろしていたが、やがて溜息と同時に手を伸ばすと髪をぐしゃりと撫でて来た。子供を宥める様なその仕草を土方は余り好きではなかったが、黙ってしたい様にさせておく。 「ま、強制する心算は無ェさ。テメェの好きにしな。だが、花が枯れるまでと言う期日だけは変わらねェぞ。それだけは肝に命じておけ」 少し力の籠もった手指が、土方の髪を掴んだ侭止まる。軽く引かれる頭皮の感触に痛みに似たものを憶えた土方が仕方なしに高杉を再び見上げれば、彼は酷く真剣な眼差しで土方の事を真っ直ぐに見下ろして来ていた。 「精々あと数日だ。花が枯れるのと同時に、お前は本当に死ぬ」 それまでに精々、未練を解消出来る様にしとけ。 そんな、医者より余程確実で効力のある余命宣告に、土方は表情ひとつ変えずに、ただ咲き続けている花を見つめた。幾ら丹精した所で、幾ら大事にした所で、咲いた花はやがて枯れるものだ。 結実をなにひとつ残さず枯れる花に何の意味があるのか。その答えはまだ、見つかりそうもない。 高杉の年齢だけは原作通りぽいイメージで。 ← : → |