頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 5 親戚だと、土方は嘗て近藤勲と言う担任教師についてをそう語った。 だが実際はもう少し込み入った話になっており、血縁関係としての繋がりは無いが、近藤は土方にとって一応は遠い親戚に当たる人間だったらしい。 一年の殆どを海外(しかも不定)で過ごす土方の両親は、土方が幼い頃は家に居た様だが、小学校を卒業する前にはもう殆ど戻らなくなっていたと言う。 家の事は年間契約で雇われていたハウスキーパーと、時折隣県に住む伯父夫婦が見てくれていたのだが、土方が中学生の頃、その伯父の葬式の際に偶々に事情を聞きつけた近藤が、放ってはおけないと正義感だか義侠心だかを働かせた結果、保護者として土方の面倒を見る事になったのだそうだ。親類の反対があったのか無かったのかまでは知らないと土方は言ったが、結果的に鞘に収まった現状に安堵しているのだけは確かだった。 両親にさえその存在を省みられる事の無かった幼い土方には、己の存在に目を向けてくれ、親身になって面倒をみてくれた近藤や伯父夫婦は神にも等しい存在感だったに違いない。とりわけ土方は、子供の成長と言う面では一番手がかかって厄介だっただろう時期に『親』になってくれた近藤に酷く感謝しており、あの人が居なければ高校に進学する事もなくやさぐれていただろうと、当時の己の心境を曖昧に濁しながらもそう語ってくれた。 土方の保護者になった当時の近藤はまだ教生で、収入も安定していなかった為、養子などの手段で『保護者』となった訳では無かった。法的には、海外で仕事だかバカンスだかに明け暮れて子供を省みない夫婦が未だに土方の両親と言う事になる。だが、土方は近藤を恐らくは両親以上に、親類縁者の誰よりも慕っていたに違いないと当時から銀時は確信していた。 法的な繋がりも、血の繋がりも無い二人だが、きっと今もその『親子』関係は全く崩れていないのだろうと銀時がそう理解するには、近藤の重たい沈黙は、そこから続く言葉よりも十分に足りるものであった。 「……ああ、うん…、そうだよな…」 近藤が言葉少なに、無理に笑みの気配を纏って語った土方の『今』を、銀時は覚悟を抱えた胸中で何とか受け取った。厭な汗の滴りそうな額を拭って、洗面所の鏡に映る、酷く顔色の悪い己から目を逸らす。 「悪ィ、いきなり…。……ああ、…うん。時間とか出来たら、何とか…」 一気に萎んで仕舞った空気に罪悪感よりも、早くそこから逃れたいと言う忌避感を憶えて、銀時は続く近藤の言葉に曖昧な返事を返しながら逃げる様に素早く電話を切った。 「………………」 手の中に残されたスマートフォンの真っ黒な液晶画面を見下ろして、そこに映る己の顔が万一にでも引き攣ってはいまいかと思い、笑いにかそれとも恐怖にかと考える己にまた吐き気がした。 浴室から外に出れば、薄暗い朝の室内にも徐々に朝の明るさが満ち始めて来ていた。青年は相変わらず、何が楽しいのか窓の外の風景を熱心に見つめているし、テーブルの上の鉢植えも白い花を開かせた侭だ。 何も変わっていない。その風景こそが『変わった』点だ。昨日まで、一昨日まで、或いはもっとずっと前まで。変わらなかった筈のものだ。それで良かった、筈、のものだ。 「……何が、見えんの」 「何も。そうでなければ、何もかも」 黒髪の背に向かって問いを投げれば、彼はそう問われる事をまるで予想でもしていたかの様に、考える素振りひとつみせずにそう答えた。端から真剣に返事を返す心算など無かったのか、それとも心底そう思っていただけなのかは解らない。 「…………なぁ、お前は、本当に」 花の精なのか。そう胸中に浮かんだ瞬間に何だか無性に可笑しく思えて来て、銀時は呑み込んだ問いと共に口端を歪めた。言葉にしてもしなくとも、酷く間の抜けた問いだ。大凡現実的では無いことこの上無い。 「本当に」 然し銀時の、言葉にするには余りに臆病だった問いを肯定しながら青年は振り返る。銀時のよく知る、土方と同じ顔をして。同じ声をして。同じかたちを見せつけながら。 「──」 その言葉が肯定する。その舌が欺く様に是と突きつける。銀時にとって酷く残酷な記憶を無遠慮に踏み躙って、静かに──彼は静かに、微笑んでみせるのだ。 土方が此処に居る筈は無い。それは先程の近藤との電話で既に知れた。近藤は嘘をつく様な人間ではないし、器用に人を欺せる様な性格でもない。 だから、近藤の言葉に嘘が無いのだと、したら。 (本当に……、本当にこれは、俺が──俺の願望が呼び出した、モノだって、) 助けを求める様に見下ろしたテーブルの上には、白い花が無言で佇んでいた。その通りだと頷く様に。 これは銀時の日々の、ささやかな丹精の生んだ結実で。 望んでいた形の、肯定だと言う事、だ。 「……………」 現実がどうとか。そんな事を幾ら考えようが、目の前にこうしてある以上それこそが覆し難い『現実』なのだ。理屈に合わないとか、現実的じゃないとか、そんな事を論じるだけ、思考するだけ馬鹿馬鹿しくすら思えて来る。 咲けば願いが叶う。 言って笑った花屋は何者だったのだろう。足の悪いあの男が、最早単なる花屋であった筈も無いのだが、責任転嫁の様にそう考えてから銀時はぐしゃぐしゃと己の頭を掻き混ぜた。 そんな銀時の、解り易い苦悩のポーズを、『彼』はただじっと見上げて来ている。何を言うでもなく、するでもなく。目の前の花と同じ様にただ静かにそこに居る。 「…なぁ、俺は一体、どうすりゃ良いの」 そう口にしてから、これもまた間の抜けた問いだったかと考える。そんな銀時の胸中を肯定する様に、青年も少し困った様に首を傾げてみせた。 「どうするも何も。俺はお前に望まれ咲いた花と言うだけだ。枯らすも捨てるもその侭にするも、全てはお前の決める事だ」 「…………いや、折角咲いたんだし、枯らしちまうつもり、は無ェけど…、」 言いながら、最も簡単な答えは現実を否定する事だったのかと気付いて、銀時はまるで己の心を目の前の青年に──花に読まれた様な心地になって、居心地悪く身じろいだ。 捨てて仕舞えば。或いは、 落として仕舞えば。 「──、」 癇癪を爆発させて鉢植えを窓から投げ捨てる己の姿を想像して仕舞い、銀時は酷い嘔吐感に見舞われて柱に寄り掛かった。咄嗟に押さえた口の奥で胃酸が喉を灼くのに苦悶して、強く、強く目を閉じる。 そんな銀時の姿を、彼は黙ってじっと見上げ続けていた。 そう。やっぱり目の前の花と同じ様に。ただ、静かに。 そこに、居続けていた。 * 姿は他の人間には多分見えない。 眠りはするが食事も排泄も必要無い。代謝も無い。 鉢植えの花が無事である限りは彼もまた無事。 「ただ──そう、今まで通り、少しの水を貰えればそれで」 自称花の精の、彼の語った所は概ねそんなものだった。念の為に、この花を銀時へと押しつけた花屋についても訊いてみたが、得られたのは、自分はまだ苗だったのだからそれは解らないと言う、想像通りの返事のみ。 「お前、とかじゃ呼び辛いから、その姿によく似ている奴の名前で呼んでも良い?」 銀時が恐る恐るそう問いたのは、彼がこの家に落ち着いて三日が経過した頃だった。 土方、と。提案した割には相当に迷いながら漸く紡いだその名前に、彼は──土方は、迷いも無く、どうぞ、と返事を寄越した。 「ただの花に了承を求めてどうするんだ」 そんな、残酷な言葉を添えて。 それはまるで、『その名』で呼べども、なにひとつお前の知る現実は変わりはしないのだと──そう弾劾する様な響きを持って銀時の心を酷く打ちのめした。 そうでなくとも。或いは、そうだとしても。 家の戸を開けると、ただいま、と呼びかける相手が居る生活に、銀時の胸は竦んだ様に痛むのだ。ふとした拍子に、表情のひとつや仕草の中に、記憶の中の土方の姿を重ねて仕舞う。 窓の外を眩しそうに見つめているその横顔に、触れたくなって止まる。苦痛を伴う記憶の綻びを危うく捕まえそうになっては酷い後悔が嘔吐感となって沸き起こる。 これが花なら、土方ではないのなら。本当に、銀時の願望が生んだ形なのだとしたら。 望みが形作った? どうして今更。どうして今になって。 負い目と困惑と罪悪感とで、見返す彼の顔が痛みに滲む。それでも彼は──土方の姿をしたそれは、ただ花の様に其処に居るだけなのだ。 断罪をするでもなければ、救済を伸べてくれるでもなく。ただ。居る、だけ。 現実の、土方と同じ様に。 「……くそ、」 考えても、考えても、結論は出ない。無いものだから、出る筈も無い。 一体『何』の願望が生んだものなのか。あれは土方ではないのだと、言い聞かせるのも最早虚しくなった銀時の足は、日数を経る内に自然と家から遠のく様になっていた。 大学が終わって、バイトに出掛けて、疲労してはいたが給金になるからと深夜シフトにまで手を出して。バイト先はラストオーダーが24時の居酒屋だ。家に帰れるのは終電の頃になる。 真っ暗な室内に憚る様に「ただいま」と囁き声を掛けて、彼が部屋の隅で眠っているのを見ては安堵して、疲労した肉体の侭眠りにつく。 ワルキューレの騎行のメロディーに叩き起こされる朝には、土方とゆっくり顔を突き合わせている時間なぞ無い。コップに汲んだ水を鉢植えに流し込んで、慌ただしく家を出ては電車に飛び乗る。 そんな暮らしの変化に、疲れないと言えば嘘になる。仕事の僅かの休憩時間に、頬をテーブルに落とした己を誘う眠気に堪えながら、銀時は疲労に落ち窪んだ目を眇めて溜息をついた。 取りだしたスマートフォンで、いつもの様に天気情報を呼び出す。今晩は雨。だが、己の雨傘の所在の心配以上に銀時が懸念するものは無い。 花は、家の中でただ咲いているだけなのだから。風雨に晒され枯れる心配をする必要は、もう無い。 花は、土方は、銀時がこうしている間もただじっと部屋で咲き続けている。 たったそれだけの為に、咲いたのだ。 銀時には、幾らあれが己の願望が作った形であると認めた所で、あれを土方であると心底に認める事は出来そうもなかった。 あれは、ただの花であって、土方ではない。 それでも──それでも『彼』は、銀時の望みが作った形をしているのだ。 だ、としたら、その望みとやらの正体とは『何』だったのか。その現実と向き合う事をひたすらに恐れて、こうして疲労に身を窶して眠る己は、きっと酷く滑稽な存在なのだと思う。 (………でも、いっそ捨てる事も出来ねェ、のなら) 思うのをも恐れた、滲んだ恋心が疼く。懐かしい痛みに全身を軋ませながら、その存在感を主張して騒ぎ立てて来る。 この心は、土方の事が、好きなのだ。未だ、ずっと。あの時からも途絶えず、ずっと。 そこに潜む願望が花を咲かせたのだと言うのなら。それは何と醜く傲慢な欲なのだろうか。 その恋を手に掛けた人間の、酷く身勝手な感情が──あんな綺麗な花となって咲くなんて。それこそ何かの悪い冗談であった方がまだ余程マシだと、銀時はそう思って嗤った。 。 ← : → |