頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 4



 耳に聞き慣れた音楽が聞こえて来る。いつも通りの"ワルキューレの騎行"。慣れきった旋律は今日も重苦しい緊張感を孕んで銀時に朝を告げる。起きろと促す。
 「おい、起きろ」
 (解ってる、解ってる。大丈夫、大体いつもこの冒頭の辺りで目ェ醒めてるから)
 「起きろ。鳴ってる」
 (鳴ってるって言うか流れてるよな。解ってるって言ってんだろ……、)
 布団から手を出そうとした所で、自分が居るのが寝床のパイプベッドの上ではなく、また寝転がってもいないと言う事に気付いて、銀時はゆっくりと瞬きをした。首が、と言うか身体が痛い。
 いつもの音楽。だが、布団の中ではない目覚めはいつもの朝とはいかなかった様だ。テーブルに頭を預けて座った侭の姿勢。どうやら昨日あれから色々と考え事をしている内に眠って仕舞ったらしい。一体どれだけの間この不自由な体勢で居たのかと考えるとぞっとしない。
 「起きろって」
 音楽の合間に人の声。これもまたいつもの朝とはいかなかった様だが──
 「……………、」
 え?と眉を寄せて、銀時はテーブルからがばりと勢いよく上体を起こした。カーテンの閉まった侭の薄暗い室内の中、朝の訪れを続ける音楽は既に2ループ目に入っている。
 「え?」
 今度ははっきりとそう声が出た。
 テーブルの上には電源の入っていないパソコンと、昨晩部屋に入れた鉢植え。
 「起きたか」
 そして、その向こうに座している、見覚えはあるがこんな所に居る筈も無い青年の姿。
 「……………」
 あんぐりと開きかけた口が、心臓の鼓動が跳ねるのに合わせて閉じた。ごくりと喉が鳴り、冷たい汗が混乱した感情と混じり合って背中を伝うのさえ感じられる気がする。
 現実を疑いかけて、然しそれが寝惚けた己の頭の成せる業だと思うには、銀時の頭は一息に覚醒して仕舞っていた。
 幻か。夢か。それとも何かの意趣返しか。
 年頃の割に少しも染めたりしていない真っ黒な髪。項を少し隠す襟足がなんだかいつも綺麗だった事を憶えている。夏の暑い日にそんな綺麗な襟足から染み出した汗が項を、湧水か何かの様に伝い落ちていた事を憶えている。
 そんな、下らない事ばかり、憶えている。

 「……ひじ、かた……?」

 やっとの思いで喉から絞り出した言葉は、酷く掠れて乾ききっていた。まるで幽霊でも見て仕舞った時の様に、疑問や訳の解らない罵声は幾らでも頭に浮かぶのに、喉をついて出て来るのは役に立たない無意味な言葉ばかり。無常の記憶ばかり。
 青年は銀時の呼びかけに──或いは問いに──、軽く頭を左右に振る事で答えた。
 否、と。
 (そんな、馬鹿な)
 こんなに、よく似ていると言うのに。そう思うのと同時に、『そんな事は有り得ない』現実が打ち消す。似ているのに違う──そんな馬鹿な。こんな所に居る筈が無い──そんな馬鹿な、と。
 どちらも否だ。これは有り得る事ではない。青年の否定は正しい。そうでなければおかしい。
 だが、だからと言って安心出来るものでもない。呼びかけた名の主でなければ、これはそれによく似た形の別の何かであると言う事になるからだ。
 銀時のそんな不安を察したのか、青年はすぐに後を続ける。
 「違う。だが、そうなのかも知れない」
 「………………」
 声まで同じだと思った。
 年頃まできっと同じだ。今会えばきっとこんな感じの姿なのだろうと、銀時が容易く認めて仕舞う程にはその存在感は俄に信じ難いものでしか無かった。
 幻でもなく現実ではある。別の存在だがよく似ている。信じ難い。然し目の前に居る。現実と、現実以上のなにか。
 (ひょっとして、コレ、危ない奴?)
 三年近くの間ずっと会っていないが、沖田辺りならばこう言う意趣返しぐらいしそうなものだと考えてから、それにしては手が込みすぎているし、何よりそんなイヤガラセを受ける理由がない。筈だ。仮にそうだとしても、そっくりさんを見つけ雇って、銀時の住まいを探し当て、合い鍵を作って、寝ている間に侵入して来たと言う、単なる悪戯にしては余りにも荒唐無稽な話になって仕舞う。
 と、なると直ぐに『誰かの悪意』と言った銀時の湾曲した想像は否定される。
 「えー、と…?」
 現実離れした光景の中で、鳴り疲れた様にアラームが停止する。落ちた沈黙の中で、青年は小さく嘆息すると、不健康そうな白い指先をテーブルの上へと向けた。
 その爪先を追うと、そこには例の鉢植えが、
 「……咲いて、る…?」
 緑の葉の中で、白い蕾は繊細な花を開かせていた。
 今までに見たことも無い花だが、今までで一番綺麗だと、反射的にそんなどうでも良い様な感想を憶えた銀時に、青年は小さく頷いてみせた。
 まさか。
 思うと同時に心臓が再び跳ねた。どきりと。
 昨晩、蕾を前に思わずこぼした願い。
 あれからずっと、紡ぐ事の無かった名前。
 ──咲けば願いが叶う。かも知れねェぜ?
 悪戯っ子の様な笑みを浮かべた花屋の言葉が銀時の脳内に響いた。
 (本当に、願いが叶ったとでも、)

 叶って、土方が、ここに現れたとでも──?

 頭の中でガンガンと音が鳴り響く。眩暈を起こしそうなオーバーヒート寸前の思考を必死で掻き集めて、銀時は目の前の花と、その向こうに座している、土方十四郎と言う人間に良く似た青年を茫然と見返した。
 「そう。咲いた。だから俺が生まれた。まあ、俺の事はこの花の精の様なものだと思ってくれて良い」
 自らを指さしそう言う青年に、銀時は思わず肩をコケさせた。緊張に震えていた唇が、憤慨だか恐怖だか何だかよく質の解らない感情に任せて勝手に喋り出す。
 「ちょおま、花の精って!お前どう考えてもどう控えめに見てもそんな柄じゃ無ェだろ?!つーか普通こう言う時ラノベ的なものなら、結野アナ似の可愛い女の子が来てくれるとかそう言うオチになるんじゃないの?!」
 「……お前結構気持ち悪い奴だな」
 青年の顔が露骨に顰められるのを見て、銀時は何となく顔を紅くした。自分ながら譬えが結構恥ずかしかったかも知れない。
 言葉に詰まる銀時を前に、青年はふう、と音を立てて嘆息すると、表情を真剣なものへと戻す。
 鋭ささえ感じる眼差し。少し目尻の吊り上がった造作でいつも顰めている様な厳しい表情を作っているから、不機嫌そうに見える。
 そんな所まで似ているのか、と、愕然となる。
 これは本当に、銀時の願いの帰結の『何か』であるのだと、余りにも記憶に違えぬ土方の姿がそれを突きつけてきているのだ。
 その事実を裏打ちする様に、青年は静かな声でそっと告げて寄越した。
 「期待に添えなくて悪いが、俺の形については──花を咲かせた当人が一番解っている筈だ」
 お前の願いが叶ったから、『俺』が──『彼』が、今此処に居るのだ、と。
 
 *
 
 携帯の呼び出し音を聞きながら、背後の青年をちらと伺う。彼はカーテンの開け放たれたベランダの窓に向かって外を物珍しそうに眺めている。白い寝間着の様な上下に素足。影もあるし足音もする。外見は銀時の知る『土方十四郎』と言う名の人物によく似ており、足は二本手も二本以下略、………詰まる所、全く普通の『人間』だ。
 (人間、だよなあどう見ても…。花の精??ナニソレ、フェアリー的な何か?そんなファンシーなキャラじゃねェだろアイツは……っつーかだからそうじゃなくて!)
 頭を抱えた銀時はどうしようもない溜息を吐いた。胃の奥がチリチリと痛んで、眩暈に似た感覚に目の前が暗くなる。有り得ない事を期待したい気持ちと、忌避する気持ちとが混じりあって、思考も感情も何もかもが泥沼の中の様だ。
 ……ただ。"有り得ない"。その自覚はある。子供じみた期待以上に、罪悪感と良心の呵責とが現実を痛切な迄に残酷に訴えて来ている。
 そう。──"有り得ない"のだ。
 願いが叶うなどと言う現象に、現実を凌駕する都合の良い夢を創り出す機能がある訳がない。
 だから。有り得ない。
 重たい鼓動に目を閉じた銀時は、硝子戸の外の世界を無心に眺めている青年から目を逸らした。
 有り得ない。だから、これは、夢なのか。それとも『都合の良い現実』なのか。どちらであったとしても、夢想である事には変わりないのだろうが。
 《もしもし?》
 その時、思考を切る男の声が銀時の右耳を叩いた。漸く電話が通じたらしい。
 「っあー…、もしもし…?」
 喉の奥が重苦しい。後ろめたい心地が舌の動きを絡めて鈍くする。挨拶に替わる軽口一つ出て来ない侭、銀時は言葉を──と言うよりは感情を探して沈黙した。だが然し、電話の向こうの主はそんな銀時の態度から何ら不審なものを感じ取りはしなかったらしい。顔まで輝かせていそうな明るい声が返って来る。
 《おお、久し振りだな、銀時!高校卒業以来だから…三年ぶりだったか?お前大学進学組だよな、元気してたか?》
 快活な大声に、思わず耳から受話口を離す。それでも未だ続く懐かしい声に、時間がひととき過去に戻って行く様な錯覚を憶え、銀時の胸は掠れる様に痛んだ。
 近藤勲。銀時の高校三年生の頃の担任教師で、担当科目は体育。剣道部の顧問だった男だ。生徒にも分け隔てなく、裏表の無い性格で、教師仲間からは信頼され、生徒にも好かれて頼りにされていた。
 そっと頭を巡らせれば、懐かしい高校三年の教室が視界に拡がって行く。休み時間、賑わう教室。聞き慣れた級友たちの声が、テレビや音楽やゲームや──日々の雑多な下らない事を交わし合って、心地の良い雑音となって耳朶を打つ。
 どうでも良い様な日々の起伏を全力で楽しむ事を赦された、社会の庇護下で安穏と生きる子供の時代。特別眩しい青春時代などを謳歌した記憶は無くとも、若く青臭いその時間はいつだって郷愁に満ちている。
 その風景の中で、窓辺に佇む青年の姿だけがはっきりと色づいて描かれている事に気付いて仕舞えば、忽ちに銀時の意識は現実へと戻された。そうだ、ベランダの窓から外を見つめる『彼』──この電話はその存在を確認する事が目的だ。思い出話に花を咲かせる為ではない。
 《お前卒業したら全く連絡もして来ねェし、年賀状の一つぐらい出さ》
 「っあー…、話の途中で悪ィんだけど…、あのさ、変な事訊く様だけど…」
 《ん?どうした》
 思いはしたものの酷く苦く歯切れも悪く出た言葉に、近藤は純粋な疑問符を投げて返した。何年も前の卒業生の事もいちいち憶えていて、気に懸けてくれるなど、お人好しな男だ。教師としては立派な事なのかも知れないが。
 問題は、教師であった近藤よりも、もっとプライベートな方角にあった。
 銀時は受話器を片手で覆って、浴室へと静かに移動した。去り際振り返って見た『彼』は、已然変わらず窓の外を見つめていた。
 『あれ』は、彼なのか。それを、確認しなければならない。
 「………土方、今どうしてる……?」
 小さな声は掠れて震えた。口の中がからからになって、厭に引きつる様な音が喉の下で鳴った。
 《……、》
 電話の向こうで、近藤が息を飲む音がした。先頃までの明るい教師の気配は銀時の問い一つで一気に消えて仕舞い、跡には悲痛なまでの痛みや苦悩を湛えた、一人の青年の保護者としての近藤が剥き出しにされたのだと、銀時は思い知らされた。







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