頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 3



 「よぉ金時、どうじゃ、今晩空いとらんか?」
 坂本にそう声を掛けられた時、銀時は帰る支度をしていた所だった。持ち上げ掛けた鞄を下ろすかどうか少し迷って、結局机の上に置く。
 「いや金時じゃなくて銀時な。今日はバイトも無ェし暇だけど……何、何か良い話でもあんの?」
 問いながら自然と目が細くなる。この坂本と言う男は大学で知り合った友人の一人だが、商売だか何だかと怪しげ──もとい危なげな挑戦をしては周囲に迷惑を自覚なしに振り蒔く事で有名なのである。迷惑極まりない話だが、全く馬が合わない相手と言う訳でも無いので、邪険にもし辛い。
 社会人的なコミュ力を鍛えろ銀時。迷惑な輩とでも付き合わなければならない事なぞ今後の人生で山の様に起こり得る事なのだから。そう、それが仮令いつまで経っても他人の名前すら憶えない失礼な奴だったとしても。
 そう脳内で呪詛の様に唱えながら銀時が手元から視線を起こせば、サングラスの奥の瞳を『いいこと思いついた』子供の様に輝かせている坂本の見慣れた馬鹿面がある。
 「合コンじゃ!丁度メンバーが足りんきに、おまんも付き合うぜよ」
 言葉と同時にぐっと突き立てられる親指。その指を掴んでへし折りたくなる衝動を堪えて、銀時は溜息をついた。腹立たしい程に良い笑顔から察するに、どこか良い大学か企業の女性達を捕まえるのに成功したとかそう言う話なのかも知れない。
 坂本を語るに、馬鹿と言う言葉は欠かせないが、それに並んで女好きと酒好きと遊び好きが加わるのを、忘れていた訳ではないが失念していた。商売で得た金銭を堅実に貯蓄するではなく、放蕩に使いその中で支出を回収すると言うのはある意味才能であろう。商才と言うより人徳の様なものの為せる業なのやも知れないが。
 日々地道に生活費を稼いでその日を暮らす銀時にとっては、それは余り縁のある世界とは言えない。飲むのも遊ぶのも好きだが、全ては懐事情がものを言う。
 財布の中身と貯金の残高を頭の中でつらつらと計算してみれば、今月は比較的清貧に生きて来ていたし、バイトの臨時シフトも入れていたお陰でか、軽く遊ぶ余裕ぐらいはありそうだった。
 坂本の持ってきた話と言う部分に一抹の不安を感じないでもないが、まあ偶には気張らしぐらいするかと、銀時は軽く頷いた。
 「まァ暇だし付き合っても良いけど。結野アナ似の可愛い子とかいねェもんかな」
 「あっはっは、そうがか、おまんは○○○(ピー)よりそっち派じゃったか金時」
 「黙らねェと張っ倒すぞバカ本。つーか俺の名前銀時だってんだろ」
 「心配いらん、こん事はわしのツイッターにだけ秘めておくぜよ」
 「思いっきりバラす気満々なんだけどソレ?!つーか違うからね、違うからね!結野アナとケツの穴は女子アナと尻の穴ぐらい違うからね!」
 泡を飛ばす銀時に「わかっちょるわかっちょる」と笑うと、坂本は自らのスマートフォンを取り出した。
 「つーか絶対に解ってないよねお前」
 「んじゃ、わしは他にも参加者を募るきに、暫くそこで待っとれ」
 銀時の抗議をさらりと無視して、言うなり坂本は電話をかけ始めた。
 坂本と会話をすると、いつもの事なのだが非常に疲れる。馬鹿なのか阿呆なのか解らないから面倒臭い。
 「あーもしもし。今金時とおるんじゃが──」
 大声の電話を横目に、銀時は嘆息して椅子に座り直した。明日までに自分の性癖について良からぬ噂など広まっていなければ良いのだが、と思いながら、手持ち無沙汰になった空気の中スマートフォンを取り出すと、習慣で結野アナのお天気情報ページを開く。
 (週末だしなぁ。そろそろコインランドリー行かねェとな。つーか布団干してェ)
 天気と言えば思いつくのは洗濯物だ。特別綺麗好きと言う訳ではないが、怠惰に汚したいとは思わない銀時は、男にしては結構マメに洗濯や掃除をする方だった。
 つらつらと惰性で天気情報に視線を走らせるその目に、台風情報と言う文字が映り込んだ。
 (そう言や台風が接近してるってたっけ。直撃はしねェけど影響で雨が降るかもとかなんとか)
 結野アナの似顔絵の横に、漫画のフキダシの様な形の枠があり、そこに細かい気象情報が記されている。
 今日は台風が接近していて風が強くなる。夕方から大気が不安定になり、雷や突風の恐れがある。今晩雨が降り、明日の昼には晴れる。
 要約したそんな内容を二度読みする銀時の脳裏には、洗濯物を干せないと言う事よりも、本来洗濯物を干していたその場所にぽつりと置かれている鉢植えの事が過ぎっていた。
 「…………」
 一ヶ月近くをかけて、漸く小さな蕾をつけた鉢植えは、急な雨風に晒されたらどうなるのだろうか。
 毎朝コップに僅かの量の水をやるだけの鉢植え。洗濯物を干すついでに見遣れば、朝の陽光を受けて日毎に育つ葉の様子に気付く。
 たったそれだけのものだ。花屋に、何だか無理矢理に押しつけられただけの鉢植えの世話なぞ本来己の望んだ処ではない。正直面倒臭いが、ただ惰性で続けているだけの習慣作業。
 それが、途絶えたら。
 続く筈だった何かが、そこで、途絶えたら。
 「………………坂本、悪ィ。用事思い出した」
 その先に思考は続かない。途切れた道の先を見下ろす事も無い侭、銀時は椅子を蹴って立ち上がっていた。
 「お?どうしたんじゃ金時、」
 社会人的なコミュニケーションの忍耐だとか何とか言っていないで、最初からこうしていれば良かったのかも知れない。きょとんとする坂本へと申し訳なさの多少は篭もった目配せをやって、銀時は鞄を掴んでその場を後にした。
 外に出れば、空はぶ厚い雲が低く淀んで、地上を陰鬱な空気で満たしていた。強い風は吹き抜けているのに、頭上の雲は全く動こうとはしない。
 急ぎ足で駅に向かい、電車を降りる頃には低く響く遠雷と共にぽつりぽつりと雨粒が降り始めていた。益々勢いを増して吹く強風に傘を飛ばされそうになった女性が、前屈みに傘を盾の様にして堪えている。
 スクーターに飛び乗って、帰路を走って、到着したアパートの階段を駆け上がる。扉を開けて、ベランダを見遣れば。
 「…………、」
 風と雨とに揺すられ、白い蕾を膨らませた鉢植えがそこに在る。朝見た時と殆ど変わらず、そこに在る。
 ベランダを開けて、部屋に鉢植えを入れた所で銀時は、そう言えばこの鉢を部屋の中に置くのは初めてだったと言う事に気付いた。
 戸棚から紙皿を出して、その上に乗せた鉢をテーブルの上にそっと置く。葉は雨風に打たれてか少ししんなりとしている様だったが、真ん中から生える白い蕾は健気にも元気そうに揺れている。
 鉢植えの世話などした事はない。世話と言うより単なる惰性が続いていただけの事。それでも、この植物は日々育って、蕾を膨らませるまでに至ってくれた。
 銀時が知らぬだけで、本当は放っておいても育つ様な花なのかも知れない。雨風に少し当てられたぐらいでどうと言う事もないものなのかも知れない。こんな風に必死にならなくても構わぬものなのかも、
 「……何、やってんだろな、俺…」
 思わずそうこぼれれば、脱力感が全身を思考ごと支配する。折角久々に旨い酒の飲めそうなチャンスを得たと言うのに。可愛い子も参加しているかも知れないのに。どうして、こんな鉢植えの為に必死になって仕舞ったのだろうか。
 惰性だ。ただそれだけの習慣。
 でも、その習慣を途絶えさせて仕舞えば、それ以上は続かない生活がある。
 それ以上続かない運命を、また誰かに、或いは何かに強いるのは──厭だったのだ。
 丹精の末に、それでも萎れたのならば仕方がない。悲しいけれど、仕方がない。合わなかったのだ。そう言う事だ。
 だが、萎れるその原因を己が作る事になると言うのは、堪え難い事だ。
 "お前の所為で"
 そう言って銀時を責めた者はいない。……いなかった。
 
 ──たった一人を除いて。
 
 テーブルに落とした頭を持ち上げもせず、銀時は視線だけで鉢植えを見上げる。
 ふっくらとした白い蕾が、雨が降り始めて薄暗さの増した室内にぼんやりと、そこだけが光の様に佇んでいるのが見える。きっと、直に花が咲くのだろう。
 ………花が咲いたら。
 もしも、本当に願いが叶うなどと言うのなら。
 
 「……………土方」
 
 それは、呼びかけと言うよりは祈る様な声だった。
 下らない嘘話に縋る程に、本当はもっとずっと前から、こう言って仕舞いたかったのかも知れない。
 随分と久し振りに舌の上に乗せた名前は、何だか酷く心地が良くて、だからこそ悲しくて、苦しかった。
 紡いで仕舞った名を呑み込む事が出来ない侭、銀時は眩しい記憶に蓋をして、ゆっくりと目蓋を下ろした。





今更ですがその2→このシリーズは短いと言うか前振りも片付けも無くコンパクトに片づける(予定な)ので短めの分割で行きます。
…そんなら0.5いらんかったね。

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