メルトローズ / 9 「万事屋」 そう呼ぶ、見えていない筈の土方の視線に晒されて、今やすっかりとその身の主導権を失い果てている銀時は弱々しく笑って見せた。 この身に己の意識だけは変わらず存在しているが、既に肉体は裡なる異物の意に沿わぬ行動は取れない、人形の様な存在と成り果てている。 少しづつ時間を掛けて裡より銀時の身を食らい尽くしたそれは、嘗て白夜叉などと呼ばれた男の背負った業であって因果応報の詛いである。そして詛われた身には自らの業を清算する自由すら与えられず、ただ抜け殻の魂となってここに存在し続ける事を強制された。 これは業で報いで悪意しか無い詛いであってただの結果。譬え目の前にどれだけの死を横たえられようとも。目の前に弱った愛する者の姿を晒されようとも。違えて行く仲間らを申し訳なく思おうとも。 抗い、そして打ち克つ事が出来なかった。だから、これは銀時の負うべき責。詛いと言う結果ではなく、敵わなかった未練や後悔の遺した夢の残骸。 最早手遅れ。──だから。 それが、奪い尽くし奪われ戻らないその先に銀時の得た、たったひとつの解答だった。 「悪ィ、ちっと、忙しくて」 「嘘こけ。どうせ暇してやがった癖に」 以前と同じ言い訳に、土方が喉を鳴らして笑う。死の匂いを纏いつかせた姿形で、弱り衰えた身で、それでもやはり以前までと同じ様に。漂白されつつある銀時の記憶の中の様に鮮やかに。 己をこんなにも穏やかな眼で見上げている土方も恐らくは、最早叶わぬ過去の銀時の姿をそこに見出しているのだろうと不意に理解する。銀時の裡で未だ鮮やかに、然しどうやっても触れる事の出来ぬ夢の様に残り続けている光景はきっと、土方の今『見て』いる光景なのだ。 「で、看取りにでも来たのか」 「看取られてェの?」 問いながら、銀時は寝台の横に膝をついて手にした錫杖をそっと見上げる。鋭い金属の尖端は槍にも似た武器にもなる。嘗て魘魅やその種が得手としていたその武器は、恰も神の意を借りたかの如くの威圧感を以て攘夷志士らの前に振り翳されたものだったが、こうして見ればただの鋭い刃物と変わらない。 「……は。願い下げに決まってんだろうが」 銀時が刃を見つめた気配でも察したのか、土方は鼻を鳴らしてそう断じると何かに疲れた様に大きく息を吐き出した。窶れて骨の目立つ肩が布団の中で上下する。 最早土方の症状は白詛の末期と言えた。同じ『異物』に身の殆どを侵食された『それ』を、銀時の裡の魘魅は既に異物や敵とは感じていない様だった。故にか、以前の時の様に土方を殺めて仕舞おうと体が動かされる様な事は無かったが、それは無論手放しで喜べる様な事では決して無い。 土方は銀時の負った業に詛われ、遠からずそれに殺される。得体の知れぬ死神の足音に夜毎怯えながら、その時をただ待ち続けて。 先に失われた真選組副長の後を追う様にして、土方十四郎も死んで行く。 看取る事も葬る事も出来ない、選べない、この詛われた男をひとり置き去りにして。尽きせぬ想いだけを棺の花にして、交わし合った愛や執着でさえ銀時の裡より奪われて行くのだ。 それが、夜叉(おに)の背負いし業。最早抗えぬ、疾うに決したこの負け戦の結末。 「……皆、てめぇを探してる」 やがて、土方がぽつりと呟きを漏らすのが聞こえて、銀時は俯いていた頭を起こした。 そこに痩せた手が伸びて来て、避ける間も無く銀時の頬を引っ掻く様にして爪を立てられた。身じろげば深く被っていた編笠がぱさりと落ちて、人相を隠す様に巻かれていた包帯が不格好に歪んでぶら下がる。 ゆっくりと、包帯の残骸を纏いつかせた指を土方が引くと、その下から詛いを示す紋様に彩られた銀時の顔が顕わにされた。己が今どんな表情をしているかなど見たくなかったし、知られたくもなかったから、銀時は包帯を掴んで引っ張ろうとする、己の感情を暴こうとする土方の手を止めた。 泣きそうだ、と思ったから殊更にそれを堪えた。きっと土方の眼にそれが映る事はもうないのだろうけど。 「……俺が気付いてねぇとでも思ったのか?……万事屋。それとも……魘魅、か?」 見えていない筈の眼がこちらを見て微笑んでいる。確信を孕んだその得意げでさえある表情を前に、銀時はただ呆然と言葉を失った。その間の抜けた気配でも感じたのか、土方は微かに笑んでみせる。 「生憎と、推理も妄想もする時間だけは沢山あったからな。 俺が奇病に罹って、お前が姿を消した。世界は変わって、それでも変わらず在り続けている。他に何の答えが、理由があるって言う」 そうなんだろう?と息を呑み瞠目する銀時に向けてそうはっきりと断じると、土方は逆の手も伸ばして銀時の頬をそっと捉えた。歪んで解けかけた包帯を、詛いを覆い隠す畏れを、手探りで酷く簡単に解いて行く。 弾劾にしかならない様な言葉には、然し銀時の事を責める色は無い。世界を、護りたかった筈のものたちを、己を、全てを壊したこの元凶に対して、それでも被害者である筈の土方の仕草は酷く穏やかで、愛おしげでさえあった。 「万事屋。……いや。銀時。坂田、銀時」 くしゃりと、剥き出しになった白い髪を指の先で探って土方はそっと眼を細める。引かれる侭に、呼ばれる侭に口接けて、銀時は詛われたその手で土方の痩せた背を抱いた。息苦しい程の幸福と歓喜と相反する失意との中で、湧き起こった衝動の侭に。愛しくて、恋しくて、痛くて、苦しくて、それをどう堪えたら良いのかが、解らない。 ただ、伝わればいいと思った。この想いをここに残せれば。この想いを土方が解ってくれれば。もう、それで。 「簡単な材料の揃った推理や妄想ぐらいなら出来ても、俺はてめぇが何を考えてんのかは残念だが解らねェ。だが、こんな所にわざわざ足を運んだ理由ぐらいはあるんだろう?例えば──、」 そう言いかけた土方の唇を塞いで、銀時は小さく頷いた。 時間は五年も要した。それでも、やっと仕掛けた一手が届いた。だから、もう。 坂田銀時と言う誤りが、この世界から消える事の叶う時が来たのだ。 この世界を詛って、大切なものを、護りたいものを、これ以上自らの手で壊して仕舞うその前に。責を負った者は自らの手で幕を引くべきだ。 「……そうか。なら、てめぇはこれで満足か」 もう一度頷けば、土方はらしくもない弱々しい苦笑を浮かべてみせた。 「人に病気伝染すだけ伝染しといて、一人だけ晴れ晴れとしやがって」 顎を擡げて、土方は銀時にもう一度口接けた。見えないから少し位置のずれた空隙の中で、土方の表情が不意に泣き出しそうに歪んで、銀時の頬に額を押しつける様にして目が伏せられる。 「 、」 戦慄く唇が紡いだ言葉に、銀時は情動と衝動とを堪える代わりに土方の背を益々強く掻き抱いた。シーツの間に挟まれた痩せた肢体が折れそうに軋むのも構わずに、捕らえた。 (未練なんざ、あるに決まってんだろうが…!) 詛えと嘲笑う。詛ったと詰る。奪って犯して殺すのだと最早避け難い結末が批難する。それでも、目の前のこれが、それだと言うのに目の前のそれが、どうしても諦めてはくれない。棄てさせてはくれない。この悔恨も、想いも。 (俺が詛って、俺が殺したんだ) 心の叫ぶ弾劾を嘲る嗤い声が聞こえる。愛しさや悔しさで一杯になった感情が行き場を失って荒れ狂う銀時の腕の中で、土方は軋る様に悲鳴を上げた。泣く声には満たない、叫び出すにも至らない、未練と想いとの代わりの様に。 世界を諦めて、生を諦めて、それでも未練や恐怖が消えて仕舞う事はきっと無い。覚悟の無かった突然の死は残酷な現実と言う形で土方を一気に虚無の死へと追いやった。 きっとずっと怖くて堪らなかった筈なのだ。己の唯一の武器と拠り所も奪われ、抱き締めてくれる筈だった、安心や気休めを紡いでくれえる筈だった愛しい人間でさえも失った、そんな土方に怯えが無かった筈は無い。いつか吐いた弱音の様に、夜毎に迫る無の結末にきっと怯え続けていた。 終わるけれど。この未来は、この夢の残骸は程なく潰えるけれど。この事実だけは決して消えない。どんなに過去が変わろうが、未来が変容しようが、坂田銀時が土方十四郎を殺した、この事実だけはどうしたって消す事は出来ない。 そればかりか、無責任にも坂田銀時は居なくなるのだ。土方の未来から、過去から、現在から、世界中の全ての人間の中から、坂田銀時と言う人間は消え失せて仕舞うのだ。 この涙を拭いてやれる人間は居なくなる。この男に甘えや怯えを赦してやれる人間は居なくなる。 土方が譬えこの『先』の世界を生きて幸せになるとしても、この存在が不在になる事は、決して変えられない運命だ。 荒唐無稽な想像でしかないけれど、解る。この世界に、坂田銀時以上に、土方十四郎を愛してやれる人間などいないのだ、と。 想いを交わして、互いに求めて、怯えを聞いて、涙を拭って、大人しく背に手を回して縋ろうとする、土方にとってそんな人間は、坂田銀時以外には、きっともう二度と有り得ない。 骨張った腕が、回された背中で小さく震えている。縋るものを失う事に怯える様に、震えている。 未練は互いに余りあり過ぎた。それを埋める一時の情欲のひとつでも湧けばまだ楽だろうに、触れ合った互いの身は、心は、性行為の繋がりよりも余程に二人をぴたりと縫い合わせて剥がれない。 いっそそうして咲いた想いが溶けて交わって、そうしていつか一つの結実(なにか)を生めば良いのに。心以外の何かを、呉れれば良いのに。 遺し去る者に、遺さず消える者に、何かを遺して呉れれば良いのに。 通わせた心は迂遠で、通じた繋がりは無為。互いに違えて食い散らしただけの、人並みの恋愛の真似事。それでももしも何かが赦されるのであれば。望んで良いのであれば。 「土方」 軋む腕を解けば、背を抱いていた手は重力の侭に落ちる。痩せた土方の体が、もう何も映してはいない眼が、銀時の姿を探す様に彷徨う。 「もし、お前が赦してくれんなら、さ…、」 声は己のものとは思えない程に滲んで震えていた。同じ様に震える手が、詛いを刻んだ手が、土方の痩せた掌を握りしめる。 「 」 そうして吐息の様に、銀時の囁いたちいさな願い事に、土方は僅かに瞠目して、それからゆっくりと笑って頷いた。 * 確信も根拠も記憶も何一つ無い。 だが、それでも銀時は何処かでそれを感じていた。 約束をしたのだと。願ってみたのだと。 "また、お前に会いてぇ" それは世界に存在を赦されなくなる者には望むる筈もない願い事だった。 ──それでも。 。 ← : → |