メルトローズ / 8



 何を断るでもなくカーテンが閉ざされる。また今日も陽が沈み夜が訪れたのだ。
 見えない眼にも突き刺さる様な明るさが消えて室内灯が入れられると、辺りはしんと暗くなる。無口で愛想の無い病人に無用に関わる事も無い看護婦の動きはいつも決まり切った機械(からくり)か何かの様にそうして通り過ぎて行く。
 皆、白く詛われ死んで行く奇病の存在を怖れているのだ。毛髪の色素が抜け落ち、体は衰弱し、視力は失われ、やがては緩慢に死に至る。その症状をして白い詛い、白詛と名付けたのが誰だったのかなど土方は知らないし興味も無い。
 病は正しく詛いの如くに江戸中を瞬く間に覆い尽くし蔓延した。世は混乱し荒れ、病と戦う者らが次々犠牲になって行けば、人は最早江戸に助かる道など無いのだと悟る。
 白詛の発症が真に何処からであるかを知る者はいない。そして発端には意味など無い。重要なのは、病に冒されたが最期、誰しも平等に死を押しつけられると言う事実だけだった。
 将軍家を始めとした権力者達は早々と江戸を棄て、外宇宙へと逃れたと言う。天導衆もアルタナの源泉より我が身を選び地球を棄てた。尤も狡猾な連中の事だ、江戸から白詛の罹患者と原因とが完全に消えるのをゆっくりと待つつもりなのかも知れない。
 窓の外に今まで当たり前の様に見えていた、ターミナルも地球から白詛が持ち出される事を怖れた惑星連合に因って破壊されたと言う。土方はその様を目の当たりにはしていないから、今も猶窓の外にはあの聳える威容が元通り在るのだと思えてならない。
 逃れる手段を失い、見出す希望をも奪われ、権力者を失った町は治安の悪化の一途を辿った。暴動が頻発し、犯罪行為が横行する中では真選組(けいさつ)の名など既に何の役をも為せはしなかったと言う事だ。
 世界はもう終わりだと誰かが声高に叫んで、人は神に縋り逃げ惑って互いを詛って争いを続けて──そんな無為が一周もする頃には、誰もが妙な胆力を腹に生んでいた。
 諦め。或いはそれと等価の『抗い』の名の日常生活だ。
 ターミナルの崩壊同様に土方はそれらの光景をも目の当たりには出来ていない。どんな自棄っぱちな連中も、白詛の患者を抱えた病院や施設を襲う程に愚かでは無かったと言う事か、少なくとも土方が入院生活を始めてから外部のそう言った騒ぎの数々は全て院内ではなく、見舞いに訪れる沖田からもたらされた話である事が殆どであった。
 目が見えない事も手伝って、土方にはそれら全てが現実離れをした遠い世界の話の様にしか聞こえない。沖田が自分をからかっているのではないかなどと疑った事もあった。
 然し今となってはその全ての真偽などどうでも良い事と成り果てていた。現実であろうが、無かろうが。嘘であろうが、誠であろうが。
 土方や、他の誰かの護りたかった世界が未だそうやって長らえ続けている僥倖があるのだと、そう教えてくれるだけで。江戸が詛われ死を待つだけの町では無かったのだと、そう知れるだけで。
 己が斃れても変わる事の決して無い世界が在ると言う事は、一種の安堵にも似た感覚を土方にもたらしたのだ。
 「それで、あのすっかり仲違いしてた筈の万事屋のチャイナと眼鏡が場を引っかき回してくれやしてね。その騒動もあって近藤さんと桂の奪還も無事叶ったって訳でィ」
 今日訪れた沖田は珍しくも機嫌が良さそうな調子でそんな『話』をして行った。余り気の無い土方の相槌にも構わず、久方ぶりに、どこか楽しそうに。
 雨が降り始め、そんな沖田が暇を告げる頃にはすっかりと夜も更けていた。沖田はいつも「また来る」とは言わないから、明日急に姿を見せなくなったとしても土方は別に驚きはしない。
 土方の世界は既に決している。肚も据わっている。病室に見張りが立たなくなったそのずっと前から、己はただ時間を食い潰し絶望にも飽食した骸なのだと知っている。
 だからこそ、近藤や、子供らだけで保たせて来ていた万事屋をまとめたと言う田舎者とやらを沖田が連れて来なかった事は土方にとって小さな救いであった。
 己にさえ疾うに無くなろうとしている未練を誰かに感じさせる事など御免だった。きっと、来るべきその時まで無為に長らえさせられるこの身の保って良い意味などひとつしか無いのだから。未練を遺すのならば土方にはそのひとりの為にしか無いのだから。
 土方と同時期に白詛の症状を見せた者らは既に死んで久しい。だからより明白だと思っている。これがもしも何かの意趣や意味で無いのならば、億百万の偶然でさえ意味を持つ事になる。
 土方に降りかかった詛いは必要以上にゆっくりと身を蝕み続けている。絶望と失意に飽いても猶解放してくれようとはしないそれは、より長く土方を苦しめようとする悪意なのか、死なせはしないと言う善意なのか。
 (……いや。どっちであっても変わりやしねェ、か)
 雨音の向こうに、嗤う誰かの姿を妄想の筆で描きながら、土方は既に決した理性で忍び笑う。
 失われた真選組でも、救出された近藤でも、日毎訪れる沖田や山崎でも、仲違いをしていた万事屋でも無い。土方の生かされている意味はもっと別のものの為にあるのだ。
 だからここに、この中に残されたのは怖れでも憎しみでも無く。況して礼の類でも、無く。
 「………待ってた訳じゃねぇ。……だが、随分と長く待たせてくれたもんだな」
 窓に打ち付ける雨の音の中に、足音にも似た澄んだ金属音を聞き取って仕舞い、土方は目蓋を持ち上げて小さく笑った。
 ずっとこれを待っていたのかと思えば、己が酷く滑稽である様な気がして堪らない。現状降りかかった全ての事象が想像の通りであるのならば、随分と無駄に回り道をした事になる。
 「てめぇが俺の死神か」
 見えない眼で、然し土方は雨の中を歩いて来たにしては全くその身を濡らしていない、奇妙で異様な来訪者を見上げる。応える様にしゃらんと鳴る鈴にも似た金属音を追って、見えない筈のそれを確かに捉える。
 「見舞いに来るにしちゃ遅ェって、前も言っただろうが」
 寝台から身を起こすにも難儀するから、身を横たえた侭で土方は傍らに立った男の姿を見上げた。 銀色をした癖の強い頭髪に覇気の無い眼。黒い洋装のインナーの上に白い着流しを片袖だけ抜くと言う奇抜な恰好。記憶の中のその姿をそこに描きながら、見つめながら、
 ──詛われてはいない、そのひとを、呼ぶ。
 「万事屋」
 記憶の中で描いた男は、土方の声を受けると肩を竦めて苦笑してみせた。





驚きの短さ再び。

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