メルトローズ / 7 症状は隠す間も無く瞬く間に急変した。 眼球がその機能を衰えさせ、視界はその殆どがぼやけている。立ち上がろうと思っても萎えた足は地を上手く踏みしめる事が出来ない。ペンを掴もうとしてもその手指は痺れた様に力を失う。 目も良く見えず、剣を振るう事も、戦う事も、執務も、采配を振る事も出来ない身だ。それでも土方の地位は、役職は、変わらず『副長』で在り続けていたが、その現実こそ誰あろう土方自身に最も堪えるものであった。 近藤は、ゆっくり療養すればいい、と笑って言ってくれていたが、いつものストーカー行為の延長線上の下らない事件を切っ掛けにして逮捕されて仕舞ったと言う。常に真選組の足下を掬おうとしている輩には幾つも憶えがあったし、こぞってその名を貶めた者らに心当たりも浮かんだが、病人である土方には生憎と発言権は何一つとして与えられなかった。 時折訪れる山崎も、一旦真選組を指揮する組織が『上』に置かれた以上、組の内情を組織内部に不在の土方に話す訳にはいかないのだと申し訳無さそうに語るばかりで、土方の浮かべたあらゆる疑問や苦悩に対する答えは持っていなかった。 仕事の話を基本的にしたがらない沖田は、余程他組織運営となった真選組の任務に暇──或いはやる気の無さ──を感じてでもいるのか日毎に病室を訪れるが、いつも他愛の無い事を話して帰って行くのみだ。 不機嫌な病人の元を好んで訪う酔狂な真選組隊士も居ないので、その実用的とは大凡言えない事を口にする二者のみが、病室からまともに動けない土方にとっての外界との接点であった。 世は荒れつつあると言うが、視力の未だ無事な頃の憶えでは、病室の窓から見える光景には然程の変化は見られていなかった。外宇宙へと出て行く宇宙船(ふね)の数が少しばかり増えていたか。それすら気の所為かも知れない。何しろ『以前』と言って比較出来る程に土方は健常な頃に日がな一日窓の外を眺めて過ごす事などした事は無かったのだから。 視力の低下以上に、病室(ここ)からでは何一つ見える事は無いのだと、思い知って過ごして来た。視覚と言う最も多くの情報量を持った認識能力が欠けるとそれだけで言葉通りに『目の前が暗く』なるのだと知れた事など、何の慰めにも下らない冗談の種にもなりはしない。 そしてその事実はある意味で土方に最も単純に現実を突きつけ知らしめている要素と言えた。土方は仕事をしたくとも書類一つさえ満足に書く事も目を通す事も叶わなくなった自らに対していよいよ現実的な覚悟を憶え始めるに至っていた。 己はもう、『真選組副長』の名を引き摺るだけの亡霊なのだと、時間ばかりを無駄に過ごして得た理解は酷く単純なものだった。だからこそ、自らの意志で現状、真選組がどうなっているのかとか、社会がどう動いているのかとか、そう言った事から関心を自然と薄れさせて行った。 訪れる山崎に組の様子や仕事の事を問う無為は止めたし、沖田のサボりの合間の訪いにも眉を顰める事なく応じる様になった。 それでも、土方が攘夷浪士たちにとっては恨み晴れる事の無い名の存在である事に変わりは無い。だからか、未だに病室の前には見張りの隊士が立って二十四時間態勢での警護に当たってくれている。最早役割を失った刀であろうが、それは容易く奪われ辱められて良いものではないのだと、下らない何かの意地の様な理由で。 人員不足も起こっているだろうに、未だそうやって己に付き従ってくれる者の存在が在る事は、本来酷く恵まれた事なのだろうと土方とて理解はしている。だが、理解すればこそ、それが単なる無駄でしか無いのだとも、解りきっていた。 正しく、これは抜け殻か屍。真選組と言う組織に最早置き所を失った、『元副長』、その名を未だ持たされ続けているだけの、ただの病人。 だからもう、何の望みもなく、何を仮託される事も無く。 摩耗する日々に想ったのは、願ったのは、ただひとりだけ。 * 雨上がりの濡れた道をその男は歩いていた。ふらりふらりと、千鳥足で踊る酔っ払いの様にして、街灯のあちこち消えた夜の町を密やかに進む。 男の風体は傍目に見た限りでは浮浪者か病人と言ったものが相応しい。薄汚れた黒い着物の上に、自らを隠す様なぼろ布を纏い付かせて、その隙間からは昨今の奇病の患者によく見られる様な白い頭髪が覗いていた。 だからか、夜の深い闇のそこかしこで犯罪行為に励む様な輩もその男に近付こうとは決してしなかった。この病の感染方法も条件も何もかもが未だ不明なのだ。持っているかどうかも知れない小銭目当てに、万一感染する様なリスクなど冒したくはない。 そんな値踏みと疫病神を見る様な目たちを知ってか知らずしてか、男はただただ前へと進み、既に灯の消えた病院へと向かっていた。果たしてそれは、病に侵された病人が藁にも縋る思いで救いを求めて医療機関の戸を叩こうと言う姿だったのだろうか。生憎とそこまでを目撃していた者はいない。 男はそうして誰にも、何にも気取られる事なく病院の裏口から中へと入り、本来であれば施錠されている筈の非常階段を登って行った。 幾ら深夜とは言え、病院には深夜の番をする者はいる。だが、それらの何れもが男の侵入を目撃する事は無かった。とある病室の番に立っていた者でさえ、ほんの僅か厠に立った時間以外はずっと職務に努めていたが、男の姿を見る事も侵入を知る事も結局無かった。 無造作にふらついている様にしか傍目見えない男の足取りは、然し肉食獣が獲物に気取られぬ風下へと回り込む時の様に慎重で、素早いものだったのだ。 運が良かった。人目をかいくぐって漸く辿り着いた病室の戸の横には椅子が置かれ、黒い隊服姿の人間が座っていたのだが、休憩か何かでか、兎に角彼は席を立った。男はその偶然の隙に感謝しながら見張りの不在となった病室の戸をそっと開いた。動いてくれなければ気絶でもさせねばならず、そうなったら翌朝になって騒ぎになって仕舞う。それは己の望む処ではない。 素早く身を滑り込ませた病室は真っ暗だった。足下に非常口を示す常夜灯が僅かに光る程度の光量しかない、深夜の暗闇をその侭持ち込んだ様な世界。 一度、入院し立ての頃にからかわれ呼び出されて訪れたきりの病室は、その時の憶えと然程に様相を変えてはいない。花一つ無く、テレビも無く、ここにたった一人きりで住まう住人の無聊や孤独を慰めてくれそうなものは一切見当たらない。 男は、寝台を囲うカーテンをほんの僅かだけ開いて、その中を覗き込んだ。室内より益々に暗い様に僅かだけ顔を顰めて、顔の半分まで布団に潜り込んで眠っている横顔をじっと見下ろす。 笑って、泣いて、喜んで、或いは怒って、男は自らの裡から込み上げる様々な情動を堪えた。下唇を噛み締めて戦慄き声を上げそうになる衝動を堪えた。 掴んだカーテンをぐしゃぐしゃに握り潰していた手が強張って開けば、まるで当然の様な動きで伏し眠る人へと伸ばされる。 だって、ああ。だって。当然だったから。余りに当たり前の様に思っていたし、行っていたから。 ──触れてみる事など。 己の不用意に過ぎる行動に沸き起こる免罪符の様な思いは然し、その指先があと僅かで届く、そこで雲散霧消した。 「……………っ」 眠る人に向けて伸ばされた己の手、その皮膚にぼやりと浮かび上がる、何かの呪詛めいた紋様が男にそれを止めさせた。 男は息を呑んで、痙攣する様に戦慄き跳ねる自らの腕を胸の前へと引き戻した。全身で暴れ回る何か、衝動に似た形の無い悪意や暴力の様な『それ』を必死で抑え込んで、男は眠る人の姿をただじっと見つめた。 ごめん、とその唇が音にならない言葉を刻む。 元はあんなに綺麗だった黒い髪は、既に色素をすっかりと失って皓い。それを愛おしげに撫でた日も、掴み合って言い合った日もはっきりと思い出せるのに、今はそれが失われているなどとは到底信じ難い事だった。 少し痩せた様な気がする。毎日あれだけ油と卵で出来たマヨネーズなど摂食してよく太らないものだと揶揄した事もあった。あの時は笑って、怒って、ただそれだけだった。 今や彩りを失った記憶も想いも詛いに白く塗り潰されて、余りに残酷な現実の理解を男の胸にただただ突きつけて来ている。 詛い。本来己が一人負うべきだった業も購いも、『あれ』は手当たり次第に男の世界に押しつけ拡がった。フェアでは無いと思う。道理では無いと思う。だがそんな事は『あれ』には関係が無いのだ。『あれ』はそう言う種であり、そう言う詛いなのだから。人間種族の生き死にや、そこに内包された悲哀なぞ意にも介さず、ただ壊して、滅ぼすだけの存在。 「…………ごめんな」 口の中に湧き出でた言葉は自然と音となって吐き出され、そうして夜の闇へと静かに消えた。 痩せた体も白くなった髪も、幾ら男が嘆いた所で、怒り狂った所で、元には決して戻らない、戻れない時間と罪過の堆積だ。それを、こんな安っぽい一言だけで許して貰おうなどとは思えない。 奪ったのは、髪の色だけではない。思い出だけではない。 だから──許されてはいけない、と男は思う。 ふ、と笑うに似た吐息が聞こえた気がして、男は目を見開いた。いつの間にか、か細い寝息を立てていた眼下の眠り人が、煙る様な睫毛の蓋を開いている。 「見舞いに来るにしちゃ遅過ぎだろ。日数どころか時間もだ。今何時だと思ってやがる」 批難する様な言葉と裏腹に、その目元は出来の悪い子供を諭し見つめるにも似た優しい色を湛えて、ただただ穏やかに細められていた。 「悪ィ、ちっと、忙しくて」 声は不器用に震えながら吐き出された。思えば誰か他者と言葉を交わす事も久し振りだった。今まで己がどれだけ人間に囲まれて孤独を憶えずに済んでいたかを思えば、己を取り巻く全ての人たち、厄介な知り合いたち、あらゆるものへと感謝が尽きない。 (孤独だったんだ、) 気付けば泣きそうになる。余りに今までが幸福過ぎて。 男は、世界が形を変え始めた頃からずっと、ずっと、ひとりきりで戦おうと足掻いて、逃げて、無様に転げ回って抗い続けた日々を思い出した。そしてそれがもう過ぎ去り、然し去り行きはしないものなのだとも。 取り戻せはしない。最早手遅れ。 「いつも暇してやがってた癖に」 そう言って笑う人の眼は、正しく己の姿を捉えていない。男の全身に、夜闇にもくっきりと浮かび上がる、正に詛いとしか言い様の無い呪詛が刻まれている事も、その髪が同じ様に白く成り果てている事も。見えはしないから、きっと気付いてはいない。 「…………土方、」 呼べば、色の薄い眼球が声の出所を探ろうとするかの様に動いた。本当はその手を握って、ここに居ると教えてやりたかったが、それが叶わぬ事は解っている。だから男は欲も衝動も感情も何もかもを抑えて此処に立っている。立ち尽くしている。 それでも良いから。それでも構わないから。 ただ、会いたかっただけだったのだから。 「……待ってた?」 滲んだ声の問いに、然し土方は「まさか」と笑い飛ばす。 「まあ、暇してたのは事実だけどな」 そう憎まれ口の様に続ける声も態度も表情も、男の憶えている限りの、その侭の、土方十四郎とまるで相違ないと言えるのに。見えるのに。 やがて、溜息に似た音を立てて土方はそっと笑う。 「こんな様になってから、てめぇを笑えねェぐらいに暇だった」 今までだったらここで、「笑えないも何も銀さん暇じゃねーから。パチ屋の新台巡りとかあって結構忙しいから」とか口を尖らせて言って、そうして笑い合っただろうか。思いはするが、今の男の口からは皮肉も嫌味も埒も無い冗談も出て行こうとはしない。ひょっとしたら土方はそう言った遣り取りを望んでいたのかも知れないと思ったが、それでも男の呑み込んだ感情を塞ぐ口は重たく開かれる事は無かった。 或いは答えの無い事など端から承知だったのか。土方は独り言をこぼす様にして続ける。 「手前ェを恨む誰かに斬られ死ぬんならまだしも、こんな風に奇病で死ぬなんざ考えても無かった」 無様なものだ、と。恐らくは幾度と無く己にそう繰り返して来たのだろう、投げ遣りでさえある思いを吐露した土方の、もう碌に世界を映さなくなった眼差しが見つめるものに男は気付いて仕舞った。 「ごめんな」 吐く吐息より掠れ細くなった声に、土方が笑う。「てめぇの所為でも何でもねぇだろうが」と。 (違うんだ、土方。違うんだ──) 懺悔にも似た言葉は然し矢張り出ては行かない。男は呪詛に浸された自らの両手を見下ろして、嘗てこの手で土方の身を抱いていた事を思い出し、身を裂く様な失意を憶えた。 男は、詛われた己こそが土方の身にこの病──否、詛いを与えて仕舞ったのだと言う事実を既に理解していた。 そう──、己の所為で土方は死ぬのだ。こんな風に残酷にゆっくりと『殺され』るのだ。 それは最早変え難い現実。 きっと己が土方に執着していたから。だからきっとこの詛いは、魘魅は真っ先に土方に牙を剥いたのだ。坂田銀時の心の最も深い所に置いていた中で、最も情動を揺する存在であった土方を一番最初に犯し、そして一番最期に奪い取る為に。 それが男に掛けられた詛いであった。望んだものを、願ったものを、全て己の身が滅ぼし尽くすまで苦しめ、責められ続ける。 だがその事実を口にする事が出来ない。奇病ではない、全ては己の所為なのだと告げる事が出来ない。世界中に罵られ恨まれても良い。それだけの事をしでかした自覚はあるのだから。 それでも、たったひとり。土方に拒絶されるのだけは厭だった。 ただ、それだけだった。 解っているのだ。己が土方十四郎から全てを奪ったのだと。その命を奪うばかりか、その世界を、護りたいものを、護ろうとする心を、戦える眼を腕を、 (奪ったのは、俺だ……!) 凛とした姿も隊服も刀も失い、代わりに痩せ衰えた身に死の匂いと諦めの眼差しとを纏った。真選組副長の土方十四郎にそんな表情をさせているのは他ならない己だと言うのに。 未だ愚かにも望むのか、と身の裡の詛いが嘲笑う。 己を蝕み乗っ取ろうとする呪詛との戦いはそう遠からず決するだろうと、男は朧気に理解している。そして己の意識が詛いに完全に屈したその時に、最も大事な者達を奪い去るのだろうと。 理解と同時に沸き起こったのは途方もない寂寞とした心地であった。その息苦しさに突き動かされる様にこうして、未練がましく会いに来た。会いたい、とただそれだけを呆然と思った。 本当はその身を抱き締めたかった。然し、この腕がその首を容易く手折るかも知れないと思えばそこから先には進めなかった。 何より、愛する人を、世界を、詛った己にそんな資格など無いのだと、身に刻まれた呪詛を見て漠然とそう気付かされたのだ。 「なぁ」 布団が揺れて、土方の手がそこから伸ばされた。大体の声の方角は解っていても、はっきりとした場所までは流石に解らなかったのか、細くなった手はふらふらと見当はずれの所を彷徨う。 「何か言えよ。下らねェ、てめぇの馬鹿みてぇな下らねぇ話で良いから聞きたい気分なんだよ」 何度か空を切って、土方の声が震える。 「なぁ、何か言えよ。暇してんだって言っただろうが」 もどかしげに唇を噛んで、土方は腕を伸ばした。何度も繰り返して、やがて痩せた指先が男の黒い着物に引っ掛かる。反射的に男は逃れようとした。然し、己を正しく視界に捉えられていないその眼に、白くなった髪色に、まるで射竦められた様に動く事が出来ない。 強張った指先が漸く触れたものを掴む。何かに縋り付く様なそれは赤ん坊が親の指を握り締める様な力強さで、男を捕らえて離さなかった。 掴んだのは、ぼろぼろの着物のほんの端っこ。然しそこに縋る全てを見出す様にして、土方は喘ぐ様に喉を震わせた。 「最近、夜が長ェんだ。……長くて、怖ぇ。総悟、山崎、来る奴も時間も段々少なくなって、この侭忘れられちまうんじゃねぇかって馬鹿な想像が消えねェんだ。それが俺には怖ぇ」 震えながらも紡がれたその言葉は、嘗て刀を振り回して他者の命を奪う事さえ生業にしていた者の口から放たれるものとは思えない程に弱々しい。 或いはだからこそ、それは漠然としていた死への思いを超越して、目前の虚無をより確実なものとして見て仕舞った故の、生への執着であったのだろう。 「もう既に役には立たねぇ身だ。今更死ねと言われても、斬り捨てられても構わねぇ。怖くもねぇ。 ただ、この──得体の知れねぇものに喰われ消えて行くのは、堪えられねぇ…!」 声は血を吐く叫びにも似て、それとも切なる悲鳴にも聞こえて、男は愕然と立ち尽くした。弱音と嘲笑う事など出来はしない。大丈夫だと気休めを与える事も出来はしない。 指先で引かれ掴まれているぼろぼろの布きれ、そこにしか接点の無い現実に戦慄する。その孤独に、恐怖に、誰も寄り添えはしない事実に、絶望する。 「なぁ、頼むよ。お前はまた居なくなるんだろう?お前の居なくなるこの世界に、俺をひとりで置いていかないでくれ」 仮託したのは生への執着か、それとも死への安楽か。乞われて男の手が伸びる。呪詛を纏った手が、悲鳴の様な願いを唱えた土方の喉に触れそうになって、然し止まる。拒絶を示して戦慄く。 いっそ全てから解き放ってやりたいと、嘗てはそう思った事もあった。 だがそれはこんな事では決して無い。 己の裡の何かがこの侭土方を手に掛けようとするのを、必死で止める。楽にしてやろうと囁く己の、己では決して無い嗤い声が男には恐ろしかった。 二人で笑い合っていた日々は既に遠かった。男にとって最早この世界を愛すると言う事は、この世界を滅ぼす事も同義だった。土方を愛していたからこそ、彼をこんな目に遭わせた、その現実もそして罪も拭い難い事実なのだ。 気休めは無い。救いも無い。運命や神を標榜するのなど御免だ。そうして愛したものを抱き潰しこの想いに融かして仕舞うのも。 「……………」 よろずや、と小さく唇を動かして、土方の指から力が抜けた。強く掴んでいた指が解け落ちれば、男の着物はただ無情な答えを示して揺れるばかり。 嫌われたくない、憎まれたくない、傍に居たい、会いたい、許して欲しい──どの言葉も結局出る事は無い侭、男は酩酊した様な足取りでふらふらと後ずさった。 最早叶う事など無いのだ。赦しをただ乞う言葉でさえ願えない程に詛われた身には。 そう遠からず己が詛い、そして殺すのだろう人の姿を男はただ見下ろした。記憶に鮮やかな思い出とは異なった、憶えの無い姿で力なく生かされて居る姿を、忘れはすまいと己にじっと灼き付ける。 未練がましく望んだものがどれだけ愛おしかったのかと知って、その喪失をもたらした己をこそ詛う。 目の見えぬ者に果たしてそれがどの程度理解出来たのか。やがて男は来た時同様の動きで夜の闇の中へと舞い戻った。 。 ← : → |