メルトローズ / 6



 遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。続けて消防車の音。火消しの出動を示す半鐘の音。
 廊下に立ち止まった沖田は億劫そうな仕草で視線を窓の外へと投げた。音の根源がここから見えると思った訳ではない。あらゆる意味で『相応しい』そんな光景を薄い色の瞳にただ静かに灼き付ける。
 夕陽だ。奇妙に紅い色をした空はまるで燃え尽きる寸前の命の灯火か何かの様で不吉にさえ見える。だが実際夕陽が紅い事には不吉を想起させる予感などではなく、科学的な理由と根拠とが存在する。斜陽が何色をしていようがそれは一日の終わりのどこかもの悲しくなる風景を彩るひとつの要素に過ぎない。
 古い家屋から高層ビル群まで。江戸の街並みは相変わらず壮観であったが、この紅い夕陽とサイレンのけたたましい響きとがそこに嘗て感じられた揺るがぬ栄華を台無しにして仕舞っていた。
 誰もが口にはしないが、誰もが薄々と悟りつつあった。噂では、幕閣たちや名のある武家だけではなく、将軍家までもがこの惑星の脱出を図っているなどと囁かれている。
 誰もが口にはしない。それでも、誰もが感じている。それは先の知れぬ恐怖だ。
 遠くに見える黒煙が火元だろうか。沖田の目には町中の一角から上がる不吉な煙の様はしっかりと映ってはいたが、それに対して本来ならば抱くべき『警察の使命』などと言うものは沸き起こりもしていない。
 沖田はやがてその風景にそっと横顔を向けた。元通り歩みを再開させる。
 最早機能不全になりつつある警察だの治安だのと言う言葉は碌に役に立ちはしないのだと思い知って来た、諦めに似た悟りがそこにはあった。
 
 
 声も掛けずに扉を開くが、病室の住人がそれに頓着する事は最早無い。入り口に見張りの隊士が一人未だ立っている事に対する信頼もあるのかも知れないが、見張りに立つ人員が絶えた所で恐らくそれは変わるまいと沖田は思う。
 何故ならば、既に彼の頓着する事柄が彼の手を離れて仕舞っているからである。執着も頓着も関心も、或いは未練でさえも既に失せて仕舞った様にも見える彼の人にとっては、最早己の命の事でさえも関心の埒外なのだろう。
 寝台に上体を起こし座る土方の姿は、果たして沖田の想像していた通りの『いつもの』様であった。その横顔は無に程近い表情を湛えて窓の外へと向けられている。
 彼もまた先頃の沖田と同じ様な事を考えているのだろうか。今まで己の信じ積み重ねて来たものへの無為を感じて、諦めの目で世界を見ているのだろうか。
 「……何か見えんですかィ」
 訪いに気付いていないと言う事は無いだろうに、余所を向いたきり戻って来ない土方を呼んで、沖田はすっかりと見慣れた病室の中へと踏み入った。気を引きたくてつい絡み調子になる口調に、然し土方の情動は殆ど動かなかったらしく、「見たまんまのもんが見えてんだろ」と素っ気ない返事が返って来る。
 素っ気は無いが、無気力でも虚脱感でもないはっきりとした言葉。説教か命令か、思い出に余り良い憶えが無くとも聞き覚えのある声を耳にして沖田は少しばかり安堵を得る。以前までよりも少し痩せた身体は、それでも未だ嘗ての真選組副長の機能を損なってはいないのかも知れないと、そんな幻想さえ抱ける程に。
 「何か進展はあったのか」
 相も変わらず窓の外に視線を向けた侭の土方から不意にそんな問いが向けられて来て、沖田は軽くかぶりを振った。「いいえ何も」そう短く付け足す。
 皮肉でも乗せようかと思った舌は然し上手く回らなかった。今更気を遣うつもりはなかったが、音には出さず溜息を吐いて、沖田は自らの姿を見下ろした。
 着慣れた黒い隊服には少し皺が目立つ。刀の手入れもゆっくりと行った憶えがここ暫く無い。真選組が組織の柵をも越えて駆り出される様になった任務の多忙さは苛烈を極め、やれ休日だやれサボリだと振る舞う余裕も無くなっていた。
 発端は土方の入院と、近藤の逮捕であった。組織のトップ二人がこぞって使い物にならなくなった現状では、手駒として優秀な事だけは間違いの無い真選組は、荒れつつある社会の平和維持に貢献させるに実に丁度良い刃だったと言う事だ。
 本来であればそんな彼ら真選組隊士を指揮する男達は、生憎と今は組織の埒外に置かれて仕舞っている。因って、見廻組指揮下に就く事や他の警察組織の露払いめいた役割ばかりを宛がわれる事となっており、既に自分達は『真選組』では無いのだと沖田は口にはしないがそう思っていたし、多くの隊士たちとて恐らく己と同じ考えを持っていただろう。
 土方が精密検査を受けて数日後、出た結果は『解らない』から結局は変化しなかった。原因不明の衰弱。体力の著しい低下の引き起こす様々な合併症。ここまで来ると最早それは特異な病と言う一言で片付けて良いものでは無くなる。正しくそれは地球では今までに例のない症例であり、事実上土方がその最初の罹患者と認定されるに至った訳だ。ウィルスの類の存在は発見されず、伝染性は無いと判断されてはいたが、それでもその患者が慎重に扱われるべき存在である事に変わりはない。
 やがて、二人目、三人目と同様の症状を示す患者が生じ始めると、土方は退院は疎か病院のベッドから出る事も許されなくなった。
 原因不明の奇病。その言葉が新聞の片隅からワイドショーのトップニュースへと変化する頃には、患者数は少しづつ然し着実に増え、更にはそれを原因とする死亡者がぽつぽつと出て来ると、人々は立ち向かう事も原因を断つ事も出来ない病の恐怖に怯えた。
 衰弱の最中に少しづつ色を落としていった土方の髪はやがて真っ白になり、同じ様に色素の薄れた虹彩に映るものは減った。
 ただただ衰え続ける生活が土方にどんな思いを味わわせていたのかは沖田には解らない。だが、彼にしてやれる事、と思って真っ先に浮かんだのは、いつかの様に万事屋の黒電話を鳴らす事だった。
 電話に出たのは銀時では無く従業員の一人である新八だった。そして彼は銀時が何日か前から戻らないと言う事を震える声で沖田に告げて寄越したのだった。
 その日の夕方には沖田は万事屋を直接訪れていた。万事屋に残された新八と神楽の二人は銀時の不在に拘わらず揃っていつも通りの万事屋の業務をこなしていると言うので、沖田はつい、
 「旦那の事、心配はしてねェのかィ」
 肝心の銀時が不在と言う訳の知れぬ事実に苛立ってそう、絡む様に問いて仕舞ったのだが、帰って来たのは神楽の「銀ちゃんが酔っぱらってどこかに出掛けて何日も帰らないのなんて珍しくもないアル」そんな少し固い言葉だった。だから大丈夫だと、感情を吐露しかかった新八や、苛立ちの侭に問いを発した沖田に神楽はそう続けた。
 「きっとその内酔っぱらってか、何かに巻き込まれたとしても解決して帰って来るネ」
 そう自らに言い聞かせる様に呟いた神楽は、迷惑な客人である筈の沖田には一度も視線を向ける事なく、ソファの上で膝を抱えて座り込んだ侭だった。
 沖田はそんな彼らの様子を見て、二人が銀時の事を案じているのは間違いでは無いと言う事と、銀時がそんな二人に何も言い残さずに姿を消したのだと言う事実の確信だけを得て万事屋を後にしたのだった。
 奇病に倒れた土方。続けて姿を消した銀時。人々の間に少しづつ広がっていく病の恐怖と、そう言ったものの間隙を縫って荒れ始めて来ている社会。原因不明の奇病から逃れようと外宇宙に救いを求める者達。治安維持の名目で駆り出される真選組。
 果たしてこれは何かの偶然なのか。それとも意味がある事なのか。沖田は幾度と無くそれを考えはしたが、思考にも可能性にも根拠は疎か疑いを掛ける余地すら無くて、いつも途中で思考はばらばらに砕けて散って行くばかりだ。
 繋がりを何らか見出す事でさえ荒唐無稽な、それこそ何かの妄想じみた考え。
 「総悟」
 不意に呼ばれて、沖田はぼんやりとした思考の波間から顔を出した。項垂れる様に自らの靴先に落としていた視線を持ち上げれば、未だ見慣れる事の出来ぬ、白い髪の男の姿は先頃までと全く変わらずにそこに在る。
 「何ですかィ」
 何となく、程度の事だったが、問いの続きが解って仕舞った様な気がして、沖田は内心を気取られぬ程度に目を眇めて土方の、相も変わらず窓の方をじっと向いた侭でいる横顔を見た。
 「……いや。何でも無ぇ」
 間はそう長くなく、土方は自らかぶりを振ってそう打ち切ると、窓硝子に映るその顔をぐしゃりと歪める。それは唇を噛み締める事で叫び出す事を堪えた様な、痛ましい子供の様な表情だった。
 鏡の様にそう映す硝子の向こうの斜陽は大分傾いて昏い。黒煙はもう見えない。無事に鎮火されたのかただ単に暗くなって見えなくなって仕舞っただけなのか。
 一日の終わりの僅かの耿りでさえも届かない、家々の狭間の暗闇に潜むものの正体はここからでは見えはしない。ここに座して、死か、それとも時間かをただ待ち続ける事しか出来なくなった男の目には、何一つ。
 沖田はそれで良いと思っている。既に執務も戦闘行為でさえも叶わなくなった男には、世界や真選組の往く途を案じて憂う必要など無いのだから。
 彼は、今まで散々に克己的に自らを『それ』一つに特化させ削って削って鍛え抜かれた刃の様な男であった。だから、その機能を最早有さなくなった時に掛けてやる言葉も与えてやれるものも一つとして見つかりはしない。土方にとっては己に課した役割が全てで、全てが己であったのだから。
 だからと言って沖田は自分がその座──副長と言うポジションに収まれているとも思っては居なかった。得たとしてそれはその名をした椅子と言うだけだ。この真選組副長の代わりとなってやる事など、己にも誰にも出来やしない。
 (………旦那が、居れば)
 そんな事を思考の端で考えては打ち消す。あの男が居てくれれば──土方十四郎を真選組副長として以外の理由で欲して受け入れるを苦にもしないだろう、坂田銀時が居てくれたら、少しは土方の気鬱も晴れただろうか。それともより彼の懊悩を深めただけだろうか。
 何れにしてもそれは想像でしかない。想像が叶ったとしても叶わないとしても銀時は今ここには居ないのだ。病床の土方へは疎か、自らの家族にも等しい二人にさえも何ひとつ告げずに行方を眩ましたのだから。
 土方は果たしてその事実をどう思っているのだろうか、とは考えかけた所で止めた。沖田は行方を眩ませた銀時の事を土方の前で口に出した事は無かったし、土方も問いたりはしなかった。……つまりはそう言う事だ。
 それでも、もしも銀時が此処に居たら、と考えずにいられないのは、二人の関係性を暴き立てたいから、などと言う理由ではなく、土方が諦めを選ぼうとしているからに他ならない。
 沖田は銀時と土方との関係を、直接当人たちから聞いた訳ではないが薄々とは知り得ていたし、あの近藤でさえも喧嘩ばかりの二者の間に何の意味も生じていない、とは思っていない様だった。
 具体的にどう言った関係かは知らないし、そこについては特に興味も無い。ただ、それを臭わせからかう事はすれど、本心で反対したり馬鹿にしたりするつもりなど沖田には無かった。
 互いに何処か壊れている二人が、どう言った化学変化でか惹かれ結びついて、それで何がその先に生じるかなど知らないしどうでも良い。
 それでもそこには確かに、何かの意味があった筈なのだ。
 然し銀時は姿を消して、土方はそれを問いもしない。だから沖田は、諦めに進む土方にもう頓着はしていなかったが、自らの裡に湧いていた義憤にも似た感情の正体を知るべく、この現状にだけは執着していた。
 だから沖田は、日毎に衰弱して行く土方の姿を毎日の様に見ながら、忽然と彼の前から姿を消した男の行方を追う。仕事は無いも同然の汚れ役ばかりで、振り捨てるに躊躇もないのだ。飽いた時間を潰すにそれは丁度良い『仕事』の様に思えていた。







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