メルトローズ / 5 過労ってのはこんな長続きするもんだったか。 手元の書類に落としていた視線を持ち上げて見れば、そこにはすっかり見慣れた居慣れぬ病室の風景がある。 捕り物の現場で不覚にも立ち眩みを起こし、その様を見て泡を食った近藤に半ば無理矢理に押し込められた病院。その寝台に一日の大半の間身を預ける様になってから既に一週間が過ぎている。 叶う限りの(溜まって行く)机仕事を持ち込んで何とか多少でも処理出来る様に取りはからっているが、それでも副長不在の真選組の全てが滞りなく今まで通りに流れると言う訳には行かない。土方と言う大きな部品を取り除かれた組織は一見して恙なく動いている様に見えるが、その裏ではあちらこちらに軋みを生み出している。一つ一つを取ればそれはどうと言う事も無い様なものばかりだが、いつまでも看過しておいて良いものと言う訳でも無い。 真選組の執務に於ける大半が副長を通す事を前提とした組織構造と役割分担になっている為に、その肝心の副長の仕事能率が常の半分以下になっていると言うのは誰がどう考えた所で宜しい状況とは言えない。元々真選組自体が頭で考えるより体を動かす事の得意な連中の集まりと言っても良い集団なのだ。机仕事を行う人員は常に不足している。副長の不在と言う状態をいつまでも長引かせる訳にはいかない。 土方は幾度と無く医者に──理由は遠回しに──その旨を針の様に刺して話したし、医者とて土方の退院そのものに反対するつもりは無い様だった。 ──医者として捨て置けない様な症状を患者が示していない限りは。 簡単に言えば、土方の身は重度の衰弱状態にあったのだと言う。食事を摂れど、栄養剤の点滴を打てど、その身を蝕む虚脱感や疲労感は決して消える事は無く、その癖簡単な血液検査などで解る様な異常の一切は見受けられていない。 医者の診断としては、ストレス性の障碍、或いは過労に因る内臓機能の低下、と曖昧且つありがちな理由を提示するほか無い。 具体的にもっとしっかりとした精密検査を受けるべきです。それがここ数日の間に医者の繰り返してきた言葉だ。土方が必要無いと突っぱね続ける為にか、終いには近藤を通じて『説得』まで試みる程だ。余程土方の身を蝕む症状の奇妙さが気懸かりなのだろう。既存の危険な病に似た徴候を示しているとか、全く見知らぬ症状への好奇心とか。動機は色々あるだろうが、医師としてそれは間違った判断では無い。 最近では地球外の病気、つまり宇宙性の伝染病などもあるのだが、大概のウィルスは地球の環境や人体の抗体に因って死滅し、定着し発症する事は殆ど無い。それはウィルスが病気の素であれど飽く迄生物に類する構造体だと言う事なのだろう。人類が異星人の暮らす酸の海や氷の惑星で生きる事が出来ないのと同じ様に、病もまた発生した惑星と異なった環境に置かれ、速やかに適合進化を遂げて生き延び感染していく事は容易では無いのだ。 原因の定かでない症例、として、地球産は勿論、宇宙産の病のデータベースも直ぐに検索された筈だ。然しそれを引き起こしたと思しき原因は土方の血中(や体液)からは発見されなかったと言う事だろう。人間一人の身に収まって、その発症理由やメカニズムが解らないとなると、遺伝的な所に原因を持つ病と言う可能性も在り得るが、そうなればそれこそ幾ら解明に努めた所でお手上げにしかならないだろう。 そもそも土方の身に顕れている症状は衰弱や疲労と言った、致死性と言うには程遠いものばかりである。周囲に何らかの感染症状を引き起こしている形跡も無い以上、未知の症状であれ『病』と言うには無理があるのだ。 だから医者は慎重になるのだろう。宇宙産の病であれば未だ良い。出所も対処法も解っているだけに、未だ良い。個人の遺伝病ならばまだしも、恐ろしいのは未知の症状を有した『地球の』病気である可能性だ。 土方とてその懸念は解っている。己の症状が単なる『過労』と言う一言で片付けて良いものなのか知れないと自覚すればこそだ。だからこそ、退院をさせて欲しいと言いはするが、強行手段を取るには未だ至っていない。 最初の診断の名前は『過労』。だから土方はこれを、この症状を極力『過労』なのだと思う様にしている。 腕に繋がれた点滴は今日も役立たずの栄養剤を身体に流し込んでいる。こんなものは、尿意が近くなるばかりで何の症状改善にもなっていない。それはこの一週間で厭と言う程に土方の痛感した事実だった。故にこれは恐らく『過労』以上で、然し『過労』の枠を越えない『何か』なのだ。 医者から精密検査を勧められた近藤は一も二もなくそれを了承した。そして土方にあらゆる検査をしてみる事を進言して寄越した。土方は近藤から攻め落としに来た医者に対して忌々しく思いはしたが、実際に近藤が精密検査の必要性を理解し、そして勧めて来るのであれば断りようもないと言うのが現実だった。 たかだか過労だ。近藤さん、アンタがそんな心配する様な事じゃねェ。 医師から精密検査の必要性を訴える説明を聞くなり、深刻を通り越して陰鬱に傾きかけた表情でこちらを見た近藤に、土方は殊更にそれを笑い飛ばす様な調子でそう言った。あの、いつも何処か太陽の様に笑っていた近藤の顔をそこまで曇らせた己に対して、無様でどうしようもない様な思いを持て余しながら。 一言で言えば不快であった。手段を選ぶ事をしなかった医者に対してもだったが、近藤に沈鬱な思いをさせ、組織の順調な運営を立ち行かなくさせているのが、本来それら両方を支えて立つべき副長である己の責だと言う事は土方にとって堪らなく苦痛であったのだ。 山崎はそんな土方の内心を持ち前の聡さで理解したらしく、「検査でも何でも早く済ませちまえば、副長は治って局長も組も元通りだと考えりゃ良いんです。簡単でしょう?」などと珍しくも年上風を吹かせた調子で言って来た。正しさの全力直球だとは解っていたが、勿論土方は渋々検査の承諾に応じた後でしっかりと山崎の頭を殴っておいた。間違っていたからではなく、間違っていない事が腹立たしかったからだ。 不快であった。不快であったが、同時に安堵もした。この居場所に己が確かに必要とされているのだと言う実感は──然し危うい感慨だとも理解して、土方は幾つかの不満や不安ごとそこにそっと蓋をした。『過労』を兎に角治す事が先決なのだと己に言い聞かせて、あらゆる反論の理由を呑み込んだ。 果たしてこれも過労とやらの影響なのか、先頃から座っていると言うのに頭の奥で鈍痛がしている。眩暈に似た視界のぶれや指先に痺れを感じる事などは確かに徹夜続きの時などに時折起こる症状だ。だが今は病院で煙草も過剰マヨネーズも禁止された、自分でも驚く程に健全で健康的な生活(ヤニ不足の苛立ちなど胃には良くはない事この上無いが)を送っている最中だ。 (そんなに、疲れてんのか…?) 我が身の事と言われても今ひとつ実感が湧かない。積もりに積もった疲労だと医者は言うし、山崎もそれに同調した。然し肝心の土方は自身に何か変化らしい変化を感じてはいないのだ。立ち眩みはしたが、疲れらしき兆候は見られているが、肉体そのものは健康であると思えてならない。 (そう言や、万事屋も何か白髪がどうとか抜かしてやがったか…) それは思い出すと少しばかり憂鬱になりそうだったので肩を竦めてやり過ごす。冗談交じりの様な会話の中のほんの一言。嘘か真実かなどどうだって構うまい。どうせあれは銀時が己を気遣う為の言い訳や切っ掛けの様なものだったのだろうと土方は推測しているし、確信もある。そしてそうであれば真実の所在など気にはならない。土方の様子が草臥れて見えて、銀時は不器用にそれを案じてくれた。それだけの事だ。 その何日か後、沖田の嘘に呼ばれて病室を訪れて以来、銀時が見舞いに来た事は無い。恥ずかしくも騙され取り乱しかけたと言う手前があるから、一丁前に普通の面を下げて出て来るのが気まずいとか恥だとか、恐らくはそんな所だろうが。 あの、一番最初の銀時の懸念が──白髪の実際の有無はさておいて──今こうして『過労』と言う症状になって土方の身に実際降りかかって仕舞っているのだから、それについては少しばかり己を反省する土方だ。顕著に解られる程に疲労していて、それを拗らせてこうなっているのであれば、それは己の健康管理がきちんとなっていなかった、と言う結論にしかならないからだ。 疲れている、と言う自覚は無い。だが、傍目には知れる程に降り積んだそれに逆襲されているのだとすれば、滅多に会えないと言うのに銀時はそれを正しく見抜いたと言う事になる。或いは滅多に会えないからこそ、なのかも知れないが。 (何にしても、だ。そろそろ養生も限界だ。とっとと治ってとっとと仕事に戻らねェと、) 机の上に残された侭で、外部への持ち出しの出来ない幾つかの書類を頭に連ねてみれば、頭痛は違う意味での頭痛に変わった。これは早く治さねばいよいよ駄目だ、と思って頭の鈍い痛みに逆らい顔を引き締める。古くさいと言われるかも知れないが、体調管理も病気への対処も基本気合いが大事だと土方は大真面目に思っている。 よし、と切り替えると同時に姿勢を正して、土方は惰性で掴んでいたペンを持ち直した。本来食事などを乗せる卓の上に堆く積まれている書類を手にとれば、心地は療養中の不満顔の病人から真選組の副長のそれへと直ぐ様に転じる。 書類の内容を読みながら、別にファイリングしてある資料の山へと手を伸ばす。自室の机の上ならば見ないでも容易な行動だが、ここは生憎と慣れない病室の中だ。ファイルの山を横から眺めて、目当てのものの場所の確認をして、それを取ろうと指先が彷徨い、 「──」 ぐら、と視界がぶれた。指先の向かう先が二重に、三重にぶれて焦点が定まらず眼球が無意識のうちに忙しなく動く。冷えていた指先がファイルの山に辿り着いた事を知ったのは、己の手がファイルの山を雪崩れさせて仕舞ったその後だった。 ばさばさと派手な音を立てて山が崩れ床に散らばる。緩慢な思考で、それを拾わねば、と思う。思う間にも視界は暗くぶれて、頭の遙か遠くで耳鳴りがしている。貧血の時の症状に似ていると思ってふと蘇ったのは、初めてまともな刀傷を負った時の事だった。江戸に出て浪士組として職を得た後のこと、捕まえた攘夷浪士が隠し持っていた小太刀を振り翳してやぶれかぶれの反撃に転じて来たのだ。払い除けはしたが腕を深く斬りつけられた。そうして軽傷だと判断し暫く放っておいた為に血を流しすぎたらしい。始末を終えて帰ってから丁度こんな眩暈や耳鳴りを憶えたのだった。その時は流石に無様に倒れたりはしなかったが。 そんな取り留めもない思考に本来冷静であるべきリソースを割きながら、緩慢にしか動こうとしない意識の中で土方は寝台からリノリウムの床へと足を降ろし、その侭がくりと床に膝をついた。 糸が切れた時の様だと、ぐるぐると回る思考の狭間で僅かに残った冷静な自分が表する。打ち付けた膝が痛い。腕と足とに力が上手く入らない。眩暈。耳鳴り。吐き気。頭痛。散漫に過ぎる思考が紡ぎ続ける、初めて憶えた貧血がどうだったとか言うどうでも良い記憶たち。 物音を異常なものと聞きつけたのか、室内に見張り番の隊士たちが飛び込んで来て、床にだらりと座り込んでいる土方に口々に声を上げるのが遠く、近くに反響して聞こえて来る。 「騒ぐな、何とも無ぇ」 そう紡いだつもりの言葉は果たして形になっていただろうか。ぐらりと倒れ掛かった身体を黒い隊服の身に支えられる。黒地に銀縁の洋装。腰の刀。自分たちの創り上げた、自分の護りたい、最も大切な寄る辺の証。 それに支えられている。それに寄り掛かっている。そんな経験は滅多に憶えが無くて居心地が悪い。 だって、これは俺の、護りたいもので、護らねばならないもので、 寄り掛かって安堵して良いものではなくて、それは他の誰かのところにあれば良いもので、 (俺は、真選組副長の、土方十四郎、だろう、が──?) 溺れ沈みそうな意識の狭間で必死にそう声を上げた。暗く狭まる視界の中に己を呼ぶ部下達の声。駄目だ。それは駄目だ。あってはならない。駄目だ。駄目なんだ。 副長、とそう呼んでくれるなら、どうかこの無様な身を置いて、何も見ない振りをして立ち去ってはくれまいか。 この身が『過労』に倒れたら。精密検査とやらで『過労』の名をした『何か』の正体が露見したら。 (俺、は──、) 土方は喘ぐ様に息を継いだ。大丈夫だと、ただその一言だけを伝えたくて。 だがそれは叶う事なく、虹色の眩暈の中でやがてあれだけ煩く響いていた耳鳴りがふつりと途絶えて、土方の意識もそこで途絶えた。 土方は血の気が多そうなので、慣れない貧血とか起こしたら本気で慌てそう。 ← : → |