ナグルファルに捧ぐ花 / 1 つづら折りの坂道を登り、古びたガードレールに辛うじて護られているだけの狭く険しい山道を越え、バスは漸くそこで停車した。 掘っ立て小屋めいた停留所には乗客らしき姿は一切無く、降車ボタンを押した憶えは土方には無かった。つまり押したのは銀時なのだろう。一つ前の停留所からここまでの道程は長く、日頃の寝不足も相俟ってうとうととしていたから、きっとその間にでも。 「ほれ、降りんぞ。寝惚けてねぇよな?」 「とっくに起きてるに決まってんだろ。舐めんな」 ぽんと肩を叩いて寄越す銀時の手をはたいて、土方は己の隣の空席に置いてあった風呂敷包みを取り上げた。結び目を一度解いてから手早く背中に斜めに結び直して、忘れ物が無い事を確認してから立ち上がる。 料金は乗車距離に応じて後払いをするシステムだ。予め旅費として金銭を預かっている銀時が運転手に支払いをするのを欠伸混じりに見つめて、土方はワイパーの動くフロントガラスから外の風景を見遣った。 白。 視界に飛び込むのはほぼその一色。雪の少ない江戸ではぼさぼさと音を立てて降り積むだろう大きさの雪が、静かに静かに風景を白く染めて行っている。分厚い雲に覆われ精彩の無い色をした風景の輪郭はただただ曖昧で、そこに在る筈の物を描き忘れた真新しい世界の様だ。 「足下、滑りますんでお気を付けて〜」 気の無さそうな運転手の言葉と同時に、乗降口が開かれた。忽ちにそこから吹き込む風の冷たさに思わず土方は首を竦める。成程、これだけ寒ければ客の降りる寸前まで扉を開けたくないと言うのも頷けようものだ。 「ゆっくりで良いから、転ぶなよ」 想像以上の寒さに思わず気後れしそうになる。背後で財布を懐に仕舞い込む銀時に促されながら、土方は言われた通りにゆっくりとバスの外へと降りた。反射的には「誰が転ぶか」とでも返してやりたかった所なのだが、正直慣れない雪道に全く足を取られないと言う自信などなかった。 車道には幸いにかまだ雪はそんなに積もっていない様だが──或いは除雪車でも定期的に通っているのか──、足袋と草履の足がひやりと冽い。 降りたのは銀時と土方の二人だけだ。ついでに言えば、バスに乗っていたのも銀時と土方の二人だけだ。走り去るバスが緩やかに湾曲した道の向こうへと消えて行くのを見送ってから、土方は申し訳程度に立っている停留所を振り向いた。そこに掛けられた時刻表は見事に空白だらけ。まだ午前中の筈だが、今のバスが本日の始発であり最終便であったらしい。 白い息の立ち上る口元をマフラーに埋めて、土方は辺りを見回した。車道の他の風景は、バスの中から見た時と変わらず殆どが白の一色。聳える山々には冬の枯れ木が並んで、斑な色合いを作っている。白か、白か、景気の悪い灰色か。どこを見回した所で見事なぐらいにモノクロームの雪景色しかない。 「……成程。絵に描いた様な秘境だな?」 「まぁそう言うなって。秘境とか僻地とか、そう言う所の方がゆっくり羽のばせるってもんだろ」 思わず声になって出た棘を、銀時はどこかで聞いた様な言い種でひょいと無造作に抜いた。 「確かこっちだったかな」と手招きながら歩き出すその、雪に交じって仕舞いそうな銀色の頭を溜息混じりに見遣って、土方は雪に気をつけながら慎重に歩き出した。こんな豪雪地帯だと知っていたら、もう少し対策をしたのだが。思って、きっと直に雪に濡らされて仕舞うだろう足袋を見下ろす。 * 「知り合いっつーか、知り合いの知り合いっつーか…、まぁとにかく、山奥で温泉宿を営んでてよ」 良かったら一緒に行かねぇ? そうおずおずと切り出されるのとほぼ同時。土方は頭の中のスケジュール帳を見つめて渋面を浮かべていた。 提案が不満だったと言う訳ではない。単に、詰め将棋の様にしてびっしりと刻まれた予定の数々をどう動かしたものかと思索しに行っただけである。 頭の中だけでは足りず、咄嗟に机の横に貼ってあったカレンダーを引っ剥がしてああだこうだと考えは続く。カレンダーを外した勢いで部屋の中へと飛んだ画鋲を拾った銀時は、そんな土方の様子に珍しくも少しばかり気後れした様に、 「……や。忙しいんならそんな無理しねぇでも…」 と大層に引き攣った苦笑を浮かべて寄越したのだが、それには応えずにかぶりだけを振って、土方は鉛筆の尻で己の目元をとんとんと突いた。眉を寄せて真剣に考え込む。 さて──オツキアイなどと言う間柄なのかは実の所土方自身に余り実感が無かったのだが、どうやら周囲に言わせれば、いつからかそう言う事になっていたらしい。 万事屋と言う胡散臭い商売の経営者であって、かぶき町では存在の知れた男、坂田銀時。土方がその男と度々喧嘩をしたり酒を飲んだり飲まれたりとまぁ色々している内に、いつの間にやら「あの二人は出来ている」と認識されていた。…らしい。 確かにそう言われてみれば、銀時との接し方、彼の話し方やら態度やらは以前より変わって来ていたし、土方も気付かぬ内にそれを普通の事だと思える程度には馴染んで仕舞っていた。 それは単に、互いに慣れて気安くなったからだろう程度の変化なのだと、そう思えばそんなものでしか無かったのかも知れない。 だが、果たして誰が言い出したのか。『出来ている』などと、ただの下衆な風聞だろう程度に思いつつも、実際どうなのだろうかと、土方は当事者なのに不意に気になったのだ。そして考えてみた。 ああ、こいつはひょっとしたら俺と言う人間に好意を抱いてくれているのかも知れない。 少なくとも、じっと観察してみればそんな気がしてきて、周囲の『出来ている』などと言う評にも土方は、むきになって反論や否定をしなくなった。 実の所は既成事実など何もない関係であったが、端から見てそう思えて、自分で省みればそれも間違っていないのかなと思えたのだから、それでも良いのかも知れないと、そんな結論に着地した。 ともあれ、そんな訳で『出来ている』らしい男からの、恐らくは初めてだろう、飲みや食事以外の誘いの提案である。すげなく断ると言うのは何だか悪い気がして、土方は頭の中のスケジュール調整と言う戦いに挑んでいると言う訳だ。 仕事中に訪ねて来た部外者など、本来ならばとっくに叩き出すべき存在だ。だが、土方にその気は無い。湧かない。沖田辺りが見たら散々にからかって来そうだとは思うのだが、何故かもう、坂田銀時に対してそんな気がしなくなって仕舞っているのだから仕方がない。 それ以上に、真選組の人間以外と二人で旅行に行く、と言う提案に、年甲斐もなく胸が躍って仕舞ったのだから、矢張り仕方がない。仕方がないのだと思う。 有給は殆ど消化していないし、無理に取らされた休暇とてサービス残業と言ってよい日常業務でほぼ相殺されて仕舞っている。つまりは土方には幾らでも合法的に休む権利がある。だが、それでも出来る限り真選組を蔑ろにしない様にしなければならないと考えて仕舞うのは、最早職業病の一種だ。或いは本能とか習性であると、山崎なら苦笑しながら言うだろう。 「って、カレンダー真っ黒じゃねーか…。やっぱり年末年始碌に休んでねぇってのは本当だったみてぇだな…」 画鋲を壁に戻すついでに壁に近づいた銀時が、見返す事があるからと土方が剥がして別に貼っておいた先月のカレンダーを見ながら呆れ混じりに言う。 「そりゃ誰情報だ」 「おめーによくくっついてる、地味な──、」 言いかけた所で銀時は自らの口元を押さえた。ばつが悪そうに視線を游がせるその様子を見て、土方は頬杖をついて苦笑する。何とも解り易い態度だ。余程不覚だったのか、「やっちまった」とでかでかと顔に書いてある。 「で?山崎に、副長(俺)を無理にでも休ませて欲しいとでも言われたのか?」 実に有り得る話だ。余計な事を、とは思うが、案じられる事自体に別に悪い気がしている訳ではない。だから少し苦く笑んだ侭問えば、銀時はそれを土方の皮肉や憤りと取ったらしい。「そうじゃねぇって、」ともどかしげに呻くと、鉛筆で畳をつついていた土方の手を素早く掴んで、取った。 他人に突然触れられる事に一瞬愕きが走るが、思いの外に身は強張らなかった。それが、慣れようとしていた諦めに因るものなのか、それとも単に愕き過ぎただけなのかは解らない。 「そんな話聞いちまったからって訳じゃねぇけど、実際見たら顔色はひでーし、予定でカレンダー真っ黒だしで、少しぐらい休んでも良いんじゃないかとか…、出来れば休ませてやりてぇとか、その、何だ…、」 両手で挟まれたてのひらから、鉛筆がぽろりと落ちる。 その手の向こうには、上手い言葉が見つからないのか、口を上下させて呻く、銀時の真摯な表情が。 「…………」 良い歳をした大人二人で何をやっているのだろうか。寸時そう思った様な気はしたのだが、跳ね上がった心拍数と熱くなった顔を誤魔化す様に、土方は俯いた。 それが首肯になったのだと気付いたのは、手を掴む銀時の両手の力が強くなったからだった。 またしても三十路前の野郎共のもだもだ。 ↑ : → |