ナグルファルに捧ぐ花 / 2 宿はバス停から少し行った高台にあった。雪の降り積んで滑り易い石段を慎重に登って行くと、やがて雪に埋もれかけた廃屋の様な建物が目に飛び込んで来る。そこがどうやら件の目的地らしいと判断せざるを得ない程に、周囲には他に、山と森と雪と雪と、雪しか見当たらなかった。 「………」 別に三つ星ホテルがあると思っていた訳では無いのだが、土方は首を擡げて、廃屋にかけられた看板らしきものを見遣った。積雪の重みでか斜めに傾いたそれには屋号が刻まれている様なのだが、文字の判読は難しそうだ。 屋根瓦も所々落ちて木製の屋根板が剥き出しになっているし、壁の漆喰も罅割れている。これでは雨漏りや隙間風が酷いのでは無いだろうか。仮にも接客業なのだから、老朽化が深刻であったとして、せめて外面ぐらいは取り繕って欲しいものである。 まあ、万事屋の知り合いだか知り合いの知り合いだかが営業していると言う時点でそんなものかと思い直して半ば無理矢理に納得した土方は、「こっちこっち。早く来い」と前方で手招きをする銀時の後を追った。 石段の最上部からは轍すら残っていない積雪で地面が白い。そこに銀時が今し方つけたばかりの足跡が続いている。雪は深くは無さそうだが、仮にも接客業なのだから以下略。 さく、と雪に草履が足跡を刻む。足裏に雪が少しついて一緒に持ち上がって、ぱらぱらと落ちる。 「!」 その瞬間、黒い風が吹き抜けた。否、風の音ではなく、風を切る騒々しいまでの羽音。それが土方の左右を綺麗に分けて通り、見上げた曇天の下でぐるぐるとまわる。 カァ、と口々に喚き立てるそれは鴉の鳴き声だった。冷えた雪山に谺する黒い響きに、土方は咄嗟に身を竦めた。 (鴉なんて雪山に居るのか…?) 見上げた低い空を蠢き羽ばたいていた黒い鳥たちは、そうする内にめいめいに羽根を散らしながら枝などに留まり、疎らにカァカァと鳴き交わす。白い雪しかない世界では、墨でも落とした様な濡れ羽の色彩は妙に鮮烈に目につく気がした。 「縄張りを荒らされたとでも思ったのかね」 薄気味悪ィ、とぼやきながら、土方は今度は何の妨害もなく道を歩いて、点々と続く銀時の足跡を追って行った。 宿の前には張り出した庇があって、銀時はそこで羽織に降り積んだ雪を払い落としていた。土方が近づくと、手を伸ばして頭の上についていたらしい雪を払ってくれる。 「ここが温泉宿の仙望郷か?」 「そ。前に色々あってまぁ色々と…、そう、色々なんだよ」 「色々しか言ってねェぞ。なんだよその中身のまるで無いフワッフワな説明は」 何やら微妙な笑みと共にそっと目を逸らされて、土方は肩を竦める。銀時の知り合いがどうとか言う時点で全く何も無いとは思っていなかったが、どうやら想像以上に言葉を濁したくなる様な事があるらしい。 「おや、やっと来たねぇ」 そんな声に振り向くと、廃屋の様な建物の玄関にパンチパーマの老女が立って、顔を覗かせていた。髪を染めて濃い化粧をしているから解り難いが、そこそこに年齢はいっている様だ。酸いも甘いも噛み分けた老獪な気配は、万事屋の建物の一階に住む大家を土方に想起させた。 「よォ、久しぶりだな妖怪ババァ」 「ふん。アンタも変わってないねェ。ほら、いつまでも入り口でたむろしてると、他のお客さんの邪魔になるだろ。とっととお上がり」 言うと、促す様な仕草と共に老女は宿の中へと消えて行く。どうやら銀時の言う、知り合いの知り合いと言うのは今の老女の事らしい。つくづく年寄りに縁のある男だと思って土方は小さく笑う。 「とっとと行くぞ。営業妨害とか難癖つけられたかねェからな」 「ああ…、」 銀時に背をぐいぐいと押されて、土方は客など勿論どこにも見当たらない、一見すると廃屋にしか見えない宿の玄関をくぐった。一段高い玄関で草履を脱いで上がると、廊下が左右に続いている。用意されていたスリッパに適当に足を突っ込んで左右へ頭を巡らせると、壁と襖とが一定距離毎に並んでいるのが見えた。普通の大きな民家を旅館に改修した様な佇まいである。 「こっちだよ」 玄関の向かいの襖から手招きされて、履いたばかりのスリッパを脱いで室内へと入る。そこは八畳程度の部屋で、廃墟の様な外観からは想像もつかぬ程に生活感のある、普通の家屋の様な風情であった。謂わば事務室とか管理人室とかそう言った部屋に当たるのだろう。中央に置かれた卓袱台の前に先程の老女が座って待っていた。 「おや。こりゃ佳い男だ。アンタは初めましてだね。あたしゃこの宿の女将を務めている、お岩だよ。この寒い中ギンのバイトの手伝いかい?災難だねェ」 「どうも…、って、バイト?」 急須を傾けながら言うお岩に、土方はぱちりと瞬きをした。どう言う事だと銀時を振り向けば、彼はしどろもどろに視線を游がせてから、こほんと態とらしく咳払いをしてみせる。 「あー…、いや、その。階下のババァに家賃の滞納で文句言われてな。あのババァの知り合いの、こっちのババァの宿でタダ働きして、賃金をその侭吸い上げられるって言う搾取システムで話がついてんだよ。あ、でもお前は勿論働く必要ねェから予定通り保養な。宿泊滞在費も俺のバイト代からその侭出すから心配すんな」 「聞いてねェぞ」 身振り手振りを添えて言う銀時の顔を睨み付けて、土方は唸る様に言う。つまり当初から、銀時はここにバイトに来る予定があって、そのついでに土方を誘ったと言う事だ。好意的な相手と旅行と言う、響きだけならば甘い言葉は、その実全く的外れだった事になる。 銀時が土方の多忙さや疲労を見て提案を寄越したのだろうと言う事は、事実や理屈としては解るのだが、どうにも感情の方が納得がいかない。土方は、自分の事ながら子供っぽい情緒だとは判じながらも、それを上手く収める事が出来ずに舌打ちして俯いた。 「アンタらねぇ、痴話喧嘩なら来る前に済ませときな。で、ギンはバイト、そちらの男前は客って事で良いのかい?」 「ああ、」 「いや、良くねェよ」 すかさず頷く銀時の言葉をぴしゃりと遮ると、余計な事は言うなとばかりにこちらを見て寄越すその視線には気付かぬ素振りで、土方は卓袱台の前にどかりと腰を下ろした。 「こいつの家賃滞納は自業自得だから良いとして、俺は手前ェの面倒ぐらい自分で見る。野郎のヒモみてェな扱いなんざ御免だからな」 「……つまりそれは、アンタもここで働くって話で良いのかい?」 ざらざらと音を立てて、皿に柿ピーを移しながら、お岩はちらりと土方に視線を投げて来た。営業用のそれとは違う、人を値踏みする類の目に、土方は無意識に応じる。こんな、挑む様な試す様な伺う様な態度には、お偉いさん方を相手にする事の多い職業柄慣れたものだ。 ふむ、と頷いたお岩は、後ろの箪笥から紙切れを取り出すとそれを卓袱台の上へと滑らせた。簡素な数行しかないそれは雇用契約書の様だ。昨今労働に纏わる法律が色々と制定されている中、前時代的過ぎる程に清々しい内容が簡潔に書かれている。 一瞥した土方は、どうせ短期の事だと、一緒に差し出されたボールペンを手に取った。記名欄にさらさらと名前を書き付ける。 「お、おい…、あのな、おめーが思うよりここはその…、」 何やら銀時がおずおずと言って寄越す言葉は完全に無視して、土方は契約書をお岩に向けて返した。 「流石に印鑑は持って来てねェから、拇印で良いなら押すが?」 「いや。名前だけで良いんだよ、ここは」 言うお岩の様子を見やりながら、土方が出されていた湯飲みに手をつけると中身は焙じ茶であった。柿ピーの皿と言い、従業員は完全に庶民的な空間に置かれるらしい。ともあれ喉を少し潤せば、怒りや戸惑いと言った感情も少し大人しくなってくれた気がする。 「ふん…、大層な名前だねぇ。十(とお)で良いだろ」 「待てババァ、それどこの湯屋のパクリ!?」 思わず声を上げる銀時に、お岩はびしりと人差し指を突きつけた。 「アンタも解ってるだろうが、ギン。ここは、諱は勿論、本名や真名は避けるべき場所だ。仮名の方が何かと安全なんだよ。特に、十、アンタみたいなタイプはね」 早速「十」と呼ばれて、土方は流石にたじろいだ。何とも説明し難いのだが、お岩の紡いだ説明に、寺で坊主の説教でも聞いている時の様な、妙な説得力の様なものを憶えて仕舞ったのだ。だが、その理由や根拠は全く以て解らない。その齟齬に困惑する。 「…けみょう?とお?」 思わず呻けば銀時が、助け船のつもりなのか口を開いた。 「あー…、仮の名前な。源氏名みてーなもん」 「いや、流石にそれは説明されなくても解るんだが……、何で?」 釈然としない筈だと言うのに、不思議と胸に落ちた。腑に落ちたと言うべきか。疑問符を浮かべた侭の土方に、お岩はゆったりとした笑みを浮かべながら、口の中へと放り込んだ柿ピーを音を立てて咀嚼した。 「ま。じきに解るよ。兎に角アンタは、今この瞬間からここでは「十」だ。で、アンタの方は今まで通りにギンと呼ぶよ」 土方と、銀時とに交互に指をつきつけて言うと、お岩は立ち上がり、箪笥の中から従業員の制服らしい一揃えを取りだして放って寄越す。 「四十秒で支度しな!愚図は嫌いだよ、こっちも忙しいんだからね!」 「だからババァ、いちいちジ○リ絡めんのやめろってんだろ!」 ツッコミつつも溜息をついた銀時は、土方の方を何やら思わしげな目で見て来る。 「……あのさ。色々黙ってたのは悪ィとは思うけどよ。勢いで働くとか言い出しちまったのを、後悔はすんなよ?」 言いながらも、銀時の表情にあるのは、土方の思う様な申し訳の無さよりも、困り果てたものを持て余す様な気配であった。咄嗟に苛立ちかけたのを何とか呑み込んだ土方は、「後悔なんぞする訳ねーだろ」と素っ気なく吐いて、棘の生えて来そうな感情ごと棄てた。 色々と文句はあるし、言ってやりたい事も持て余し過ぎた感情もある。だが、旅先に来てまで喧嘩をするのは馬鹿馬鹿しいと思ったのだ。 それが譬え、休みとは程遠い様なバイトと言う理由であったとしても。 十と十四郎の神隠し…なんて事にはならんです。 ← : → |