秘すれば花 / 15



 目醒めは唐突で、そして大層に気分の悪いものだった。
 白い、時刻の判然ともしない光の中で、土方は胃の底に蟠る不快な感覚を喘ぐ様な吐息と共に身体の外へと逃がした。
 膚の上に未だ残っている気がする──実際にはそんな事など起こり得ないのだが──感触に背筋を粟立たせて口元を押さえた。堪らずにえづく。
 苦しい。だが、気分が悪くて堪らないのはそれそのものにではない。囁かれる言葉、膚を滑る手、歪に繋がる悦び、身体を裂いて溢れ出て来そうな情欲の甘みと言った、それらにでは無い。
 それらを享受し『夢』だからと溺れる事を赦し、流され受け入れて諦めた己自身にだ。それが最も赦せない。最も度し難い。
 激しい自己嫌悪を吐き気に混ぜて蟠らせながら、土方は嘲笑った。己と、この已まぬ『夢』とを。
 それこそが望みなのだろうと弾劾する声を振り切って、ただこの感情を責めて吼える。
 愚かな、愚かでささやかなこの『夢』から、もう醒めろ、と。
 
 *
 
 世の中は、宇宙は広い、と言うのがまず最初に浮かんだ漠然とした感想だった。
 宇宙最強の種族の一つでありながら平和主義で花屋なぞ営んでいる天人や、ビル並の巨躯を持つ巨人もとい天人や、細かなナノマシン群体の天人などなど、今までに様々な稀少種や生物やらを見て来ている銀時だったが、宇宙にはまだまだ己の知らない生物や商売があるのだな、と言う、本質的とは大凡言い難い様な酷くどうでも良い感想。
 「さっきも言いましたけど、確証があると言う訳じゃないんです」
 そう先に言い置いて山崎が銀時へと語って寄越したのは、そんな感想から始まってそんな感想で終わる話の内容だった。
 曰く、『夢』を商売道具にする天人が居て、その副作用で昏睡死に陥る被害者が出ていて、銀時もそうなる可能性があって、──
 (……それで、彼奴は俺を助ける為に、夢の中にまで来た、と)
 声にはせずにごちて、口端を下げる。あの馬鹿な男は銀時の為に、その健常な目覚めの為にあんな『夢』の茶番にわざわざ付き合ってくれていたのだ。
 土方が一体何を思ってあの席に腰を下ろしたのか、何を考えて退屈で酔えない飲み屋での時を過ごしたのか、何を諦めて酷い『夢』の関係に応じたのか。全てが『夢』ではなく歴とした土方の意志の元に通り過ぎた今となっては銀時には知る由も無い。
 共に過ごした時間やその穏やかな心地よさはもう、沢山の嘘と取り戻せない時間との中に埋もれて仕舞った。肩の触れあう距離で笑い合った事も、所詮は『夢』だからと言う銀時の傲慢で遠ざかって行った。
 だが、只一つはっきりとしているのは、土方はどうあったとしても銀時を助けようとしたのだろうと言う事実。あの時だって伸ばされようとしていた手には、銀時を救わぬ道など端から選択肢さえ無かったに違いない。
 不機嫌面を突き合わせながらも、『夢』を見ている銀時の身を案じる言葉を寄越した。それは責任を感じていたからだ。身勝手にも『夢』とそんな現実とを見比べて苛立つ銀時をそこで放り出す様な真似もせず。昼まで付き合って眠らされても、それで己の通常業務が阻害されたとしても。
 あれはそう言う男だ。強がって嘯いてチンピラ同然の振る舞いをしていても、警察の、真選組の使命に対しては愚直なまでに真摯に向き合う。そんな男なのだ。
 そして、そんな土方は今、銀時の目の前で眠っている。肩から下を布団に沈めて枕に後頭部を乗せると言う綺麗な寝姿で眠りについている。
 昼も近いこの時刻、業務中の真選組の屯所はそれなりに騒がしい。この副長室は一般隊士の詰める部屋とは少し離れた所なるが、それでも人の気配がまるきりしない訳では無い。
 それでも土方は眠っている。枕元で銀時と山崎とが己に対する議題を通常の声音で口にしていても。構わず、気付かず、ただ昏々と眠り続けている。
 「俺には『夢』の中でアンタら二人の間に何があったかなんて知れません。ですが、旦那を目覚めさせに行っていた副長が戻らなくなって、そして旦那は目を覚ましている。その原因が旦那だけにあるとは言いません、ですが旦那が副長に会いに来た事で、きっと何かがあったんだろうと確信せざるを得なくなりました」
 『何か』があったんでしょう?と言葉にならない語尾がそう続けるのに、銀時は決まり悪く目を逸らして土方の姿を見下ろした。眠る男の表情に変化は無く、改めて夢の中の土方がどれだけ多彩な表情と感情とを向けていてくれたのかを知れた気がした。
 楽しげに笑って親しげに話して、隣席に居た。あの時間全てが夢であったとして、嘘や偽りだとは到底思えない。目覚めを呼び起こす為の行為ならば、仲の悪い男とわざわざ時を共に過ごす必要など無かった筈だ。
 銀時の『夢』を大義名分としたあのセックスだって、恋人同士の様な時間だって、本来土方には幾らでも拒絶が叶った筈なのだ。あの土方が『夢』などでは無かったと言うのなら、銀時の意の侭にされていた理由が、解らない。
 「それでも、確証は無いんです。旦那ならひょっとしたら土方さんを起こす事が出来るんじゃないか、と言う確証は」
 言って山崎は項垂れる。膝の上で握った二つの拳は、きっと本来ならば銀時の襟首を掴んで問い質したかったのだろう感情を潜めて固く震えている。
 そもそも俺に目覚ましアラーム役が必要になったのも元はと言や、お前らの不手際が原因だろうが。
 胸中に自然と湧いたそんな反論を銀時は何も答えない事で呑み込んだ。真選組の捕り物の不手際だろうが、銀時が巻き込まれる場所をうろついていた事が悪かろうが、土方は己の責任を取る事を選んだのだ。銀時を助けようとしていたのだ。どちらが悪い、誰が悪い、などと今更言い立てて何かに責任の所在を求める気にはなれない。
 果たしてそれは目の前で項垂れている山崎とて同様だろう。互いに後ろめたいものがあるから強くは言えないし本音を吐き出す事も出来ない。だがそれで良い。今必要なのは責任を押しつける相手では無く、目の前に降ったこの事態を解消する方法だ。
 銀時を目覚めさせ続けた土方の密かな尽力のお陰で、己は今こうして目を醒まして現実を生きている。だが、その代わりの様に土方は眠りに落ちた。銀時が最後に『夢』から目醒めたあの日からずっと、今に至るまで。
 「…つまり。その、夢の集積所?とやらに土方は今居ると。そう言う話になるのか?」
 「恐らくは。今の旦那は眠った所で夢の集積所には辿り着けていないんだと思うんですが、旦那を起こしに行っていた時の副長の様に、少しでも光線の影響が残っているのであれば、逆にそこに取り残された副長を呼び起こす事が出来るかも知れないと──諄いけど確証は無い、話ですが」
 それはひょっとしたら危険な願いかも知れない。漸く夢を捕らえたものから逃れたと言うのに、またそこに戻るなど。しかもそれは推測未満の話でしかない。勝算は低い。限りなく。銀時や土方にかの光線の影響があるとは言っても、それは夢の集積所に眠った意識が飛ぶと言うだけの話であって、獏人の様にそこを意の侭に行き来できると言う訳では無いのだ。
 だがそれが縋る藁だったのだ。そして恐らく土方も同じ危険を冒して銀時の夢へと入り込んだ。取れる手段がそれしか無いのであれば、やらない、と言う答えなど出よう筈も無い。
 土方がそうやって銀時を目覚めさせる為に、茶番の『夢』に付き合って、あんな無体を赦したのは何故か。それは本人に訊いてみる以外に答えはきっと無い。
 『夢』の中だからと言う言い訳など通じない程にあれが酷い行いであったと言う自覚は銀時にもある。もしもその行為が、あの『夢』での関係が土方を今に至るまでの昏睡に陥らせた一因であるのだとしたら、それを捨て置くと言う選択肢など有り得る訳が無い。危険を顧みずに銀時を救う選択を選んだ土方の心に報いるつもりであれば。猶更。
 「副長は、獏人の残した指示通りに、眠る時に指向性を持ち、夢を夢と理解する事で自己を保った侭旦那の夢を訪ねていたそうです。もしも今の旦那にもそれが叶うのであれば、お願いします。今この地球でこの人を目覚めさせる事が出来るのは、最後までその『夢』に触れていた旦那以外には有り得ないんです」
 縋る動作は無い。本来そうしたかっただろう手はやはり拳を固く握りしめた侭動かなかった。恐らくはそんな事をしなくとも、銀時がこの『依頼』を断る筈などないだろうと──お手盛りな話だが、そう確信しているに違いない。だとしても縋るに似た、それとも憤りにも似た感情を隠す術だけは無いから、ただじっと動かずに希う。
 そしてその希求通りに、銀時が断りや否定の言葉を発する事は一度として無かった。状況も気分も後味もひたすらに最悪だったが、自分で撒いた種を他人に背負わせる様な趣味は無い。
 それに銀時は忘れた訳では無いのだ。『夢』の最後で、泣きそうに、叫び出しそうに笑った土方の表情を。ただの茶番だと言いながら、それの醒める事を誰よりも惜しんでいる様なあの表情を。
 そんな記憶をも含めて、玉砕覚悟で真選組屯所を訪れたのだ。己がこの恋情にケリをつける為だと繰り返して、あの『夢』を夢にしない為に。
 
 *
 
 部屋の主が昏睡状態に陥って以来、部屋は人払いがされている。土方の不在は当面、短期の出張任務に出ていて不在と言う事で一般隊士たちには通しているのだそうだ。
 直接真実を知っているのは近藤と彼に直接報告した山崎当人だけだと言う。沖田は知っているのか知らないのかは解らない、だそうだが、少なくとも自主的に知らせてはいないらしい。
 その程度の対応で済んだのはまず、光線の効果が切れる事で土方が目を覚ます可能性があったからだ。土方は銀時と異なり光線の直撃を貰った訳ではない。因って目を醒ます可能性は否定出来なかったのだ。
 そしてもう一つ、銀時に当たってみる事で解決するのではないかと言う目算からだった。つまりどちらにしても短期で結果が出る、と言う事だ。
 人の夢を無遠慮に取り出す鉱物だか、そこから発せられる成分の光線だか……、人体への影響はまだまだ未知数と言った所だ。今後地球や他星で同種の商売が行われない様、獏人の母星への管理体制が強まる事になるだろう。
 土方はただ静かに眠り続けている。夢を──『夢』を恐らくは見続けている。それが夢だと言う自覚の無い侭に。それが銀時の見ていたあの飲み屋の『夢』と同じものなのかは解らない。
 確かなのは、本来ならばそれは土方が見る必要の無かった夢であって、陥る事の無かった筈の症状だと言う事だ。
 お願いします、と言って山崎の立ち去った部屋の中で、銀時はまるで死者か置物の様に眠る土方をじっと見つめていた。見ている筈の夢の内容はその静かな寝姿からは知れそうもない。そもそも夢に囚われ戻れなくなる、そんな昏睡に陥った人間は真っ当に夢に見たものの反応を肉体に示すのかも定かでは無いのだ。
 それでも、願わくば安らかで穏やかな『夢』であれば良いと、そんな事を思う。己の見ていた夢と同じ、下らない夢であれば。
 そんな願いに意味は無いのだと不意に気付いて銀時はそっと己の目元に手を当てた。夢は夢でしか無いのだと、そう繰り返し言い聞かせていたのは己自身にだったではないか。
 「……人を助けに来て、てめぇが逆に眠っちまってどうすんだよ、バカヤロー。ミイラ捕りがミイラとか、情けねェにも程があるんじゃねぇの、真選組の副長さんとした事がよ」
 ぽろりと、悪態が口からこぼれ落ちた。聞こえていたら眉を吊り上げて反論して来ただろう男の表情はぴくりとも動かない。こぼれた悪態は対話にならず独り言として消えて行く。
 「俺ァ、オメーに答えを訊かなきゃなんねェ。言いたい事は沢山あったが、やっぱ訊く事が先だ。
 ………きっとオメーの性格上、そんなのは真っ平御免なんだろうけどな」
 反応の一切を示さない人に向けて苦笑混じりの溜息を落として、銀時は土方の眠る布団にそっと手を差し入れた。眠っているからか暖かな温度をした手は直ぐに見つかる。
 「もしも、オメーが俺と同じで、夢ん中でしか正直になれなかったとか、思う様に振る舞えなかったとか、そんな話だったんだとしたら…、覚悟しやがれ」
 探り当てた掌を強く握って、そこから何の反応も返らない事実を振り切る様に銀時は無理矢理に口端を吊り上げて笑った。多分笑えていたと思う。どうしようもない皮肉に対して浮かぶ表情なんて他には思いつかなかった。







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