秘すれば花 / 14



 「銀ちゃん、まだ起きてたアルか」
 背後から不意に聞こえたそんな声に軽く振り向けば、寝惚けた眼をしばたかせながら立っている神楽の姿が居間の入り口にあった。厠にでも起きた所なのか、その目蓋は常の銀時よりも重たく、寝起きの頭髪はばさばさに乱れて仕舞っている。
 「悪ィな、眩しかったか?」
 電気代を節約する為に居間の照明は蛍光灯の本数を減らしてはいたが、真っ暗な深夜では十分な光源になっていた。目覚めた神楽が何か不審に思って覗きに来たのだとすれば頷けると思って、銀時は形ばかりは謝罪の様なものを口にしてみるのだが、神楽は軽くかぶりを振って返した。欠伸を噛み殺す。
 「あんまり飲み過ぎて夜更かしすんなヨ」
 「…おう」
 心配なのか釘なのかは解らない一言に銀時は苦笑し曖昧に頷いた。神楽は銀時の夜更かしをこれ以上追求する意味も無いと思ったのか、それとも自らの眠気を優先したのか、その侭踵を返すと厠に入り、暫くすると水洗の音と共に出て来て真っ直ぐに自らの寝床へと戻って行った。
 「………」
 再び戻った夜らしい静けさの中、軽く頭を掻いて溜息をつく。銀時はまだ寝間着にすら着替えておらず、着流しを脱いだきりの恰好だ。ここ最近鳴る気配のない黒電話の乗った机には空いた缶ビールが一本、飲みかけのものがもう一本。つまみの類は面倒だから作っていない。単に作る材料が見当たらなかっただけとも言えたが。
 立ち上がって居間の電気を消すと、代わりに寝室の電気を小さくして点けて、襖を細く開け放しにしてから銀時は元通り椅子に深く腰掛けた。先程よりも薄暗さの増した室内は深夜そのものの静けさを纏ってただただ閑かで、背を向けた窓の外からはぼやりとした月明かりや町の灯りに照らされた空が薄い色をした影を室内へと差し込ませている。
 深夜まで一人飲んだくれて消沈している男の姿を、ありの侭に描き出している。
 あの奇妙な夢を見なくなってから既に数日が経過していた。あれだけ連日連夜続けて見ていた夢は突如としてぱたりと途絶えて、それからは普通に夢なぞ見ない日々が続いている。見ていたとしてその形や内容を目覚めまで持って行けない手合いだ。
 最後に見た夢はよく憶えている。曖昧になりつつある記憶の中ではあったが、隣に座っていた男の今にも泣き出しそうな微笑だけははっきりと記憶に残っていた。それが大凡、銀時の知るその男の形作る様な表情とは思えない程に掛け離れていて、想像ですら憶えがありそうにないものだったからだ。夢の中ですら描けそうにないものだったからだ。
 最後に見た夢の中で、土方はそんな表情を銀時に向けて言った。これはテメェの都合の良い夢だ、と。
 銀時はこの数日間、幾度と無くその言葉を反芻しては考え続けた。都合の良い『夢』だったと言う事は単に、ヤりたかっただけの銀時の願望が形作った産物だったとでも言うのか。それはある側面では己で自覚した通りに間違ってはいない事なのだろうと思う。だが、連日連夜それを繰り返し夢見る程に思い詰めていただろうか、と考えれば、そこには間違いなく否と言う答えが返る。
 巻き込まれただけだ、と夢の中の土方は言ったが、何分ただの夢に見た話だ。その言葉さえ最早銀時の記憶が創り出した嘘なのか本当に見た夢だったのか、判別するには確証が足りない。
 あれから現実の土方にも遭遇してはいない。とは言えまだ数日程度の事だ。今までを思ってみてもそこまであのチンピラ警察達との遭遇率が高い訳でも無いのだから、その事に何かしらの意図を見出そうとするのは早計だとは思う。
 それに銀時の方も、果たして土方に今後遭遇したとして、一体どう言った態度を取れば良いのかを量りかねていると言うのが正直な所だった。然して思い詰めてた訳でも無かった筈の恋情らしきものを、対象である当人を置き去りに勝手に夢に見た挙げ句に身体まで重ねた。その事実は誰に知られている訳では無いと言った所で矢張り記憶にも意識にも代え難い事だ。夢の事だから、と何れ忘れると言う常識的な思考も余り助けになりそうも無い。
 そしてそれは勿論、酒に酔って忘れて仕舞えるものでも無い。
 一度自覚を促された感情は──或いは、疾うに解っていて、ただそこから目を背けていただけだったのかも知れないが──忘れたり消したりしようと思う度よりその屈託を増す。人間は完結しない問題を思考から棄てる事の出来ない生き物だ。その結末が良いものであるか悪いものであるかに関わらず、区切りや踏ん切りや割り切りのつかない問題を常に抱えて生きて行かなければならない。
 全く不条理な話だと思う。勝手に夢に見た挙げ句に悩んではそこからどう進んで良いのかが解らずに湿っぽく苦悩する。
 どうして『こう』なったのか、は正直なところ銀時には連日の反芻をして見ても良く解らない。
 そもそも『夢』だからと、夢の中で土方を意の侭にした意識だけは妙にはっきりと残っている銀時としては、そんな土方の口にした言葉をどう受け取って良いのかが今ひとつ不明瞭だった。
 『夢』と言う大義名分に無意識の内に憶えた罪悪感が、夢の中の土方に『そう』と言わせた可能性もまた否定出来ない。あの夢の何処から何処までに銀時の明確な意思が介在していたのかなど、今更解る筈も無いのだから。
 それでも。不条理だ、理不尽だ、と繰り返したところで、それで頭を抱えて懊悩しようが自棄っぱちな酒を煽ってみようが、恋の自覚をするに至る夢を見た故にこうなっている事に変わりは無いのだ。
 夢と言う現象──理解出来ないものに対する思考には答えなぞ幾ら求めた所で出る筈もない。だとしたら残るはただ一つしか無い。この思考と悩みとを完結させる方法は、銀時にはたった一つしか有り得ない。
 それは、土方に直接『それ』を──夢に育てた想いらしき感情を告げてみる事だ。
 嫌そうな顔をされようが、拒絶されようが、或いは夢と現実との齟齬に腹が立とうが──己の感情に何かしらケリをつけて終わらせない限りは、この解法の無い問題を完結させる方法は無いのだ。
 (所詮、てめぇの納得の為、だけどな)
 思って、銀時は苦く缶ビールを舐める様に呑む。何しろ己が恋をして仕舞ったらしい相手への見込みなど全く無い。当たってみる前から既に答えの見え透いて仕舞っている問題に、玉砕した時の負債を考えながら挑まねばならないとしか思えない──…そんな関係性の男なのだ。
 出来るだけ傷はつきたくないと思うのも人の性だ。だが、完結しない、負けの見込みの強い問題を抱え続けていると言う事は、いつまでも治らない傷を負っている様なものでもある。
 銀時の裡に居る土方の姿は、いつだって顔を合わせれば忌々しそうに目を細めて不機嫌顔を形作る、そんな男だ。決して、飲み屋で肩の触れる様な距離に座って互いに笑い合って穏やかな時を過ごせる、そんな男では無いのだ。
 その負け戦があんな夢を己に見させたのか、創り上げて仕舞ったのか。そんな理由はどうだって良い。真に向き合わねばならない問題はそこにでは無く、己の心に在るべきだったものだ。
 即ちそれは、叶う見込みなどないこの恋情を殺す為の覚悟に他ならない。
 
 *
 
 改めて思い起こせば、仕事や厄介事の一環以外で真選組屯所を訪ねた事は無かった気がする。
 ……それもそうだ、一般庶民の相手をするそこいらの交番──同心の詰め所とは訳が違う。一見古めかしい武家屋敷の体を為している其処は、泣く子も黙る武装警察の本拠地。過去に多少の後ろ暗い経歴を持つ銀時が易々訪れる様な場所では本来無いのだから。
 (しょっちゅう遭遇してはどうでも良い喧嘩やら騒ぎやら繰り返してたから、どうにも忘れがちだったが…、)
 広大な敷地を覆う外壁を見回しながら、今になって思い返しでもしない限りは考えもしなかった部分にぶち当たって、銀時は額に手を当ててかぶりを振った。
 当たった部分は、距離感、だ。町中ではただ互いに言葉や拳で戦り合っていればそれだけであった二者の関係は、元攘夷志士の万事屋稼業の男と、対テロ組織である真選組の副長と言う言葉に置き換えてみれば何かの悪い冗談としか思えない程に笑えない。否、苦くしか笑えない。
 そんな輩が──仮に、元攘夷志士と言う部分が半ば暗黙の了解の様に放置されていたとしても、軽々しく警察組織の門など叩いても良いのだろうか。と。少なくとも客観的に想像してみればお笑い種な光景だとは思えたが。
 (あんなに近い腐れ縁って感じてたモンも、こうやって現実的な距離で見ちまうと案外と奇跡的な状況だったのかもな。
 ……いや、それとも、そんな偶然だか奇跡だかを越えたからこその、腐れ縁って奴なのかも知れねェか)
 俄に湧き出していた不穏な想像と疑問とは然し、溜息から笑みへと途中で転じる。開き直りなのか、単に漸くこの事に対する諦観が身に付いただけなのかなど、解りはしないが。
 ただ、一度決まった肚は凪いだ水面の様に穏やかであった。この恋情に対する自覚と覚悟の固まる以前であったならば、隔たった距離感を言い訳にして感情すら無かった事にしていただろうと、銀時は己でそう自覚していた。
 だからこそ、長い塀の先に漸く見えた門へと接近する足取りに躊躇いは無く。
 余りに堂々としたその歩みに、門番の隊士たちは互いに顔を見合わせて首を傾げた。本来の彼らの役割を思えば、不審者には門へと接近するより先に対処を行っていた筈だったのだが、真っ当な用向きや理由でも携え門を自然に潜ろうとした銀時の行動に対して、分秒の迷いが生じたのだ。
 なまじ銀髪の万事屋が度々真選組に関わった経緯があったから、と言う事情もあっただろう。そこに来て、門番に立っていた隊士が二人ともその顔を偶々に知り得ていた、と言う要素も銀時にとっては良い方向に作用したのかも知れない。
 ともあれ、門番の隊士たちが何らかの制止行動を起こすより先に、銀時は真選組屯所の外門を堂々と通っていた。
 門を通れば僅かの距離の先に建物の出入り口がある。そこに真っ直ぐ向かう銀時の目が、丁度玄関へと出て来た男の姿を捉えた。
 「…………、旦那」
 それは門を潜らねば有り得なかった遭遇であった。少し驚いた様に目を瞠らせた地味な風貌が、然し次の瞬間には早足で駆け寄って来て、顔を俯かせて銀時の両肩を掴んだ。縋る藁にも似た膂力に銀時は思わずその場に立ち止まってその地味な後頭部を見下ろす。
 「ひょっとしたら、副長に会いに来るんじゃないかとは思ってました。でも確証は無いし理由も無い。……いえ、そうだとしても、そうじゃなかったとしても、俺は自分から旦那を訪ねに行ってた筈です」
 「……?」
 自己に言い聞かせる問答の様な山崎の小さな呟き声に、銀時は有り体に眉を寄せて困惑を示した。誰にも気取られない程の声音で発せられた言葉はまるで、銀時が真選組屯所をこうして訪れるのはある程度予測出来ていたと言っている様に聞こえた。
 真選組の屯所なぞ本来どうした所で訪ねる筈も無いだろう、万事屋が。片手に余る回数程度しか訪れた事の無い筈の場所を、どうして今訪れると思ったのか。しかも、副長と呼ばれる人間に会いに来た、とはっきりと明言されている始末だ。この真選組の中で副長と言う役職で呼ばれる心当たりなど、銀時がどう考えた所で一人しかいない。
 銀時が土方の元を訪ねて来る理由と言うものは、通常考え得る限りでは存在していない。何しろ両者の間には接点が殆ど無いのだからそれは当然だ。
 それだと言うのにこの観察の地味男に何故ぴたりと、銀時が会いに来た人物まで言い当てる事が出来ると言うのか。
 幾ら顔見知りであっても訪いの理由を問うべきだと思ったのか、それとも不審者として扱う事にしようとしていたのか、職務を思い出して近付いて来ようとしていた門番たちも、目の当たりにした監察筆頭の妙な様子と黙り込む銀時とにどう行動して良いのかを量りかねている。
 然しその空隙は長い事は続かなかった。まるで魔法でも解けた様に、山崎は沈痛な空気を振り払う様にぱっと銀時の肩から手を離すと、地味な顔でへらりと笑ってみせた。
 「…………不躾でした、すいません。取り敢えず依頼、ありますんで。お話だけでも訊いて貰えませんか?」
 依頼、と言う言葉に、門番たちは銀時が不審者や侵入者ではなく、寧ろ山崎に呼ばれ依頼として訪ねて来たと判断したのか、まだ多少こちらを気にする素振りを見せながらも門の配置へと戻って行く。彼らが元通りこちらに背を向けてから、山崎は貼り付けた様な作り笑いで銀時に、付いて来て欲しいと仕草で訴えて来た。
 「…………」
 恰も、その為に来たのだろう、と言いたげなその様子に何となく嫌な予感がした。この地味だけが取り柄の監察方が、その取り柄を存分に活かした任務を得意としているのは知っている。そんな男が自ら前に出て来て『依頼』などと言う言葉を口にするのは果たしてどう言った事情に因るものなのか。
 銀時が今日偶々に真選組屯所に現れていなければ自ら万事屋を──銀時の元を──訪ねていた、と言う事は、彼の最も信頼し敬愛する上司の命令や考えに拘わらずそうしていた、と言う事とも取れる。そして銀時がここを訪れたと言う理由の一部は既に看破されている。
 そうなると、推測未満の予感が一つ成立する。
 つまり、銀時は土方に会う為に此処を遠からず訪わなければならなかった、と言う事だ。
 具体的な、恋情だのなんだのと言う銀時の内心の事情まで流石に読まれているとは思えないが、どう言った用向きであれど銀時は土方に会わねばならないのだろう。山崎の態度も言動も、そう語っている。
 歩き出す背を見遣って、銀時が逡巡したのは僅かの間だった。事情や状況はさっぱり解らないが、少なくとも銀時は目的を果たしに来たのだ。それを翻して今更逃げ帰る訳には行くまい。
 しかも火急と言っても差し支えの無さそうな事態が、恐らく何か起きているのだ。
 
 そして、そこで銀時が聞かされたのは──知らされたのは、紛れもなく最悪に類するだろう話だった。





銀と土は思考の過程が違っても割と結論が同じになる。

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