秘すれば花 / 13



 夢などと言うものはいつだって手前勝手で、望む望まないに限らず様々な光景を描いて見せつける癖、醒める時は一瞬で全てを無かった事にして仕舞うものだ。記憶に嘘偽りが無くとも、不確かな体験はそれを現実と思い違える様な事は無い。決して無い。夢での記憶や体験など所詮は脳の見た一人遊びや錯覚だと処理して、夢の残滓は反芻する間も無く徐々に掠れ消えて行って仕舞う。
 この夢を見ている筈の銀時も、『夢』は醒めれば何れ忘れるだろう。後悔するか、そんな思考に至るまでも無く綺麗さっぱり忘れるのかは解らないが。
 元々不確かな現象でしか無い夢、それも誰かの寓意の形作った『夢』は見る主の記憶や願望を不安定で不定形に顕す。そして時を追う毎に薄れ崩れて行く。獏人の商売道具である『夢』の効果は所詮は有限だ。そこから銀時の意識が醒めれば夢も『夢』から醒めて、全ては現実の事に戻る。
 より具体的に言うのなら、意識が深い夢へと陥る危機を脱すれば、銀時の見ている『夢』もまた本当の意味で醒めると言う事だ。人の意識を切り離し意の侭にする、夢の集積所へと誘うあの厄介な光線の効果さえ切れれば、『夢』は醒めるし銀時の命も救われる。最早土方が目覚めを『夢』の中から促さなくとも良くなるのだ。
 夢の終わりは同時に『夢』の世界の終わりだ。銀時が思い違え、土方はそれを利した。そんな手前勝手で醜い『夢』は、現実に何をも残さずにただ醒めて消えて行く。
 その訪れは寧ろ望まなければならなかったものの筈だった。夢の中に溺れて『夢』を見て、惹かれた心を最低の形で叶えて──それでもそれら全てが、夢だった、その一言で終わるのならば、図々しいがそれは間違いなく有り難い事に類する結果と言える。
 夢だった。気の迷いだった。そう言い訳する必要さえ無い。現実では無いから、無かった事も同然の所業なのだから、端から何も無かったし起きてすらいなかった。
 それは土方にとって──或いは銀時にとっても、最大の免罪符となるものだった。
 夢を通じて想いを遂げて身体を重ねるなどと言う真似をやらかした。そうして湧いた僅かの惜しさやひとかどの情など押し流して仕舞える程に、必要な大義名分(いいわけ)だった。
 然し実際に醒める夢を目の当たりにした土方の胸に去来していたのは、醒める安堵でもそれを逆に惜しもうとする未練でさえも無く、ただただ何処までも虚ろな心地であった。
 目の前には二つの椅子がある。その片方には銀時が座っている。彼にはきっといつもの夢の如くの飲み屋の風景が見えているのだろう。夢に見ているその侭の風景は、夢を見ている当人にしか本来認識出来ないものだ。それらの光景が土方の目には映っていないと言う事は、集積所(ここ)に描かれていた銀時の夢が醒めようとしている、そんな解り易い作用の結果なのだ。
 もう夢の輪郭(かたち)は崩れた。それでも未だこの『夢』がこの意を保っているのは、銀時の見ている夢が、望む風景が、己の隣の空席を埋める『誰か』を待っているからに他ならない。
 「…………」
 我知らず浮かんだ感情はきっと歓喜だった。土方はどこまでも怯懦で卑怯な己の心を思い知らされながらも、そこに鋭く刺す様な自己嫌悪を憶えながらも、いつもの様に空いた椅子に腰を下ろした。
 途端、こちらを振り返り愛しそうに目を細めて口端を僅か笑む様に吊り上げる、銀時の顔に出会う。
 伸ばされる手が耳朶を擽って頬を掌で包んで撫でて行く。愛する者や恋人にでもする様な銀時のそんな仕草に目を閉じて仕舞えれば、そう言う事にして良いのであれば、それはどれ程に喜ばしい事だろうか。耽溺した夢の味を漫然と呑み干して仕舞えればどれだけ楽な事だろうか。
 然しそれを赦そうとはしないのが己の性分だと土方は厭と言う程に理解している。否、理解はしていても、誘惑に溺れた時点で既に決していた己の怯懦な本心を知っているからこそ、それ以上の堕落は赦せないと思った。
 過ちを通り越して仕舞った以上、せめて、は『夢』の中にしか赦すまいと決めた。それ以上に夢を利してずるずると、已められない習慣性のある薬に溺れる様になる訳には、絶対に行かないのだ。
 もう既に無様を散々に晒して愚かな決断を通した後だ。これ以上は『夢』だ。現実には碌に思い出すら持ち帰れない、そんな泡沫のあやふやな世界の出来事の中に葬るべきだ。
 棄てるべき想いに対して諦めの悪い選択肢を取った己には、既に失望し尽くした。夢が醒めても醒める事の無い己の願望の矮小さと卑怯さ、それは『夢』であったと幾ら言い訳した所で消えはしない事実だ。だが、夢にはなる。通り過ぎ薄らいでは『無かった事』に等しく消える、夢のひとつには、なる。
 それをすら惜しむ程に傲慢な感情があるとしたら、それは最早恋情では無いだろう。
 ただの執着、或いは欲、或いは憎悪。
 そして土方はその何れの感情も、この『夢』の外へと持ち出すつもりはもう無かった。口端を歪める頬に触れた手のもたらしてくれる、微睡みに似た心地を振り切って、過ちも想いも、決する。
 『夢』はもう夢である必要性を失った。銀時が夢に陥り昏倒し目覚めなくなる心配は恐らくもう無い。
 だからもう、
 「……そろそろ、醒める頃合いだ」
 酒の助けも無く絞り出す、そんな言葉には偽悪と自嘲を。嘘と、尤もらしい嘘を。
 「まだ酔ってねェだろ?」
 土方の言葉の意味を掴みかねて疑問符を浮かべる銀時にかぶりを振って返して、土方はそっと微笑んでみせた。出来るだけ、現実の──本来の自分とは掛け離れて見える様に、優しげに。柔和に。
 「テメェも前に言ったろ。これは『夢』だって。──ああ、その通りだ。これは『夢』で、全部がテメェの都合の良い様に出来てる幻想だ。現実じゃ決して有り得ねェ、ただの夢だ」
 有り得もしない事を描いた世界なればこそ、殊更に現実と乖離した光景が描かれるものだ、と。
 だから、笑う。現実の己には決して出来ない感情を秘めず晒して、いと惜しげに微笑みながら斬り捨てる。身勝手に、醒める為に。身勝手に、消える為に。身勝手に、忘れて消す為に。
 「……テメェは運悪くも巻き込まれちまって、こんなおかしな事になっているだけだ。だが、それももう終わる。こんな訳の解らねェ夢からも解放される」
 「土方…?」
 隣の銀時の向けて来る視線から逃れる様に、土方は目蓋を伏せて俯いた。膝の上で握った拳が震えているのが何だか馬鹿らしかった。畏れか怯えか途方も無い悲しみなのか、判然とはしないその感覚こそが悪夢の様に思えた。『夢』の中でだけ叶えようと足掻いた、愚かな恋と言う無様な為体と──それを棄てるを今更未だ諦めも悪く悲しんで惜しもうとする自分自身を、浅ましいその心を、否応無しに突きつけて来る『現実』。
 俯いて動かない土方の様子を前に、向かう銀時も訝しんだり狼狽えたりと落ち着き無く気配を変える。夢だなんだのといきなり言われた所で良く解らないと言うのもあるかも知れないが、恐らくは彼とて薄々とはこの夢見の異常さに、奇妙さに、何か得体の知れないモノの意識の様なものを感じてはいた筈だ。だから疑問を浮かべど口にするに躊躇っているのだろう。
 これを『夢』だとひとたび認識して仕舞えば、認めて仕舞えば、その瞬間に全ては醒めるのだと人は本能的に理解をしている。だから悪夢を見れば「これは夢だから早く醒めろ」と叫び、幸福な夢を見れば「まだこの侭続く様に」と願うのだから。
 そして銀時も、醒めればもう、この『夢』相手の自慰にも似た夢を見る事は無くなり、己がどれだけ血迷った夢を見ていたのかと思い知る事になる。それを何処かで薄々理解しているのだ。
 尤も、『夢』としてそう仕向けた一因は土方の側にあるのだから、その点については少々申し訳はないと思うが、銀時とてそんな夢から醒めれば一連の『夢』での体験も後悔しか残らないものと化す筈だ。
 土方は空席に勝手に座り、銀時はそんな土方に血迷った欲を向けた。互いに何かが間違えていたのだから、それがただの夢オチとなるのであれば願ってもない話だろう。
 「………すまねぇ」
 押し出される様に喉から滑り落ちた言葉は、最初にこの席を己の感情で埋める事を選んで仕舞った時と同じものだった。そう望んだのは紛れもない土方自身だったと言うのに、その事実すら『夢』の産物だったのだと誤魔化して、現実の己に対して、醒めろ、と弾劾の言葉を向ける。
 それでも、そこから──用意されていた席から立ち上がる事が出来ない己が滑稽で。惨めで。無様で。
 「もう、こんな茶番の『夢』からなんざ、醒めちまえ」
 震えて叫び出したくなる様な、居た堪れのない心地を振り切ってただ笑いながら土方は銀時の顔を見上げた。
 「  」
 銀時の、常は半分ぐらい閉じかかった眼が瞠られ口が開かれる。然しその唇が何か言葉を紡ぐより先に、銀時の姿はまるで霞か何かの様に掻き消えた。醒めたのだ。夢から。夢を見ていた銀時の肉体が。
 正しく夢の目覚めの様にして、そこに居たものは余りにあっさりと目覚めて消えて仕舞っていた。
 「………」
 空いた空席を何処か呆然とした心地で見つめながら、土方は自嘲の侭に喉を反らして震わせた。声にならない嗤い声で、胸の奥底で騒ぎ続けている悲嘆めいた叫び声を煩いと封じて、一頻り自己嫌悪で己を罵ってから席を立つ。
 途端、二つ並んでいた椅子が先頃の銀時の姿と同じ様に掻き消える。夢とは醒める時も無粋なものだと思いながら、土方は最早形も意も喪い果てた『夢』の残骸を見回した。
 空虚で何も無い空間。『夢』を見る者が本来がその願望や望みを自在に描いて夢に見る、その自由とプライバシーとを奪う『これ』も、醒めて仕舞えばそこには何ひとつ残りはしない。記憶に徐々に薄れる夢と同様にして容易く消えるし書き換えられる、曖昧模糊な夢と言う存在。
 夢での逢瀬などと言うロマンチックなものでは断じて無い。『夢』を偽った醜悪な世界での、愚かな、愚かな、茶番。
 「……これで、野郎も馬鹿な、思い違えの夢から醒める事が出来るって訳だ」
 事件の後始末、巻き込んだ事に対する警察としての責任は一応は取った。とは言え、事実を隠し立てしたり、身勝手な内容を介入させたりと言った不始末は夢と思って勝手にやらかした事に変わりは無い。土方が負うべき後悔や銀時に対する後ろめたさはこれからも残り続ける。夢は醒めて消えるのに、面倒事の記憶や感情が消えないと言うのは全く厄介だと思えば溜息さえも出ない。
 夢から目覚めた、その心地とは全く空虚なものだったのだと、理解以上の実感で思い知る。







  :