秘すれば花 / 12 唐突に目が開いて仕舞えば、今し方まで己を取り巻いていた夢の光景は忽ちに現実のそれへと切り替わる。 「──……っ!」 全身に生々しい感触が未だ残っている気がして、銀時は思わず布団をはね除けるとパンツのゴムを引っ張って自らの下肢をまじまじと確認した。 「……」 幸いにかそこに粗相をした形跡は無い。朝だからかほんの少し兆してはいたが、起きて活動を開始すれば直ぐに萎える程度の状態。そんな概ねいつも通りの息子の姿に思わず大きく息をつくと、指から外れたゴムが腹に当たってぺちりと間の抜けた音が鳴る。 続け様に銀時は自らの身体を見下ろしてぺたぺたと探ってみたが、そこには夢に見た生々しい情交の気配なぞ僅かたりとも見て取れない。見慣れた気怠い朝を──否、寝過ごして昼に近い時刻を知らせて来るのは暢気な尿意と空腹感。こちらもまたいつもと同じ、普通の寝覚めであった。 (…………マジでか) 布団に座り込んだ侭両手で頭を抱えて呻く。肌がぶつかり合う音や感触、全身から流れ出た汗の伝う不快感、身体の極一部と脳内とが憶える熱と放出の快楽。余りにリアルな記憶たちは脳にも目蓋の裏にもはっきりと残っている。 記憶を巡らす内にうっかりと、自らの性器を包んでいた熱い肉の感触を思い出しそうになり、銀時はかぶりを振って念仏を唱える。 (……ヤッちまった……) 念仏の狭間で呻く。厭になるぐらい鮮明に、組み敷いた人物も突っ込んだ孔の事も憶えている。その光景は忘れようったって到底忘れられなさそうなインパクトだった。尤も感じたのは当たり前の嫌悪感や後悔と言うより、見るとは思わなかったものを目の当たりにして仕舞ったと言う驚きや意外性とそれに付随した優越にも似た心地。 そこに来て久しい肌と肉との交わりは、夢にしては厭にリアルでそして何より気持ちが良かった。ともすればまた情けなくも下肢を疼かせそうになるのは、実際にその快楽を肉体で得て放出した訳では無いと言う何よりの証明だ。つまり妄想は散々にしたが出すものは出せていない。そんな奇妙で中途半端な状態と言える。 良い歳をして粗相をやらかさなかったのは幸いだったが、その夢は記憶と感触だけをリアルにそこに留めていて、銀時は何度も念仏と円周率を唱える羽目になった。何しろ居間からはTVの音が漏れ聞こえているのだ。十時も近い時間帯だ、神楽か新八、或いは二人ともが直ぐ隣で寛いでいるその横で、妄想で息子を元気にして処理に困り果てるなど、流石に情けないのを通り越してみっともなさ過ぎる。 (それも、野郎のケツに突っ込んでキモチイイ夢ってどうなの俺…どうすんの俺…) 呻いてはみるが夢は『夢』だ。見て仕舞ったものは最早どうしようもない。それで朝っぱらから息子が元気一杯になりそうだと言う弊害を起こして仕舞いそうでも。 一度出すものでも出せばすっきりはするのだろうが、それも出来れば避けたい。故に銀時は夢の記憶とそこから膨らみそうになる妄想とを必死で振り捨てなければならなかった。こう言う時に役立つのは念仏よりもいつかの、隣でお登勢が眠っていたドッキリの時の記憶だ。記憶としては忌々しい事この上無い内容で自身にも深いダメージを与えるものなのだが、雑念を振り払うには覿面だ。 そうして少しずつ落ち着いて来た頃、銀時はのそのそと布団から起き上がって着替えを始めた。こう言う時は速やかに日常のルーチンに戻るのが一番良い。 布団をもう一度見て、脱ぎ捨てた寝間着代わりの甚兵衛を見て、そこに夢であった何かしらの痕跡が残っていない事を確認する。そうなってみれば確かにあれは夢で、『夢』でしかなかった。それだけの話だ。 自慰の様なもの──否、それすら想像だにしていなかった妄想を『夢』に見た。オカズどころか、碌な付き合いも無い同性の、顔見知りの、大凡恋愛感情なぞ生じる筈など無いと思っていた相手を、『夢』だからと好きに扱った。 「…………いやいや。ナイナイ」 そんな夢を見た、と言ったらまず間違いなくドン引きされる。と言うか言っていて自分でもドン引きだ。いや、引かれるだけならまだしも猥褻行為を企んだ疑いとか言われて逮捕されそうな気がする。 確かに、夢の中に出て来た土方とは、現実の土方とでは有り得ない程の穏やかで楽しい時間を過ごせてはいた。だからこそ現実の土方の『いつも通り』の──変わらない態度に勝手に腹を立てて、夢の中の土方にギャップにも似た反動の好意の様なものを抱いたのだ、と言う自覚までは銀時にもある。 だが、夢の中に出て来た土方とはそもそも銀時の身勝手なイメージや妄想が描いた存在だ。"実際の人物・団体とは関係がありません"、そんな注意書きを横に添えねばならない存在なのだ。 (夢にまで見て、あまつさえヤッちまうって…、) どれだけ餓えていたのか。なんだか酷く情けの無い心地になって銀時は畳んだ布団の上に額を押しつけて歯軋りした。夢に勝手に描いた土方を相手に行為に及んだ挙げ句、目覚めてまでその記憶に下肢を熱くするとは。 「…………………」 想像するにも億劫なお登勢の顔を横に除けて、銀時は大きな溜息を吐いた。もうババアの記憶の世話にならなくても大丈夫、と言い聞かせて苦い記憶を振り切り、思い直して畳んだ布団を押し入れには戻さずその侭窓辺に干した。妄想の蟠った自分の眠っていた布団と言うだけで、何だか日常の空気を凝らせている様な気がしたのだ。 布団を干し終えた銀時はその侭居間に出て、寝坊の為体を神楽と新八に咎められながら外へと向かった。素寒貧な中では朝食なぞある筈も無かったので、その侭散歩にでも出て頭を冷やす事にする。 少し冷たい風は銀時の火照った頭と身体とを幾分かは冷やしてくれたが、ぐるぐると思考の迷路へと沈んで行きそうな惑いを宥めてくれはしなかった。 ……物凄く明け透けな言い方をすれば、ヤりたかった、のだろう。 だが、現実の土方であればあんな風に自らの誇りとする隊服を纏った侭、安っぽい連れ込み宿になぞ入りはしないだろう。仮に、そうしたいと願ったとしたら、土方は──銀時の知る土方と言う男であれば──憤慨と屈辱とに顔を歪めて銀時の事を激しく怒りの感情で睨み据えて来る筈だ。 (…………アレ、なんか思いの外最低な野郎みたいになってねぇ?俺。…いやいやいや、所詮夢の話だから。実際にどうこうした訳でも何でもねェから。アレだよアレ、ちょっとマス掻くのに知り合いの顔を使っちゃったとかそう言う感じの…、) 思い至った所で思わず頭を抱えて天を仰ぎ地を仰いで銀時は呻いた。いつの間にやら辿り着いていた土手道には人通りは殆ど無く、幸い誰も銀時のそんな奇行を目の当たりにした者はいなかった。 「………」 押し出される様に肺から息が吐き出される。諦めよりは納得に近い、そんな重苦しい質のものだ。 散々に手前勝手に失望したり憤ったり苛立ったりと──『夢の中の土方の方が良い』、そう思って抱いた感情の数々は、『夢』の中にこそ理想を描いていた事から生じたものだった筈だ。 夢では叶うのに、現実では決して叶わない事。叶えたかった事。それがあの夢見であって、夢の中だからと軽々しく越えて仕舞った一線だ。 (ヤッちまったのは、単にヤりたかったから、だとして、) そもそもその対象は、土方と、なのか、夢の中の妄想と、なのか。それを問うにはともすれば憂鬱になりそうな問題や良識的な思考とが堆く眼前には積まれていたが、端的に認めるのならばそう言う事だ。 妄想を描く程に。穏やかに過ごす時間を愛しく思える程に。『そうなって欲しい』と言う願望が知らぬ内に育っていて、気付いた時にはもう手が付けられない程に大きくなって仕舞っていたのか。 然し幾らそれを思った所で、望んだ所で、それが叶う目算はゼロに等しい筈だ。だからこそ『夢』として見たのやも知れぬが。 (………つまり、そう言う事、だろ…?) 夢の中でも銀時はそう葛藤した。思う侭に叶う夢だったからと言って、したくもない事をする奴はいない。 したいから、した。半ばそれは衝動的な事であったとは言え、紛れもなく『夢』の中の己の感情の代弁者でもあった土方の存在こそが物語っている。 現実の土方相手には決して叶わない想いを、夢だからと押し通した。理性も葛藤も躊躇もする時間はあった筈なのに、それらを全て見ぬ素振りをして、銀時は夢の中で最低な自慰行為に耽ったのだ。 (……俺は、きっとあの野郎の事が…、で、〜…そう、きっとそれはヤりてェとか手前勝手な幻想を押しつけてそう夢見ちまう程のもんで…、) ぶわ、と顔に上った熱を自覚しながら、銀時は斜面に座り込んでいた自らの膝に額を押しつけた。 良い歳をして情けないけれど、恥ずかしいけれど、きっとそう言う事なのだ。 (アイツに好かれて、楽しく隣り合って酒とか呑みてェとか、そう思ってたんだろ。そうなんだろ?) ゆっくりと感情を咀嚼すればするだけ、一体どこの小学生なのかと己を罵りたくもなる。そうやって拗らせた感情があんなこっ恥ずかしい夢になったのだから余計にだ。 「どうすりゃ、良いんだよ…こんなん……」 溜息より深い所から吐き出された呟きは、酷く途方に暮れた調子でその場に転がり落ちる。拾ってくれる者はおらず、本来それを向けるべき相手も生憎とこんな所には居なかった。 * 開いた目に差し込んで来たのは白い光だった。網膜を灼いて感情を乱暴に揺さぶる、暴力的な目覚め方。 「…………」 眩しい白い陽光に融ける見慣れた天井に土方が描いたのは、何処までも自嘲と自己嫌悪に満ちた夢見の記憶だった。焦がれた男の夢の責任にして、願望を流させ押し通した、卑劣極まりない己の所業。 余りに無様で、余りに愚かしくて、吐き気さえ催す行動だった。 土方は今までに己の行動に対して後悔を抱いた事など無い。悔いていては前には進めないからだ。幼い頃、弱かった己を悔いて嘆いて、進み続ける事こそ答えと悟った。真選組の副長として歩む事を決めた時から、過去を悔やむ行為は一切已めた。 それでもこれを悔いずにはいられない。これだけは、自分自身にも到底許容出来そうもない。他者と己とを裏切るに等しい、最低で下劣極まりない所業の記憶。 夢の中でぐらい──『夢』であっても良いのならば。 手前勝手な恋を、その感情を棄てず抱き続ける事の叶う土方十四郎であってみたい、と。 『夢』に描かれた自らの願望に、強固だと思い込んで来た己の理性や、道理を訴える良心や、諦めをこそ納得と知っていた筈の心は、然し容易く砕け散った。 余りに甘美だったからだ。隣に座って笑いかけてくれる男と過ごせた時間が。見当外れな好意を寄せられた事が。望むまでもなく『夢』として求められた事が。 応える事を赦された大義名分が。 「………は、」 後頭部を枕に預けた侭、土方は布団から出した手を目の前に翳して力無く嗤った。 『夢』だから、現実では棄てる筈だった恋心が赦されるなどと、身勝手に抱いた想いに。夢だからと刹那的な衝動に流された男は、慥かに明確な欲を返してくれた。 翳した手の輪郭がじわりと滲む。歪んで不定形な世界の中、それでもそこに描かれていた、無惨にも鮮やかで棄て難い色に染まった己の心に対して土方は失望を越えた絶望を憶えた。 まだ、銀時を夢の中から起こさなければならない時間は続いている。夢から醒める時間は少しづつ早くなっているが、それでもあと短くとも何日かは続くだろう。 だから。そこに絶望する。 今幾ら悔いたとて、無様に嘆いたとて、明日にはまたこれを罪悪を憶えながらも繰り返しているのだろう己に。 それをその場では悔いる事なく赦そうとしているのだろう己に。 夢から醒めて、棄てなければならない時になって、図々しくも人並みの苦しさを憶えるのだろう己に。 。 ← : → |