あまいはな / 1 からから、ころころと乾いた音が響く。 細めた目の横を細かな砂粒が叩いて通り過ぎて行く。気怠い目蓋の下から見たそこは荒涼とした風景であった。 灰色。白。モノクロームの色彩の中、見上げた空は淀んで黒い。 からから、とまた何処かで音が鳴った。頭を巡らせその出処を探せば、程なくしてそれはすぐに目に留まる。 白い、骨であった。乾いた、真白なされこうべがひとつ、途の先にぽつんと佇んでいる。 転がっていると言うには余りに作為的で、置いてあると言うには余りに無造作。真っ直ぐに歩みを進めるだろうその先で、それはじっと空洞の眼窩で土方の事を見つめて来ていた。 ぽかりと空いた黒い両眼の穴は、何の感情も示してはいない。持ち得てもいない。それでもそこに、穴の空く様なつめたい心地を憶えて仕舞うのは、眼窩の奥深くに在りし日の無念を見て仕舞うのは、きっと見つめる者の心に後ろめたいものがあるからだ。 土方の見つめる視線の先で、されこうべもまたじっと見返して来ている。からからと、ころころと、鳴き声とも泣き声とも或いはただの風の音ともつかぬ、乾いた虚しい音を響かせながら。 これはきっと夢なのだろうと、土方は直感的にそう思う。あやふやで曖昧な風景。然して意味があるのか無いのかも知れない様な寓意。それらを不思議とも思わずただ当たり前の事の様に見つめている己の意識。 夢占など詳しくはないし興味もないから、これが果たしてどの様な意味を持つ風景であるのかは解らない。ただ、これを見させている──見ようとしている、己の心だけは解った気がしている。 「……そう、案じる必要はねェよ」 言葉を刻んだ口元が歪む。皮肉の形に。失意の中で拾い上げたひとつの光明をそっと吹き消す様に。息を吐く。 「解ってるさ」 足の進む途の先。されこうべは無言でただ、わらう土方の姿を見上げている。 昏い両眼の虚ろの穴は何も語らない。風に吹かれ、ころころと淋しげに音を鳴らす、骸の無情は現世への尽きせぬ未練である様な気がして、土方はそっと膝をつくとされこうべを取り上げた。 空骸のその向こうに向けて、もう一度呟きを放つ。軋る様に、絞り出す。 「……解ってる」 * からから、ころころと澄んだ音が響く。 見下ろした視線の先。手の中のグラスの底で氷が踊った音だ。水割りの琥珀色の液体の中、溶け出した氷がアルコールの中へ不定形の渦を巻きながらじわり、じわりと拡がっていく。 手をグラスからそっと放せば、指先は冷え切って洌たかった。どうやらそれなりに長時間意識が飛んでいたらしい。汗ばみそうな不快さのある体温の中、指だけが悴んで冷えてじんと痛む。 そうしてようよう意識を緩慢に拡げてみれば、光量を落とした、然し華やかな色彩がそれでも目立つ見慣れた店内の風景と、賑やかなざわめきとが耳朶を打つ。 馴染みではあるが、馴染みとも言えないキャバクラの店内だ。迷惑な上官とその連れの護衛として、就業時間の終わった直後に半ば無理矢理に引っ張って来られた形になった土方は、当然だが着替える間もなかった。万全の警備態勢を構築する余裕も人員もなかった。 度々発砲やら何やら問題行動を起こしても、それを一切意に介さない上官は、正直護衛などいなくても全く問題が無い。警察組織のトップでありながら自らが寧ろテロリストとまで揶揄される男の命を狙う暇人も命知らずも易々とはいやしない。 真選組(うち)に護衛の必要があるのか、と普段の土方であれば突っぱねただろう。だが、文句一つこぼす事も出来ずに急な残業、もとい護衛任に就いたその理由は、はた迷惑な上官の護衛などでは断じてない。問題なのはその連れの方であった。 胸中でさえ余りその身上を呟きたくはなくて、土方は額をそっと押さえて嘆息した。ともあれこちらは火薬庫めいた迷惑な上官とは異なり、本物のVIPである。止事無きと言う表現が正しいかどうかはさておいて、重要度と偉さとで言えば上官の遥か上、この国の実質頂点に君臨する人物なのである。 本来ならば一個師団を連れて来て、キャバクラも貸し切りにして、付近数ブロックは立入禁止にしなければならないレベルの警備の必要のある程の御方なのだが、幸いにと言うべきか、急な話に土方が警備の問題に頭を抱える迄もなく、あちらはあちらで正規の護衛を伴っていた。 僅か十数名と言う人数だが、彼らが相当の精鋭で手練であると言う事は、その纏う白い制服が物語っている。 護衛対象のテーブルを四方囲んで警戒に佇んでいるほか、店の周囲にも恐らく平服の者らが張っているだろう。 頭の男曰く「公共行事では無い私的な遊興なのですから、目立たない方が護衛はし易いでしょう」だそうで。真選組と言う組織の『名』、存在そのものを犯罪の牽制に使いたいと考える、自信があり喧嘩っ早い土方の考えとはやはり相容れそうもない。 そんな訳で、連れて来られたは良いが土方に護衛の仕事は無いも同然で、精々上官の送迎の必要程度のものだった。 あの上官が何を思ってこんな、胃が重くなるばかりの任務に土方を──しかも仕事上がりのタイミングで──連れ出したのかなど知れないが、仕事は疎か身になる事も何一つとして無い。食い潰す他に時間の使い途などあろう筈も無かった。 相席も接客も丁重に断った土方は、一応は護衛対象の様子の伺える席についてはいたが、殆どする事もなく、おまけに。 「ひっじかーたくーん?呆けっとしてどうしたんだよ。ひょっとして寝てる?」 この店に務める娘の弟から、何か頼まれたらしい物品を届けに来たと言う顔見知りの男が、薄暗い店内だと言うのに、一人ぼんやり席についている土方の姿を目に留めるなり、勝手に相席して来て、勝手に酒を頼んで、勝手に飲んで、勝手に話しかけて来ている始末だ。 「…起きてるに決まってんだろ」 「あ。起きてた。てっきりもう潰れちまったんだと思ったよ」 何がおかしいのか、ほろ酔いの顔で笑う銀髪の男に溜息だけを返して、土方は、水割りと言うには水の量が多すぎる、薄い色彩をしたグラスを見下ろした。 指先はまだ洌い。店内は空調が効いていると言うのに、アルコールの匂いや賑わうテーブルのざわめく笑い声とで、暑ささえ感じられる。 アルコールは体裁として注文したが、口はつけていない。氷の溶ける侭に放ったらかしだ。喉は渇いていたが、一応は職務の内なのだ、アルコールの類は一口も飲むつもりはない。 かと言って、アルコールと色遊びじみた楽しみを提供する店で、ノンアルコールを頼むと言うのも何となく気まずい。 早く、こんな退屈と苦痛とをもたらすだけの時間は終わって仕舞えば良いのに。思って土方は目を瞑った。 銀髪の男は、土方からの返事がない事も余り気にしていないのか、益体もない話を振っては勝手に続けていくし、護衛対象たちはまた馬鹿な殿様ゲームとやらでもやっているのか、易々終わる気配のない賑わいの中にあるし、そちらの護衛の白服たちは勤勉に任務に就いている。 どろどろとした澱が肚の底に沈殿していく様な不快感。その向こうで、モノクロームの夢がぼんやりとその輪郭を描いては消えて行く。 (……解ってる、) 隣の男には気取られない様に、土方は目を伏せた侭奥歯に力を込めた。 耳を抜けていく声の、心地の良い無意味さを追わない様に必死になって、膝の上に、夢中で見たされこうべをそっと抱え持つ。 用が済んだのならとっとと帰れ。その一言が紡げれば、きっと、もっと、ずっと楽だったのに。 割と初心のようなそうでもないような。 ↑ : → |