あまいはな / 12 背負った老婆の体は酷く軽かった。これが人ひとりの、人生ひとつの、在ったその証と思うには余りにも、軽かった。 年齢と、病に因る衰えとは人をこんなにも脆くして仕舞う。人ひとりの生きていた事実でさえも、年月の鑢に削られて余りに簡単に消えて行って仕舞う。火葬場で灰になって、無縁として葬られればそこには何も遺らない。書類の上で名前と僅かの人生の痕跡が遺されたとしても、人生と言う時間全てを識る、推し量る事は誰にも出来ない侭に消えて行く。 記憶の中でひととき生きる事は──そう信じて託す事は、慰み程度にはなっただろうか。 「…万事屋さん、一体何をするつもりなの…?」 突然背負われ病室から連れ出された事に老婆は狼狽えてはいたが、暴れたり叫んだりはしなかった。揺れる銀時の背に負われて漸く口にしたのはささやかな疑問。 「決まってんだろ。あんたの依頼を叶えんだよ、バーさん」 「え…」 返るのは、困惑を表す一音。それはそうだろう。老婆は『生前処理する家財から、己の生きた証と思えるものを見つけて欲しい』と万事屋に依頼を寄越したのだから。 曖昧な、然し何かに縋ろうと電話帳を繰って、そこにささやかな望みを託したのだから。 ひとりきりになった自分の人生が不幸だったとさえ遺らなければ、答えは何でも良かったのだから。 空っぽの写真立てに入っていたのだろう思い出、記憶、あらゆる過日の幸せの痕跡を消した家。 銀時は一度唇を噛んでから、軋る様に口を開いた。 「ひとりきりで居るのが辛くなるぐれェ、旦那が先に逝ったのが辛かったんだろ?何年もずっと、見ない様に、思い出さない様にして、忘れようとし続けたんだろ? ──そんならバーさん、間違いなくあんたの『生きた証』ってやつは、」 老婆は気付いただろうか。己を背負って夜道を走る万事屋の向かう先に、道の先に何があるのかを。 「旦那とあの家で暮らしてた日々だよ。楽しかった思い出と、辛くなった思い出と、どっちも抱えて生きて来た、あの家だよ」 銀時の言葉に老婆が息を飲んだ。そうして、恐る恐る銀時の肩越しに前方の、遠く繁華街の灯りを背負った薄暗い夜道を見る様に顔を起こす。 久方ぶりの家路に、ひとりきりではないかえりみちに、その皺深い目元に涙が光った。 * 土方は何度も、手にした携帯電話の発信ボタンに指を掛けては躊躇って離すのを繰り返していた。 警察としての職務なら、病院から患者を勝手に連れ出した狼藉者を取り押さえる、たったのそれだけの事だ。 だがそれが滞って進まないのは、これが真選組の領分の仕事ではないと言う意識がまずあったからだ。それに加えて、老婆を背負って走る銀時のすぐ後ろを追いかける、土方の耳に聞こえて来る会話の断片から、全く状況が理解出来なかったからだ。 老婆は無理矢理連れ出された様だが、抵抗や拒否の様子は見られない。つまり同意のない拉致や誘拐の類ではないと言う事だ。 看護師に警察の名を出して、自分が何とかすると言った以上は放り出す訳にはいかないが、無理矢理に取り押さえて片付ける様な状況でもない。 どうしたものかと手の中の携帯電話を握り締めた時、銀時の足が止まった。背負われた老婆がゆっくりと顔を起こす。 「……」 そこは以前に見た、怪我の手当を銀時にされたあの古びた家屋だった。確か片付けの依頼だとかで上がっていると言う話だったが…。 銀時の足が玄関へと向かう。どうやら目的地はこの家で間違いないらしい。 玄関戸を開くと、背から降ろされた老婆がふらふらとした足取りでそこに佇んだ。入院着の裾から覗く手足は枯れ木の様に細く、老婆の『先』がもうそうは長くないと言う事を表している。 開かれた戸にそっとてのひらを押し当てた老婆が、震える声で「ただいま」と紡ぐのが聞こえた。 (……って事は、このバーさんが片付けとやらの依頼人…) 土方は説明を求めて銀時の方を見るが、その視線に気付かない訳でもないだろうに、銀時は老婆を促す様にして三和土に上がって仕舞う。取り残された形になった土方は暫し逡巡したが、携帯電話をポケットに突っ込むとその後を追って家へと入った。 最早応援など必要ないだろう。家屋の中が目的地ならば、取り押さえるのも事情を訊くのも容易だ。 以前も見た家の中は、然しその時とは異なって綺麗に片付いていた。あの時は片付けの最中だったのか様々なもので散らかっていた部屋は、今は何も無く、伽藍洞の様な虚しさを薄暗い中にただ拡げている。 居間の畳の上に老婆が膝をついた。その前。遠い繁華街の灯りを斜めに受けて薄っすらと照らされた畳の上に、たったひとつ。片付けられた部屋の中にたったひとつ、綺麗に折り畳まれた黒い着物──喪服だろうか──と、空っぽの写真立てとが置かれている。 「楽しい事も辛い事も美しい事も汚い事も、全部ここにあったんだろ。なら、忘れようとなんてしてやるんじゃねェ。ちゃんと笑顔で、旦那に迎えに来て貰え」 暗闇に凝る静寂を揺らした銀時の声に、老婆は嗚咽し両手で顔を覆った。細く小さな背中が今にも内から砕けそうに跳ねて、涙を、慟哭にも似た泣き声を上げている。 「辛かったから忘れたかったの。あのひとの事が、あのひとと一緒に暮らしている事が、本当に幸せだったから。子供もいないし親兄弟も戦争で亡くした私達には、お互いしかいなかったから」 夫は病で先立った。妻が買い物から帰った時には既に家で倒れて死んでいた。 もっと早く戻っていたら。もっと早く気付けていたら。あの日出掛けなければ。 沢山の後悔に苛まれながら、ひとりで喪服を買ってひとりで葬儀を終えた。入れる墓はもうなかったから共同墓地に埋葬して貰った。 泣く声の合間に紡がれる言葉は──ひとりの人間の人生、物語だった。 誰にでも起こり得る可能性があって、決して一人や二人の悲劇でもない、残酷で在り来りな生涯のその断片。 「忘れて生きても抱えて生きても、幸せになんて、楽しくなんて、生きてちゃいけない様な気がしたの。私には、それを飲み込む勇気がきっと無かったのね」 「──」 泣き濡れた老婆の言葉に、鈍くなった土方の心が軋んだ。 思わず立ち尽くした侭の足元を見る。 そこから自分を見上げているされこうべの無念の表情が、訴えるのは嘆きか恨み言か。それとも何れでもないものだったのか。 からから、ころころ、と軋む心が動き出す。 喪ったものたちに報いる為に、自分の儘で居なければならないと思ったから、そう選んだ。 恋情と義務感の狭間で上手く生きられないだろう自分が、好意を隠そうともせず好き勝手に振る舞う男に苛立ちや焦燥感を抱く様になるだろう事実を想像して嫌気がさした。 だから、諦めるよりも棄てる方が楽だと思った。 刹那的な幸福を手に入れて罪悪感で失わせるぐらいならばその方が良いと思った。 ──心のつながりを、求めても叶わないのであればいっそ。 「……バーさん、あんたは、」 唇を震わせて土方はつぶやく。殆ど無意識に。 「何を、棄てたかったんだ」 そして、何を得たかったのか。 老婆は静かに、かぶりを振った。 。 ← : → |