あまいはな / 11



 だからと言ってそれを恨んだ事は無い。
 己はそこまでひねた性根では無いとは断言出来る。
 ただ、からから、ころころ、と虚無の乾いた音がずっと鳴っている。心の奥底で、ずっと。
 己を責める様に。問う様に。疑念を抱く様に。伺う様に。裁く様に。
 或いはそれは自分自身でさえも気づかずにいた未練の類なのか。悔いが、迷いが、惜しもうとする愚かな心が、未だそうしてここにこの心を縛り付けようとするのか。
 恨んだ事は無い。
 ただ、それを想う恋情だけが、鬱積した恨み言めいた悲鳴の代わりに心を酷く惑わせて締め上げていた。
 自由気儘に生きて、振る舞う、その男に憧れ、焦がれたのは果たしていつの事だっただろうか。
 厳しい戦が終わって平和になった世で、以前までの様な気安い関係を築く事が出来る様になって、いつしか明確に根付いた『それ』に気付いて仕舞った。
 気付いて、そして──棄てようと思った。
 不要だと思ったのがまず最初だった。人並みの幸せや安寧など未だ求めてはいなかったと言うのもあるが、未来をずっとあやふやな想像で手繰ってみても、それが不要、或いは枷になるとしか思えなかったからだ。
 己はあの男への思いを抱えた儘では、己の儘で生きていける気がしない。そう思った。
 同時に、あの男ならばきっと己の人生を背負い込む事になっても平然と生きていけるのだろうと言う確信もあった。
 だが、己では上手くその想いに、そのひとに、全てで応える事など出来やしない。
 そうしていつか己がそれを破綻させて仕舞うぐらいならば、棄てて仕舞ったほうが良い。どちらにとってもその方が良い。
 その『壁』を察した様に、その男も好意めいた態度を隠さず接して来るが、肝心な所には一切踏み込まないで居た。手を伸ばしかけても引っ込めた。
 だから、恨んだ事は無い。
 棄てようとする恋情に土足で踏み込んで来てまで、戀の花を掴み取る様な気も無かったのだろう。
 だが男はその癖に、己の周りから離れなかった。近づいて、踏み込んで、強引に引っ張り寄せもしない癖に、好意めいた気配は隠さずにそこに居続ける。
 あの器用な男ならば、上手く好意を隠して接する事ぐらい出来るだろう。己がこの恋心を棄てようとしている事を察しているのなら尚更だ。
 それなのにどうしてか、男は変わらぬ儘でそこに居た。居続けた。棄てようとする己の努力を嘲笑う様にして、気づけばいつでも直ぐ傍に居てこちらを見ていた。
 恨んだ事は無い。だが、恨みたくなる程に。図々しくも。居座って。己の懊悩を深めてただ苦しめた。
 意地を張るなと、内なる己の心が呆れた様に囁いた。
 どうせ互いに人生を共にする事になったとして、死ぬまで誠実に寄り添って想い合うなどと言う事が叶わないのなど、解り切っている。ならば、好意と言う解り易い感情が互いにある内に、楽になって仕舞えば良いだろうと。
 少なくとも一時はそれで楽になれるし、それなりに穏やかで楽しい時間を過ごせるだろう。
 人生なんてそんなものだ。
 ──ああ。
 恋した女性の時とは話が全然違う。
 ──ああ。
 だから、良いじゃないか。煮え切らない感情に諦めひとつ呉れてやれば、好意の手はきっと躊躇いなく伸びて来る。
 ──……ああ。
 
 覗き込んだ虚無の孔の向こうには、幾度も棄て損ねた心を持て余し苦しげに俯く、黒髪の男の横顔が見えた。
 棄てようと言う度に、無造作に寄越される気安い存在からの好意が未練を噛みしめる。酷く甘い猶予期間に溺れそうになる。
 
 「だから、棄てなきゃならねェんだ」
 
 そうなる前に。なって仕舞う前に。互いがまだ良い思い出として相手を憶えていられるその内に。
 感情ごとでも。棄てることが出来る様に。
 密かに咲いた花を摘む事も誰かが摘む事を望む事も出来ないのであれば、いっそ棄てて仕舞うのがいい。
 愛して呉れれば幸せになれたのだろうか。
 愛して呉れなくとも尊く想う事は出来た。
 どちらも選ばない事を、己は選んだ。そう在れと囁かれた呪いの言葉に身を委ねた。
 
 ──そう、叶った。
 
 *
 
 面会だと申し出れば、身寄りのない老人相手の面会と言う事もあってか、少し警戒する様な表情で素性を訊かれた。
 だが、銀時が自身を、「万事屋って言う生業で、ここに入院してるバーさんの依頼で──」と説明しようとした所で、ナースステーションに詰めていた看護師はその言葉に思い当たりでもあったのか、それなら大丈夫だと言って、警戒の態度を消して面会の許可をあっさりと出してくれた。
 「余り容態が良くないですから…。けれど、万事屋さん…と言ったかしら、貴方が面会に来て下さるのを、お婆さん、ずっと待ってらした様だから…」
 そう説明して病室の入り口を指で示されるのに、銀時は軽く頷いて応えた。軽口を叩く様な気も湧いて来ない。
 掃除の仕事をこなしている間、入院していた老婆の容態は少しずつ悪化していったらしい。入院していた部屋も、気軽な大部屋から一人部屋に移されていた。
 今までは他の入院患者たちと社交的に振る舞っていた様だが、病状の悪化でそれも叶わなくなって仕舞った。衰えた肉体が他の病に罹ったら命を縮めて仕舞う。理屈としては解るのだが、それが果たしてあの老婆の望んだ最期だったのだろうか。
 辿り着いた病室の扉を軽くノックして、開く。余り広くもない部屋にぽつりと一つだけ置かれた寝台に横たわった老婆は、来訪者である銀時の姿を認めるなり上体をのろのろと起こした。その手足は細くなり、頬も以前見た時よりもこけて窶れている。
 「万事屋さん…。『証』は見つかったかしら…?」
 そう口を開いた途端、老婆はその細い全身が壊れそうにこほこほと咳き込んだ。苦しそうなその背を銀時が擦ってやろうとすると、ふるふるとかぶりを振られた。「いいのよ」掠れた声が紡ぐ。
 仕草だけで促され、寝台の脇に置かれていた椅子に銀時は腰を下ろした。咳き込む余韻をまだ引きずりながらも、老婆は銀時からの応えを待つ様にじっとこちらを見る。
 「…なぁバーさん。どうしてあんたは、電話帳から無作為に選んだなんて言う、赤の他人に『それ』を見つけて貰おうとしたんだ?」
 少し考えてから銀時は正直にそこから切り込む事にした。
 飾り気のない病室の寂しい風景の中の孤独と、住み慣れた家の中の『孤独』。あの家屋を掃除し片付けながら銀時が触れて来たものは、『赤の他人』にはどうでも良いものでしかない筈だ。
 この依頼を請けたのが銀時ではなく、ただのリサイクル業者だったらどうだっただろうか。もうとっくに事務的に仕事を終えて、『証』として適当な家財を持ち込んで終わっていた可能性は高いだろう。
 誰かが己の望みを叶えてくれると、賭けた?──いや、恐らくは違う。そんな分の悪い賭けをするならば、出来るだけ勝率を高くしようと探す筈だ。『証』を見つけて呉れると信ずるに値する様な人を──万事屋を探し出そうとした筈だ。
 老婆は銀時の人となりを知って信用した訳ではない。だから、恐らく本当に誰でも良かったのだ。
 『証』なんてなんでも良かった。
 そんなものは望みでは無かった。
 「……あんたは一人でも幸せだったと、誰か他人にそう言って貰いたかっただけだったんじゃねェか?」
 辛辣だろう言葉は、虚脱感に包まれた銀時の口から滑る様に出て、痩せ細った老婆に刺さった。その刃の大きさは解らないが、きっと痛いものではないと確信はある。
 老婆は枯れ木の様な腕で己の胸を、苦しいのか擦り、そこでふっと微笑んだ。
 「そうねぇ…。その通りよ。ひとりきりの家の中で、何が自分に残されているのかって自問をするなんて、寿命が来るまでとても耐えられないと思ったの」
 こほ、と老婆はまた少し咳き込んだ。然しその表情には苦しげなものや居た堪れない気配はなく、寧ろどこかすっきりした様な穏やかさがあって、銀時は膝上の拳をぐっと握り締めた。
 「面倒な事を頼んじゃって、ごめんなさいね。ひとりきりである事を実感した儘で逝くのはやっぱり、解っていても、怖かったのでしょうね…。『証』を何か探して呉れれば、赤の他人の誰かが私のひとりきりで過ごしたあの家を知って呉れて、何か……、そう、孤独に自分が生きていた事が間違いで無かったと思える、気休めの様なものが、欲しかったのね、きっと」
 窶れた頬が穏やかに微笑む。満足そうに微笑む。老婆は銀時がいつか想像した通りに、『なんでも良かった』その結論に満足して、それで、足りて仕舞おうとしている。
 銀時は唇を噛んだ。果たしてこれも、この苛立ちも、一つの自己満足かと思う。余計なお世話か、ただの迷惑か。
 だが、銀時は見つけて仕舞ったのだ。あの家に老婆がひとりきりで暮らす事になる以前の光景に繋がる、ほんの僅かの痕跡を。
 ひとりではなかった時間があったのだと言う、事実を。
 がた、と椅子を蹴って銀時は立ち上がった。老婆の、人生の最期を微笑んで受け入れようとしている表情が目に焼き付く。
 
 *
 
 診療時間は午後に予約を取っていたのだが、昼過ぎに小さな捕り物があった所為で、予定より大分遅れて仕舞った。
 いっその事キャンセルして行かないと言う選択肢もあったのだが、地味な部下に口煩くも、「利き腕じゃないと言っても、刀を扱う大事な腕ですからね、今後何か支障が出たら困るのは副長の方ですよ?」と棘を刺す様に言われた事を思い出し、土方は余り気の進まない儘に私服に着替えて病院を訪れていた。
 予約時間を一時間単位で過ぎてはいて、もう診療時間も終わりと言った所だったのだが、警察と言う土方の職ゆえにか医者は文句も言わずに、さして待たせる事もなく怪我の程度を診てくれた。
 先日初診に罹った時に、「最初の手当がよく出来ていたので、後に差し障りのある事にはならないでしょう」と言っていた通り、抗生物質を塗布して包帯を巻き直すだけの処置だった。
 「念のために今日も解熱鎮痛剤を処方しておきますね」
 と言われ、処置室を出た土方はロビーで、会計の手続きと処方箋待ちになった。
 夕方から夜に近い時刻だ。病院には疎らにしか人は残っておらず、まだ仕事をしているのは一部の科だけの様だった。する事もなく、ソファに腰を下ろした土方は点けられっぱなしのテレビの流す国営放送をぼんやりと何の感想もなく眺めていた。
 やがて呼ばれて会計を終え、処方箋は山崎にでも任せるかと折り畳んで財布に放り込んで、土方は病院の裏口へ向かった。こちらの方が正面玄関よりも屯所の方面にあって帰りが少し楽になるのだ。
 と、そこでふと足を止める。何やら前方が騒がしい。思わず片手が刀に伸びる。
 「……?」
 その視線の先で、見覚えのある銀髪頭が何やら荷物を背負って通路を横切っていった。それを、看護師らしい女性が静止する様に叫びながら追いかけている。
 興味が何かあった訳ではない。ただ己は警察で、銀髪頭の消えた先も己の向かう裏口の方だった。
 事務的な思考に流される様にして、土方は駆けた。
 「待って下さい!何をしているんですか!ちょっとお願い、誰か!止めて!」
 看護師が叫ぶ横をすり抜け土方は走る。時間が時間で人手がいないのか、看護師はおろおろとした様子でいた。
 あの銀髪頭──坂田銀時の人間性については一定の信頼が土方の中にはある。だから、きっと何か理由あっての事なのだろうとは思ったが、そこに頓着するつもりはなかった。情けや疑問は湧けどもどうでもよかった。
 「オイ」
 銀髪頭の背中にあと少しで追いつく所で立ち止まり、押し殺した声を掛けると、銀時は驚いた様に振り向いた。そこで土方は、銀時がその背に一人の老婆を背負っている事に気付く。
 「アレ、おめーなんで……、あ、そうか、腕の怪我…」
 土方の姿を認めた銀時は一瞬ぽかんとしてそう一人納得する様にぶつぶつと呟いた。その間に土方は考える。泡を食った様な看護師に、背負った入院患者らしき老婆。土方の個人的な評価でも客観的な感想でも、坂田銀時の人間性を疑う要素は本来無いのだが、状況からして真っ当な事態ではないと判断した。そっと身構える。
 然しその手が刀に乗るより先に、銀時は土方の腕を掴むと促す様に一度、引いた。避ける間も払う間も無い、一瞬の事だった。
 「丁度いいからおめーも来い!」
 そう言うなりぱっと手を離し、銀時は老婆を背負い直して一気に裏口を駆け出ていく。
 「……」
 土方は、手放された手と、去っていく銀時の背中とを見比べ、らしくもない様な困惑に眉間に皺を寄せた。そこに看護師が追いついて来た。彼女は土方の腰の得物を見るなり、縋る様な視線を向けて来る。
 「け、警察の方、ですよね?あの、今の男の人が、面会で来たって言うんですけど、その患者さんを連れて行って、!」
 悲鳴の様なその声にはっと我に返った土方は、「ああ」と軽く頷いた。裏口に詰めている警備員が一連の騒ぎに、今更気づいた様に顔を覗かせるのに、説明も面倒だったので警察手帳を取り出した。
 「彼奴は警察で追う」
 言うなり、背を追って来る狼狽した声たちを無視して、土方は夕闇の暗い街へと走り出た。老婆を背負っていて全力疾走は流石にしていないからか、程なくして銀髪の背中が見える。
 「……」
 丁度いいから来い。などと、訳の解らない事を口にして、走り出した男。
 その目的も背を押す感情も何一つ理解は出来ない儘だったが、あの男が何か悪事を起こそうとしているとは今ひとつ思えないのも事実であった。
 果たしてその確信や信頼が何に由来しているのか、物事の記憶と言う意味では幾らでも浮かんで来るのだが、彼らの行動や言動を総評してそうと下した筈の、己の感情がどこに在って、何を思っていたのか──或いは、いるのか。
 その正体を掴み損ねた不快感の様なものを胸中で転がしながら、土方は銀時の後を追って走った。







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