あまいはな / 10



 からからと、空回り。
 ころころと、空っぽの言葉。
 あの時土方は何を堪えて俯いていたのだろうか。
 抱え込んで積もった澱を凝らせた儘のその横顔に、何と言葉を掛ければよかったのか。
 能天気さでも、いつもの図々しさでも、茶化す様な物言いでも、酔った振りを積み重ねた軽薄な態度でも、無かった事だけは確かだ。
 それでも彼は黙って、堪えていた。
 飲み込み損ねた感情や感傷をどこにも吐き出す事の赦されない儘に、言い訳を続けて近づきはしない銀時を、見返しもせずに。拒絶もせずに。
 …或いは、期待もせずに。
 思い詰めるだけ詰めて、そして。
 何か言って呉れと乞わないのであれば、いっそ、突き放してくれればよかったのに。
 
 ──それもまた、臆病になった心の吐き捨てた、言い訳。
 
 *
 
 (そう言や…、あの時の酒、結局アイツは飲みもしなかったな…)
 溜め込んでいた鬱屈は、件のキャバクラと迷惑上官の仕業に於ける、VIP様警護に纏わるものが(少なくともあの場では)殆どだったとは思うのだが、飲んで、気を紛らわそうともしていなかった。
 仮にも職務中だから、と考えたのかも知れない。だが、今思い出してみると、飲む事すら、干す事すら、苦痛であった様に思えてならない。
 いつもの様に忌憚なく図々しく振る舞う方が良いと勝手に思って、そうした事が何の優しさでも無かったのだとしたら、他に何がしてやれたのだろうか。
 物思いに揺れた思考の儘、こと、と音を立てて行李の蓋をそっと持ち上げる。
 家屋の片付けと言う依頼の半分は、先日神楽に心配だか不審だかを向けられたりもしたが、もう殆ど終わろうとしていた。様々な家財や掃除の道具の置いてあった部屋の中には処分用の段ボール箱が幾つか積まれており、処分の選別をしたものの詰まったその箱の大半はガムテープと梱包紐でしっかりと封をされている。
 その中身の殆どは衣類と食器の類だ。値の付きそうなものに関しては既に持ち帰ってあり、ここに遺されているのは何れも、処分するしかないと判断したものばかりだった。
 最後に検めていた押入れの中に積まれていた行李を開いて選別するのが今日の作業だった。中身は行李の見た目に違えず衣類が殆どで、後は少々の小物が収まっているだけだ。
 気づけば他所へ行きそうになる思考を振り切ろうとかぶりを振って、そうして幾つ目かの行李の蓋を開いた銀時は、そこに入っていた紙包みを持ち上げた。軽いし手触りからしてやはりこれも衣類の様だ。
 これも処分用の衣類の段ボールに詰めなければ。そう思って畳の上に包みを置いた時、かた、と音が鳴った。包みは紙紐でぐるりと括られていて中身はよく解らないが、そこから聞こえて来たのは、大凡衣類だけでは立たない様な音であった。
 「……」
 こんな時ばかり、街の雑音は酷く遠い。聞かなかった事にするには理由が足りない。
 銀時は少しの間考えてから、包みを括る紐に手をかけた。どうせ今まで見たものと変わらない衣類の一種だろうと、包みを持った感触や重さはそう伝えて来ていたが、ここまで来たら確認の手間が一つ増えるぐらいの事だ。
 紙紐は固く結ばれていたが、古いものだったのか強く引っ張ったらぶつりと千切れて仕舞った。
 紐の残骸を放って包みを開くと、中からは想像に違えぬ、衣類が出てきた。着物だ。色は黒。特に高級な布地では無いが、特有の重みをそこに保っている。
 (……喪服か)
 殆ど使用感の無い黒い着物。こんな風に畳んで奥に仕舞い込んでいると言う事は、葬式を行う様な縁者が居なかったのか、参列する必要のある知り合いが居なかったのか、それとも──、
 (…………手前ェが一番最後になった、か)
 遺された者の悲哀を理解してやれる程に銀時は老成してはいなかったが、次々に周りの顔見知りが消えていくと言う、心や記憶に孔の空く様な心地は知っている。
 喪服の上に手のひらを乗せると、どうやら折り畳まったその中に、音を立てた原因があるらしい。硬い感触がそこから返った。
 そっと着物を開くと、そこには葉書ぐらいの大きさの木枠が入っていた。持ち上げると、そこに嵌められたガラス板と木枠とがぶつかって、かた、と先頃聞いた音が鳴る。写真立てだ。
 取り上げたそれに中身は入っていない。こんな風に仕舞われながら、誰の姿も思い出も収めていない写真立て。
 眉を潜めつつ銀時は写真立てを裏にひっくり返す。スタンドになる部分を少しずらすと、そこには古びて色褪せたラベルシールが貼ってあった。
 マーカーか何かで書かれたのだろう、ラベルには一言だけ『妻と』と書かれていた。
 だが、そう示された写真立ては空っぽの木枠だけをこちらに見せている。
 着物を再びめくってみるが、中に本来収められていたのだろう写真はどこにも見当たらなかった。
 そう言えば仏壇どころかアルバムの類もこの家には何一つ見当たらなかったと気付いた銀時は、空っぽの写真立てを、喪を表す着物の前へそっと立て置いた。
 一日の終わりを告げようとする残照が斜めに差し込む室内で、銀時ははじめて。己が疲れていると感じた。
 掃除の疲労ではない。
 心の何処かが鈍く訴えて来る、遣る瀬のない惑いと理解だ。
 写真立てのラベルの言葉。──『妻と』。
 恐らく老婆が、己の伴侶となった夫の生きていた頃に一緒に撮影した写真か何かが入っていたのだろう。
 だが、この家を片付け初めてから向こう、この家の中には、一人暮らしの老婆を伺わせるもの以外は何一つとして存在していなかった。食器は一組のものばかりだったし、衣服も、何を取っても、ひとりだけの生活の有様しか見出せなかった。
 つまりそれは、夫の死後、老婆はその痕跡となるものを全て処分し、『ひとり』でここで暮らしていたと言う事にほかならない。きっとそれはこの喪服が包まれ仕舞われていたのと同じだけの長い時間だ。
 使用感のない喪服。
 痕跡の全く遺されていない亡き夫の存在。
 そして老婆は最期に、この『ひとりきり』の家で逝くのを拒んだ。
 もしも、老婆が夫を嫌悪し痕跡を消したのならば、こんな、夫を送ったのだろう喪服や、中身のない空っぽの写真立てが残っている筈はない。
 ここで『ひとりきり』で逝くも厭うまい。
 憎悪しか無ければ何も遺らない。愛すればこそ、苦しんだのだ。
 だから──恐らくそれは、辛かったからだ。
 どれだけ物品を処分すれども思い出は消えない。心は消せない。
 遺されたものの中で、ひとりきりである事を、幾ら写真や思い出の品を処分しても記憶の中でずっと鮮やかな幸福の肖像から突きつけられ、そうして旅立つのが悲しかったからだ。
 「……そりゃ、辛ぇ事だったろうよ。…でもよ、それで旦那の思い出とか全部処分しちまって、それで何か救われんのか…?」
 空っぽの写真立てに向けて、銀時は低く呟いた。
 別れや死は辛くてしんどいものだ。心が波打って勝手に己の裡のあらゆる情動を揺さぶる。記憶、感情、思い出、心残り、遣る瀬なく届かない想いたち。
 それを咀嚼し飲み干して抱え持って、揺れる儘に形をなさない言葉や感情を持て余しながら、それに慣れる時を、一抹の寂しさを想いながら待つ。
 人にはそれぐらいしか出来ない。感情と言うものと共存する人間には、それに堪える強さが与えられずとも、堪えて過ごさなければならない。
 だからきっと老婆は、亡夫の思い出を消そうとした。少しでも堪える為に。
 「それで、旦那に抱えてた思いまで消しちまって、それでひとりで…──、」
 心のつながりを、求めても叶わないのであればいっそ。
 老婆の思ったのだろうそんな想いを、ずくりとした胸の疼きの儘に巡らせかけて、そこで銀時はふと思った。
 忘れたいのは、分かれだけとは限らない。普通に生きる為に、辛い想いから目を背ける事だってある。
 沖田の言った様に、土方が自ら感情を捨てる様な真似を、無意識にでもして仕舞ったのだと言うのなら、それは一体何を理由として、何を目的としてそうなったのか。
 誰かに情けをかけない為?
 組織を恐怖で支配する為?
 ──否。何れも彼には必要のない筈の事だ。
 (……そうか…)
 老婆の想いときっとそれはよく似ていたのだと、銀時は確信に似てそう理解していた。
 苦悩は抱えるにも苦しむ想いの深さだった。拒絶も選べないのに抱え続ける程に苦しんだのは、飲み込む事が出来なかったのは、吐き出す事も出来なかったのは──、
 「…………俺は、」
 恐らく、銀時はそれを知っている。己の裡にも飼っている、その想いを。
 見えると、意識をすると、実感として得ていると、つらくなる。進むか棄てるかを考えるのも億劫で、勝手に、一方的にそう認識して、諦めて、見ないふりをしながら抱えて来た。
 ただ、そこで咲いた花を摘む勇気はなく。臆病さを言い訳にしてだらだらと、感情の伴わない言葉を投げて誤魔化し続けて来た。
 だからきっと、心を占めていた想いの大きさだけ、虚無に摩り替わって仕舞ったのだ。







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