あまいはな / 9



 「銀ちゃん、本当に仕事してるアルか?」
 ぽり、と沢庵が歯の間で砕ける音と共にそんな言葉が飛んで来て、銀時は驚いた猫の様に背を揺らした。
 朝である。何の変哲もない朝食の時間だ。白米に豆腐とわかめの味噌汁に目玉焼き。そして沢庵数枚と言う慎ましい食事だった。朝食当番の日だったから、銀時がいつもより早く起きて作ったものだ。
 ……否。眠りが浅くて夜明け前には目がしっかりと冴えて仕舞っていたと言う方が正しい。
 やる事がないと碌な事を考えない。だから銀時は眠くもない目を擦りつつ早めに台所に立って炊飯器のスイッチを入れて鍋で湯を沸かした。冷蔵庫を覗けば豆腐はあったが長ネギが無い。仕方なく乾物のストッカーから乾燥わかめを出して水戻ししておく。
 手間のかかる厚焼き玉子でも作ろうかと思ったが、気付いたら普通のフライパンに油を引いて仕舞っていたから、俄然面倒になって仕舞ってその儘卵を三つ割る事にした。
 吹きこぼれそうになった鍋の火を弱めて出汁の素を一振りして、何をしようとしていたのかと暫し考えてから、冷蔵庫から出しておいた豆腐に気付いた。
 集中力に欠けていると言うより、意識が目の前の事にまとまらないと言った感であった。銀時は何度かかぶりを振って、豆腐を手のひらの上で切って鍋へ落とした。それから味噌を探そうと冷蔵庫を開いて長ネギがない事に溜息をつく。二度目だと気付いてもう一度溜息を追加。
 フライパンから焦げ臭い臭いが漂っている事に気づいて慌てて蓋をするが、目玉焼きの下は既にこんがりどころか黒く焼けて仕舞っていた。
 味噌を溶いて鍋の火を止めてから、流しにボウルに入って膨らんだわかめの姿を見つけた時には頭を抱えた。流れ作業の様な調理だったと言うのに、ずっと手順がめちゃくちゃだ。
 水を切ったわかめを味噌汁に放り込んでもう一度煮立たせる。半分焦げて潰れた目玉焼きをなんとかフライパンから引っ剥がして皿に移す。
 そんな手順違いを経ている内に、時刻はすっかりといつもの朝になっていた。出勤して来た新八が貰い物の沢庵を置いていったので、半ばヤケクソの様な心地で切って小皿に添える。
 新八は銀時の珍しい朝食の失敗を、少し眉を上げて見せただけで追求はしなかった。神楽も何も言わずに座って、三人で手を合わせていただきますを唱和して──、そうして突然の言葉である。
 思わず躱し損ねて跳ねた背を誤魔化す様に肩を揺らして銀時は、
 「何言ってくれちゃってんの。おめーらがお掃除出来ねェ分、銀さん毎日身を粉にして働いてるだろーが」
 そう早口で言って沢庵を噛んだ。
 件の遺品整理めいた掃除。廃棄物の山から何か一品を見つけなければならないのに、神楽は何でもかんでも適当に扱う所があるし、新八は貧乏性で断捨離が出来ないタイプだ。だから結果的に、銀時が掃除と片付けをしつつ、これはと言うものを持ち帰って皆で吟味すると言う形式になっていたのだが、ここの所は何も持ち帰る『戦利品』の無い日が続いている。それをして神楽が、本当に仕事をしているのか、と問うのも頷ける話ではあるのだが。
 「卵焦がすのと同じで、掃除もちゃんと出来てなさそうアルよ」
 「卵とは関係ねぇだろーが!これは偶々、ちょっと本格中華みたいなね?火力でね?焼こうとしただけなんですゥ」
 焦げた目玉焼きを齧りながらじっとりした目を向けられ、銀時は自分ながら全く冴えのないと思える言い訳を適当に投げた。
 「まぁまぁ神楽ちゃん…、銀さんだって失敗する事ぐらいあるよ」
 「昨日も帰り遅かったアルね。一杯やってる訳でもないし疲れてそうでもなかったアル。これはもうサボってるに違いないネ」
 新八がとりなすが、神楽はなおも噛み付いて来た。白米で頬をリスの様に膨らませながら行儀悪くぶつぶつと言い募る。
 そんな神楽の様子から、適当にからかう調子ではないなと判断した銀時は、味噌汁の椀を持った儘嘆息した。仕事が遅いと言って憤るなど神楽にしては珍しい。何か理由があるのだろう。
 「サボってもいねーし酒も飲んでねェって。昨日は偶々、真選組の連中の捕り物に帰り道で遭遇しちまって、ちょっとごたごたしただけだっての」
 色々と端折ったが、面倒事があったと言う趣旨は伝わったらしい。新八がぱちくりと眼鏡の向こうの目を瞬かせる。
 「夜の捕り物なんて物騒なやつじゃないですか…。大丈夫だったんですか?」
 「ああ。別に巻き添え食ったとかそー言うんじゃねェよ」
 怪我もねぇし、と箸をくるんと回してみせれば、新八は納得した様だったが、神楽は相変わらずのジト目に眉を寄せつつ、唇を尖らせている。昨日の言い分については新八同様の感想だったのだろうか、銀時の回した箸の先をちらと見て、それから沢庵をもう一枚齧った。
 「……バーちゃん、時間無いんダロ。きっと今もずっと、捜し物を銀ちゃんが見つけてくれるのを待ってるアル」
 ぽり、と控えめな音と共に神楽は珍しくも消沈した様子でそう呟いた。
 「……だから、毎日掃除しながら探してんだろーが。あるかどうかも解らねェけど、探してんだろーが」
 探す対象の解らない探しものなんて、雲どころか空を掴む様なものだ。その癖、責任感だけは妙に重く圧し掛かっている。当然だ。それが人の一生の最期となるものだと言うのだから。
 正直を言えば、あの老婆なら適当なものを持っていってもそれで納得してくれるのだと思う。それで翌朝満足げに微笑んで召されたとしても、それで悔いは無いのだろうとも。
 銀時は己を誠実な質だとは思っていないが、弁えぐらいはある。そうでなければとっくにこの依頼は片付いていただろう。
 神楽は、銀時がそれを見つけるより先に老婆が保たないのではないかと、そう思ったのだろう。そうなる前に、何か結果を、形を、出してやった方が優しさでは確かにあるのかも知れない。
 ──だが。
 解らない。そのモラトリアムが銀時の胸の奥を僅かに痛ませる。不快感を誤魔化そうと噛んだ目玉焼きは焦げて固く、黄身はぱさぱさと乾いた口内に落ちるばかりだった。
 「心配すんなって。サボるつもりなんてねェからこそ、皆してこんだけ頭悩ましてんだろ。バーさんもおちおちくたばってらんねぇよ。逆に、待つもんがあると人間ってのは張り合いが出来るもんだよ」
 「………そうアルか。でも、出来るだけ早くしてあげるアル」
 納得したのか、銀時を責めても詮のない事だと気付いたのか、神楽は小さく頷くと箸の動きを再開させた。
 「任せとけって」
 気楽な調子で言って啜った味噌汁の、わかめが舌に、喉に貼り付いた。
 
 *
 
 わからない、と小さく反芻して、力なく溜息がこぼれた。
 老婆の依頼もわからない。感情を失くした心もわからない。終わりにしていいのかもわからない。
 責任を感じていると言うよりは、責任を持ちたいのだろうとは思う。そうと決めた以上は、気づいて仕舞った以上は、もう知らない振りなど出来ないものだ。
 途中で降りた原付きを押しながら歩いて、昨晩の捕り物の現場に差し掛かる。依頼人の家まであと少しの所。凄惨な捕り物の現場となった建物は露骨に黄色いテープで規制線が敷かれ、見張りらしい真選組隊士たちが数人佇んでいるほか、現場検証やら何やら作業があるのだろう、敷地内を慌ただしく黒い服が行ったり来たりしている。
 「おや、旦那」
 その儘現場を横目に通り過ぎようとした時、まるで狙いすましたかの様にそう声を掛けられた。聞き覚えもシチュエーションにも憶えがありすぎる。思わず口端を下げつつ銀時が振り向けば、丁度沖田が規制線のテープを持ち上げながら出て来るのに出会う。
 「おめー毎度毎度タイミング測った様に登場するよね。ひょっとして待ってた?待たれてたの?俺」
 「そいつァとんでもねぇ自意識過剰ですぜィ。恥ずかしくなんねーんですか」
 「生憎な、素知らぬ振りして偶然装って話しかけて来る方が余程恥ずかしいと思う程度の分別はあんの」
 気付いたら足をすっかりと止めて仕舞っている。地面に落ちる己の足元の影を見下ろして、これもヤツの術中の様だと唸るが、沖田の方は全く気にする素振りも見せず、
 「偶然に決まってんでしょうが。旦那と違って暇じゃねーんで」
 なんて悪態を投げて来るが、その口元が僅かに孤を描いている事を銀時は見逃さなかった。
 指摘はしなかった。する前に、もう一人声が加わったからだ。
 「沖田隊長、こちらの…、──って、万事屋の旦那じゃないですか」
 規制線の向こうから、こちらの姿を目にするなり、もう一人こと地味な面立ちの監察山崎は、手にしていた書類を抱え直しつつそそくさと近付いて来た。ちら、と辺りを憚る様にしながら「昨晩はどうも」と声を潜めて言う。
 「…ちゃんと病院行かせたよな?」
 山崎程ではないが音量はさすがに下げて問うと、彼はこくこくと頷いた。苦笑いに近いその表情からして、怪我人を病院に行かせるのに相当な紆余曲折があったらしいと言うのは何となく察せた。
 流れで応急処置をする事になったとは言え、素人のしごとである事に代わりないのだ。ちゃんと病院には行けよと銀時は土方に何度も念を押したし、迎えに来た山崎にも口を酸っぱくして言っておいたのだ。
 「あぁ、土方さんが世話になったの、やっぱり旦那だったんですかィ。大方そんな所じゃねーかと思ってやしたが」
 こちらは余り声量を控える様子もなく、沖田。山崎は思わず首を竦めるが、見張りに従事していても近くで聞き耳を立てている様な隊士はいない。沖田もそれを解った上で口にしているのだろうが。
 「つーかおめーな、元はと言やおめーの仕業だろうが。呪いだとかなんとか言っても、ありゃ質が悪ィなんてもんじゃねぇだろうが…」
 土方が怪我をした経緯はともかく、隊士たちの目を憚って現場を離れたのは紛れもなく、沖田曰くの『呪い』ゆえにだ。
 彼の前にへたり込んだ隊士が恐怖の表情を浮かべていたから。敬遠される気配をその背に感じたから。だから土方は、それなりの深手を負っていても誰にも近付かなかったのだから。
 土方はそれをして、どんな感情を向けられようが何も感じないのだと、銀時にそうこぼした。
 「…そうは言いやしてもねェ」
 暗に責める調子で言われた事には気付いたのだろうが、沖田はけろっとしたフラットないつもの態度の儘、困っているのは自分だとばかりに肩を竦めてみせる。
 「こりゃ効き過ぎたかなって思ったんで、呪いなんざとっくにやめてまさァ。呪いなんてなァ、かけ続ける念がなきゃ継続しねーんですよ。よく言うでしょうが、雨乞いは雨が降るまで続けるだけだから成功率100%なんだって」
 その沖田の言い種に、銀時は思わず山崎と顔を見合わせた。譬えは今ひとつだったが、言わんとする事は解らないでもない。
 沖田が日々、土方に死ね死ねと悪態をついて呪いをかけているのは、何のことはない、それが効いてはいないからだ。効いたらそれ以上を続ける意味はない。それは詰まる所、成就まで唱え続ける行為そのものが呪いだからとも言える。
 「俺ァ最初っから、時間が経てば解る──消えるって言ってたでしょうが。それでも続いてるってェなら、それは何か別の原因があるか、土方さん自身に本当に問題があるかしかねェってだけでさァ」
 あっさりとした沖田の調子に、ぎょっと目を見開いたのは山崎だった。彼は「それって、」と一瞬驚きの儘に大きな声を出して仕舞ってから慌てて口元を押さえ、きょろ、と辺りに視線だけをやってから、手にしていた薄いファイルを口に当てて声を潜める。
 「ちょ、ちょっと待ってください沖田隊長…、じゃあ、副長がああなって仕舞ったのは、副長自身が…、その、自分でそう振る舞っている、って事になるのでは…、」
 困惑顔の山崎に、沖田は肩を竦めつつ溜息をひとつ。
 「だから、俺ァ端からそう言って来たつもりだけどねィ…。強すぎる呪なんて、大体が思い込みの産物さァ。人間の心が一番怖ェってのは巷間言われる通りだぜィ」
 「…おめーそれ、今の本誌で言ったら怒られるやつだからね?」
 小声で突っ込みつつ、銀時も困惑顔で息をひとつ吐いた。「…で」と仕切り直す。
 「おめーは呪いってやつをかけた。具体的に言うと、そう言う呪いをかけたぞと土方に言う事で、その効果が出る様に仕向けたと」
 恐らくそれは日頃土方に対するありとあらゆるイヤガラセを行う沖田にとっては日常の様だったものだったに違いない。呪いをかけてるぞとポーズを取る事で、土方の背筋が少しでも冷えたり、気にしてびくびくしたり、とにかく何かしらの『成果』が得られればよかったのだろう。
 銀時のそんな想像と概ね違えない結論に至ったのか、山崎が額を揉む。ここまでの経緯を思えば頭痛ぐらい起きても無理はない。
 「そうしたらどう言う訳か本当に土方は、えーとおめー曰くの、無感情の不感症だったか?そう言う状態になっちまったと?」
 「まあ、呪いが本当に効いたってェ言い方は出来ると思うんで、そこについての過失は認めますがねィ、ここまで続くとなると、心当たりの無い俺からすりゃァ良い迷惑でさァ」
 ええ…、と言いたげな表情で、引き攣った山崎が絶句するのが解ったが、それについての抗議や感情は何とか堪えたらしい彼は、少し考えながらも実用的な問いを口にした。
 「……仮に、そうだとしても、ですよ。そんな風に演じるなんて事、あの副長に出来ると思いますか?それに何より、そんな事をしても何の意味も無いじゃないですか…。実際それで隊内でも弊害が出ているんですよ?!」
 銀時は先日見た、隊士の怯える様な表情を思い出した。土方はそれを『知っている』と言っていた。沖田の言う様に土方の無感情ぷりが『演じ』ているものであるとしたら、真選組内で起きるトラブルや規律の乱れを殊更重視している彼が、それを敢えて『演じ』続けるとはとても思えない話だ。
 何より、山崎に言う通りに、土方十四郎と言う男は、我を曲げる様な演技を何日も続けられる様な性質ではない。その点は銀時も全くの同意である。
 言い募る山崎と、それに口を挟む気のない銀時とを見て、沖田が寄越したのは相変わらずのフラットな表情だった。罪悪感や責任感を感じる気配はまるで無く、それだけに、彼には本当にこの現状を望んでいた事実が欠片もないのだと知れる。
 「さぁねェ…。俺も土方さんが全部確信してやってる演技だとは思っちゃいねェよ。ま、無意識の内に逃げ道が出来たと思っちまったんじゃねーですかィ?」
 前半は山崎を見て、後半は銀時の顔を見上げて。沖田はそう言うと頭の後ろで両手を組んだ。欠伸を噛み殺す仕草をしながら、現場に戻ろうと歩き出す。
 「……」
 山崎は物言いたげな表情で沖田と銀時とを見たが、何をどう問うべきかを探しかねる様に俯いた。喚き散らすのを堪えた態度だけでも殊勝なものだったと言えよう。
 すっかりとこちらに背を向けて仕舞った沖田が規制線のテープを持ち上げる。その背に銀時は声を向ける。
 「何の」
 規制線のほど近くには見張りの隊士が立っている。沖田が何かを答えれば容易に聞こえる様な距離だ。言葉にして初めて銀時は、沖田がそこに向かうまで問いを放つ事の出来なかった己に気付かされた気がした。
 黄色いテープを持ち上げ、その下を潜りかけた所で、一旦足を止めた沖田が僅かだけ振り向く。
 「……言い訳でさァ」
 短く、焦点だけを絞った言葉であったが、銀時にはこう聞こえた気がしていた。
 心が何も感じないで済むと言う、言い訳であると。







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