深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 1



 窓の外からは粘つく様な飴色の夕陽が光を斜めに投げかけて来ていた。灼熱の炉の中で熔ける金の様などろりとした、鈍く眩しいその色彩に坂田は幾度と無く、己の足がそこに取られ転げる様な錯覚を憶える。
 実際は、ただ廊下が走れる程に長すぎて、行く手にあるものを片っ端から押し退ける様にして前へ前へと坂田を突き動かす足が今にも縺れそうだと言うだけの事だ。駈ける人間の足を取って廊下に無様に転がすのは形無き夕陽などではなく、医者や看護士や患者、或いは夕食や医療器具を運ぶワゴンと言った物品の方だ。
 「廊下は走らないで下さい!」
 何度目か、受ける強い警告の声を背中で振り切った時、坂田は漸く廊下の突き当たりにある病棟へ通じる扉へと辿り着いていた。急激に動作を停止させた足が、全身が酷い血流に晒され、脳は酸素を求めてはぁはぁと忙しない呼吸を繰り返す。
 カーテンに遮られぬ夕暮れの空からは、相変わらずの眩しい夕陽が差し込んで来ていた。己の足下から歪んで伸びる濃い影と、目を灼いて脳を掻き乱す眩しい光とのコントラストにぐらりと眩暈を覚える。
 「坂田副長」
 扉の前で待っていた山崎の呼ぶ声に、思い出した様に身に纏った黒い隊服の重さが現実に戻って来た気がして、坂田は一度目を硬く瞑った。金色の残照を遮断した真っ暗な世界の中で、未だ荒い呼気を深呼吸の数回で無理矢理に止めると、肋骨の裏側で激しく鼓動を打ち続けている心の臓を宥めて目をそっと開く。
 「……あぁ」
 出来るだけ平淡な声は出せただろうか。こちらを思わし気な目で見て寄越す山崎の地味な顔に向けて肩を聳やかしてみせると、彼は納得でも示す様に小さく頷きを返した。それからまるで番人か何かの様に自らの背に負っていた、病棟への扉をそっと示す。
 「………」
 入って良い、と言う事だろう。その許可に坂田は今一度深く息を吸って吐くと、扉をそっと押し開いた。一般の病棟とは渡り廊下を挟み隔てられたそこは特別病棟と呼ばれる区域に当たる。普段その扉は開放されていないのか、関係者以外の立ち入りを禁ずる、と言う看板が戸に大きく掲示されていた。
 病院の役割は一つだ。傷病者を治療し療養する施設。その性質は大なり小なりどこの病院でも変わる事はない。
 ただ、病院を選ぶ側には求めるべき目的と必要性とがあって、その病棟はそう言った用途に主に用いられていると、坂田は以前に聞き及んだ事があった。
 病床数は病棟と言う名とは裏腹に酷く少ない。その分全てが個室。ICUでさえここには一般病棟側にあるものとは別の部屋が用意されていると言う。
 利用者は主にVIP。幕府や政財界の大物や重鎮のみが利用するその病棟では、尽くされる医療、サービスも金払いの次第で上限は無い。どれだけ大金を積んででも、他人の命を踏みにじってでも、自らが生きる事を望む者は多いのだ。そしてそれら重鎮を保護する為、セキュリティについてもそこいらの施設を大きく凌いだ設備が備えられている。
 重たげな扉を潜った先に、まず真っ先に目に付いたのは天井付近に取り付けられた監視カメラだった。それから、病棟の廊下の端に佇みこちらをじっと観察でもする様に見つめる警備員の姿。先頃まで金色に融けた夕陽を差し込ませていた様な窓の類はそこから先には一切無く、細く長い廊下は白色の清潔そうな電灯の光と、同じく清潔そうな白色を保った壁とで覆われていた。
 ベージュ色のリノリウムの廊下に刻まれた汚れや傷の数々を無遠慮に照らし出しながら、その白色は病棟の硬い気配を隠さず全方位から突きつけて来ている。そんな殺風景な廊下の所々に置かれた観葉植物の鉢植えたちも、無理に背筋を伸ばしている様に見えた。
 病院と言う馴染みの深い名称とは裏腹に、そこは坂田には見慣れないし来慣れる様な場所ではない。来る事になろうとは、つい一時間ばかり前までは思いもしなかった。我知らず肩を竦めた坂田の後ろから山崎も入って来て、「こちらです」そう促して歩き出す。
 坂田はその背を追いながら、今し方見たばかりのその地味な面相を思い描いてみる。基本茫洋とした面構えの上に造作がひたすら地味な男の表情は、時々酷く解り辛い。幾ら思い起こして見た所で、その表情から怪我人の程度を探るのは難しそうだと言わざるを得なかった。
 廊下の少し先には医局の様な部屋があり、それに併設されたICUが見えていた。その角を曲がると、廊下には少し高級そうな革張りの長椅子が置かれており、そこには長めの前髪に目元を隠させる様にして俯いて座す男の姿があった。
 「土方」
 山崎が何かを言うよりも先に、坂田の口からは思わず言葉が出ていた。ただ名を呼ぶだけの一言に、押し出される様な呼吸と共に出たそれに、安否を伺う様な意図は恐らく無い筈なのだが、土方はまるで応える様にしてほんの僅かだけ首を擡げた。その動作で揺れた前髪の隙間に、白い包帯が厭にはっきりと晒され見えた気がした。
 焦げ臭さと埃っぽさと血腥さの漂う赤黒い隊服の上着を背に羽織り、右腕は真新しい白い包帯で吊られている。額にも同じ真っ白な包帯があって、そちらは血が僅か滲んで変色していた。頬にも大きなガーゼが当てられていたが、それでも隠せない目元と口元には殴られたか打たれたかしたのか、青紫の鬱血が浮き出ているのが見える。
 一目で解る様な、見て取れる負傷はその程度だ。だが、土方の表情は死人か何かの様に青白く精彩を失い果ててただただ沈んでいる。常には鋭さを湛えている眼差しは淀んだ色をして、迷子になった子供の様に頼りなく揺れていた。
 「…、」
 今までに憶えの無い様な土方のそんな姿に掛ける言葉を失って、坂田は困惑の侭に立ち尽くした。何かを言うべきなのだろうか、それとも黙っているべきなのか。当たり障りなく気楽にしていれば良いのか、一緒になって落ち込み果てていれば良いのか。
 寄り添い手を伸べるには、ここに満ちた失意の隔たりの中ではきっと遠い。それを乗り越えるべきかを理性に委ねられる程には、坂田は落ち着いてはいた。
 坂田が掛ける言葉を探すのを已めた丁度その時、先頃通って来た病棟の入り口の扉が荒々しい音と共に開かれ、かつこつと鋭い足音が迫る軍靴の如くに辺りに響いた。決して避けられぬその接近を前に、土方の身は忽ちに強張り、唇を噛むと固く目を瞑る。
 土方のそんな態度で、坂田にはこの激しい足音の主の想像はついた。この状況下で土方が最も後ろめたく感じる様な人間は、坂田の知る限りたった一人しかいない。
 「これは一体どうした事でィ」
 廊下を曲がるなり、足音より先に飛んで来た声は酷く重たく冷えて、その癖荒れていた。触れたら切れる吹雪の様な声だと、そんな事を思いながら坂田が振り返れば、言葉を言い放った張本人である所の、沖田の、無に近い怒りの表情がそこには在った。
 彼らの築いて来た絆と柵とは、恐らく坂田の想像するよりも根深く固いものなのだろうとは思う。
 彼らは昔から年齢も性格も趣味嗜好も異なるただの三人で、彼らを一人と一人と一人にしない唯一絶対の繋がりは、その内の何にも代え難いたった一人の結びつけている鎖の成した絆だ。
 「……すまねぇ」
 俯いた土方の頭が更に深く下がった。頭を下げているのだ、と坂田は然程に驚きもせずその事実をただじっと見つめ、同じ鎖で結びつく彼の弟分の反応を待った。
 「そうじゃねェだろうが、どうした事だって訊いてんでィ」
 果たして、沖田の声は更に冷たく固く冷え切って放たれた。俯く土方の、細かな傷を負った左腕が苦しげに拳を握り固める。
 そこに見えたのは瞋恚だ。恐らくは、己への。起こって仕舞った事実は変え難いと知るからこその悔悟の──そしてそれを無意味と理解した、激しい怒りと自責。
 言い訳ひとつ放たれない事は罪の肯定でもあった。まるで罰でも待つ様な土方のその態度に、沖田の顔色は苛立ちと怒りとを孕んで歪んだ。
 「てめぇが付いていながら、どうして近藤さんがこんな怪我を負ったんだと、そう訊いてんだ!答えろ土方!
 ──答えやがれ副長!」
 戦場でも決して聞かぬ様な吼え声と共に、だん、と沖田の拳がICUの壁を強く殴った。坂田は反射的に、強い衝撃に微動する透明な硝子窓を見遣った。
 その向こうで、様々な機器に繋がれ目を閉ざした近藤は、志を共にした鎖で繋がる親友たちのそんな様子にも全く反応を見せる事は無かった。







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