深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 2



 近藤が賊の襲撃を受けて病院に担ぎ込まれた。
 見廻りの帰りに立ち寄った馴染みの茶店で、坂田が最初に聞いた報はそんなものだった。どう言う事だと問い返しても、電話の向こうの山崎の返答は「とにかく坂田副長おひとりで急いで来て下さい」の一点張り。
 山崎が──地味だが有能である監察の男が何の説明も寄越さず「一人で」と強調したのだから、警察車輌で乗り付けるのは宜しくないと言う事なのだろう。そう判断した坂田は自らの足で、普段利用などしないお高い病院へと急ぎ足を運んだのだった。
 その日の近藤のスケジュールは確か、どこぞの幕臣様に招かれた会食で、その供に土方がついていた。故に坂田は、近藤の襲撃と言う一報から土方が無事であるかの確信を得る事が出来なかった。
 土方は近藤に害が及ぶ様な事があれば、自らの身を盾にしてでもそれを防ぎ護るだろう。つまり、土方が五体満足であれば近藤が病院に担ぎ込まれる様な傷を負うとは考え難かったのだ。
 然し、もしも土方も負傷を負ったとしたら山崎がそれを坂田に報告しない理由は無いだろう。
 …とは言え、確信は無かった為に事実を確認するまでは、近藤と土方との負傷具合を想像するほかなく肝を冷やした坂田である。だが、土方が無事で近藤が傷を負って意識不明の重体──局長を護るべき副長がその任を果たせなかった、と言う危うい事実に変わりはない。
 近藤は坂田にとって、土方や沖田が思うのと近しいぐらいには恩義のある人間だ。普段は女の尻ばかり追い掛けているどうしようもないゴリラだが、それが全てでは無い事などよく知っているし、その身に何かあったとなれば当然心配はする。
 だがそれは矢張り、土方や沖田の思うそれとは全く異なるものだ。土方の消沈と沖田の怒り。感情として理解は出来るが、坂田にはどうしてもその隔たりが埋められる気はしない。まあ別段埋めようと思っている訳ではないのだが。
 故に、土方や沖田の思いとは別種の感情や動機で、己は己のやり方や考え方で近藤を護れば良いのだろうと坂田は己にそう課している。この真選組と言う場所に招かれた時から、ずっと。
 「──と言う訳で、取り敢えず局長の容態は持ち直しました。勿論重症って事に変わりはありませんが、命に別条は無いとの事です」
 ふと耳に戻った音声は地味な顔の発したものだった。風貌の割に声は余り地味では無いのだが、物思いの余りに危うく聞き流す所だった。最も重要な箇所を無意識とは言えきちんと捉えていた事に、坂田は己でも思いの外に近藤の容態を気にしていたのだと言う事実に気付かされた気がした。
 (一先ず最大の懸念に関しちゃこれで安心、て訳か。いやまあ単純に安心って言うには無理があるが)
 思って横目でちらりと伺えば、青白さを通り越して紙の様な顔色で唇を固く引き結んだ土方の顔に出会う。山崎の報告に各々安堵し息を吐いたり囁き交わしている隊士たちの前に座した副長の顔は、それとは全く対照的であった。
 「……そーかい。そりゃ結構」
 ざわめきは漣の様に拡がり次から次に小さな波紋を生んでなかなか已まない。言ってから、坂田は傾聴を促す様に掌を二度、打った。乾いたその音に、居並ぶ隊士たちはざわめきを中断して、正面に座す副長二人の方を──音を発した坂田の方へと視線と意識とを向ける。
 「で、だ。今地味な説明のあった通り、昨日局長が攘夷浪士と思しき連中の襲撃を受けた。局長は無事だが同乗者と運転手は犠牲になってる。真選組(うち)にとってもこの事実は到底看過出来る様な事じゃねェ訳だが──」
 そこまで言って一旦言葉を切って、坂田は室内を見回す風情で横に流した視線で、一瞬だけ土方の姿を捉えた。無言で俯いたその表情には肯定も否定も無いが、無関心さも無い。膝の上で握られた拳はに昨日同様に今にも震えそうな程に力が籠もっているし、淀んだ瞳は炯々と静かに光っていた。
 それでも、そんな土方には発言の気配は無い。常ならば会議を主導し進めて行く筈の男が黙りこくっているのだから、この場はそんな土方と同立場にある坂田が話を進めねばならないと言う事だ。
 基本面倒臭がりの坂田には億劫な仕事なのだが、何分事態が事態だから仕方あるまい。坂田は石の様に沈黙し動かない土方へと隊士らの意識が向けられぬ様、態とらしく声を張り上げた。
 「襲撃した連中の目星は未だついていねェ。目撃者の情報や襲撃の手口、使われた凶器からも、浪人と言うよりもっと若い世代の悪漢が混じってる可能性が高い」
 土方の証言やその負傷から判断された情報を告げる坂田に、再び隊士らの間にざわめきが拡がる。今度は先頃までの怒りよりも困惑の質が強い。
 攘夷を謳う者は侍としての自負が強く、世直しの思想を抱えている者が多い。だが、時代は変わったと言うべきなのか、単に社会に反発し攘夷と言う思想だけを模倣し大義名分として掲げる若者も昨今増えている。彼らは往々にして小さな不良の様なグループ、街角で粋がるチンピラに始まり、最終的には反社会的な集団や天人の犯罪組織の構成員などへと派生して行く事が多い。なまじ確固たる思想が無いだけに、逆に個々の正体が捉え難くなっているのだ。
 更に厄介なのは、いわゆる使い捨ての鉄砲玉として扱われる事も多いと言う蓋然性の高い事実にある。実行犯として仔細を知らされぬ侭に動いただけでは言葉通りの蜥蜴の尻尾切りにしかならない事は、警察としてこの場に集まる誰もが知り得ている事だ。
 早々に目の前に現れた事件の解決の困難さを予見させる様な内容に、ざわめきには動揺と怒りとが混じって拡がって行く。恐らくこの場にいる誰もが近藤の仇を取りたいと少なからず思っている。犯人を吊し上げて裁きたいと思っている。だが、仇は易々目の前には見えて来ない。悔しさともどかしさとがすっきりしない侭の胸に去来する、そんな状況。
 「因って当面は容疑者グループの割り出しからになる。まずは手分けして現場周辺の監視カメラを押さえて鑑識に回せ。十番隊は引き続き現場の鑑識捜査の協力。残りは幾つか捜査担当チームを編成して周辺の盛り場を総当たりして、ここ最近怪しい動きをしていた連中がいないかの割り出し作業。
 勿論通常業務も忘れんなよ。襲撃犯を探すのは結構だが、警察のお仕事はちゃんとこなせよ」
 最後は少し戯けた坂田の声に、ざわめく声の一部からは険が取れた様だった。そう、幾ら局長が襲撃されたからと言った所で、それも警察が多く抱える事件の内の一つである事に代わりはないのだ。
 「──で?」
 ところが、そうではない者も多い。理に適い手順通りの捜査を命じる言葉に、まるで反発する様に上がる声。それは坂田の概ね予想していた通りの所から放たれたものだった。
 「面倒臭ェ話は良いんで、襲撃犯はどこのどいつなんですかィ。とっとと言ってくれりゃ殺しに行きますんで」
 冷えた氷柱の様に会議室内に落ちた声に、ざわめきく口も動作も一瞬全てが凍り付いた様に静止した。そんな言葉を発した張本人は部屋の最後列の中央に座して、抱えた刀の柄を握り込んだ侭、連なる人垣を越えてただじっと俯いて一言も発しない土方の方を、その鋭い刃の様な眼光で睨み据えていた。
 「あのさ、人の話聞いてた?気が早ェよ沖田くん。そいつをこれから探すのがおめーらの仕事だって今俺説明したよね?」
 「間怠っこしい話だ。怪しい連中片っ端から斬りゃそれで良いでしょうが」
 「それ警察じゃなくてもうただの通り魔だからね」
 沖田の発言は温度も本気度もいつもの冗談とは掛け離れていたが、坂田は敢えて常と同じ調子でそれに相対してみせた。だがそれでも隊士の誰もが表情を緩める事は無く、俯き沈黙を貫く土方の固い表情が和らぐ事も無かった。
 会議室中が、交わされる軽い言葉と裏腹のぴりぴりとした緊張感に包まれる。これ以上は隊内に無用な動揺を招くだけかと、坂田が話を打ち切ろうと口を開きかけたその時、沖田の剣呑な眼差しが蛇か何かの様に細められた。
 その攻撃対象に定められていたのは、あれから一度も揺らがず変わらない。己を責めて黙り込む土方だ。
 「何なら、局長と一緒に居ながらそれを護れなかった、役立たずの副長の粛正でも先にしますかィ」
 言葉の調子は静かだったが、その冷えた刃は確かに室内に居並ぶ全員を貫いて土方の胸へと突き刺さった。ぴくりと隣の肩が震える気配に坂田は思わず舌を打つ。
 室内に言葉は殆ど無かったが、視線が忙しなく行き交う。それは動揺、或いは同意の気配。
 沖田があからさまに言葉にする迄もなく、近藤が襲撃を受けた際に土方が行動を共にしていた事は既に誰もが知り得ている事だ。
 それでいて土方は無事──少なくとも会議の席につける程──で、近藤は集中治療室に居る。それを失態と、無様だと糾弾するのは沖田ばかりではない。同じ事を、多くが思った。
 傍に居ながら、何をやっていたのだ。
 いっそ理不尽でしかないそんな問いは、仮令土方が五体不満足の状態に置かれた所で変わらず発せられるものだ。命以外の全てを失ってでも、たった一人の大将を護る。そうでなければ、供として付き従っていた意味が無いからだ。
 おめおめと無事に戻った土方へと批難の声が及ぶのは避け難い。それは解っていたが、坂田は比較的穏便にその段を済ませたかった。故に出来るだけ話題の焦点をそこへ運ばぬ様に努めたのだが、沖田には矢張り通用しなかった。
 それはそうだろう。──何しろ彼には端から土方を責める気しか無いのだから。
 常からよく出る、何処か諧謔味を含んだ土方へのイヤガラセや嫌味や悪戯とは明らかに掛け離れた沖田の声音は、凍り付いて鼓動を止めそうな土方の心の臓を間違いなく深く貫いて響いた。
 隊士らから向けられる、責める視線、同情的な態度、見損なったと吐き捨てる小さな暴言たち。それら全てを背負って凌駕するのは沖田の、純粋な殺意と敵意。
 畳の目をただ茫然と見つめる土方の眼は見開かれ、口元は力無く自嘲を刻んで震えている。握りしめる拳は今にも己を殺しそうに戦慄き、胸を貫く刃を抜こうともしない。弁解も言い訳もしようとはしない。
 そんな土方の様をどう思ったのか、沖田の手が刀の鞘を握った。柄に添えた指にぐっと力が籠もる。
 立ち上がり、凶器を振り抜いて、怒りの侭にその刃が土方の首を飛ばすまで果たして何秒を要するか。坂田はそんな事を自然と考えていた。
 果たしてその時土方は自らを糾弾し裁くその刃を避けるのだろうか。そこまで思考した所ではっと我に返る。
 (……違うだろうが、)
 それを見過ごす、見過ごさないと言う以前に、そうさせない事が己の役割だと思い直し、坂田は今にも鯉口を切って飛びかかりそうな沖田を見ながら、再び、今度は先程よりも強く掌を打った。
 「刑事事件は、裁判の前にまずは捜査ってのが手順だってんだろーが」
 ぱん、と一度だけ響いた乾いた音に、沖田は鼻の頭に皺を寄せて寸時坂田の姿を向いたものの、刀の柄から自然な動作で手を離した。途端に霧散する殺気と冷えた気配とに、周囲の隊士らが思わず安堵の息を吐く。
 沖田としてもこの、言い訳も抵抗もしないで己をひたすらに責め続ける土方を、ただ斬るだけでは溜飲は下がらぬと思ったのか。あっさりと引かれた敵意に、動揺した様に表情を歪めたのは寧ろ俯いた侭でいた土方の方だった。ぎしりと軋る音の聞こえそうな奥歯の間に擦り潰していたのは、受けたかった罰なのかどうか。
 勝手な想像をするのは一旦止めて、坂田は続け様に細かな捜査の指示を適当に隊士らに向けて出すと、最後にもう一度土方の──もう一人の副長の方を向いた。今度は誰から見てもはっきりと解る様に。
 「土方副長には暫く謹慎して貰う。捜査活動の一切は認められねェからそのつもりで。貯まった有給消化とでも思って、大人しく怪我でも治してろ」
 意識して作った坂田の事務的な声に、会議が始まる前からずっと俯いていた土方の顔が初めて持ち上がった。傷を負い、憔悴しきって目元に隈を作った青白い顔の中で、驚いた様に瞠られた目は次の瞬間には軋みながら坂田の事を睨む。
 「何でだ、早く近藤さんの仇を──」
 「だからだ。おめーは一度失敗してんだ。そんな負傷した様で何が出来るって?」
 追い縋る様な土方の声をぴしゃりと遮ると、坂田は会議の終了を告げて立ち上がる。その様子に、何を言っても無駄と悟ったのか、それとも己にそれを続ける資格がないと判断したのか、膝をついて立ち上がりかけた土方は然しその侭俯いた。罵声や反論を噛み締めた唇が声にならぬ呼気を吐き出し、強く握られた左の拳が畳を悪足掻きでもする様に叩くが、次々立ち去る隊士らも、そんな土方を冷たく見下ろしすぐ様に背を向けた沖田も、副長と言う名をした折れた刀を一顧だにしようとはしなかった。
 その場にただ一人留まっていた山崎だけが気遣わしげな視線を向けていたが、それは自嘲と自責とに深く沈んだ土方の慰めになぞならないだろう。
 ともすれば涌きかかる同情を振り切る様に、会議室を出た坂田は溜息を一つついて歩き出す。
 「この一件で、副長たちの不仲の均衡も崩れるかもな」
 「坂田副長にとっちゃ、土方副長を排斥する絶好の好機って訳か」
 反対の方角へと歩き出している隊士らの間から囁かれる声たちが、遠く離れているのに妙にはっきりと聞こえた気がした。





(前回までのあらすじ)このW副長、周りには不仲と見られてる侭です。

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