深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 3 真選組の屯所は江戸の治安維持を一手に担う武装警察の唯一の本拠地だ。その広大な敷地に与えられた主な役割は、隊を構成する人員を収容しておく事にある。居住区画も備えた武家屋敷風の建物は、実際生活をし易いかどうかはさておいて、緊急時に直ぐ様対応する為に、常に真選組を構成する人員の八割以上が詰めており、寝食を共に生活している。 独身の者らは家が近いなど一部の例外を除いて皆屯所の居住区画に住み込む形になっている。遠方から来た者などは実家に戻れる事はそうそう無い程にここでの仕事は激務だ。既婚者であっても泊まり込みになって半ば単身赴任の様な状態にある者も珍しくない。 とは言え、夜番や当直任のスケジュールに無い限りは外泊届けさえ出せば家には一応帰れる仕組みにはなっているし、家族を屯所の近くに棲まわせる者も多い。何かと危険の付き纏う職務にあるだけに、家族と過ごせる貴重な時間は大事にして欲しいとは近藤の方針だ。 そんな訳で、屯所に暮らしつつも外部に家を持ち時折そこへ帰る者は独身既婚含めてそれなりの人数がいる。特に隠し立てしている訳ではないが坂田もその一人だ。 坂田は繁華街に程近い町に別宅とも言える住処を持っている。然しそこで待つ家族などは生憎と存在しないので、殆ど空き家も同然の家なのだが。 江戸に出て来た当初に知り合った、お節介な大家が経営しているスナックの、上階にあるのがその家だ。築年数も古くなく特に問題もない、物件としては悪くないものだ。だが、そこでまともに生活をする前に坂田は近藤に誘われ真選組に所属する事になったので、その家を我が家として扱った事は殆ど無い。 最低限の物しか置いていない家は土地の広さよりも寒々しい印象を与えて、時折そこに戻る坂田を余所余所しく迎え入れてくれる。酷く酔った時や一人になりたい時や、土方との逢瀬の時。そのぐらいにしか戻る事は無いので、それでも別に不自由さを感じる事はない。何となく便利だと思ったからその侭にして貰っている。家賃は毎月納めているし、大家からも立ち退きを願う声は今の所無い。 深夜の時間帯と言える今、スナックの灯りはもう落とされており、上階の己の家とて灯りの気配はない。それでも確信のあった坂田は、外階段を昇って玄関戸に手をかけた。施錠の習慣はあるが鍵は玄関を出た直ぐの所に隠してあるので、それを知らされている者には何の意味もない。 案の定か、錠前に遮られる事もなくからりと玄関戸は開かれ、家主より先に客を通したのだろう鍵は下駄箱の上に無造作に放られていた。 三和土には乱雑に脱ぎ捨てられた黒い靴が転がっている。その先の暗い廊下に視線を投げると、無造作に脱ぎ捨てられた黒い上着が目に入った。更にその先には真っ白なスカーフが萎れた花の様にぐしゃりと潰れて落ちて、その先には黒いベストと続いている。 まるで抜け殻か何かの様に点々と続くそれらを見遣って、坂田は嘆息しながらも散らばる衣服を拾って先へと進んでいった。 コンセントを抜かれたテレビ以外には家具の何も置かれていない、板張りの居間の戸は開いた侭だった。中へと入ると、何の遮蔽物も無い床の上に否応無しにそれが目につく。 ここまで抜け殻を放り棄てながら歩いて来て、そこで力尽きた様に身を横たえていたのは、朝の会議で謹慎を誰あろう坂田に直接言いつけられた土方だ。ほぼ夜の闇に同化した様な暗闇の中、釦が幾つか開かれ、ズボンから引っ張り出されている白いシャツだけがその輪郭を正しくそこに描き出している。 玄関に背を向け、折れて吊っている腕を庇う様に身を丸めて、寝心地の大層悪そうな床の上に転がっている土方の表情は、電気の点いていない夜の暗さと、目元にかかる髪とで影になっていて伺えない。 それでも大体、土方がどんな表情で、何を思ってここに来て転がっているのかは解る気がしている。真選組の副長と言う鋳型に彼を填めていた黒い装束を脱ぎ捨て、ここでどんな貌をしているのかはきっと知っている。坂田だけがそんな土方の有り様を見ている。 坂田は丸まって寝転がる土方の横を通り過ぎて、襖の開かれた侭の隣の、畳張りの寝室へと一旦入った。ハンガーを取り上げると長押に、副長である事を已めた土方の抜け殻の様な上着と、自らの上着とを脱いで引っかける。 一度身から離れた衣服はどんな立派な仕立てでもどんな役割を意味する物であっても、脱いで仕舞えばただの重たい布でしかない。皺が一度出来ると後が面倒になるだけの、布でしかない。 それから床の間の刀架に、佩いていた刀を飾り物として置かれた土産物の木刀に並べて置き、ついでにスカーフを抜き取って襟元の釦も外して身軽になってから、坂田は居間へと戻った。丸まって寝転がっている土方の正面にしゃがみ込むと、頬杖をついて言う。 「んな所で寝てると身体痛めるぞ」 会議で放った温度のないそれではなく、常と全く変わらぬ声音でそう呼び掛けた言葉に、拗ねた様に転がる土方は何の反応も示さなかった。 坂田は溜息をひとつ吐き出すと、手を伸ばして土方の表情に翳りを作っている髪をそっと掻き分けてみた。土方はそんな坂田の手を振り払うでも拒絶するでもなく黙ってじっとしていたが、やがて優しい手を避ける様にごろりと頭部を下向きに少し転がした。額が床に触れて止まる。 「ころしてやる」 床に近付いてくぐもった声の紡いだ言葉に、坂田は浮かびそうになる苦笑を堪えて、その代わりに触れた髪を優しい仕草で撫でた。 言葉が向けられたのは坂田にではない。恐らくは近藤を襲撃した者らと、それらから近藤を護れなかった己に対して向けられた強い殺意。 後悔ではなく、自責の向く先に在るのは、土方が自分自身に抱く無力さへの憎しみだ。それは最早悔いると言う段を遙かに通り越して、己への激しい嫌悪へと形を定めている。 土方が己を責めて責めて苛んでいる事は想像に易かった。沖田の糾弾を避けなかった事からも、罰を寧ろ求めていた様な態度からも、それは容易に知れていた。だから坂田は殊更に優しく土方を慰撫した。子供にでもする様に宥める事を選んだ。 「解ってる」 土方が誰に何を求めているのか、誰をどう憎みたいのか、殺してやりたい程に責めていたいのか。無力と言う言葉はいつだって土方の最も厭うものであると坂田は知っている。幼少の頃の記憶がそうさせるのだろうと、以前に近藤に少しだけ聞いた憶えはあるが、具体的に何があったのかと言う詳細は知らない。だが、知らなくても解っていたからそれで良かった。 土方が、無力な己を仇と同列にみなして苦しむも憎むも理解が出来ている。土方の理性がそこに留まる己を赦せずにいる事も解っている。だからこそ坂田は土方が気休めと知る優しさを向けた。 「おめーは取り敢えずその怪我治せ。いざって時にそんな様じゃ、仇の首を沖田くんに獲られちまうぞ」 坂田の言葉に土方は益々むずがる様に下を向いた。土方は坂田のそんな同情的な優しさを好まない。本来ならば斬って棄てる程に。 だが、坂田の心を受け、感情を互いにひとつの方向性に向けてからの土方にはそれが出来なくなっていた。裏切りの無い確信と打算とを約束し、保証した恋愛事は、生来猜疑心の強い土方にとっては余りに強すぎる毒でもあったのだ。 土方は、彼にとっては厭うべき事なのかも知れないが、坂田の何気ない優しさや情に慣れきって仕舞っていた。同情や気休めなど不要だと昔ならば躊躇わず斬り捨てられたその選択を、咄嗟に浮かべられなくなって仕舞う程度には。 謹慎の命令が、肉体的な負傷と隊内から向けられる心痛とを避ける為にと坂田の気遣った、土方の療養と言う名目である事など、少し前の土方であったら到底受け入れられず真っ向から反対したに違いない。坂田を責めて、対立して、痛みを飲み下しながら無理にその場に立ち続けようとしていただろう。 肯定出来ず、避けられない感情に、土方は無言で俯いて逃れようとしていたのかも知れない。鼻先まで床に付けて下を向いた土方の後頭部から襟足までを掌で撫でながら、坂田は目を細めた。 「なぁ土方副長。一人で抱えんな。お前には仲間が居る。俺が居る」 副長、と呼ばれた事で自らの役職と役割とを思い出したのか、土方はぴくりと肩を奮わせてから漸くその顔を坂田の方へと向けた。裡に凝った激情を吐き出す術も解らずに、ただ殺意を静かに煮え滾らせるほか無かったのだろうその目元は、今朝に見た時よりも仄暗く落ち窪んでいた。 そんな土方の目元の隈を親指の腹でなぞる坂田の動きに、本来ならば返っておかしくなかった筈の抵抗も拒否も無い。未だ痣の紫色が痛々しい頬に貼られたガーゼの際に、坂田は安っぽい憐れみの様にそっと唇を落として言う。 「おめーはいつも通り、頭で仕事しろや。おめーが動けねェ間は俺が動いてやっから」 坂田の放ったそんな言葉は、恐らく今の土方にとっては気休めにしかならないだろう。 近藤に今すぐに命の危険は無い。それでも土方は近藤を護れなかった事実に焦燥しているし憔悴もしている。己を責める声に耳を塞ぐ事もせず真っ向から受け止め立って、それでより一層己を責めて追い詰めて行っている。 叶うならば今すぐにでも容疑者を捜し出して斬り殺してやりたいとは、沖田以上に思っているに違いないのだ。そしてその応報の願いが成就せぬ限り、土方は己を責め続ける事を已めないだろう。止められはしないだろう。 然し、土方は坂田の気休めに、傷を負った面相に苦しげな表情を浮かべながらも、時間をかけて小さく一度だけ頷いた。 それは土方が己を責める事を、己へ怒りを向ける事を已めたと言う訳ではない。ただ、それよりもほんの僅かだけ、坂田とその言う言葉とを信じる事を選んでくれたのだ。 その事実を認識した坂田は、失望とも安堵ともつかない感覚を憶えながら、負傷を庇いつつ身を起こした土方の事を何も言わずにただ抱き締めた。 。 ← : → |