深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 4



 その日は冷たい雨が降っていた。冷えた手での刀の取り回しを気にしていた事を、土方は今でもよく憶えている。
 雨はそう激しい勢いではなく、ただしとしとと降り積んでは体温を冷やして行く、実に秋らしい質のものだった。
 そんな冷えた悪天の下、宵闇の静けさに融け込む様な黒い隊服の群れたちは、じっと獲物に飛びかかる期を待って雨に打たれながら佇んでいた。
 一人一人の顔にはそれぞれ質こそ少しづつ異なるものの、同じ緊張や興奮の気配が隠しようもなく浮かんでいた。それらをゆっくりとした動作で見回した近藤が、傍らでじっと獲物への道を見つめている土方の方を振り返った丁度その時、土方の手の上で開かれた侭でいた携帯電話が音もなく振動する。
 雨に濡れたディスプレイにはたった一言、突入OK、と言う文字が表示されている。
 ぱちん、と携帯電話を懐に戻した土方が頷く仕草と共に、近藤は刀を抜きはなった。声の無い大将の咆哮に料亭をぐるりと取り囲む真選組は一斉に動き出す。黒一色の巨大な獣の様なそれは、足下を濡らす水を蹴って、刀の切っ先が向けられたそこを目指した。
 

 ──或る大店の主人が攘夷浪士と『個人的な』繋がりを持っているらしい。最初に出た噂はそんな内容だった。
 商売人が取引の相手として、旨みが少なくリスクの少ない相手から、旨みが多くリスクも高い相手を選ぶ事自体はままある事だ。商売人気質と言う奴なのか、法に触れようが危険を冒そうがより多くの利益を求めるその思考は正直土方には理解し難い類のものだ。金銭が生活に何かと必要と言うのは解るが、度を超えた富を求めるその貪欲さは解り様がない。まだ、攘夷思想に共鳴して反社会的な活動に手や物資を貸すと言った方が動機として解り易いとさえ思う。
 然し今回のケースでは、幾ら調べた所で目的はより多くの利益以外に出そうも無かった。そうなると理解は出来ずとも話としては早い。
 思想ではなく単純に金銭目的での動きであれば、それは商売人と客との構図以外の何でも無い。社会的な規範に因る善悪よりも、金銭を選んだ。胸は悪い話だが単純だ。逆になまじ思想の介入する余地があると、店主から家族から従業員に至るまで全てを調べ上げ吊し上げて行くと言う、警察としては非常に面倒な作業が待つ事になる。
 問題は大店がそれなりに規模の大きなものであった事、それの及ぼす社会的な影響が幾つか懸念されたが、売買された違法な物品の数々を用いて大きな破壊活動が行われるのを未然に防いだと思えば些事であると言えよう。
 その代わりに、確固たる証拠を押さえねばならないと言う難題は要求されたが、何とかそれらをクリアして漸く辿り着いた今日が、大捕物の決行日となった。
 或る料亭にて、件の大店の主人と攘夷浪士グループの幹部とが直接会って取引を行う。地道な捜査活動で漸く得たそんな情報を元に、真選組はその現場を押さえるべく集った。
 料亭内部には店側の人間数人の他、攘夷浪士側には幹部の護衛として多くの手勢が引き連れられて来ていた。更には彼らに混じって他の一般客も居る。
 これに因って、無関係な一般客には一切の累を及ぼす事なく、静かで且つ速やかな解決が望まれていた。
 店の地理は予め突入隊士全員の頭に叩き込まれている。討ち入りと一言で言うとさぞ荒々しく踏み言って行くイメージを想起させるが、真選組のそれは飽く迄作戦行動であって、事前に緻密な計画を練った上でのものだ。細かなグループと役割とが各隊士には与えられ、それに沿った行動が作戦の成功へと繋がる。
 無論、今回の様に一般人も現場に居る場合には様々な予期せぬトラブルも起こり得る。基本的に作戦行動には忠実に、然しアドリブはいつでも行える程度の意志決定の余裕も要する。
 常々そんな事が念頭にあったからか、巻き添えを避ける為に本丸より先に踏み込んだ一般客の利用していた宴会場で、見知った老幕臣の顔があった時にも土方は然程に驚きや動揺を見せる事は無かった。
 これは一体何事だと驚く老人に、近藤は事態を簡潔に伝え、隊士の幾人かを護衛につけて速やかに現場から逃がした。もう裏口から突入していた坂田や沖田が場を制圧している頃だったが、万一の危険を被らせる訳にもいかないと言う判断であった。
 現将軍派で警察組織にもそう悪い印象を持ってはいない御仁ではあったが、後から真選組の『野蛮』な行動に難癖を付けられたら堪ったものでは無い。
 だが土方のそんな懸念とは裏腹に、事件解決の後、現場に居合わせた政財界の人間としてマスコミにコメントを求められた老人は、自らを救ってくれた真選組に感謝していると言う旨を話した。そしてそれから幾日も経たぬ内に、公式声明として感謝の言葉が松平経由で伝えられた。
 更にはその礼をと請われ、指定日時に彼の幕臣の屋敷へと招かれる事になったのだ。真選組の局長である近藤と件の捕り物での現場指揮官であった土方もそれに付き従う事になるのは半ば必然だった。
 
 *

 その日は雨など降りそうもない空をしていた。晩秋に入り気温もそろそろ冷えて来たが、まだ刀の取り回しに問題は無いだろうと、土方はそんな事を考えながら車の後部席に揺られていた。
 要するに暇だった。単に移動するだけの時間と言うのはどうにも退屈でいけない。この時間で仕事をどれだけ片付けられただろうか、と思えば、埒もない思索の時間など無駄としか言い様がない。
 …とは言え仮にも上の身分の人間に「礼を」と言われ招かれている身だ。呼びつけられた、と言い換える事も出来るが、何れにせよそれは態度にも出さず心に仕舞われておくべき感想である。
 後部座席の隣に座る近藤は、少し緊張しているのか姿勢も表情も固い。まあ基本、真選組は褒められると言う事に慣れのない組織なのだから已む無き事だ。
 車は車体に顔が映り込む程に綺麗に磨かれた黒のセダンで、文句なしの高級車だ。シートはゆったり背を預けて座れる様になっていたが、乗り慣れ無さもあってか居心地は逆に良く無い気さえしてくる。運転席では壮年の男が白い手袋に包まれた手でハンドルを握っていた。
 迎えに、と寄越されたこの車は当然だが警察車輌の類ではない。よく松平が乗り付けて来る頑丈が取り柄の様な高級車とも少し異なり、全体的にクラシックな雰囲気を漂わせている。実用性よりも格式と居住性とを重視したその車は、つまる所この車輌のオーナーの趣味を反映させたものだと言う事だ。更につまる所として言えば、個人的な所有物だろうと言う事だ。
 運転手の礼儀作法も実に行き届いており、客である所の近藤や土方に緊張の気配を感じ取ったのか、自己紹介の後は無理に話しかけてきたりはせずに黙々と、然しとても慎重で丁寧な運転を心がけている。お抱えの運転手だと当人で名乗ったその通り、この車も、運転手も、彼の老幕臣の個人的な用として遣わされて来たものだ。
 そのココロは、『礼』であるこの誘いが単なる礼儀から出たものと言うより、重要なものである、と言う意味になる。
 それは何れを取っても近藤と土方を客として持て成すと言う表れでしか無く、故に近藤は緊張し土方は狼狽し訝しんだ。近藤はともかく土方は、褒められ慣れていないとか言う問題ではなく、何か謀でもあるのではないかと言う疑いが湧き起こるのを禁じ得なかったのだ。
 然しそんな土方の警戒心を裏切る様に何も特別な事は起きぬ侭、やがて、窓の外の風景は疎らに高級住宅地の点在する地域へと変わって行く。真選組屯所まで『客』を迎えに来た車は、混雑する主要道路を避けた為に、実際の距離よりも遙かに時間を掛けて、漸く目的地に到着する様だ。
 土方は謀を想像したり、それに対する案を模索したり、刀の扱い方を考えたりと忙しなく巡らせていた思考を中断し、小さく溜息を吐くと居住まいを正した。その動作の中でさりげなく取り出した携帯電話で時刻を確認すれば、直に昼下がりと言った頃だった。
 「もうじきお屋敷に到着します。何分道も混んでおりまして、お時間をお掛けし申し訳ございませんでした」
 ぱちん、と携帯電話を閉じた音で土方が時刻を気にしていたと悟ったのか、運転手が控えめな声でそう言う。いきなり破られた沈黙に、土方は咄嗟に嫌味を返す訳にも肯定する訳にもいかず、「あ、いえ、お構いなく」と少々間抜けに聞こえる言葉を返した。すると運転手はルームミラー越しに柔らかく目を細めて笑んでみせた。
 「主は真選組の方に本当に感謝しております。警察の職務もお忙しい中、此度は主の招きに応じて下さりありがとうございます」
 「いえ…、」
 「警察として我々は当然の事をしたまでです。本来ならば、礼をなどと勿体なきお話を受ける事すら叶わぬ様な事です」
 声音も表情も心底に喜びと感謝とを訴えるそれで、目の当たりにした土方は思わず言い澱むが、近藤は妙に畏まってそう答え頭を下げた。すかさず運転手が「とんでもない」と頭を上げる様促す。
 「昨今は警察への風当たりも何分厳しいもので、主殿の礼には心を打たれました」
 「江戸の平和はあなた方あってのものです。この様な場を以て日頃の礼と代えられるのであれば、主も喜びましょう」
 「……」
 運転手の朗らかな笑みに、近藤もまた笑みを以て返す。緩やかで穏やかな空気へと変わり始めた車内で、土方は居心地の悪い気分になって密かに身じろいだ。お愛想の笑みさえ浮かべられない不器用な口元を軽く引き結ぶ。
 何事もまず疑ってかからねばならない己の性分は、このお人好しが120%の主成分で出来ている大将には絶対に必要だと確信している。だが、心を澱ませ濁らせた猜疑心の果てには常に想像していた様な結果が待っている訳ではない。寧ろ、杞憂で終わる事の方が多いのが現実だ。
 それでも土方は真選組以外のあらゆるものを疑ってかかる事を止められない。杞憂に対して罪悪感を憶えようが、そんなひねた思考しか出来ぬ己を矮小と感じようが。悲しいが変え難い性質なのだ。
 今は、この招待を寄越した老幕臣への警戒は未だ完全に拭えてはいない。この運転手の態度や様子を見ただけでも、これは本当にただ単に礼を言いたくて恩人を招いただけの事だろうとは容易く知れると言うのに。
 これがただの『礼』だと確信が得られない間は、己の仄暗い猜疑心に羞じを感じようが、考えを改めるつもりはないし改められる気もしない。横で近藤が楽しげに笑っている分、己は警戒を解いてはならない。それが副長として土方が背負うと決めた役割だ。
 坂田だったらどうしただろうかと、再び頭を過ぎる埒も無い思考は、車が目的地へと到着した事で明確な答えに辿り着く前にふつりと途絶えた。あの男なら、警戒をしながらもそんな素振りは全く見せず笑って応じられるのだろうか。…そうなのだろう。
 車は滑る様な動きで、古風な和洋折衷の屋敷の敷地内へと入って行く。ふと窓から覗き見れば、玄関らしき所に着物を纏った老人の姿が見えた。それが今回の『礼』をと近藤と土方とを招待した老幕臣だとは問うまでもなく解る。
 ホスト自ら客を迎える姿勢、そしてその浮かべる笑みからも『礼』以外の何の理由をも嗅ぎ取る事は出来そうもないと、土方は感情以外の場所でそっと白旗を揚げた。
 それでも、完全に疑いが消えるまでは少しも弛みそうもない己の表情筋に呆れながら。

 *
 
 余り形式張らない茶での持て成しを楽しんだ後には、酒を愉しもうと誘われ料亭へと車を出して貰う事になった。
 時刻は夕刻にさしかかる頃合い。礼の為の持て成しを受けると言う意味では、最低限の礼儀はこちらとしても果たせていた。故にそこで職務を言い訳に引き揚げる事も出来たのだが、近藤にその気配はなかったので土方も自然とそれに従う流れになった。
 車はここに呼ばれた時と同じ運転手と車で、行きと違ったのは、出発してから直ぐに車内が、運転手を交えた近藤と老幕臣との弾む会話に満たされた事だった。
 彼の老幕臣とは公の場で顔を合わせる程度にしか付き合いの無い人物であったが、どうやらその人柄は確かなものであったらしい。土方は他者にまず猜疑心を向けずにいられぬ己を正直に羞じはしたが、それを態度に表す事は無かった。
 この招待を受けてから実際に応じる迄の間、土方は近藤には隠れて招待主の素性から経歴から最近の動きに至るまでの全てを、具に調べ上げさせていた。実の所その際得た情報からも、この老人に真選組や近藤を害するメリットも理由も無いと言う確信は得られてたのだが、善し悪しの情報だけでは為人と言ったものを知る事など適う筈もない。
 結局、招かれ供された場には、土方が懸念し調べ倒し疑った様な謀の気配は一切無く、真選組への心からの感謝と労いとが、何の打算も計算もなく待っているだけだったと言う事だ。
 今度は助手席に場所を移している土方は、頑なに変え難く、変える必要性の無い筈の己の性情にこっそりと溜息をつく。真選組にとってこの疑心は確かに必要なものだと言うのに、時々徒労感を憶えずにいられない。こんな事は以前までは無かった事なのだが、と頭を捻れば、銀髪の間抜け面がふっと脳裏を過ぎって仕舞い、眉を寄せて渋面を作る。
 土方の心から警戒心や猜疑心を取り除く事は出来ぬ癖、そんな事はしなくて良いのだとでも言う様に、解り易い打算を建前に優しい素振りで近付いて来る、坂田の存在を受け入れてから、土方の心は落ち着き無く揺れ動く様になって仕舞った。
 (疑うのが俺の仕事だってのに、それを馬鹿馬鹿しいと思わせる様にしやがった、あの野郎が)
 果たしてこれは責任転嫁だろうか。渋面の侭視線をふっと正面へと戻したその時、土方の目はすぐ先の道路に何か見慣れぬ物を捉えていた。
 「っ、止まれ!」
 敬語なんて使っていられない。思わず出た鋭い声に、運転手は「えっ」と驚いた様な声を発したものの、その足は職業柄か素早く反応してブレーキを思い切り踏みしめていた。
 夕暮れの迫る道のその先で、確かに何かが光ったのが見えた。周囲に他の車輌は見当たらず、人だの野良猫だのが歩いて横切る様な道でもない。
 然しその正体を探る事は叶わなかった。運転手がブレーキを踏むその寸前には既に、車の前輪がそれに乗っていたのだ。
 瞬間、鈍い爆発音と共に車体が激しくバウンドした。踏んだのは恐らく、小さいが爆発物の類だと認識した土方は、その次に起こるだろう衝撃に身構えた。少なくとも己ではそのつもりだった。
 きっとこんな瞬間には出来た事など何も無いのだろう。だが、もう少し早く気付いていれば、或いはもう少し油断していなければ、と言う後悔にも似た思いがどっと湧き出て土方を苛んだ。
 タイヤの二つを失った車は急ブレーキに因って激しくスピンし、バランスを崩しながら中央分離帯へと車体右から衝突し、今まで加速し走行していた速度は全て狭い車内への猛烈な圧となって中にいた人間たちを襲った。 
 激しい後悔と失態とに喘ぎながら、土方は目を開く。意識は一瞬かもう少し長くか飛んでいたが、覚醒は早い。
 これはただの運転ミスに因る交通事故では無いのだ。明らかに人為に因る罠があって、それは恐らく近藤か、招待主であり護衛対象でもある老人へと害を及ぼすものなのだと、激しい警鐘がずっと頭の中で鳴り響き続けていたからだ。その確信さえあれば土方には、自らの身がどれだけの負傷を感じていようが動かないで居る訳にはいかない。
 頭を打ったのか、脳味噌が乱暴に揺すられ、身じろぎ一つするだけで酷い頭痛がした。目の前には不格好に拡がったエアバッグが、粉々になったフロントガラスの破片と土方の鼻と額から滴る紅い色を乗せて膨らんでいる。
 そんなエアバッグは横から中央分離帯に衝突し、歪んだ車体に因って土方が潰される事を阻止してくれていた。感謝を唱えつつシートベルトを外そうと手を動かそうとするが、ベルトに挟まれ変に身を捩らされたからか、右腕が鋭い痛みを訴えて寄越して来ていた。
 (折れた、か)
 ついでに打撲か、肋骨もやられているかも知れない。意識すれば忽ちに神経を苛み出す痛みをねじ伏せて、土方はシートベルトの留め金を何とか外した。心なし楽になった気のする中で息を吸えば、血の匂いに混じってガソリンの臭いがつんと鼻をつく。
 (やばい、時間が無ェ)
 ガソリンを垂れ流した事故車輌に、何かの拍子に火が点いて炎上すると言うのはよくある事だ。車内の密閉状態を一刻も早く解消して気化ガソリンを外気に逃がすのと同時に、一刻も早くこの車輌から脱出し離れなければ命の危険に関わる一大事になる。
 「こんどうさん、」
 思わず名を呼んでから頭を巡らせた所で、然し土方の目に飛び込んで来たのは、身体をくの字に折り曲げた姿勢の運転手の姿だった。ひしゃげた車の中、一度は膨らんだのだろうエアバッグに胸を伏せ、そこから上は潰れた車体の下に消えて何処にあるのか見当たらない。
 「、」
 一目見て絶命していると解るその有り様と、先頃まで老人や近藤と楽しく会話をしていた壮年の運転手の姿とが今ひとつ結びつかず、土方は本能的に痙攣する胃を引きつった呼吸と共に堪えた。
 その途端に車内に充満した気のする死の気配を振り切る様に反対側、助手席の扉を縋る様に見遣る。が、ひしゃげた扉は土方が足で幾ら蹴っても全く動いてくれそうな気配がしない。
 「     」
 土方は無意味な罵声を上げつつ、全身を襲う痛みを意志と怒りだけで抑え込んで、硝子の殆ど割れて砕けたフロントへと手を伸ばした。ダッシュボードを掴んで身を持ち上げると、無理矢理に車外へと這い出す。
 滴る血を拭って頭痛に堪えながら素早く見回せば、車は右方向から中央分離帯の柵へと激突し、エンジンルームから煙を吐きながら止まっていた。運転席が最も被害が酷かったのは言う迄もない。
 刀を引っ張り出して後部席の窓に取りつけば、近藤はシートに背を預けて目を閉じていた。硝子をがんがんと強く叩けば、ゆっくりと目を開いてこちらを見上げて来る。取り敢えず近藤の身には見て解る範囲に負傷は無さそうだと判断した土方はほっと息を吐くが、直ぐ様に近藤の隣の老人を見て顔色を変える。こちらも右に座っていた事が原因だろう、歪んだ車内に押される様に項垂れた老人は身じろぎ一つしていなかった。
 「襲撃だ」
 硝子越しにも聞こえる様に土方がそう声を上げたのは、罠の成功を見て取った、罠を仕掛けた張本人たち──襲撃者たちがわらわらと集まり始めているのに気付いたからだ。
 土方は携帯電話から緊急用の短縮を発信するとその場に放り棄て、左の手で刀を抜いた。鞘は携帯電話同様そこらに放っておく。逆の手で得物をまるきり扱えぬと言う訳ではないが、勝手は違う。だが、この抵抗で応援が来るまでの時間を稼がなければ、その先には死が待っているだけだ。
 「死んでるのを確認しろ」
 襲撃者たちの誰かがそんな事を口にするのが聞こえた。つまりはこれは矢張り、土方以外に外からではまだ安否の確認出来ない近藤か老幕臣かはたまた運転手かの何れかを狙って起こされたものだと言う事だ。
 意図的に仕掛けられた罠に因る車輌事故。更にそこに襲撃者たちの姿。明らかにこの車に乗っていた人間を狙った『襲撃』でしかない。
 煙を上げる車がいつ爆発するかも知れぬ状況ではのんびり救助を待つ様な時間の猶予は無い。その事は近藤にも理解出来たのだろう、自らを護る様に事故車両の前に立ち塞がった土方に無用な言葉を続ける事は無く、隣席の老人に声を掛け救助作業に入る。
 土方は己の利き腕が使い物にならぬ事に気付いてはいたが、それでも他に重症と感じられる傷が無い事にまず感謝した。少なくともどちらか一方の腕が動けば、足が動けば、刀を振るって戦えれば、己の使命は全うできる。
 秋の日は釣瓶落としと言う。早くも西の空に傾き始めた陽と火の手の上がりそうな車とを背に、土方は襲撃者たちを油断なく観察した。
 攘夷浪士ではない、とまず思った。何故かと言えば直感としか言い様がない。年頃の若い者らが多く、彼らは手拭いで作った覆面で人相を皆隠していた。佇まいからは武芸の気配は感じられず、手にした得物も鉄パイプやバットや角材と言った、真っ当な『武器』ですらない。
 車輌の中から聞こえる近藤の声と、歪んだ車体の扉を開けようと蹴る音。早くしてくれ、と願いながらも土方は、手にしたそれぞれの得物を振りかぶって襲いかかって来る者らとの戦闘に入った。
 言い訳だが、万全の状態であったら何がどうなってもこんな連中に後れを取る様な事は無かったと、土方はそう認識している。そう言い切れる程度には、襲撃者たちは未熟で、錬度も低く、一度何かが崩されれば忽ちに烏合の衆に成り果てるだろう想像に易い者たちだった。
 刀を振るい人を斬り伏せていく土方は正しく番犬の様だった。その番犬に阻まれ、襲撃者たちはなかなか目的を達成出来ずにいる。
 それに焦れたのか、やがて襲撃者の一人が暴れ狂う番犬を避けて車輌に向かった。土方はそいつを背後から斬り捨てる事は出来たが、その代わり自らの背後に多大な隙を生んだ。
 咄嗟に身を捩ったが、振り回された鉄パイプに頭部を痛打されてその場に倒れ込む。起き上がろうと藻掻いた所を上から頑丈な靴底で蹴り飛ばされ、草履で横頬を踏まれ地面へと逆戻りさせられた。
 それとほぼ同時に、歪んだ車のドアが近藤の繰り返した蹴りに因って鈍い音を立てて開き、車内から近藤が、老人を肩に担いで這い出て来る。
 逃げてくれ、と──意味としてはきっとそんなものに翻訳されるだろう罵声を苦悶の中に上げて、立ち上がろうと藻掻く土方の頭部はもう一度蹴られて踏まれた。
 地面に程近い横倒しの視界がぐらぐらと揺れる脳と共にぶれる。その中で、近藤が老人を庇いながら刀を抜くのが見えた。そんな近藤に迫る襲撃者たちの姿が見えた。

 (やめてくれ)

 声にならない声が土方の喉から迸った。
 まるで巨人か何かの重たく大きな掌に押さえつけられてでもいる様に、背中を踏まれた土方の身体は身動き一つ取る事が叶わない。

 (たのむ、)

 角材を振りかぶった男をいなした近藤の手から、刀が弾き落とされた。
 大振りのサバイバルナイフを振り回す男の腕を近藤が掴み、苦し紛れの揉み合いの中でその覆面をむしり取る。忌々しげに顔を歪めたその男の代わりに、他の男が近藤の取り落とした刀を拾い上げ、そして、、

 (──!!)

 声の限りに土方は絶叫した。喉が裂ける痛みよりも、負傷を負った身体よりも、『それ』だけは避けねばなるまいと、否定をただ、叫んだ。
 血の尾を引きながら崩れ落ちた近藤の大柄な体躯へと、近付こうと藻掻いて、必死に覗き見たその顔はと言えば、目を見開きもう事切れて──、
 
 *
 
 びく、と身体が大きく跳ねて目が醒めた。撓った背が布団に落ちて、どくどくと心臓が煩い程に脈を打っている。呼吸は荒く掠れて苦しく、早い血流が必死で供給する酸素では足りずに喉奥が喘鳴の様な音を立てる。
 喉奥に残留した悲鳴の代わりに、それを体験した心臓が、鎮まる事を忘れた暴れ馬の様に跳ね続けている。叫びが、苦悶が、応報が、逃げ場無く土方の全身に充ちて苦しい。
 背を伝う冷たい汗だけが、これが現実だと土方に静かに伝えて来ている。この、夜明け前の小さな一軒家の一室が、今己の居る場所であり時間であると、思い出させようとしている。
 「………、」
 浮かせかけた頭を枕へと落とすと、土方は無理矢理に目蓋を閉ざした。これが現実で、悪夢は現実ではない。起こった事は紛れもない事実だが、最悪の結果にまでは至っていない。
 実際にはあの後、藻掻き続けていた土方は腹部を蹴り飛ばされ黙らされたので、倒れた近藤に近付く事さえ叶っていないし、近藤もあの場で事切れてなどいない。
 襲撃者たちは近藤の次にはとうに事切れていた老幕臣にも刃を突き立てると、けたたましいサイレンを鳴らしながら接近して来た警察車輌から散り散りに逃げ出した。
 そうして、老幕臣の地位もあってあの、普段世話になる事などない高級な病院へと救急車両に乗せられ運ばれるに至ったのである。
 そこまでを思い起こした所で、近藤の容態が病院でひとまず持ち直していた事をも思い出し、土方は彼が物言わぬ死体になると言う恐ろしい幻想を漸く振り捨てる事が出来た。
 その命が断たれたら、と言う想像は。この侭この人は目を二度と開く事が無いのだ、と言う未来は。土方にとって最も避けねばならぬ結末であって命題であって使命であって生きる意味そのものでもあった。
 その想像を描いた時の、背筋を伝い落ちて全身の血の気が失せて、全身から力が抜けて行く様な感覚は、虚脱感に似ていて然しもっと冷えて恐ろしいものだ。
 この感覚は憶えている。解っている。悔し涙も出ないがただただ苦しくて、土方は固く目を瞑った侭、同衾する男の腕を探り当てて縋る様にしてそれを掴んだ。
 と、坂田は仰向いていた身体を転がすと横臥した姿勢になって、無言で土方の頭部を自らの方へと寄せてくれた。
 起きていたのか、土方の目覚めで起きて仕舞ったのかは解らない。だが、何も言葉になどしていないのに、土方が何を見て何に怯えて何を避けたくて何に縋りたかったのかをまるで知るかの様に、余計な言葉一つ寄越さずに、ただ態度一つで自らの演じる役割を示してくれた坂田の優しさが、土方は猛烈に悔しくて、苦しくて、額をその胸元に押しつけて唇を噛んだ。
 坂田の居ない頃であったなら、土方の心は応報の、復讐の一所にだけ向けられていたに違いない。それを考え動く事でしか己を鎮める事は出来なかった筈だ。誰も自分に命令が出来ないのを良い事に、真選組のたったひとりの副長として、その為の指揮を執っていた筈だ。
 それが、どうした事だろう。戦線から退けられた役立たずの副長は、この、何の心配も要らない狭苦しい一軒家の中の狭苦しい布団の中で、本来己の厭うべき男に抱かれ宥められて安堵しているのだ。
 本当にそれで良いのだろうかと、ともすれば問うて叫びたくなる唇を噛み締め閉ざした侭、土方は寄せられる坂田の体温へと手を伸ばした。
 悪夢にさえこぼさなかった涙がじわりと目元を濡らしていたが、その意味する感情までは解らない侭だった。




切れ目が見つからなかった…。

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