深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 5 昼も近い時刻の院内は飽和した患者達で溢れていた。外来の診察室は予約患者を機械的に順番に捌いて行くが、開院から何時間が経過しようが処理速度は増える患者の数に全く追いつかず、診察待ちの人数は一向に減る気配が無い。 その事に対して土方がひねた感想を投げると、大きな総合病院なんてそんなもんですよ、と山崎は手にした雑誌から目を上げようともせず淡々と答えて寄越した。 基本的に身体は丈夫だし怪我は負っても適当に治るのを待つ事の多い土方は、病院と言うものには殆ど縁が無い。況して外来になんて通った事など憶えている限りでは無い。だから部下の説明にも、そんなものなのか、と思うだけだ。 捌けない人数を抱えるだけ抱えての流れ作業になると、患者とカルテ一枚の価値なんて同じ様なものにしか見えなくなって仕舞う気がする。世の中そんなに健康に難のある者が多いのか、それとも医者の数が少ないのか。そんな事は土方には解る由も無かったが。 ただ、手際よく機械を使って予約用紙を発行して、外科外来の待合所に土方を座らせた山崎の手に、どこで取って来たのか病院名のラベルの貼られた雑誌があった事には少々不満であった。どうせなら上司の分も取ってくれば良いものを。予約受付とほぼ同時に来院したにも関わらず、今は昼だ。これだけ長時間待たされるのであればどんなに興味の無い雑誌であっても最上の娯楽になっただろうに。 診察室の入り口前に表示されている、呼び出し番号は何度見上げても遅々として進む気配がない。番号的に見れば回って来るのは直の筈なのだが。 自覚のある事だが、土方は余り時間の潰し方の上手い方ではない。元々短気な質なのだ、何もせず黙って座っている時間は無駄と苦痛以外の何でも無い。 固められて吊られた利き腕を着物の上からさすりながら、土方は言葉には到底言い表せぬ苦痛と不満を深々とした溜息一つで表してみせた。聞こえぬふりをしたのか、本当に聞こえなかったのか、隣に座す山崎は何の反応も示さなかった。 先日坂田に謹慎を命じられて以降、土方は屯所を離れて坂田の持ち家でする事もなく淡々と日々を過ごしていた。真選組で執り行う机仕事は基本部外秘のものが多い為に持ち出しも碌に出来ず、精々頭で憶えている予算案でも組み立ててみる事ぐらいしか、あの殆ど何の家財も無い家では時間を費やす術が無い。 坂田も謹慎を言いつけた以上、捜査に土方を一切関わらせる気は当面無いらしく、帰宅しても仕事の話──特に襲撃事件の捜査について──は一切口にしようとはしなかった。 近藤の容態はひとまず安定状態にあるが、犯人グループは未だ野放しの侭だ。坂田経由で捜査の進捗が得られない以上、土方の知れる範囲の情報収集はと言えば、宛にならないテレビのワイドショーやニュースぐらいしか無い。それに因れば、犯人の目的が老幕臣を狙ったものなのか、それとも近藤を狙ったものなのかすら依然不明だと言う。 そこに来て堪えたのが、真選組の捜査が荒っぽくなっていく中、件の幕臣の息子が葬儀の時のインタビューにて真選組を名指しで批判した事だった。 「父は真選組を評価していたのに、その真選組は父を襲撃から護らなかった」 その言葉は土方に痛烈に突き刺さり、治りの悪い傷と相俟って、じくじくと鈍い痛みを以て苛んだ。やっと、交流を得て知る事の叶った他者は然しいとも容易く死んで仕舞った。運転手も、老幕臣も、ひょっとしたら救えたかも知れない人だった筈だ。 もっと早く罠の存在に気付いていれば。或いはもっと警戒していれば。悔いても悔いてもきりの無い思いは、する事が無く時間を食い潰している土方の心を食い荒らしては、ずきずきと鋭い痛みを伴って苛んだ。 然しどれだけ苦痛を訴え嘆いても、それ故に早く応報をさせて欲しいと望んでも、坂田は土方の謹慎を解く事に決して同意しなかった。 まずは怪我を治せ。じゃないと足手纏いになるだけだ。 問う度そう、伝家の宝刀を向けられては土方には黙り込むほか無い。 そうやって日々貯めている鬱屈を晴らす術も見つからない侭の土方に出来る事はと言えば、普段では行き慣れぬ様な病院に足を運んで、早く外傷を治す事以外には無かった。 一人で病院に行くと言えば流石に反対され、山崎が車での送り迎えと万一の護衛(と言うより連絡役だろう)を行うと言う事で何とか許可が下りたのだった。 土方は山崎にもそれとなく捜査の進捗を訊ねたのだが、案の定「土方さん個人の願いだと言うなら俺は叶えますけど、副長ではない土方さんには事件に首を突っ込む資格は無いでしょう」と、やんわりと、然しはっきりと躱された。 ……まあ要するに、土方が個人の意志で強く問うのであれば答えるが、規則違反になるから出来れば問わないで欲しい、と言う事だ。 ちらりと、隣に座して雑誌を熱心に読んでいる山崎の地味な面相を横目に伺ってみる。土方はこの地味な部下を坂田に連ねる程に、或いはそれ以上に信用している。坂田との関係の様に、明確に橋渡しされた何かの形があると言う訳ではないのだが、為人を知っているとかそう言った事以上に、単純に「此奴は俺を裏切りはしない」と言う確信があるのだ。 だから恐らく、山崎の言う通り、問えば彼は包み隠さず答えを呉れるだろうとは思う。ただ、それを通して仕舞えば土方は日々の鬱屈から逃れられるが、その代わりに、捜査に関わるなと厳命した坂田を裏切る事になる。 「……」 その想像の味わいは余りにも不快だった。互いに全てを明け透けにして、感情を担保に寄越し寄越された、打算の末の『信頼』は、こうすれば余りに容易く崩れ去る程度のものだったのだと改めて思い知ったからだ。 身体を預けて、情で縛っただけの信頼関係には、感情或いは心以外の抑止力は無い。愛していると口にしながら裏で夫を裏切る妻の様に、土方がその『裏切り』を羞じとも負い目とも思わなければ、他者など──坂田など酷く簡単に欺き通せるのだ。 いつか土方が坂田を護る為にそうしたのと同じ様に。ただ、あの時と異なるのは、それが坂田の為と言う大義名分を持たぬと言う事だけだ。 坂田を護る為だと言い聞かせれば決断出来たそれが、己の為だと思えば即断出来ない。捜査活動を進めている筈の坂田を信じて、今は言われた通り療養に励むのが正しいのだと、言い聞かせ漫然と時を食い潰す。 不快さと、何も出来ず知れぬ痛苦の日々からの解放と。昔ならば天秤の分銅にすらならなかったものが、今では何より重たい。本来等価では無かったものに、坂田と言う選択肢が当たり前の顔をして収まって仕舞っている。 望めば簡単に山崎は答えを寄越してくれる。土方の感じている信頼と言う確信の侭に、捜査の進捗も容疑者の情報も、知る事が出来る。だが、それをしたくないと思う強い感情がある。それが己を蝕んで変えて仕舞うものなのだと、きっと今までにも頭の何処かでは感じていた筈なのだ。 俺を信じろと坂田は土方に言った。だから、 (坂田を、裏切りたくねェのか) 「土方さん」 「っ」 思考の、暗闇にも似た渦に吸い込まれそうな錯覚を憶えたその時、山崎に呼ばれて土方は我に返った。 「順番、来ましたよ」 「…順番、」 鸚鵡返しにした所で、山崎の示している予約表に印字された数字と、診察室の前に表示されている数字とが一致している事に土方は漸く気付く。思考に相当に気を取られていたのか、それとも考え込んでいる様で転た寝でもして仕舞っていたのか。 「結構順番待たされましたね。急ぎましょう」 「……ああ」 促され、土方は立ち上がると頷いた。当然の様に後ろに付いて、影か何かの様に一緒に診察室に入ってくる山崎を一度だけ振り返ると、未練がましく望みを棄てきれていない己を、土方はそっと振り切った。 * 「会計済ませて来ますんで、ここに座っとって下さい」 言うと土方の答えを待たず、山崎は外来の清算カウンターへと向かった。ここにも診察同様に患者の長い行列が出来ている。清算自体は機械で行う様だが、間の手続きには結局人間を挟まなければならない様だ。 病院の正面玄関入って直ぐの所にある総合カウンター前は、精算や処方箋待ちの患者や関係者で溢れかえっていた。幸いにか待合場の席は多かったので、空いていた適当な椅子に腰を下ろすと、土方は無音で流されているテレビ画面へと視線を走らせた。 昼を少し過ぎた頃のワイドショーは特に面白い話題を提供してはくれない。専ら最近の話題は有名芸能人が不倫をしたとかしないとかそんなもので、土方もここ連日の間幾度となく目にして来たものだ。 待ち時間の長さの割には僅か数分で終わった問診を思えば全く、時間を無駄にしていると言う気は否めない所だが、生憎とまだ骨折している腕は治ってはいない。早く治らないのかと言う土方に、来週も来る様にと医者はレントゲン写真を見ながらそう念を押すのみだった。 怪我が治った、と言う確かな証明が無ければ坂田はきっと納得すまい。と、なると矢張り土方に今出来る事は、出来るだけ安静にして怪我が治るのを待つ事だけだ。 やがて山崎の姿が行列の先頭に出て来た。次には精算の手続きが終わるだろう。そうしたらまた少し待ってから機械で支払いを済ませて、車に揺られて帰れば取り敢えず今日は終わりだ。 ワイドショーは相変わらず下らない話を続けている。妻子ある芸能人の男が、不倫相手の女性とホテルから出て来る所なのだろう、モザイクだらけの風景に男の姿だけくっきりくり抜かれて動いている映像が流されていた。 「──」 暇潰しにも足りない退屈な映像から視線を横へと滑らせた所で、土方の意識はその一点へと吸い込まれた。先頃見たテレビの中の映像の様に、たった一人の人間の姿だけが曖昧な風景の中にくっきりと切り取った様に見える。 若い、如何にも遊んでいる人間と思しき風体の男。怪我か病気か付き添いかは知れない。彼は退屈そうに待合室の椅子の群れの中を歩いて通って、空いている席へと腰を下ろす。 「終わりましたよ、ひ」 「山崎」 名を呼ばれる前に自然と静止の声が出た。土方の眼は席に腰を落ち着けた男の後頭部から僅かたりとも動かない。動けない。 「………」 どうしたんです、とは山崎は訊かなかった。ただ、名を呼んだだけの土方の様子だけから聡く何かを感じ取ったのだろう、彼は土方の視線の先を不自然ではない動作で一瞬だけ追った。 「三列目ですか」 「右から二番目だ。出来るか」 主語のない、謹慎中の副長の命令に、山崎の顔に浮かんだのは僅かの苦笑がひとつのみ。余計な事を問いさえもしない。 「じゃあ俺は精算を済ませてから向かいます。先に車の方で待っといて下さい。連絡入れますから」 そう言い残して土方に背を向けた山崎は、精算機で支払いを済ませると待合室を動き回る患者や職員の中へと姿を自然に融け込ませて消えた。 生来の地味な風貌に併せて、今日は土方の送迎と護衛と言う事で、顔に負けず劣らず地味な町人風の衣服を着ている山崎だ。本人がその気になれば風景にさえ埋没出来る。そう言う男だ。 山崎が指示通り動き出したのを確認してから、土方は何気無い仕草を装って椅子から立ち上がった。まだ己の視線が男の後頭部へと向いた侭だった事にその時初めて気付く。もしも相手がこちらを振り向いたら、凝視と言って良いその視線に確実に不審を抱いていただろう。 (山崎にはああ言ったが念の為だ) そう言い訳の様に考えながら、土方は椅子の間を歩いて男の座る椅子の列へと向かった。一瞬の確信は全く揺らがない癖に、それを見たいと思った。駄目押しに確認をしたかったと言うよりは、『それ』がのうのうとこんな所に居るのを、ただ見たかっただけだ。 ずっと胸の裡に滾っては消えず身を苛んで来た、己の、怒りと復讐心とを、実感したかった、だけだ。 骨折で外来を訪れたただの患者の様に、昼までを待たされて草臥れたただの患者の様に、席を探す様な素振りで通り過ぎ様に見下ろせば、俯き加減で男がスマートフォンを操作しているのが目に入った。 「……」 咄嗟に出掛かる言葉と感情とを呑み込んで、土方は男から目を逸らすと、急ぎたくなる足を必死に抑えて病院の入り口へと向かった。 (間違いねぇ) 心臓が激しく脈打っている。刀が無くて良かったと心底に思う。あったら間違いなくあの場で斬り殺していた。その衝動を堪えられた自信が、全く無い。 それは後悔ではなく寧ろ安堵か。然し届かぬ刃はもどかしい。見たのに、目の前に居たのに、殺せぬ事が口惜しい。そう怨嗟を漏らさぬ様に奥歯を軋らせた表情は、言うなれば恐らくひとごろしのそれに近いだろう。己の顔に浮かぶそんな物騒な表情を自覚しながら、土方はそっと俯いて車へと戻った。 助手席ではなく後部席に座った所で、土方は脳裏にあれから幾度と無く蘇っては己を苛み続けた記憶の風景を睨み見た。 そこに居る、近藤ともみ合って覆面を取られた男の姿。 間違いない。それはたった今、目撃したあの若い男だ。 老幕臣と運転手を殺め、近藤を傷つけた犯人グループの一人を、土方は見つけたのだ。 。 ← : → |