深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 6 全く、何で病院て奴はこうもいつでも混んでやがるんだか。 もう幾度目とも知れぬぼやきを口中で転がして、男は支払いを済ませた財布を懐へと放り込んだ。機械の無機質な音声が伝えてくる「ご利用ありがとうございました」と言う言葉に背を向けてさっさと外へと向かう。 江戸市中ではそれなり名の知れた大きな総合病院である。入り口には大体いつも客待ちのタクシーが待機し、救急車のサイレンは裏手にある急患入り口へと吸い込まれて行く。病院が商売繁盛していると言うのが良い事なのかどうかは知れないが、昔に比べて大分病や怪我に因る死亡例は減った。反面で平均寿命は伸び、福祉の面で結局政治は頭を抱える羽目になっているのだから、一概に良い事だとは言えないのかも知れないと、そんな事を埒もなく思う。 多くの患者を捌く為に機械式の精算や受付が用いられる様になった病院は、そうやって増える患者を事務的に捌いて行っている。男は持病の治療目的で定期的にこの病院に通っているので、機械式の手続きにはもういい加減慣れたものだが、この混み具合だけはどうしたって慣れそうもない。 時刻は昼を回っている。何処かの飯屋にでも寄って行くか、と考えながら、男は今日も満車の駐車場を横切って病院の敷地から離れようとした。 「あの、すいません。これ落としましたよ?」 そこに背後から声が聞こえ、男は思わず足を止めた。視線で見回す限り、駐車場には自分の他に人影も見当たらない。入り口の方でタクシーに乗り込もうとしている人間は遠目に見えたが、それだけだ。 「あ?」 懐の重量に変化があった気はしない。男の持ち物はスマートフォンに財布に手拭い程度のものだ。どれが落ちても普通は気が付くだろう。 だから男には振り返る理由は無かったのだが、万が一、と言う可能性を考えた。自分が何かを落とした可能性。それに、落としていなくとも、財布か何かだったら落とし主のふりをして頂いて仕舞えば良いと言う、幸運の可能性。 ゆっくりと振り向けば、そこには印象の薄そうな男が一人、立っていた。人好きのする笑みを浮かべたその男の丈は低く、腰も低そうな──一見して弱そうな奴にしか見えず、男は値踏みする態度を隠さず目を眇めた。威嚇は最早習い性だ。 地味で印象や特徴の稀薄な男が差し出してきているものは、黒い革財布の様だった。 金、と咄嗟に脳が判断を囁く。財布が己の持ち物ではない事など関係がない。持ち主だと思い差し出されているのだから頂いて仕舞って問題は無い。 臨時収入の気配にほくそ笑んだ男は「ああ、」と、それは俺のだと言う素振りで頷いた。 誰のものとも知れぬ財布を渡そうとしているこの男は、きっと自分は落とし物を拾ってそれを持ち主に教えている善人だとでも思っているのだろう。 鈍そうだし間抜けそうな野郎だ、と鼻で笑ったその瞬間、男の眼前に星が飛んだ。遅れて鈍い衝撃音を耳が音として、脳が振動として捉えるが、その時には既に男の眼球はぐるりと上を向いていた。 にこにこと笑んでいる、地味でとろそうな男の拳が何の前触れも無しに顔面に入ったのだとは、男は最後まで気付けない侭だった。 * ふ、と深々吸った煙草の煙を吐き出しながら周囲を見回す。生憎の曇り空の下で、酷く寒々しく見えるそこは、絵に描いた様などん詰まりの隘路だった。 連れ込み宿や風俗店などの、建物の窓の開かない方ばかりの向き合った狭隘な狭間には壊れたビールケースや古びた室外機が転がり、道を人の通る通路として機能させる事を許していない。ただただ薄暗くてただただ静かな、町中の死角として存在しているだけだ。 お誂え向きか、と思って見下ろした先には、鼻血を流して気絶している男の身体が転がっている。病院の駐車場で山崎が気絶させ、その侭車に積んで来た『荷物』だ。車内だと何かと狭く不便なので、この路地裏まで引き摺って来たのだ。 見るからにチンピラ然とした風体の男はすっかりと伸びて仕舞っていたが、腕も足も特に拘束はしていない。一応武器の類があるかも知れないからと手荷物は奪ってあるが。 付近に監視カメラが無い事は知っている。物音を気にする事の出来る窓も無い。居るのは、路地の入り口付近に道をふさぐ様に立つ山崎と、転がされた男の前に佇む土方だけだ。 『何』をするのにお誂え向きだと感じたのか。土方以外の誰が見たとしても察するには容易い光景だろう。 「……土方さん、本当に屯所に連絡を入れなくて良いんですか」 殆ど口を動かさない小声で、山崎が問いて来る。この場所に来る迄に既に幾度となく重ねられた問いだ。だから土方はそれまでと全く同じ答えを返す。 「構うな」 「…でも、」 言いかけた所で山崎は言葉を噤んだ。何度も繰り返した遣り取りだったと思い直したのか、躊躇う様に視線を游がせて、最終的には隠さぬ困り顔を向けて来る。 山崎の言い分はこうだ。謹慎を命じられている土方が独断で捜査に類する活動を行ったとなれば、坂田はまた土方に何らかの、今よりも重い処罰を重ねねばならなくなる。それをしなければ隊内に示しがつかないからだ。 そして謹慎処分中の命令違反は重い法度に値する行動だ。副長位からの降格も視野に入れねばならぬ程に。 坂田がそんな処罰を土方に科する事が出来ぬ事を山崎は知っている。だから問いをしつこいぐらいに繰り返すのだ。 互いに同じ権能と自由とを許された副長位が、法度違反にそれなりの処罰を科さぬとなれば、それは組織の腐敗をも意味する。二つの同位の権力が実はなあなあの関係でした、と言う訳にはいかない。権力が二つあって、そのどちらもが同じ方向を向いていると言うのは、どうしたって歪みを齎す。互いに互いの利の為に動いているのだと、誰もが疑うのは避けられない。 そしてそんな腐敗を抱えた将になど誰も心から付かない。二つの権力はいつか大将をも欺き裏切ると、そう思う。権能と利益の前には昔の誼などと言う言葉は罷り通らない。 だから、土方は組織の二つの頭の片方は、多少融通が効かず嫌われているぐらいで丁度良いと思っている。 組織の全てが同じ色で在り続ける事など理想論だ。志が同じであれど、思想を同一に固める事などは宗教でもない限りは決して叶わぬ話だ。 真選組は以前に一度、土方とは異なる思想の権力者を有した事がある。結果的に彼は自らの派閥を隊内に築き上げ、近藤に謀叛と言う形の裏切りを突きつけた。 その男──伊東鴨太郎は、最終的には敗北し消えた。だが、首謀者の首を獲った所で、クーデターの起こった事実だけは変え難い。近藤や土方には無い思想と志とを選んだ者らが大勢居た事実だけは、変えられぬ現実だ。それは確かに、近藤の唱える組織の理想論が破綻を示した瞬間でもあったのだ。 そこで土方の至った結論が、隊内に仮想敵となる協力者が存在するのが理想だと言う事だった。 気に食わないと言う一言に、嫉妬や羨望や或いはもっと単純な嫌悪感を込めた、土方にとってはそんな存在であった坂田に『お付き合い』を──打算だらけの信頼を申し出られた事は、恐らくそんな土方の考えに合っていたのだろう。 だからこそ真選組の二人の副長は憎み合っていると、そう思われていなければならない。隙あらば互いを蹴落とそうと目論んでいるぐらいの野心があるのだと信じさせていなければならない。 明確ではなかれど、二つの派閥めいたものが存在すると言う構図こそが、組織として拡大を続ける真選組には必要なのだ。 土方にとって坂田は、恐らくは信頼を裏切らない共犯者だ。その意味する所は、気が付けば少し趣を違えて来てはいたが、基本的に変わらない筈だった。 (……だから、これは坂田を裏切る事になるんだろうが、) 罪悪感と不快感の中から、それでも土方は近藤が目の前で斃れるのを見たあの時から抱え続けていた怒りと憎しみとを選び取った。山崎には屯所に報告をしない様に厳命し、目の前に倒れている容疑者一名の生殺与奪を握る立場に立つ事を選んだ。 この独断行動が、俺を信じろと言った坂田の想いに背いたものであったとしても。 「……近藤さんの仇を、どうして『他人』の手に委ねられるって言うんだ」 ぽつりと、憎悪の炎に散々焙られ落ちた言葉は、何かの秘め事の様に小さく掠れたものだった。その黒々とした感情を裏切った、淡々としたものだった。何の言い訳にも解決にもならない、ただの私怨でしかない、狡く情けない言葉だった。 聞こえなかったのか、山崎の返事は無い。或いは聞こえないふりをしてくれたのか。 ともあれそれを反論無し、もしくは同意と捉える事にして、煙草を地面に落とし草履で踏みにじると、土方は伸びている男の横面を爪先で軽く蹴った。 「起きろ」 一度、二度と突いても男の反応は鈍い。土方は舌打ちをすると三度目、今度は少し強く、顔面ではなく横腹を蹴った。 「ぼっ、」 濁った咳の音を口から吐き出し、男が漸く目を醒ました。状況と痛みとが理解出来ず目を白黒させて仰向けの侭のたうつ男の口に草履の先を突っ込んで、何か声を上げる前に黙らせる。 「が、かか、か」 砂利の纏いつく草履で舌を踏まれた形になった男は、閉じれない口中で呻き声を上げた。咄嗟に手を上げて足を退けようとする男の片手を、土方は容赦なく踏みつけて体重をかけながら見下ろした。 「訊きてェ事がある。その解答以外の言葉は必要としてねェのは解るな?以外ってのは例えば、悲鳴、苦悶、誰何、疑問、命乞い、恫喝とかの無駄な言葉だ。良いな?」 土方が思いきり体重を掛ければ、草履を突っ込まれ踏みつけられている男の下顎ぐらいは簡単に砕く事が出来る。隊服の頑丈なブーツであれば上顎も蹴り砕く事が出来るのだが、そこまでして脅さなくとも男は己の絶対的な不利を悟ったらしい。だらしない呻き声を上げながら不格好にがくがくと何度も頷いて来た。 「真選組局長と幕臣とに手を上げた、てめェらの襲撃の目的は何だ。首謀者は誰だ」 言葉を紡ぎながらも己の表情筋が戦慄きそうになるのを堪えきれず、土方は燻る怒りの侭に男を睨み見下ろしながらそう問いた。そしてその質問が男の脳に浸透するのを待ってから、ゆっくりと口中から草履を抜き取ってやる。 拷問には慣れている。若い頃多くの喧嘩を繰り返して来た土方だから、どうすれば効率的に相手を痛めつけられるのかと言う事は身を以て知っている。殺したり喋る気が失せない程度に観念をさせるのなど慣れたものだ。 そう言えばきっと坂田は顔を顰めるだろう。あの男は何故か矢鱈と土方の事を庇護しようとするきらいがある。ひとごろしの道から少しでも遠ざけようとでもする様に。今更でしか無いだろうに。 「て、てめぇ、真選ぐ、」 「解答以外は要らねェと言わなかったか」 真選組の人間か、とでも言いかけたのだろう男の口に再び草履をねじ込んで、土方は冷たく言い放った。踏み付けられた下顎の軋む音と、虫けらでも見下ろす様な土方の表情とに『本気』を感じ取ったのか、男は再びがくがくと頷く。 「言え」 草履を口中から引き抜けば、血の混じった唾液が糸を引いて滴った。汚いな、と足袋の爪先を見遣りながら土方はその不快感を少しでも軽減させようと、草履の先を男の衣服に擦りつけた。胸を踏まれる形になったその動作に、男は震えながら口を開いては閉じて、少しでも自らに及ぶ害の少なくなる、利口な解答を探し出そうと必死で考え始める。 馬鹿な男だと思う。足下の男も愚かだが、それ以上に。馬鹿だと、思った。 とうにこの身は修羅である事を選んだ後だと言うのに。土方のそれが、本物の鬼であったあの男から見れば酷く陳腐なものに思えたとしても、最早救われる事も護られる事も望んでなどいない事ぐらい、解っているだろうに。 何故坂田は、土方を人間に戻そうとするのだろうか。近藤の為に、真選組の為だけに生きるつもりだった土方に、余計なものを与えようとするのだろうか。 (……坂田の存在が俺にとっての枷になっちまうって言うのなら、俺は、) 己を蝕んで変えて仕舞おうとしている坂田の存在を、この侭許容していて良いのだろうか。 今でさえ、近藤の仇の為と一人の男を追い詰めておきながら、心の何処かで坂田に対する負い目を感じている。こうする事が正しいと思うのは感情論の言い訳であって、命令違反や坂田への裏切り行為に対する後ろめたさは消えていない。 今からでも遅くはない。山崎に言って坂田に報告をすれば良い。このチンピラ一人を引き渡す、ただそれだけの事だ。あとは坂田が拷問でも尋問でもしてくれれば良い。土方が命令違反をしてまで、容疑者グループの下っ端一人に証言を吐かせる理由など、無い。 私怨だと、謗られるのは解ってる。だが、真選組の大将である男を、傍に居ながら護れなかった事実と、それをした者らへの応報を成さずにのうのうとしていられるのは、真選組の鬼の副長である土方十四郎では無いと、土方にはそう思えてならなかった。 己の失態の払拭と、復讐と。それは何をどうと取り繕った所で私怨だ。 そしてそれは、以前までの土方であったら悩む必要すら無かった感情だ。鬼には不要な惑いだ。 (坂田が、居るから) クソ、と喉奥で低く呻くと、土方は己らしからぬジレンマを苛立ちに乗せて、足の下に踏みしだいていた男の手に更に体重をかけた。男が懇願の表情を浮かべながら土方を見上げて呻くのを見て、足から力を抜く。こんなチンピラ一人に煩わされていると言う錯覚に陥っているのが、自分の事ながら酷く滑稽に見えた。 ただの八つ当たり。私怨で動いた挙げ句に、自らが生殺与奪を握る対象を見下し痛めつける。それは鬼ですらないただの無法者だ。警察と自負する身を貶める愚行だ。 解っている。──だが。 「ね、狙いは、俺は近藤だと聞かされていた。カネ貰って、ただそれだけだ。仲間の話では、襲撃計画を持ちかけて来たのは──、、、、」 震えながら早口で紡がれた言葉が脳を叩いた時、土方の意識は一瞬で白く塗り潰された。 そして次の瞬間に目の前にあったのは、名も知らぬチンピラ男の眼に映り込んだ、醜い人間の鬼がひとりだけ。 。 ← : → |