深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 7



 冷え切って静かな家の中には、土方の心を宥めてくれそうなものは一切無い。体温を吸って猶冷たい床に腰を落として、思考にさえ疲れ切ってからは何時間ほどが経過しただろうか。時計も無い家の中でそんな事を気にした所で詮もないのだが。
 テレビのコンセントは入っているから、点ければこの弾けそうな静寂を途切れさせる事は出来るだろうが、耳障りな雑音に晒されるのも嫌だった。
 暗闇と静けさと思考に飽いた脳。それだけ在る事が解れば後はどうでも良かった。腑抜けた身一つしか無いのだと知っていれば、それで良かった。
 選択は果たして誤っていたのだろうかと、考える。否、それを言うならば坂田の下衆な提案を受け入れた事が、坂田に出会った事そのものから間違いだったのだと言うほかない。そして、それこそ幾ら悔いても問いても仕方のない無為だ。
 坂田の提案を土方は受け入れた。慕情に成り得たかも知れない感情と、それに酷似した関係性だけに保証された信頼を得る事を。受け入れる事を選んだのにも理由がある。打算と、それに裏打ちされた信頼に確信が無ければあんな申し出など端から受け入れる訳も無かった。
 (…結局は手前ェの事だ。坂田を、あの胡散臭い野郎を信じたかったのは、俺だった)
 気に食わない、近藤の連れて来た男の事を、誰よりも早く認めていたのは土方自身だった。坂田に対する羨望や嫉妬、或いは純粋な憧れが複雑に絡み合ったその末に、信じる事を消極的に選ばせたのだ。
 己の望む組織の構図に丁度良い存在が現れたと、打算を拾うよりも先にそれがあったのだろうと、今更の様に思う。
 床上にぽつりと一つだけ置かれた灰皿には吸いさしの煙草が幾つも放り込まれている。そこにまた新たな吸い殻を押し込んで、土方は舌打ちをした。ヤニなど幾ら吸った所で何の気休めにもならない。その癖ここに来てから日に日に喫煙量は増える一方だ。
 新しい煙草を手が探ろうとしたその時、外階段を昇って来る靴音を土方の耳は捉えた。警戒するまでも無く、疑問を憶えるまでもなく、それがこの家の家主のものである事は解っている。
 「……」
 だと言うのに、土方は自然と表情筋が強張るのを止められなかった。無意識に、吊った腕を庇う様にして身を固くする。
 普段坂田は土方や他の多くの隊士同様に屯所で寝泊まりをしており、この持ち家に戻る事は滅多にない。だが、謹慎を言い渡された土方がこの家に転がり込んでからと言うもの、毎日の様にここに帰って来ている。
 こんな、布団ぐらいしか置いてない、寝る事ぐらいしか出来ない様な家にわざわざ戻って来るのは何故なのだろうか。思ってから土方は苦笑した。疑問に思うまでも無かった。言葉通り『寝る』為に来るのだ。
 「たでーま、っと」
 からからと戸を開く音と共に聞こえる声は、紛れもなく坂田の声だ。その声の主が玄関に座って靴を脱いで上がって来て、廊下を歩いて、居間の戸を開くまで残り一分とない。奇妙な緊張感がその数十秒の時間を何倍にも引き延ばして、土方の惑いを焙って苛む。
 取りだしたばかりの煙草を指の間で弄んで、土方は結局その一本を床にぽとりと落とした。それとほぼ同時に、廊下に続く戸が開かれて、そして閉じる。
 「……どうした?」
 然程に躊躇う気配も無く、坂田の声。謹慎を告げられここに来た初日もそうだった。あの時はふて腐れた気持ちが強く、そんな自分の幼い感情や矮小な心がひたすらに嫌になって、いっそ寝て仕舞えれば楽なのにと思って、あらゆる外部情報を遮断したくてただ丸まっていた。そして、そうする事しか出来なかった情けない土方を坂田はただ静かに優しく諭してくれた。
 今日も、だろうか。灯りも点けない夜の居間は暗く寒々しく広い。入り口に背を向けてそこに座って、吸い殻だらけの灰皿を前にした土方の姿は、矢張りふて腐れた子供の様に坂田には見えるのかも知れない。
 「土方?」
 坂田の声が直ぐ背後に迫るが、土方は振り向かなかった。固い緊張を握った拳の内にだけ隠して、眇めた目の向こうに暗い部屋の隅を映しながら、心に涌いた疑念を解き放つ事を許さず口を噤む事で堪える。
 信頼が無ければ、こんな風に無防備に背中など向けない。坂田は刀を持っている。斬りかかる事も出来る。土方の首ぐらい容易く落とせる。
 『敵』であると──疑念を向けるべき対象であると真に認定していたら、背を向けじっと佇む、そんな真似は絶対に出来なかった筈だ。
 (……つまりは、そう言う事だ)
 解ってはいたが、自嘲に乗せて認める。土方は坂田の事を、もう、疑う事は出来ないのだ。否、疑心を抱いたとしてもその端から己の言葉と感情とがそれを否定する。
 真選組の為だけに在ろうとした『鬼』の面は、いつからだろうか、この本物の鬼の前では何にも役に立たぬ、無様な代物に成り果てて仕舞っていた。
 今ならばまだ、諦められるかも知れない。幾度そう思って来た所で、土方はそれを選ばなかった。きっと意識してそれを選ばずに来た。情と言う言い訳で構築した、坂田との下衆な信頼は、この侭ではきっと己を変えて、どうしようもない程に変えて仕舞って、元には決して戻れなくなると、そんな答えは既に見えているのに。わかっているのに。
 「土方」
 坂田の手が肩に触れる。黒い隊服の、丈夫な生地の袖が土方の横頬を擽る。着慣れた素材と触れ慣れた匂いとが、それを纏う坂田と言う違和感をこうもまざまざと突きつけて来ていると言うのに。
 土方は下唇を強く噛むと、肩に乗せられた坂田の腕を掴んだ。その侭身体を振り向かせると、暗闇の中で僅かな窓からの光源を受けて光る銀の髪目掛けて手を伸ばす。
 然し土方の手が届いて掴めたのは、坂田の、首から解かれたスカーフだった。手から滑り落ちて床にくしゃりと拡がるその残骸になど目もくれず、土方は釦を幾つか外した襟元を──と言うよりは胸倉を掴み直した。
 睨み上げた己の貌はどんな感情を表していたのか。坂田が顔を難しげに顰める。
 「抱け」
 忌々しさを隠せぬ声で辛うじてそう吐き出すと、床に膝をついた坂田の上に乗り上がって、土方は引き結ばれた坂田の唇に口接けた。
 きっと大凡、色など無ければムードも無い、誘うと言うにも余りに即物的で直情的なものだったのだろうと思う。
 口接けを強請って縋り付く土方に、坂田は吐息だけで「どうしたの」と問いて来るが、土方はかぶりを振るだけでそれには答えず、跨いだ坂田の膝に自らを身体ごと擦りつける様にして、行為の開始をただ求めて喘いだ。
 信じさせろ、と、喉奥から出ない言葉は、悲鳴の様な無様な啼き声に変わって直ぐに熱に流され消えて仕舞った。
 
 *
 
 雨が降って来た。日の決して射さぬ様な隘路であっても、空が開いていれば雨も雪も構わず灰色のアスファルトの上に降るのだなと、黒く丸い穴の様な雨粒を見てぼんやりと思った。
 穴が一つ二つと拡がって、大きな穴になって地面を段々と埋めて行く。拡がった赤い血溜まりにもぽつぽつと滴る雨粒は、未だ全く乾かない血の粘度を薄めて拡げていく。
 ぽたり、と切っ先から滴ったのは黒い雨粒ではなくて、赤い血痕だった。地面に拡がる小さな赤い粒にも雨粒が落ちて、そのまるい輪郭をぐしゃりと滲ませた。
 どうしてこうなったのだ、と。そんな事を考える土方の視線の先では、チンピラ然とした男の濁り始めた眼球が同じ問いを返して来ていた。
 「……土方さん、」
 囁く様な掠れた部下の声に、土方は小さく頷いてから、己のそんな仕草に何の意味も無かった事に気付いて、ばつが悪くなって目を伏せた。問われたのも求められたのも、誰もが見て解る行為への肯定などではない。
 どうやら思いの外に頭が働いていないらしい。密かに深呼吸をすれば、雨で匂い立ち始めた血臭が鼻をついた。死の臭いだ。嗅ぎ慣れた筈の。
 大義なく人を殺める事も、珍しい事では決して無い、が。
 何故か非道く嫌な気持ちになり、土方は背後で物言いたげにしている山崎を僅かに振り返った。彼の腰には刀の納まっていない鞘がある。中身は今土方の左の手が握りしめている。己の物ではないが、切れ味は誰の物とてそう大差はない。喉を一突きにした凶器と言う意味では。
 どうしてこうなったのか。反芻するまでも無い。聞いてはならぬ言葉を、その口が吐いたからだ。
 "俺は、狙いは近藤だと聞かされていた"
 つまりは、この男の所属する、攘夷の真似事をしているグループの様なものの中で、幾つか別命が出ていたと考えられる。烏合の衆なら猶更。下っ端には真の目的が伝えられていない事など普通に有り得る話だ。
 "カネ貰って、ただそれだけだ"
 そんなグループに所属する大勢の人間たちに行き渡る程の金を払える様な者が裏にいると言う事だ。と、なると近藤を、成り上がりの警察組織を快く思わぬ幕府内の人間、或いはそれらの者に話を持ちかけられた何者かと言う可能性が高い。
 "仲間の話では、襲撃計画を持ちかけて来たのは、近藤と一緒に居たジジイの息子らしい"
 「………」
 男は、折れそうな程に踏まれている腕の痛みに顔を顰めながらも、饒舌に喋った。ところどころ笑う様な素振りを交えて、親しげな者の様に、或いは卑屈に命乞いをする者の様に。
 「信じられなかったさ、俺らみてェなごろつきにだ、そんな偉い身分の奴が金ばら撒いて行く訳ねェって。況してそれが、標的と一緒に居る手前ェの親父をも殺して構わねェなんて言う訳ねェってな。
 そもそも胡散臭ぇ男だった。俺らにカネ持って来たのはその息子じゃねェんだ、襲撃の後にテレビで息子の面は見てたから間違いねぇよ。代理人にしても、あんな目立つ銀髪の──」
 
 黙れ、と言う言葉の代わりに、身体は自然と動いていた。




坂田がナチュラル下衆と言う説。

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